幸田露伴「雪たゝき」現代語勝手訳 上
幸田露伴作「雪たゝき」を現代語訳してみました。
本来は、原文で読むべしですが、現代語訳を試みましたので、興味ある方は参考までにご一読くだされば幸いです。
「勝手訳」とありますように、自分の訳したいように現代語訳をしていますので、厳密な逐語訳とはなっていません。ある意味勝手な訳となっている部分もあります。
浅学、素人訳のため、大きく勘違いしている部分、言葉の大きな意味の取り違えがあるかもしれません。その時は、ご教示いただければ幸甚です。
この現代語勝手訳は、「日本文学全集 3 幸田露伴・樋口一葉集」(筑摩書房)を底本としました。
上
鳥がその巣を焼かれ、獣がその窟をくつがえされた時はどうなる。
悲しい声も上手く立てられず、うつろな目は意味も無く動くだけで、鳥は篠むらや草むらに首を突っ込み、ただ暁の天を切ない気持ちで待ち焦がれるであろう。獣は所謂『駭き心』になって、急に走ったり、懼れの眼を張って、疑いの足取りは遅く、のそのそと歩いたりしながら、何かの際には咬みつこうか、はたきつけようかと、恐ろしい緊張を顎骨や爪の根に漲らせることを忘れないであろう。
応仁、文明、長享、延徳を経て、今は明応の二年(1493年)十二月の初めである。この頃は、上は大将軍や管領から、下は庶民に至るまで、哀れな鳥や獣となったものがどれ程いたことだったろう。
ここは当時明や朝鮮や南海との公然または秘密の交通貿易の要衝で、大富有の地であった泉州堺の、町外れというのではないが物静かなところである。
夕方から落ちだした雪が暖地には珍しくしんしんと降って、もう宵の口ではない今も、断れ際にはなりながら、はらはらと降っている。片側は広く開けて、野菜畑でも続いているのか、その間に所々小さい茅屋が点在している。もう一方の側は立派な丈の高い塀が続き、それに沿って小溝が廻されている大家の裏側通りである。
今時分、人一人通ることも無い、こんなところの雪の中を、どこを雪が降っているとでもいうように、寒いとも淋しいとも思わぬ風情で、堂々と、そして悠然として田舎の方から歩いてくる者があった。
こんなところを今頃うろつくのは、哀れな鳥か獣か。小鳥ではないにしても、この先に暖かい洞窟が待っていることもない獣でもあるか。
薄筵の一端を寄せ束ねたのを笠や蓑の代わりにして、頭の上から三角なりに被って来たが、ちょうど今、天を仰いで三、四歩ゆっくりと歩いた後に、いよいよ雪も止むだろうと判断したのだろう、
「エーッ」
と、それを道の左の広みの方へかなぐり捨てざまに放ってしまった。いかにもそんな恥ずかしい小汚い物を少しの間にせよ身につけていたのが癇に障るので、その物へ感謝の代わりに怒喝を加えて投げ捨てて気を宜くしたのであろう。もっとも、初めから捨てさせるつもりでどこぞで呉れ、捨てるつもりで被て来たに違いないわびしいものであった。
少し早足になった。雪は最初からべた雪だった。ト、下駄の歯の間に溜った雪に足を取られて、危うく転びそうになった。が、素早い身のこなし、足の踏み立て変えの巧さで、二、三歩泳ぎはしたが、しゃんと踏み止まった。
「エーッ」
今度は自分の不覚を自分で叱る気持ちで毒喝したのである。余程腹の中がむしゃくしゃしていて、悪気が噴き出したがっていたのであろう。
叱咤したとしても雪は脱れない。益々固くなって、歯の間に詰まるばかりだった。そこで、ふと見ると小溝の上に小さな板橋と思われるのが渡っているのが見えたので、その板橋の堅さを借りてと、橋の上に乗ってみたが、板橋ではなくて、柴橋に置土をした風雅なものだったのが一踏みで分かった。これではいけないと思うより早く橋を渡り越して、その突き当たりの小門の裾板に下駄を打ち当てた。乱暴ではあるが構いはしなかった。
「トン、トン、トン」
蹴りつけるに伴い、雪は巧く脱けて落ちた。左足の方は済んだ。今度は右のをと、又
「トン、トン」
と、蹴りつけた。ト、漸く雪がしっかり嵌り込んだのが脱けた途端に、音も無く門は片開きに開いた。開くにつれて中の雪がほの白く目に映った。男はさすがにギョッとしない訳にはいかなかった。
が、逃げもしなかった。口も利かなかった。身体はそのまま、不意に出会っても、心中は早くも立ち直ったのだ。自分の方では何とすることもせず、先方の出方を見ることだけにその瞬間は埋められたのであった。しかし、先方は何のこだわりもなく、身をこっちへ近づけると同時に、何の言葉もなく手を差し伸べて、男の手を探って取って、やさしく握って中へ引き入れようとした。触った手はなよやかであった。その力はやわらかであった。確かに鄙しくない女の手であった。これには男は又ギョッとした。が、しかし逃げもしなかった。口も利かなかった。
「どんな運にでもぶつかってくれよう。運というものの面が見たい」
と、そんな考え方を常に持っているのでなければ、こうはできぬ所だが、男は引かれるままに中へ入った。
女は手早く門を鎖した。佳い締まり金物と見えて、音も少なく、しかもぴったりと厳重に鎖されたようだった。雲の余りの雪は又ちらちらと降ってきた。女は門の内側に置いてあった恐ろしく大きな竹の笠――茶の湯者が露地で使うものを片手で男の上へかざして雪を避けながら、片手は男の手を取って謹ましやかに導く。庭とは思えない程の小広い坪の中を一筋に敷き詰めてある石道伝いに進むと、正面には雪に真黒く大きな建物が見えた。左右は張り出たように、真中は引き入れてあるように見えたが、そこは深廂になっていて、その突き当たりは中ノ口とも言うべき所か。そこに立ち至ると中には燈火がなく、外の雪明かりは届かないので、ただ女の手に引かれるだけの真暗闇。そこに立つ身の、男はいささか不安を覚えない訳ではなかった。
しかし、男は「ままよ」と気を大きく持って、大戸の中の潜戸と思しいところを女に従って、ただひたすらに足許を気にしながら入った。少しばかりの土間を過ぎて、今宵の不思議な運をもたらした下駄と別れて上へ上がった。女はいつの間に笠をどこに置いたのだろう、これに気づいた時、男は又ギョッとして、女の賢いのに驚いた。板の間を過ぎた。女は一寸男の手を上げた。男は悟った。畳の厚さだけ高くなるのだナと。それで躓くこともなく少しずつ進んだ。物騒な世の中では、富家大家は、家の内に上がり下がりを多くしたものであるが、それは勝手が分からない者の潜入闖入を惑わせるための仕掛けであった。
幾間かを通って、遂に物音一つさせず奥深く進んだ。まだ燈火は見えないが、やがてフーンと好い香がした。沈香…香木の一つ…ではないが、外国の稀品だと思われる甘いものであった。
女はここへ座れというように仄めかした。そして、一寸会釈したように感じられたが、物静かに去った。男は外国織物と思われるやや堅い敷物の上にむんずと座った。部屋の隅には炭火が焚かれているのだろう、見えないが部屋はほんのりと暖かであった。
これだけの家だ。奥にこそ人気はないけれど、表の方には、相応の男たち、腕筋もあり、才覚もある者どもがいないはずがない。運の面はどんなつらをして現れて来るのか、と思えば、流石に真暗の中に居ながらも、暗闇一杯に我が眼が見張られて、自然と我が手が我が左の腰に行った。しかし、たちまち思い返して、運はどんな面をして俺の前に出て来るか知らぬが、俺はこんな面をして運に見せてやれ、とにったりとした笑い顔を作った。
その時、上手の室に、忍びやかにはしても、男の感には触れる衣擦れ足音がして、いや、それよりも紅燭の光がさっと射して来て、先ほどの女とおぼしいのが、銀の燭台を手にして出て来たのに続き、留木の香が咽せるばかりの美服の美女が現れてきた。が、互いによくも見交わさないのに、
「アッ」
と、先の女は驚いて、燭台を危うく投げんばかりに、膝も腰も潰え砕けて、身を投げ伏して面を隠してしまった。
「にッたり」
と男は笑った。
主人は流石に主人だけあった。これも驚いて仰反って倒れんばかりにはなったが、辛うじて踏み止まって、そして踏み止まると共にその姿勢で、立ったまま男を憎悪と憤怒との眼で睨み下した。荒々しい、険しい、冷たい、氷の欠片のような厳しい光の眼であった。しかし美しいことは美しい。――悪の美しさの眼であった。
「にッたり」
と男は笑った。曇った鏡が人を映すように男はのろのろと主人を見上げた。歳はまだ三十前、肥り肉の薄皮だち、血色は激したために余計に紅いが、白粉を透して、我邦の人ではないように美しかった。眼鼻、口耳、皆立派で、眉は少し手が入っているらしい。代わりに、髪は高貴な身分の人のように、束ねずに垂れている、そこが傲慢に見える。
夜盗の類いか、何者か、と眼力強く主人が見た男は、額広く鼻高く、上がり目の、朶の少ない耳、槍のような顎に硬そうな髭が疎らに生え、余りにも多い髪を茶筅のように雑に異様に短く束ねている。町人風の格好をしているが、似合っておらず、脇差しを一本差した様子は、何者ともよく分からない。痩せているが強そうでもあり、今は貧相な顔だちをしているが、昔は人の上に立っていたかとも思われ、盗賊のようでもあるけれど、非常に怒りっぽくて意地を張りそうにも見え、すべてに亙って何とも分からない人物であった。その不気味な男が、前で、
「にッたり」
と笑ったきり、何時までも顔の様子を変えない。にッたりを木彫にしたような者に、「にッたり」と対っていられて、憎悪も憤怒も次第に裏崩れしてしまった。実に『怒る者は知るべし、笑う者は測るべからず』…怒る時に怒る人は普通の人であるが、怒る時でも笑っている人は要注意…である。『求むる有るものは弱し、恐るるに足らず、求むる無き者は強し、之を如何ともする能わず』である。不可解なものは恐怖になり、恐怖は逃げ出そうという気にさせた。で、何も責め立てられるでもなく、強制される訳でもないが、この男の前に居るのが堪えられなくなって、退こうとした。が、前で泣き伏している侍女を見ると、そこは主人である女、突然怒った調子で、
「コレ」
と、小さい声ではあったが、叱るように言った。
「…………」
「…………」
「…………」
短い時間ではあったが、非常に長い時間のように思われて、侍女はその喋らず、動かずの静まりかえった苦しさに、十万億土を通るというのはこういうものであるかと苦しんでいたので、今、「コレ」と言われると、それが厳しい叱咤であろうと何であろうと、切羽詰まった状態の中、活路を示され、暗夜に燈火を得たように、急に涙の顔を上げて、
「ハイ」
と答えたが、事態ある現実を目にすると、また今更にハラハラと泣いて、
「まことに相済みませぬ粗忽をいたしました。御合図と承り、又、御物腰があの方さまそのままでござりましたので、……いかようにも私をご成敗くださりまして、……又この方さまは、私、身を捨てましても、お取引いただくよう願いまして、そういう風にいたしますれば……」
と、今まで泣き伏していた間に考えていたものとみえて、思いの丈をすべて淀みなく言い立てた。それが真実であるのは顔にも現れて、嘘や飾りでないことは、その止めどない涙で知れ、そしてこの紛れ込み者をどのようにして捌こうかと、一所懸命真剣になって男の顔を伺った。
目鼻立ちのパラリとした人並み以上の器量、純粋の心を未だ世に濁されぬ忠義一途の立派な若い女であった。しかし、この女の言葉は主人がこれまで行っていたことを明白にしてしまった。そして又真正面から見た
「にッたり」
の木彫に出会って、これが自分で捌くことができる人物だろうかと、大いに疑問の念を抱かざるを得なくなり、又今更に困難に直面したのであった。
主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷徹な批評の湧く余裕が生じたか、
「そちらが身を捨てましても、と言って、ホホホ、何とするつもりかえ」
と言って冷笑すると、女は激して、
「イエ、ほんとに身を捨てましても」
と、ムキになって言ったが、主人は
「いや、それよりも」
と、女を手招きして耳に口を寄せて、何か囁いた。女はその意を得て、屏風を廻って、奥の方へ去り、主人は立ってもいられずその場に坐った。
やがて女は何程か知れぬが、相当の金銀を奉書を敷いた塗三宝に載せて持って来て、男の前に置き、
「私の軽はずみな行いによりまして誤ってお足を留め、まことに恐れ入りました。些少ではござりますけれど、ご用をおかけ申しましたご勘弁料として差し上げまする。何卒お納め下されまして、ご随意お引き取り下されまするように」
と、巧く言い回して指をついて礼をすると、主人も同時に軽く頭を下げて挨拶した。
すると「にッたり」は「にッたり」でなくなった。俄に強く衝き動かされて、ぐらぐらとなったように見えたが、憤怒と悲しみとが交じり合って、それがただ一つの真面目さになったような、犯しがたい真面目さになって、
「ム」
と、行き詰まったように一息ついた。真面目な顔からは手強い威が射した。女も主人もその威に打たれ、何とも測りかねて伏し目にならざるを得なかった。蝋燭の光にちらついていた金銀などは今、誰の心にもないものになった。主人にも女にも全く解釈の手掛かりのない男だった。
「おのれ等」
と、見栄えのしない衣装を着けている男の口からは似合わない尊大な一語が発された。二人は圧倒されて愕然とした。高くも低くもないが、澄んだ良い声であった。
「揃いも揃って、感心しどころのある奴よの」
罵られても仕方がないところを劫って褒められて、二人は裸身の背中を生蛤で撫でられたような変な心持ちがしたであろう。
「これほどの大金を自分の手許に置いて、しかも侍女に自由に出し入れさせるとは、普段の度胸の大きさが見て取れる。又、下の者を信頼しきって疑わぬところ、アア、人の主たる者そうでなくては叶わぬ。主にしたいほどの度量の良さ。……それが世になくて、こんなところにある、……」
二人を相手にしての話ではなかった。主は家来を疑い、郎党は主を信じない今の世の中に対しての憤懣と悲痛の歎きである。この家の主人はそう言われて、全く意表外のことを聞かされ、へどもどするより外はなかった。
「しかし、ここの度量良しめ、これ程の度量までに自分を高めているのも、元は自分自身を高めようとしたことから始まったことなのだろう。エーッ、忌々しい」
眼の中から青白い火が飛んで出たかと思われた。主人は訳は分からぬが、その一閃の光に射られて、おのずと我が目を閉じてしまった。
「この女めも、喋り方、取りなしよう、下の者にしては十二分の出来。しかも、命を捨ててもと言いおった。嘘のない、あの料簡分別、アア、立派な、好い侍、可愛い、忠義の者ではある。そうでなくてはならぬ。高禄をくれてでも家来に持ちたいほどの者ではある。……しかし、大筋のことが、哀れだが分かっておらぬ。致し方ない。教えの足りない世で忠義の者が忠義でないことをして、忠義と思って死んでいく。善人と善人とが命を棄てあって、世を乱している。エーッ、忌々しい」
全然二人の予期した返答はなかったが、ここに至って、この紛れ入った者が、どのような者かということが朧気に分かってきた。しかし、自分達がどう扱われるかは更に計り知ることが出来ないので、二人は畏れの気持ちが増すに連れ、いよいよ底のない恐怖に陥った。
男はおもむろに室の四方を見回した。屏風、衝立、御厨子、調度、皆驚くべき贅沢なものばかりであった。床の間の掛け軸は彩色が施された唐絵であって、脇棚にはよくは分からないが、いずれも唐物と思われる小さな貴重なものらしい物が飾られており、その最も低い棚には大きな美しい軸盆…掛軸や巻物を載せて床の間に飾る長方形の盆…様のものが横たえられて、その上に、これは倭物か何かは分からないが、由緒ありげな笛が紫絹を敷いて安置されていた。二人は男の眼の行方を見守ったが、男は次第に復「にッたり」に反った。すかさず女は恐る恐る、
「何卒私の不調法をお許し下されますよう。いかようにもお詫びをいたしますれば」と言うと、案外にも言葉やさしく、
「許してくれる」
と、訳もなく言い放った。二人はホッとしたが、途端にまた
「おのれの粗忽は大したことではない。ただし、この家の主人はナ」
と、言いかけて、一寸口を留めた。主人と言ったのはここにはいない本当の主人を言ったことが明らかだったから、二人は今さらに心を跳らせた。
「実は、我と昵懇の仲であるのでの」
と、言い出された。二人は大鐘を撞かれたほどに驚いた。それが嘘か真かも分からないが、これではどういう結果になるのか全く想像も出来ず、又しても新たに身体が火になり氷になった。男はそれを見て、「にたにたにた」として、
「ハハハ、心配するな、主人は今、海の外に居るのでの。安心しておれ。今宵の事を知らせようにも知らせる手がない。帰って来るまでは、おのれ等、敵を寄せぬ城に居るのも同然じゃ。好きにしておれ、おのれ等。楽しむなら楽しむがよい。人の妨げはしないのが功徳じゃ。主人が帰るそれまでは、我とおのれ等とは何の関わりもない。帰る。それでよかろう。どうじゃ。互いに用はない。勝手にしておれ、おのれ等、ハハハハハハハ、公方が河内正覚寺の御陣にあらせられた間、桂の遊女をお相手にしてお慰みあったのと同じことじゃ、ハハハハハハ」
と、笑った。二人は畳に頭を擦りつけて謝った。その間に男は立ち上がって、素早く笛を懐に入れてしまい、歩き出した。雪に汚された革足袋の爪先の痕が、美しい青畳の上に点々と残されてあった。
つづく