幸田露伴「雪たゝき」現代語勝手訳 下
下
舳の松村の村はずれ、九本松という呼び名は辛うじて残っているが、樹々は老い、枯れ、痩せ、かじけて、まさに寿命が尽きようとしており、あるいは半ば削げ、あるいは倒れかかって、人の手入れなどはされないままになって、風雪に痛められた哀しい姿を見せている。その端に、昔は立派でもあったであろうが、今は不幸な家運を語る証拠物のように遺っているに過ぎないような一軒家があった。他には母屋を離れて立ち腐れになった馬屋、屋根の端が斜めになって地面に着いて倒れてしまった細長い穀物の倉庫など、目にする荒廃さ加減は、おそらく怨霊屋敷などと呼ばれて、人が住まなくなった月日は、すでに四、五年以上も経たものであろう。それでも、だだっ広いその母屋の中の広座敷の、古畳の寄せ集め敷、隙間もあれば凸凹もあり、下手の板戸は立て付けが悪くなって二寸も裾が開き、頭が開き、上手の襖は引き手が脱けて、妖魔の眼のように深遠として奥深く、仄暗さを湛えているその中に、主客の座を分けて穏やかに対座している二人がいる。
客は暖かそうな焦茶の小袖のゆったりしたのを着て、細幅で同色の少し浅い肩衣…丈が短い袖無しの上着…、そして、同色の袴。礼儀正しい物腰、福々しい笑顔。それに引きかえて主人は萎えて汚れた黒い衣装を、流石に寒そうには着ていないが、細い身体が見て取れるような怒り肩は角張って、頑丈そうな骨は高く聳え、凜として居丈高に坐った風情。容易に傍に近寄りがたいありさまである。しかし、その姿勢にも似ず、顔だけは不思議にもにッたりと笑いを含んで、眼にも険しい光は見せていないが、それはこの人がこの頃、何処からか借りてきて被っている仮面ではないかと疑われる、むしろ不気味なものであった。
部屋の片隅には低い脚付きの大きな折敷…四角でその周囲に低い縁を付けた食台…に柳樽…二本の手のついた酒樽…が一つ置かれてあった。客が従者に運ばせて此処に贈ったものに違いない。
突然、何処かで小さな鈴の音が聞こえた。主人も客もその音に耳を立てたという程のこともなかったが、主人は客がその音を聞いたことを覚り、客も主人がその音を聞いたことを覚った。客はその音がこの家へ訪ねてきた時、何処からか素早く飛び出してきて足元にじゃれついた若い犬の首に巻いていた余り善くも鳴らない小さな鈴の音であることを知った。従って、新しく誰かがこの家に訪れたことを覚った。しかし、召使いの百姓上がりのよぼよぼ婆が入口へ出て何かぼそぼそと言っていたようだったが、その客が帰ったのか入ったのか、それきりで誰も此処へは何も言っては来なかった。
主人は改めて又にッたりとして、
「ヤ、了休禅坊のお話しといい、世間での話題といい、色々と面白うござった。今日初めてお訪ねをいただいたけれど、十年来の知己のような気持ちがいたす」
「そう仰っていただき、何よりでござる。人と人とが自然に気の合うのは好いが、無理に合わせたがるのは悪い、とさるお方が仰られたと承りまするが、まことに自然に、性分がお互い反り返らぬ同士というのは、ほのぼのとして気持ちの好いものでござる」
「反り返った同士が西と東に立ち別れ、反り返らぬ同士が西にかたまり、東にかたまり、そして応仁の馬鹿戦が起こったかナ。ハハハハ」
「イヤ、そればかりではござりますまい。損得勘定が大きな分け隔てを致しましたろう」
「その損得という奴がいつも人間を引き廻すので癪に障る。損得に引き廻されぬ者のみであったなら世間はすらりと治まるであろうに」
「ハハハ、そこに又面白いことがござりまする。先ず、世間の七、八分までは、得に就かぬ者はないのでござりまするから、得に就いた者が必ず得になりましたなら、世間はすんなりと治まりまする訳でござりまするが、得を取る筈の者が劫って損を取り、損をする筈の者が意外に得をしたり致しますことが、往々にしてござりまするので、二重にも、三重にも世間は治まり兼ねるのではござりますかいか」
「おもしろい。それならいよいよ損得に引き廻されぬ者を世間の中心にせねばならぬ」
「ところが、みすみす敗けるという方に附く者は今の世――何時の世にも少ないでござりましょう。そうであれば、損得に引き廻されないような大将の方に旗の数が多くなろうという理屈は先ず以て無いことでござれば、そこで、世の中は面倒なのでござる」
「癪に障る。損得勘定のみに賢い奴らは、片っ端からたたき切るほかはない」
「しかし、こう申しては憚りあることでござるけれど」
と、声を落として、真剣な態度で、
「正覚寺の、前の戦のように、桃井、京極、山名、一色殿等の上に細川殿まで首となって、敵勢の四万、味方は二、三千とあっては如何とも致し方なし。公方、管領には御職位、御権威はあっても遂にどうしようもなく、たたき切ろうにも力及ばず、公方は囚われ、管領は御自害。律儀者は損得をかまわず、世を思い切って、僧になって了休となるような始末。彼などは全く損得の域を越えたものでござる。人柄は実に心惹かれるものがござるが、世捨人や、入道、雲水ばかり出来ても、善人は世に減る道理。又、管領殿の御臣下も多くの御切腹あり、武士の作法としてはそれで宜しけれど、世間から申せば、義によって御腹を召すほどの善い方々が、それだけ世間から居なくなったという道理。そういうことで世間の行末が好くなって行くという理屈はござらぬ。これは何としても世間一体を良くしようという考え方に向かわねば、いつまで経っても槍、刀という修羅の苦しみを免れる時は来ないと存じまする」
主人は公方や管領のことを語るのを聞いている中に、やや激したのであろう、にッたりと緩めていた顔つきは、やや引きつって硬ばって来たが、それを打ち消そうと努めるのか、うら枯れたような高笑い。
「ハッハッハ。その通り。了休がまだ在俗…出家する前…の時、何処からか教えられたことであろうが、二つの泥まみれの牛が必死になって戦いながら海へ入ってしまう、それがこの世の様であると申しおった。泥牛、泥人形、みんな泥牛、泥人形。世間一体を良くしようなどと心底から思う者が何処にござろう。又、仮にそう思う者がいたとしても、どうすれば世間が良くなるか、そのような方法を知っている者が何処にござろう。方法が分からぬから術を求める。術を以て先ず、自分の角を立派にし、自分の筋骨を強くし、自分の身を大きくしようとする。そうなってくると、やはり闘いだ。如何に愛宕の申し子だとて、飯塚愛宕の魔法を修行し、女人禁制の苦行も厭わず、経陀羅尼を唱え、印を結び、呪を保ち、身体を虚空に舞わせるなど、魔道の下に世を平伏させようとする程のたわけ者が威を振るって、公方を手作りの泥細工で仕立てる。それが当世でござる。癪に障らいでか。道も分からぬ、術も知らぬ、身柄、家柄もない、自信があるのは腕一本だけの者にとってみれば、気に食わぬ奴は容赦なくたたき斬って、時節到来の折は、つんのめって海に入る。そうしたスッキリした心持ちで生きて、生き通したら今宵死んでもよい。それが又自然に世の中の為にもなろう。ハハハハハハ」
「それで世の中は何時までも修羅道つづきで……御身は修羅道の屈原…中国,戦国時代の楚の詩人,政治家…のような」
「ナニ、屈原とナ」
「心を清く保って、主に受け容れられず、世に受け容れられず、汨羅…中国湖南省北東部を流れる川…に身を投げて亡くなられた彼の」
「フ、フ。ヤ、それがしはおとなしくは死なぬ暴れ屈原か。ハハハハ」
「世を遁れて仏道に飛び込まれた彼の了休禅坊はおとなしい屈原で」
「ハハ、ハハ。良い男だが、禅に入るなど、ケチな奴で」
「失礼御免を蒙りまするが、たたき斬り三昧で、今宵死んでも悔いはない、とだけの暴れ屈原も……」
「貴様の考えでは……」
「ケチではござらぬかナ、と申したい」
「アッハッハ。何でまた」
「物差しで海の深さを測る。物差しの丈が尽きても、海が尽きたのではござらぬ。今の武家の世も一つの世界でござる。仏道の世界も一つの世界でござる。日本国も一つの世界でござる。が、世界がそれで尽きたのではござらぬ。高麗、唐土、暹羅国、カンボジャ、スマトラ、安南、天竺、世界は果てなく広がっておりまする。ここの世界が癪に障ると言っても、癪に障らない世界もござろう。紀伊の藤代から大船を出して、四、五十反の帆に東々北の風を受ければ、忽ちにして煩わしいこの世界はこちらに残り、あちらの世界はあちらに現れる。異なった星の光、異なった山の色、随分面白い世界もござるげな。色々の世界を股にかける広い広い大きな渡海商いの世界から見ますならば、何人も斬れるでもない一本の刀で癇癪の腹を癒やそうとし、時節到来の暁は未練なく死ぬまでよと、身を諦めておられる『仁』があるとしても、潔くはござれども狭い、小さい。見ておられる世界が小さく限られて、自然と好みも小さいかと存ずる。大海に出た大船の上で、一天の星を頭に被って、万里の風に吹かれながら、果て知れぬ世界に対って武者震いして立つ、そういう境界もあるのでござりまするから」
と、言いかけた時、犬の鈴の音がしきりに鳴って、又この家に人が一人二人ではなく、やって来た様子が感じられる。
この時主人は改めて大きくにッたりと笑って、その眼は客を真正面に据えながら、
「いかにも手広い渡海商いは、実に心地よいことでござろう。小さな癇癪などは忘れる程のことでもござろう。しかしナ、その大海の上で万里の風に吹かれながら、真蒼の空の光を美しいと見て立っている時、これから帰りつくべき故郷の我が家でノ、最愛の妻が明るうないことをしおって、その侍女が誤って……あらぬ男を引き入れ、そしてそのケチな男に証拠の品を握って帰られた……と知ったなら、広い海の上にいても、太っ腹でも、やはり小さな癇癪が起こらずにはいまいがナ」
と、三斗もの悪水を真っ向から打ち掛けた。
客は愕然として、急に左の膝を一ト膝引いて主人を一ト眼見たが、直ぐに身を伏せて、少時は頭を上げることが出来なかった。しかし、流石は老骨である。
「恐れ入りました」
と、一句、ただ一句にすべてを片付けてしまって、
「了休禅坊とは在俗中も出家後も懇意にいたしておりましたのを頼りに、こちらにお訪ねいたしましたるところ、親しく種々お話し下され、失礼ながらご気性もお考えも、了休が噂いたしておりましたとおり、人並みならぬご器量とお見受けいたし、我を忘れて無遠慮に愚見など申し上げましたが、つまりは、ただ今お話しの一ト品を頂戴いたしたい旨を申すに申しかねて、何やかやと右左、お話しをいたしたる次第。ただし、余談とは申せ、偽り、飾りを申したのではござりませぬ。ご覧の通りの田舎者でござりまする。何卒了休禅坊とお親しくされておられるご縁により、私の気持ちをお汲み取り下されまして、私めまでその品をお戻し、お願いいたしまする。ご無礼、お叱りの程は計りかねまするが、今後、ご昵懇、又、末永くお役に立つ者とお見知り願いたく、なお、何日か、了休禅坊と一緒にお伺い、お礼にまかり出でます。重ね重ねご恩に被ますることでござりまする。親子の情、この通り、真実心を以て相願いまする」
と、顔を上げてじっと主人を見る眼に、涙が溢れて、こぼれ落ちようとする時、又頭を下げた。中々食えぬ老人には違いないが、この時の顔つきには福々しさも図々しさもなく無くなって、ただ真面目ばかりが満ち溢れていた。ところが、それに負けるような主人ではなかった。
「いやでござる」
と、言下に撥ねかえした。にッたりとはしていなかった。苦りかえっていた。
「おいやとお思いではござりましょうが、何卒お思い返し下されまして、……何卒、何卒、私の娘の生命にかかわることでござりまする」
「…………」
「あの生い先長いものが、酷たらしいことにもなりまするのでござりますから」
「…………」
「何としても、私、このまま見てはおれませぬ。仏とも神とも仰ぎたてまつります。何卒、何卒、お憐れみをもちまして」
「…………」
「どんなことでもいたしまする。あれさえお返し下れれば、どのようなことを仰られましょうとも必ず仰るままにいたしまする。何卒、何なりと仰られて下さりませ。何卒、何卒」
「…………」
「これ程お願い申しあげても、良いとも悪いとも仰られぬのは、お情け無い。私共は何とでもなれとお思いか。又、あの品をどういう風になされようとお思いか。何のお役に立ちますものでもござりますまいに」
「御身等を、何とでもなれとも、それがしは思ってはおらぬ。何に拠らず、他人のことに指図がましいことをするのは、甚だ厭わしいことにしておるそれがしじゃ。御身等のことは、船の上の人がどう捌くかだけのことじゃ。少しもそれがしは関わらぬことじゃ」
「いかにも冷たい、厳しい……あの品はどうなされるお積もりで」
「あの品は船の上の人が帰り次第、それがしがその人に会い、これこれの仔細で、こんな状況にあった、その時の証として仮に持ち帰ったが、元々御身の物ゆえ、御身に返す、とその人に渡す。それがしのなすべき事はそれだけのことじゃ」
「どうしてそうしなければならぬと強くお思いになりまする?」
「表裏反復の甚だしい世じゃ。思うても見られい、公方と管領とが総州を攻められた時はどうじゃ、総州が意地を張ったが故に攻められたのじゃ。であるのに、細川、山名、一色等は公方、管領を送り出しておいて、長い間、陣を張っても何一つさせず、桂の遊女を陣中に呼び寄せるほどにしておき、その間におのれ等は、ゆるゆると大勢を組揃え、急に立ち上がって四方から取り囲み、その謀略が巧く行って、管領は御自害された。留守の者が急に敵になって、出先の者を攻めたのでは、出先の者が亡びぬ訳はない。恐ろしい表裏の世じゃ。まして、それがしが、御身の妻女はこれこれと、その良からぬ事を告げたところで、証拠がなければこれはただの讒言。女の弁舌に言い廻されては、男は劫ってそれがしをこそ怪しい者に思うだけ。何で吾が妻を疑い、他人を信じようか。大体において、このような場合、たとえそれがしが、その家に代々仕える郎党であって、忠義厚く思われていたとしても、そのような事を迂闊に言い出せば、劫って逆に不埒者と切って落とされ、辛い目に遭うのは知れたこと。世にはその事例は幾らでもある。又、後ろ暗いことをするほどの才ある女が、その迷いが募って、何かの折に夫に禍をもたらすことも世には多い。それがしが彼人に証を以て告げ口しないで置けば、彼人の行末も空恐ろしく、又それがしは悪を助けて善を助けぬ外道魔道の一族となる。この外道魔道の一族が今の世には充ち満ちておる。公方を追い落とし、管領を殺したのも、皆その一族共のしたことである。何事も知らぬ顔をして、自分の得にならぬことは指一本動かさず、ぬっぺりと世を送りくさって、自らは手は下さぬが、みすみす正道を行く者が枯れ果て、邪道の者が栄えて行くのを見送っている。癪に障る奴めらが世間に一杯。一々たたき斬って呉れてやりたい虫けら共、その虫けらにそれがしがなろうか。もとより刺々しい今のこの世、それがしの身分の分際では、朝起きれば夕までは生命あるとも思えず、夜を睡れば明日まで暖かであろうとも思わず、今すぐここに切り死にするか、切り殺されるか、と突き詰め突き詰めて時を送っている。殊更、この頃は進んでも槍ぶすまの中に突っかかり、猛火の中にも飛び入ろうという気持ちに燃えておる。癪に障る者は一つでも多く叩き潰し、一人でも多く叩き斬ろうと思っているのに遠慮も斟酌も何もなかろう。御身は器量も人柄も勝れ、一風変わった気性も面白いので、これまでは話も交わしたけれど、御身の頼みは聞き入れ申さぬ」
と、感慨混じりに厳しく断られ、取りすがる術もなく、身も蓋もなく振り放された。
「これ程までに真実を尽くしてお願い申しても」
「いやでござる」
「金銀財宝、何なりとお思いのままに取り計らいましても」
「いやでござる」
「何事のお手助けとなりましても」
「いやでござる」
「如何様にもご指図下さりますれば、たとえ臙脂屋の身代、悉く灰となりましてもご指図通りにいたしまするが……」
「いやでござる」
ここに至って客の老人はおもむろに頭を上げた。艶やかに兀げた前頭からは光が走った。その澄んだ眼はチラリと主人を射た。が、又忽ち頭を少し下げて、低い調子の落ち着いた声で、
「愚かしい獣はいよいよ叶わぬ時は刃物をも咬みまする。哀れに愚かしい事でござりまする。人が困り切りますれば碌でもない事をもいたしまする。哀れな事でござりまする。臙脂屋は無智のものでござりまする。微力なものでござりまする。しかし、碌でもない事などをいたしまする心は毛頭持ちませぬが、何とか人を困らせ切らぬように、何とかお憐れみ下されまするのも、正しくて強いお方に、在って宜しいご余裕かと存じまするが……」
と、飽くまで下からは出ているが、底の心は測り難い、中々根強い言い廻しに、劫って激したか、主人は声の調子さえ高くなって、
「何と。求めて得られぬものは、奪うという法がある。盗むという法もある。手練れの者に頼んでそれがしを斬り殺してしまうという法もある。公の方に手を廻して、怪しい奴だと引っとらえさせる法もある。無智どころではない、度量のある人物よ。微力ではない、痩せ浪人には余りある敵だ。ハハハハ、面白い。そう出て来るとも限らぬとは最初から思っていた。火が来れば水、水が来れば土。いつでもお相手の支度はござる」
と、罵るように言うと、客は慌てず両手を挙げて、制止するようにして、
「とんでもない。ハハハ。申しようが悪うござりました。私、何で愚かしい獣になり申そう。ただ立場が無いまで困り切ってしまい、ご余裕のあるご挨拶を得たさの余りに申しました。今一応あらためて真実心を以てお願いいたしまする。どのような事でも、たとえ臙脂屋を灰といたしましても苦しゅうござりませぬ。何卒あの品をお返し下されますよう折り入ってお願い申しあげまする。この通り……」
と、誠実をこめてお辞儀をするのを、
「いやでござる」
と、にべもなく言い放つ。
「これ程にお願い申しましても」
「くどい。いやと申したら、いやでござる」
客は復び涙の眼になった。
「余りと申せばお情け無い。その品をお持ちになったとして、そなた様には何の得があるでも無く、こちらには人の生命にもかかわるものを……。相済みませぬがお恨めしゅう存じまする」
「恨まれい、勝手に恨まれい」
「我らの敵でもないはずにあらせられるのに、それでは、我らを強いて御敵になされると申すもの」
「敵になりたいのであればなればよかろう」
「それではどうあっても」
「いやでござる。もはや互いに言うことはござらぬ。お引き取りなされい」
「ハアッ」
と、流石の老人も男泣きに泣き倒れようとする、その時、足音荒々しく、
「無作法御免!」
と、言うと同時に、廊下のようになっていた所から、がらりと障子を手ひどく引き開けて突入して来た一人の若者、芋虫のような太い前差…腰刀…、くくり袴に革足袋という物々しい出で立ち、真っ黒な髪、火のように赤い顔、輝く眼、歳はまだ二十三、四、主人の傍らにむんずと坐って、臙脂屋の方への会釈もし忘れ、傍らにその人がいるとも思わぬ風で、屹として主人の顔を見守り、逼るようにその眼を見た。主人は目をしばたたいて、ものを言うなと制止したが、それを悟ってか、悟らいでか、今度はくるりと臙脂屋の方へ向かって、初めてその面をまともに見、居丈高に軽く会釈し、
「臙脂屋ご主人と見受け申す。それがしは浪人、丹下右膳」
と、名乗った。主人は、そんなことは言わぬ方がよいと思ったらしいが、にッたりと無言。臙脂屋は涙を収めて福々爺に還り、丁寧に頭を下げて、
「堺、臙脂屋の隠居でござりまする。故管領様の御内、御同姓の備前守様の御身寄りにござりまするか、それとも、南河内の……」
と、皆まで言わせず、
「備前守の弟であるわ」
と、誇らしげに言って、ハッと兀頭が復び下げられたのに、年若い者だけに、淡い満足を感じたか、機嫌が好く、
「臙脂屋」
と、今度は早、呼び捨てである。しかし、厭味は無くて、親しみがあった。
「ハ」
と、老人は若者の目を見た。若い者は無邪気だった。
「その方は何か知らぬが、余程の宝物を木沢殿に譲って欲しいと願っておったが、その願いが叶わぬので悩んでおるのじゃナ」
「ハ」
「一体何じゃ、その宝物は」
「…………」
「霊験あらたかな仏体かなんぞか」
「……ではござりませぬ」
「宝剣か、玉か、唐からもたらされた物か」
「でもござりませぬ」
「我邦、彼邦の古筆、名画の類というような物か」
「イエ、さような物でもござりませぬ」
「ハテ、分からぬ。それなら何じゃ」
「…………」
主人は横合から口を入れた。
「丹下氏、置いておきなされ。貴殿に関わったことではござらぬ」
「ハハハ、それがしは宝物などというものは大嫌い。鼻をかんだら鼻が黒くなるだけの古くさい書画や、二本指で捻りつぶせるような弄び物を宝物呼ばわりして、立派な侍の知行何年か分の価を付けおる。苦々しい阿呆の沙汰じゃ。木沢殿の宝物は何か走らぬが、涙こぼして欲しがる程のこの老人に呉れてやって下されてはいかがでござる。のう、老人、臙脂屋、その方にとっては余程欲しいものの見えるナ」
「左様でござりまする。限りなく欲しいものにござりまする」
「ム、左様か。臙脂屋の身代を差し出してもよいように申したと聞いたが、しかと左様か」
「全く以て左様で。如何様の事でもいたしまする。お渡しを願えますれば、これ以上の悦びはござりませぬ」
「しかと左様じゃナ」
「御当家木沢左京様、又、丹下備前守様弟様の程の方に対して、臙脂屋、嘘偽りは申しませぬ。物の取引に申し出まして、後へ退くようなことは、商人の決してせぬことでござりまする。臙脂屋は大きな口を叩きまするが、商人でござりまする。日本国は泉州堺の商人でござる。高麗、大明、安南、天竺、南蛮諸国まで相手にいたしての商人でござる。御武家には人質を取るとか申して、約束を違えさせない方法があると承っておるまするが、そんなことをいたすようでは、商人の道は一日も立たぬのでござりまする。ご心配には及びませぬ。臙脂屋は商人でござる。世界諸国に立ち向かっておる日本国の商人でござりまする」
と、暗に武家をさえ罵って、自分の商人としての意気込みを見せ、まだ雛雞である右膳の気持ちを激しく動かした。
「ウ、ほざいたナ臙脂屋、小気味のよいことをぬかしおる。そうであれば、丹下右膳、そちの願いを遂げさせてつかわそう」
「ヤ、これは何ともはや、有り難いこと。お助けくださる神様と仰ぎ奉りまする」
と、真心見せて臙脂屋は平伏したが、間を置いて少し頭を上げ、心配そうに、又哀しげに右膳を見て、
「ト、仰ってくださりましても」
と、恨めしげに主人の方を一寸見て、又急に丹下の前に頭を下げ、
「ヤ、ナニ。何分お骨折りよろしく願いまする。事が叶わずとも、……重々ご恩には被ますでござります」
と、萎れて言った。
雛雞は頸の毛を立てんばかりの勢いになった。にッたりはにッたりで無くなった。
「木沢殿」と呼ぶ若い張りのある声と、
「丹下氏」と呼ぶ緩い錆びた声とが、同時に双方の口から出てぶつかった。
二人が眼と眼を合わ視た視線の矢は、その鏃と鏃とがまさに空中で突き当たった。が、丹下の矢は落ちた。木沢は圧し被せるように、
「置いておかれい、丹下氏。貴殿に関わった事ではござらぬ。左京一人に関わるだけのほんの些細な事でござる」
と、冷ややかに且つ静かに言った。軽く若者を払い去ってしまおうとしたのであった。しかし、丹下の第二の矢は力強く放たれた。
「イヤ、木沢殿。お言葉を返すのは失礼ながら、この老人の先ほどの申し立て、何事なりとも仰せのままにいたしまするとの宣言立て、お耳に入っておらぬことはあるまい。臙脂屋と申せば商人ながら、堺の町の何人衆とか言われおる指折り、物も持っておれば力も持ちおる者。特にただ今開いた大口、流石は大家の、中々の男にござる。貴殿がお持ちの宝物、どのような物かは存ぜぬが、この男に呉れつかわされて、宣言通り、この男にその対価を負わせれば、我等の企ても」
と、言いかけるのを、主人左京は慌てて眼と手で同時に制止して
「軽々しく話されるな。もうよい。何と仰せられてもそれがしはそれがし。互いに言い合えば止まり所を失う。それがしはお相手になり申さぬ」
と、苦り切った真面目顔、言葉の流れを切って断とうとするのを、右膳は、
「ワッハハ」
と、豪傑笑いをして、木沢の膝と自分の膝が接するくらいに詰め寄って逼りながら、
「人の耳に入れて本当に悪いなら、聞いたそいつを捻りつぶすまで。臙脂屋、その方、聞いてしまった以上、気の毒だが、今、この俺に捻り殺されるかも知れぬぞ。ワッハハハ」
と、気が違ったような笑い方をする。臙脂屋は聞いていても聞かないような素振り。この勢いのよさに木沢は少しにじりながら退りつつ、ますます毅然として、いよいよ苦り切り、
「丹下氏、お静かに物を仰られい」
と、言うが、丹下は静まりはするものの、今度は眼を剥いて左京を一ト睨みし、右膝に置いた大きな拳に自然にグッと力が入った様子さえ見せ、
「我等の企てと申したのがお気に障ったようだが、構わぬ、もはや構わぬ。この機会を失っては何の斟酌が必要か。明日と言い、明後日と言い、又明日と言い、明後日と言い、一日一日、何の手はずも整わぬ。ナニの用意がまだできぬと、企てを起こしてから延び延びの月日。智恵、才覚ある人々はそうであるかも知れぬが、丹下右膳はうんざりし果て申した。臙脂屋の爺、それ、おのれの首が飛ぶぞ、用心せい、そもそも我等の企てと申すのはナ」
と、言いかけて、主人の顔をグッと睨む。主人も今はどうにもし難いと諦めてか、それともこの場の始末をどう付けようかと心の奥深くで考えているのか、差し当たり何をするでもない様子に右膳はいよいよ勢いに乗って、
「故管領殿が河内の御陣にて、表裏異心の輩の謀略に陥り、俄に寄せ来る数万の敵、味方は総州征伐のためだけの出先の小勢、他に援兵なく、先ず公方を筒井へ追い落とし、十三歳の若君尚慶殿ともあろうお方を、卑しい桂の遊女の格好に粧い、平の三郎が御共し、大和の奥へと逃げ落ち申した情けなさ、口惜しさ。我が君は、四月九日の夜に至って、人々と最後の御盃を交わされ、御腹召されんと藤四郎の刀で以て三度まで腹を切り引かれたが、どうしても切れぬとよ、ヤイ、分かるか、藤四郎ほどの名作が切れぬはずもなく、又我が君が恐れをなして怯んだ訳でもない。皆これ我が君が世を思い、家を思い、臣下を思われて、孔子が魯の国を去りかねられた時のような優しい御心ぞ。敵がいよいよ逼って来たれば、我が兄備前守」
と、此処まで話して、今更のように感極まり、大粒の涙ハラハラと、
「雑兵どもに踏み入られては、御亡骸が辱められるかもしれず、それを嫌って、冠落とし…刀剣の刃の形の一つ…の信国の刀を抜いて、自分の股を二度突き通して試し、これなら切れ味よしと、主君に奉る。それで以てもはやこれまでと、御自害され、近臣一同も死出の御供なされた。城に火を放ち、冷たく灰燼と化したが、その残った臣下の我等一党、そのまま草に隠れ、茂みに伏して、何でこの世に生命を生きて行けようか。無念さは骨髄に徹して歯を咬み、拳を握る幾月日、互いに義に集まる鉄石の心、固く結んで謀を通じ、力を合わせ、時が来たとて、風を巻き、雲を起こし、若君尚慶殿を守立てて、天を翔る龍の威を示す考えで、その企ても遂に逼った。サ、こんな大事な話を明かした以上は、臙脂屋、その座はただでは立たせぬぞ。必ずその方、武具、兵糧、人夫、馬、車、我等が申すままに差し出させるぞ。日本国は堺の商人、商人の取引、二言は無いと申したナ。木沢殿が所持の宝物は木沢殿から頂戴して遣わす。宜いではござらぬか、木沢殿。失礼ながら世に宝物などと申すは、いずれも詰まらぬ、下らぬ物。快く呉れてやって下されい。我等が同志のためになり申す。……黙っておられるのは……」
「不承知と申したら何となされる」
「ナニ、いや、不承知と申される筈はござるまい。そう存じたからこそこの話を申したのだ。真実、本当に不承知か」
「話を聞いた臙脂屋を捻り潰しなさらねばなりますまいがノ。今のお話しは貴殿のお考えだけのこと。それだけで、それがしの気持ちを推量されるのは乱暴というものでござる」
「ム」
「申した通り、この事はこの事、左京一人だけに関わる事。我等一党の事とは別の事でござる」
「と言われるのは。さては何処までも物惜しみなされて、みすみす一党の利になることを、御自身だけの意地によって、丹下右膳が申すことは無用と申されるかっ」
目の色は変わった。紫の焔が迸り出たようだった。怒ったのだ。
「…………」
「それ程物惜しみされて、それが何のためになり申す」
「何のためにもなり申さぬ」
と、憎いほど悠然と、そしてハッキリと言って退けた。右膳は呆れさせられたが、何のためにもなり申さぬと言った言葉は嘘ではなかったから仕方がなかった。
「何のためにもならぬことに、厭と申し張られることもござるまい。応と言われれば、日頃の本懐も忽ち遂げられる場合でござる。手段はすでに整い、敵将を追い落として敵城を乗っ取ること、袋の中にある物を探る状況になったけれど、ただ兵糧やその他の支えが足らぬため、勝ったとしてもその勝ちを保ち難く、奪っても復奪い返されることを慮り、それ故、如何に老練な方々も事を起こすに起こしかね、現に貴殿も日夜この現状に苦しんでおられるではござらぬか。それだというのに、何かは知らぬが、渡りに船の臙脂屋の申し出、これを御利用なされてはと申したのは不埒でござろうか。損得利害が明白なのに、何を渋っておられる。この右膳には奇怪までに思われる。主家に対する忠義の心がまさか薄い木沢殿ではござるまいが」
と、責めるように言うと、左京の眼からも青い火が出たようだった。
「若輩の分際で、過言にならぬよう物を言われよ。忠義が薄いなどと言わぬばかりの批判は聞く耳持たず。損得利害明白だと、その損得沙汰など我関せずの貴殿までが言われるか。身震いが出るくらい癪に障り申す。そもそも損得を言うのなら、善悪邪正の定まらぬ今の世、人に仕えるのは損の又損、大たわけや無器量であっても人の主となるのが得というもの。その次には世を捨てて坊主になる了休のような者が大の得。貴殿やそれがし如きは損得にはまったく興味が無い者。その損得にかけて武士道――忠義をごっちゃにし、それはそれ、これはこれと、まったく別のことを一つにして、貴殿の思惑に従えと言われるか。ナニ、この木沢右京が主家を思い、敵を憎む心は貴殿に僅かでもおくれを取ろうか。無念の気持ちを骨髄に徹して、抑えようのない遺恨があればこそ、この企ても人より先に起こしたもの。それを利害損得を分からぬとて、奇怪にまで思われるとナ。それこそ劫って奇怪至極。貴殿一人が悪いというのでもないが、エーイ、癪に障るこの時代の有り様」
「訳のよく分からぬことを仰るが、右膳が申した旨はお取り上げないか」
「…………」
「必ず分かっていただけると思い、大事なこともすでに洩らした今、お取り上げなくば、後へも前にも、右膳も臙脂屋も動きが取れ申さぬ。ナ、ご返答は……」
「…………」
「主家のためであり、我等のためである。飽くまでご返事がないが、ここにおいては、事すでに逼っておる今でござる」
と、決然として身を少し開く時、主人の背後の古襖が左右に急に引き除けられて、
「突然なるが、御免」
と、声太い、蒼く黄色く、肥った大きな立派な顔の持ち主を先頭に、どやどやと、数人が入って来て、木沢を取り巻くように坐る。臙脂屋は素早く身を下げ、丹下はその人を仰ぎ見る。が、その右膳の眼を圧するように見て、
「丹下、けしからぬぞ、若い若い、謝れ謝れ。後輩の身でありながら――。御無礼じゃったぞ。木沢殿に一応、このように謝意を示せ」
と、でっぷり肥った大きな身体を引き包む緞子の袴、肩衣、威厳堂々たる身を伏せて深々と挨拶すれば、その言葉に背き難く、丹下も仕方なく、訳は分からぬまま身を伏せ、頭を下げた。堂々たる男はそれを見て、笑いもしなければ褒めもしない平然とした顔つき。
「よし、よし、それでよし。よく謝ってくれたぞ、丹下。木沢氏、あの通りにござる。軽率に物を申した過ち、又、口が過ぎたとも聞こえかねぬ申しごと、若い者の邪気の無いことでござる。謝った上は御許し願いたい。さて、又、丹下、今一度、ただ今のように真心籠めて礼を尽くしてノ、自分の申した旨をお取りはからい下されと、願え。それがしも共に願って遣わす。これ、この通り」
と、小山を倒すように大きな身体を如何にも礼儀正しく木沢の前に伏せれば、丹下も改めて、
「それがしが申した旨、お取りはからい下さるよう、何卒、御願い申しまする、木沢殿」
と言う。そのまま頭を上げなかった男も、胴太い声で、
「遊佐河内守、それがしも同様、御願い申す」
と言い、
「エイ、方々はナニをうっかりとしておられる、敵に下げる頭ではござらぬ。味方同士の、兄弟の中ではござらぬか」
と叱れば、皆々同じく頭を下げて、
「杉原太郎兵衛、御願い申す」
「斉藤九郎、御願い申す」
「貴志ノ余一郎、御願い申す」
「宮崎剛蔵……」
「安見宅摩も御願い申す」
と、渋い声、砂利声、がさつ声、尖り声、色々の声で巻き立って頼み立てた。そして、人々の頭は木沢の答があるまで上げられなかった。丹下はむずむずしきった。無論、遊佐の身じろぎの様子一つで立ち上がるつもりである。
「遊佐殿も方々も御手をあげられて下されい。丹下右膳殿の申し出通りに計らい申しましょう」
人々は皆明るい顔を上げた。右膳は取り分け晴れやかな、花が咲いたような顔をした。臙脂屋の悦んだのはもちろんだったが、遊佐河内守は何事も無かったような顔であった。そして、忽ち臙脂屋に向かって、
「臙脂屋殿」
と、殿付けにして呼びかけた。臙脂屋は、
「ハ」
と恐縮して応じると、
「ただ今聞かれた通り。ついては、こちらから人を差し遣わす。貴志ノ余一郎殿、安見宅摩殿、臙脂屋と話をされて、万事よろしくお運び下されい。ただし、この事、世には知られぬよう、臙脂屋のためにもこちらのためにも、十二分に御留意あられい。ハテ、心地よい。木沢殿、事すでにすべて成就したのも同然、故管領御家再興も眼に見えてござるぞ」
と言うと、人々は皆勇み立って悦ぶ。
「損得にはそれがしも引き廻されてござるかナ」
と、自ら疑うように、又、自ら歎くように、木沢は室の一隅を睨んだ。
その後、幾日も経たずして、河内の平野の城へ突如夜討ちがかかった。城将の桃井兵庫、客将であった一色某は打って取られ、城は遊佐河内守らが占有するところとなった。その一党は日を増して勢力を伸ばし、漸く元の威を取り戻して大和に潜んでいた畠山尚慶を迎えてこれを守立て、河内の高地に城を構えて本拠地とし、遂に尚慶に大きな権威を与えるに至った。平野の城が落ちた夜と同じ夜に、誰がしたことだか分からなかったが、臙脂屋の内に首が投げ込まれた。京の公卿方の者で、それは学問諸芸を堺の裕福な町人の間に日頃教えていた者だったということが分かった。
(了)
今回で「雪たゝき」の現代語勝手訳は終了しました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
相変わらずの拙い訳となりました。すっきりと意味の通らない箇所があるとすれば、私の理解が追いついていない部分です。