はじまり
とある地下室の中で白衣姿の男が1人、寂しそうに立っている。
薄暗い部屋は埃やカビで汚れており、腐りかけた木の床には、無造作に置かれた本や書類が散乱し、寿命を間近に迎えた蛍光灯が部屋の中で時折点滅をしていた。
白衣姿の男は、白髪混じりのボサボサ頭で、顎には黒い髭が薄っすらと伸び、38歳という実際の年齢よりも5歳から7歳ほど老けて見える。
白衣姿の男は、何日も寝ていないのか、目の下にクマができており、死人のように青白い顔色は、まさに疲労困憊と言った様子だった。
白衣姿の男は、机の上に置かれた、赤子一人がようやく入れる大きさの丸いカプセル型の揺り籠に向かって、優しく穏やかな口調で語りかける。
「許してくれ…… 現在の環境は、君が生きるにはあまりにも過酷だ。これから君は眠りにつく、長い長い眠りだ。君の成長が見られない事は非常に悲しいけど、親はいつだって子供の幸せが一番だと思っているんだよ。君が笑顔で生きる未来は少なくとも、この時代ではないんだ…… 」
掠れた声の白衣姿の男は、溢れ出る感情を抑える為に、顔を上げ天井を見つめながら数秒間ゆっくりと間を置き深呼吸を1回すると、再び揺り籠の中でスヤスヤと眠る赤子に視線を落とし、話を再開させた。
「でもね。これから必ず世界は救われ、君は目を覚ます。可能性に満ちた世界で君が幸せになる事をいつまでも、永遠祈っているよ…… おやすみ」
白衣姿の男は、ぐっすりと眠る赤子の額に、そっとキスをして揺り籠の透明な蓋をそっと閉めた。
「1人にしてしまって、すまない……… 」
白衣姿の男は、涙声で揺り籠の側面に付いているボタンを操作した。
すると、揺り籠はその場で30cmほど浮かび上がった。
「…… 」
白衣姿の男は、無言で正方形の室内右側に置かれた、殺風景な地下室の雰囲気に不似合いな、艶やかで上品な木目調の扉を開けた。
扉の向こうには、眩しい程の光を放つ真っ白な空間、無が広がっていた。
宙に浮いた揺り籠は、吸い込まれるようにして扉の向こう側の無へと消え、扉はゆっくりと閉まった。
しばらくの間、揺り籠が消えた後の扉を見ていた白衣姿の男は、扉に背を向け3歩前に進むと再び口を開く。
「この研究が世界に何をもたらすのか、その結末を見届けるには、人間の寿命はあまりにも短すぎる。それに、今の私には可能性が残されていない。遠い未来でも構わない、誰でもいいから再び、ここへ辿り着ける者にコレを託そう。コレは、この世界の全てを選択できる。何をどう選択するかは託され、たどり着いた者に任せよう」
白衣姿の男は、眠るように目を閉じた。
この世界に存在するモノは全て有限であり、水や空気も例外ではない、特に化石燃料や鉱物などといった資源は地球上に、ごく僅かな量しか存在せず、今の文明を維持していく為には、消費を節約する事が必要であると500年以上も前から言われてきた。
だが、具体的な対策はされる事はなく問題は先送りにされ、人類の無計画な消費は続き、これらは枯渇寸前にまで深刻化した。
これに慌てた当時の世界連合は、鉱物や化石燃料に変わる物質の発見もしくは開発を加盟国に命じた。
しかし、目立った進捗はなく問題は更に深刻化し、他国の資源を欲したある国が隣国と同盟を結び、周辺諸国を無差別に攻撃した事がきっかけとなり、第三次世界大戦が勃発した。
しかし、戦争は静寂を保っていた。
理由は単純、武器を生産し続けるだけの資源を確保している国など、もはや存在しなかったからである。
各国は、その静寂の水面下でローコストかつ金属や化石燃料を極力使わない新兵器の開発に着手したが万策尽き、唯一安定した供給が可能だった資源であるウランを用いた核兵器や、資源をほとんど必要としないウイルス兵器など、多用すれば人類文明が間違いなく破滅する兵器を使わざるを得ない状態にまで、戦争は追い込まれ、人類は間近に迫った終焉に向かって確実に歩み始めていた。
しかし、たった1人の研究者によって開発された微粒子が、その避けようのない運命を変えた。
その微粒子は、人間の思いに反応し、微粒子同士が集合圧縮を起こす事で、思い描いた形に変化する特徴をもち、様々な資源の代用を可能としていた。
その無限の可能性を秘めた微粒子の夢粉を発表すると、全世界は驚愕し誰もが夢粉を欲した。
開発した研究者は、夢粉を発表した際、一つの条件を飲めば無償で夢粉の技術を提供すると言い出した。
その条件とは、全ての国は一切の戦争行為を禁じ、自国の自衛能力の所有のみを許可する世界平和条約を交わす事、もし条件を飲まなければ、夢粉の研究データもろとも自分をこの世界から完全に消滅させるというものだった。
世界各国は、研究者の出した条件に従い世界平和条約を結び、第三次世界大戦を終息させた。
夢粉の技術が世界中に普及して150年が経過し、現在では夢粉自体からエネルギーを取り出して使用するなど、生活に無くてはならない存在となっていた。