偽りの魅力
深夜から降りだした雨の勢いは昼になっても衰えず、突きでたマンションのベランダを激しくぬらしていた。雨の休日など誰だってうっとうしく感じるものだが、草原護はこの日の雨を歓迎していた。
やっと誘い出した陽子とのデートに、天気がよければ車で遠出しようと約束していた。しかし、車の遠出は出費がかさむため、雨が降れば助かると思っていた。それが今朝になって予想通りの雨に、護は神に助けられたと感謝した。
嫌な雨でも好きな女性と過ごすとなれば、過ごしようによっては雨も味方になってくれる。単調なワイパーの音とカーステレオさえあれば、甘い雰囲気を演出することも出来るし、日が堕ちれば誰にも邪魔されない空間が保たれるからだ。
草原護は26歳。男性ばかりの職場なので、女性と出会う機会はまったく無い。あるとすれば友達から誘われる合コンか、夜咲く女性との世界しかなかった。
陽子と知り合ったきっかけは、職場の同僚から初めて連れられて行かれたスナックだった。それも陽子の初出勤の日で、席に着いた初めてのお客が護だったのである。どこのお店にも愛想のいいホステスが、一人や二人いるものだが、若くして色気のあるホステスは意外と少ないものである。
護は自分に合わないホステスが席に着くと会話も向けずに、カラオケに熱中して飲んでいる方だった。しかし、初めて逢った陽子を見つめる護の眼は、いつもと違っていた。顔立ちや体つきもさることながら、25歳という年齢のわりには色っぽく、魅力的な女性に映ったのである。
陽子は護の向かえの席に腰を下ろすと、手際よく水割りを作り始めた。お客への水割りが揃うと、陽子はお客にむけて小声でグラスを薦めた。陽子のグラスがないことに気をもんだ護は、自ら水割りを作りだし飲むように薦めた。
護が水割りを飲み始めて一息ついたころに、この店は初めて来たと漏らすと、
「エッ、そうだったんですか。私も今日が初出勤なんです。一緒だなんて、何か縁があるみたい・・・・・・これからはスナック梢同様、私も宜しくお願いします・・・・・・」
明るく挨拶してきた。
「名前は、なんていうの?・・・・・・」
護がたずねると、
「陽子です。太陽の陽に子供の子で、陽子といいます」
「だから明るいんだ・・・・・・」
護を連れてきた同僚が口をはさんだ。
陽子はその同僚にも微笑み、嫌みの無い自分をアピールしていた。
「こうしてお客さんの席に着いたのも、今が初めてなんです・・・・・・」
嬉しそうに喋った。
この店の勤めが初めてでも、水商売の経験が長いのかも知れないと疑ったが、陽子の喋り方が素人っぽく聞こえ、護はその日以来一人で通うようになった。
スナックといえば居酒屋のように、安くは飲めない。車のローンをかかえている護にとって、スナック通いはけして安い遊びではなかった。だが訪れるたびに優しく迎えてくれる陽子の魅力には勝てず、食事代を削ってでも通い、多いときには週二回も逢いに行った。
これだけ護を熱くさせた陽子とは、どんな女性かというと、けして美人ではないが、男好きするような女性の色気が悩ましく映り、それを好みとする護にとっては、絶対的女性ととらえてしまったのである。
色白で目鼻立ちがはっきりした瓜実顔で、肩まで伸ばした髪の先はウエーブがかかり、均整のとれた健康的なプロポーションは、訪れる男性客の眼を惹きつけていた。
陽子は客商売が性に合っているのか、どのお客にも優しく接し愛想がよかった。お客からカラオケを薦められれば共に歌い、お酒も付き合っていた。酔ったお客と明るくはしゃぎ、酔うほどに妖艶さが際だった。
護はほかの席で酔っている陽子を観るほどに、そばにいるお客に嫉妬するようになった。自分の彼女でもないのに飲み過ぎると、ついお説教をしてしまうこともあった。
陽子は心配するそんな護に反発する訳でもなく、逆に、
「私を心配してくれる人は、貴方だけよ・・・・・・」
本心から言っているのか分からぬが、男心をくすぐるような言葉を、甘えるように耳打ちするのであった。
地方から出てきて8年。職場や生活にも落ち着きをみせてきた護は、そろそろ将来を考えねばと先輩からも言われていた。会社の独身寮から昨年マンションに移り住み、レジャーと通勤用に買った車のローンはまだ残っていた。給料から家賃と積み立て、それに車のローンを差引くと、生活費は10万円ちょっとである。
少ない生活費を考えれば、スナック通いに明け暮れしている場合ではない。でも陽子を自分の彼女にと欲望を募らせている限り、出費はしょうがないと思っていた。寮生活の時に蓄えていた預金が、徐々に減ってしまうことに空しさを感じることもあった。自ら惚れてしまったことが原因で、心にブレーキがかけられなくなった自分に、男ながら情けないと感じているのも事実だった。
午後4時、陽子を迎えに行く時間が近づいた。この日にぴったりなCDをカーステレオにセットして、淡い香りがする芳香剤の栓を抜いた。
待ち合わせ場所は自宅マンションに近い私鉄駅である。駅ロータリーの花壇よりに車を停めた護は、改札口に視線を向けた。雨足はいっこうに衰えず、ワイパーの音が時を刻むように車内に響いていた。
休日の改札口からの人影はまばらだが、花咲く傘のお陰で眼が離せなかった。携帯の時計を見るたびに数字がかさみ、護を不安へと駆り立ていった。そして待つこと30分。不安感が限界にたっしたのか、護は車から飛び出し改札口へと走った。見過ごしていないかと改札口を見回したが、見たこともない顔が護に目もくれず、足早に通り過ぎるばかりだった。
車にもどり煙草に火を点けると、助手席の窓をノックする音が聞こえた。振り向いて眼に映ったのは、赤い傘をさして手をふる陽子だった。鍵のかかったままのドアに慌てた護は手をのばし、
「アッ、ゴメン」
とっさに解錠して謝った。
「ごめんなさい、遅くなって。出ようとしたらお友達から電話が入って・・・・・・ずいぶん待ったでしょう?」
「いや・・・・・・」
陽子の顔を見て安心したのか、先ほどまでのいらだちが嘘のように消えて、満面の笑みで迎え入れた。濡れた陽子が乗車したせいかフロントガラスが曇りだした。護はエヤコンを入れると、ロータリーを半周して一般道へと走行させた。
コートを脱ぐと陽子は濡れた髪の先を、ハンケチで撫でるように拭いていた。シートに身を沈めた陽子のいでたちは、派手な夜の衣装とは違って軽装でまとめていた。厚手の白いハイネックのセーターを着ているせいか、膨よかな胸元が一層盛り上がって見え、垣間見る護の眼を刺激した。
護はデートを誘った際に、もし雨だったら映画でもと言っていたので、その確認を陽子にぶつけた。すると陽子は友人から薦められたという、ゴーストという映画が観たいと応えた。それに頷いた護は、隣町にあるユナイテッド・シネマへと車を走らせ、セットしていたCDを流した。心地よい車の振動とうまく溶け合う曲を、陽子はどこかで聴いたことがあると言いだしたので、護はとくいになって曲を説明しだした。
スナック・梢で陽子と話すときは、お酒が入っているせいか気楽に話せるのだが、いざ二人っきりになると意識しすぎて、会話も思うままにならなかった。
雨の休日だけに映画館は混雑していた。上映時間に合わせて席に着くと、館内の明かりがおちて次週の上映予告が映し出された。そしてゴーストの映画が始まると、陽子はスクリーンに引き込まれるように見つめだした。心を打つ場面になると目頭をハンケチでおさえ、護の腕に寄り添うように見ていた。スクリーンから反射する明かりが、感動と不安を映す陽子の顔を鮮やかに照らし出していた。
物語が終盤を迎えると音楽が心を揺さぶるのか、涙をしきりにこぼしていた。そんな陽子を横目で見るたびに護の心は騒ぎ、抱きしめたい思いに駆られていった。
映画が終わっても余韻を引きずるように、主題歌・アンチェンド・メロディーの曲が館内に流れていた。
天井から淡く差し出した照明を受けても、覚めやまぬ思いが涙を溢れ出すのか、ハンケチで目頭を抑えたまま動こうとはしなかった。ようやく席を立つと、化粧を直したいと言って、陽子は洗面所へとたった。洗面所通路で女性客とすれ違いながら陽子を待っていると、口許に笑みを浮かべながら戻ってきた。
映画館の駐車場から郊外のレストランへと車を走らせた。まだ映画の余韻が覚めないのか、陽子は車内でもしばらく無口であった。護は陽子の心を刺激しないように心掛け、運転に専念した。
ネオンが灯る街から遠のいた頃になって、陽子の心が落ち着いたのか映画の感想をこうもらした。
「友達が勧めてくれただけあって、素敵な映画だったわ。・・・・・・私、映画を観て、あんなに感動したの初めて。・・・・・・涙なんか流して、へんだったでしょう?」
「いや、僕も感動して、涙が出そうだった」
「ネェ、ちょっと聞いてもいい?」
「なに?」
「ネエ、もしもよ、もし恋人に先に死なれたとするは。その恋人が幽霊になって、愛してくれても、実際には、残された人は、一人ぽっちなのよね?・・・・・・私、一人ぽっちはいやだは・・・・・・」
問いかけるように喋ったが、語尾は独り言のように呟いた。
陽子が切なさそうに漏らした「独りぼっち」という言葉に、男心を刺激されたのか護は、
「僕は君を独りぼっちになんかさせないよ」
と、思わず口が滑りそうになった。
車は混雑する道をたどり、30分程で目的のレストランに着いた。駐車場から店の入口まで陽子がさす傘に寄り添って歩いた。
店内は家族連れやカップルで混雑していた。二人が入口フロアーで待っていると、ウエイターが現れ、空いたばかりの席へと案内してくれた。
護はメニューに眼を通し、陽子に食べたい料理をたずねた。一通りメニューに眼を通したが決まらず、護にまかせるといった。頷いた護はウエイターに手招きし、シェフお薦めの料理を注文した。
洒落たグラスに注がれたお冷を飲みながら、護は映画の話題からそらした話を持ち掛けた。
「変なこと聞くけど、いいかい?」
「えェ、いいはよ・・・・・・」
「なんで夜のバイトをしているの?」
「・・・・・・ちょっと訳があって・・・・・・」
陽子は戸惑ったように応えた。
護はそんな仕草に気もとめずに、
「わけって?・・・・・・」
気楽に質問した。
「海外旅行したくて、それで貯金しているの」
「いいなぁ、海外旅行か・・・・・・」
護がうらやましそうに喋ると、陽子は眼をふせてお冷を飲んだ。
程よい満腹感になった二人が食後のコーヒーへと移ると、護は以前から気になっていたことを、勇気を出してたずねた。
「陽子さんには、決まった彼氏がいるの?」
「長くお付き合いしていた人はいたけど、つい最近別れて、今は独り。・・・・・・」
それを聞いて安心していた護に、
「護さんには、ちゃんといるんでしょう、素敵な人が?」
護をかまうように聞いてきた。
「いないよ、いたらスナック通いなんかしないさ・・・・・・」
「そお、でも護さんの彼女になった人は、きっと幸せでしょうね。・・・・・・護さんは優しいし、それに真面目そうだし」
「そんなことないけど・・・・・・」
護は照れていた。
「護さんて、寂しがりやさん?・・・・・・」
「うん、意外とね・・・・・・毎日、会社とマンションの往復だけだと嫌になるし、それだけだと空しいから、土曜の夜ぐらいは、カラオケで発散したくなるんだ・・・・・・」
「あら、じあ、カラオケで寂しさを紛らわしているわけ?」
「そればかりじゃないけど」
「じゃなにか、ほかにあるの?」
「君がいるから、つい」
護は一瞬顔を赤らめた。
「エッ本当に、そう言ってくれると嬉しいは・・・・・・」
「女の子っていいよな、夜のバイトは稼ぎがいいから」
「でもね、そうでもないのよ。お店で着る衣装代が結構かかるのよ。・・・・・・毎日、同じ服を着ていくわけにもいかないから、つい買うようになっちゃうのよね・・・・・・」
「見た目よりけっこう大変なんだ」
「それにクリーニング代だって、馬鹿にならないし、収入の割にはけっこう大変なのよ」
きらびやかに見えるホステスの実情を聞かされ、護は思惑違いに大きくうなずいていた。
レストランで2時間ほど過ごした2人は店を後にした。傘をさして駐車場へ戻ろうとしたが、雨はやんでいた。
護は思い出したように、行きつけのBARを紹介したいと陽子に言うと、
「護さんがほめているバーを、一度観てみたいなと思ってたの」
陽子の一つ返事で車を向けることにした。
待ち合わせした駅に戻り、交差点を右折すると馴染みの看板の明りが見えた。護のこころが時めいた。男同士しか行ったことのないBARへ、今度は初めて女性連れで行くからだ。護はBARの裏にある駐車場に来るもを入れると、陽子を店へと案内した。
店内はすいていた。マスター好みの懐かしい音楽が流れ、お洒落な雰囲気が期待通りに迎えてくれた。空いているカウンター席に案内されると、護はおしぼりを手にしながらマスターに挨拶した。連れの女性に気付いたマスターは微笑み、二人を暖かい眼で迎えた。その視線に護はすこし照れていた。なにも知らぬ陽子は、嬉しそうに微笑んで会釈した。
「マスターのオリジナルカクテルは美味しいから、どう、飲んでみない・・・・・・」
差し出されたメニューを見せながら勧めた。
陽子がメニューに眼をおとしていると、マスターは意味ありげな眼で、小指を立てながら護に問いかけた。それに慌てた護は手を振って否定した。その顔は赤くなり、純情そうな青年に見えた。
「ねェ、このマリオネットって、お酒が強いのかしら?・・・・・・」
メニューに指をさして護に聞いてきた。飲んだこともないカクテルを聞かれて戸惑った護は、助けを求めるようにマスターに目を向けた。
「はい、女性向のオリジナルカクテルですので、アルコール分は少量になっております」
陽子はそれでと頷き、護は自分ようにと、マスターのオリジナルカクテルのブルースを注文した。
カクテルが揃うと二人は乾杯し、淡いダウンライトの明かりに映し出されたグラスに唇を寄せた。
初めての女性連れだけに護は緊張していた。何を話してもマスターの耳に入ってしまう小さな店で、なにから話そうか迷っていた。隣にいる陽子は口にしたカクテルが美味しいと呟き、満足そうに微笑んでいた。
護は陽子と過ごした時間を振り返り、何から話そうかと考えていた。そこえ会話が途切れた二人を気遣ってか、マスターが護に話しかけてきた。
「草原さん、今夜はどちらからのお帰りですか?」
護は話の糸口をつかんだように、
「二人で、映画を観てから食事をして、それからこちらへ・・・・・・」
照れくさそうに応えた。
「どんな、映画を?・・・・・・」
「ゴーストです」
「あの映画ですか。・・・・・私も観ましたけど、男ながら、ついほろりとさせられる映画ですよね」
「・・・・・・」
護がだまっていると、
「草原さんはどうでした?・・・・・・」
マスターが確かめるように聞いてき。
「僕もちょっと・・・・・・」
照れながら喋り煙草に火をつけた。
「草原さんだったらどうします。愛した彼女のためなら、幽霊になっても守りますか?・・・・・・」
「しますよ。愛した彼女のためなら、命なげだしても守らなくちゃ、男じゃないですよ」
陽子にちらりと視線をおくりながら、力強く言った。すると護の揚げ足をとるように、マスターが言葉を切り返した。
「草原さん、すでに死んでしまってからの話ですけど・・・・・・」
「アッ、そうか・・・・・・」
護は慌てた。落ちのついた話に二人は笑い、それを聞いていた陽子も笑っていた。
マスターは二人に意味ありげな視線を送ると、カウンターの隅へと姿を消した。すると今まで流れていた曲が消えて、ゴーストの映画で流れていた曲、アンチェンド・メドレーが聞こえてきた。
護はニクイことをするなと思い、陽子の横顔を覗いた。陽子は映画の情景を思い出しているのか、呆然とした眼でカクテルグラスを見つめ始めた。
護は陽子にカクテルのお替りを勧めた。自分もいい気分になってお代わりをした。護は飲むほどに愛らしくなる陽子を見つめ、今夜は返したくないと口説きたい気持ちになった。
だがしかし、護にはそこまでの勇気と、心の余裕がなかった。
携帯の時計に眼を向けると23:30と表示していた。陽子に時間を告げて大丈夫かと確認した。陽子の浮かぬ眼差しで帰宅を考えた護は自宅まで送るといって、マスターにタクシーを頼んだ。そして店の駐車場に停めた自分の車を、一晩預かってほしいと頼んだ。
陽子が住むマンションは隣町の県道沿いに面した所にあった。BARから車で35分程の距離だった。陽子が案内する道をタクシーがたどると、
「このへんでいいです。運転手さん止めてください」
陽子は車窓から指を指して、
「あのマンションなの・・・・・・」
酔った眼ではどれも同じに見えるマンションの窓辺を指差し、白いタオルが干してある部屋だと、陽子が教えてくれた。
降りる陽子の頬にお休みのキッスをと考えたが、ここでも勇気が出なかった。
手を振る陽子に、
「お休み・・・・・・」
紳士的に別れを告げるのが精一杯だった。
タクシーは陽子を下ろすと、護のマンションへと向かった。陽子が去った後のシートを眺めていると、映画館で見せていた涙顔が脳裏に浮かび、しばらくコロンの香りも消えなかった。
護がタクシーから降りて薄暗いマンションの明かりを頼りに自室の前に立つと、忌中と墨で書かれた紙がドアに貼られてあった。ハットした護は悪いいたずらに縁起でもないと呟き、かきむしって捨てた。室内に入ると、いつもは感じない冷気が身を包んできた。身震いしながら部屋の明かりを点けると、先ほど送ったばかりの陽子が、護のベッドに向かって座っていたのである。驚いて陽子に声をかけたが振り返ることもなく、ベッドを見つめているだけだった。自分のベッドに誰かがいるように感じた護は、恐る恐る近づいて見ると、陽子の涙を拭いたハンケチが顔に掛けられあった。その光景に足をすくめた護が、陽子に話しかけようと肩に手を伸ばしたが、手は肩から透けて触れることは出来なかった。繰り返しやっても手応えはなかった。そんな護の動作に陽子は気づくことなく、ひたすらハンケチをかけた顔に眼を向けているだけだった。
誰かの死体が自分のベッドに横たわってると感じた護は、ベッドに近づきハンケチを剥ぎ取ろうとした。だがいくらやってもハンケチはめくれず、誰が横たわっているのか確認できなかった。
なす術もなくたたずんで陽子を眺めていると、見知らぬ男が慌てて入ってきた。男に気づいた陽子は抱きついて泣き出した。こんどは護が男に声をかけた。しかし、男は気づくどころか護の前で、陽子を優しく抱きしめながら呟いた。
「しょうがないよ、君が悪いんじゃないんだから」
「でも、とてもいい人だったのよ・・・・・・」
男は護がまだしたこともない陽子の髪を撫でながら慰め、連れ去るように部屋から出て行ったのである。見せつけられた護が二人を追いかけようとドアに手をかけた。しかし、いくらあがき叫んでもドアは開かなかった。悔しさのあまりドアをけった。すると足に痛みが走り、
「お客さん、困りますよ。暴力は・・・・・・」
運転手の声と共に急ブレーキがかかり、護は後部座席と運転席との間に滑り落ちて、現実の世界に戻されたのだった。
護は陽子を送ると安堵したのか、タクシーの心地よい揺れが眠りへと誘った。そんな中、観てきた映画と自分の思いが混合し、護の嫉妬が怒りとなって、タクシーのドアを蹴ってしまったのである。
護はその日から一週間、会社とマンションを往復するだけで、友人から誘われても遊びに出なかった。携帯のゲームを楽しんだりテレビやDVDを観て、コンビニ弁当をむさぼり時間をつぶしていた。寝れぬ夜はあの悪夢を思い出し、陽子のことは頭から離れなかった。
そして悪夢が薄らみかけた土曜日、護は胸を膨らませてスナック・梢を訪ねた。店内に入り辺りを見回したが、陽子の姿がなかった。カウンターの席に腰を下ろすと、愛想よく迎えてくれたママに見えぬ陽子をたずねると、2日ほどまえに突然店を辞めたと言った。眼を丸くした護が平然と語ったママに聞き返した。
「なぜ、急に・・・・・・」
するとママは小声で、
「草原さん、私から聞いたって言わないでよ」
前置きして、
「うちの店で働く前から、付き合っていた男がいたらしいのよ・・・・・・もう別れたらしいんだけど、その男にお金のことで騙されていたらしいのよ」
ママはしゃべりながら、護のボトルで水割りを作り出した。
「だまされた?・・・・・・」
心配そうに聞くと、
「そうらしいのよォ。可哀想にねェ、陽子ちゃん」
「前の男って、どんな人なんですか?」
「私は見たことはないけど、話によると、陽子ちゃんが勤めていた会社の元上司で、バツイチだったらしいは・・・・・・奥さんと別れた上司を、気の良い陽子ちゃんが面倒を見ていたらしいのよ。・・・・・・なんでもその上司ったら、パチンコや競馬が好きだったらしくて、陽子ちゃんのカードを勝手に使って、借金を残して逃げちゃたらしいのよ・・・・・・」
「借金して、逃げた・・・・・・」
「そうよ、ひどいはなしでしょ・・・・・・」
「借金って、どのくらいですか?」
ママは首を振って、
「私にははっきりした金額は分からないけど、だいぶあるみたいよ」
「どうするんですか、その借金は?・・・・・・」
ママに迫るように聞くと、
「カードの名義は陽子ちゃんでしょう。だから返済の義務は陽子ちゃんにくるよね・・・・・・」
観念したように言うと、
「警察にいって相談したらしいんだけど、名義人は陽子ちゃんだから、返済義務はのがれられないと言っていたは。・・・・・・あの歳して気の毒よね・・・・・・」
ママは人ごとのよう喋った。
その後を心配した護は、
「それで、この店を辞めたんですか?」
と、冷めた眼を見せるママに聞いた。
「そうなのよ。それで昼間の会社にもいられなくなって、会社は今週の月曜日に辞めたらしいは・・・・・・」
デートをした翌日に会社を辞めたと聞いて驚いた護は、無心に映画を観ていた陽子の涙顔を思い出し、やりきれない思いにつまされたのだった。
渋い表情を見せる護に、ママは話を続けた。
「うちの女の子に話していたらしんだけど、借金を返すためにクラブで働くとか言ってたらしいは・・・・・・うちの店ではそんなに稼げないでしょ・・・・・・でもさァ、世の中って皮肉なもので、気立てのいい女に限って、悪い男にひっかかっちゃうのよね」
ママの思わぬ話で心がめげた護は、ミネラルウォーターの瓶をラッパのみして店をでた。駐車場へ向かいながら瞬く星空を仰いで、遠く離れて行きそうな陽子を偲びながら、
「海外旅行したいから働いていると言ってたのに、俺に嘘をついてまで隠すなんて、カッコ良すぎるよ」
天に向けて叫んだ。
護は動揺した心を抑えながら、陽子が教えてくれたマンションへと車を走らせた。テラスを眺めると部屋から漏れる明かりはなく、以前と同じように白いタオルだけが浮いて見えた。もし、クラブで働いているとしたら、この時間には戻ってないだろうと考え、護は車内で待つことにした。現在時間は11時。クラブの閉店は12時。と考えれば、遅くてもあと2時間ほど待てば帰ってくると思った。運転席のシートを後ろに倒しベランダを眺めながら、陽子にメールしようか考えた。だがメールより直接逢った方が、話が早いと考え携帯を閉まった。
陽子と知り合ってまだ日が浅いが、護に見せた陽子の顔が何通りにも脳裏を過ぎり、その度に思いを巡らしていた。ママが言っていたように、気立てのいい陽子が男に騙されて泣いているのかと思うと、いてもたっても居られない衝動に駆られ、考えもなく陽子に逢いたいがためにここに来た。
自分の力で陽子に笑顔がもどるなら、何とかしてやりたいという正義感が、護を長時間車内に釘つけさせたのである。
苦しい姿勢での寝返りで眼を覚ました護は、慌てて携帯の時計を見た。時間はなんと3時を回り始めていた。車内ですっかり寝込んでしまった護は、両手で頬をたたいて眠気を覚ました。
車内から飛び出した護は、陽子から教えられたマンションのテラスを探した。すると変わらぬ白いタオルが干された窓辺から、明かりが漏れていた。帰ってきてると読み取った護の胸は高鳴った。タオルがあるテラスは何階かを確認すると、マンション入り口へと回った。ずらりと並ぶ郵便受けを見渡し、段数とタオルがあったテラスの位置を数えると、部屋は504号室であることが分かった。だが郵便受けには名札がなかった。とりあえず部屋までと考えた護は、階段の脇にあるエレベーターのボタンを押した。しばらくしてエレベーターの扉が開くと、喪服姿の老婆が降りてきた。擦れ違いざまに会釈した護は避けるようにエレベーターに乗った。
「こんな時間に喪服姿の人と出会うとは・・・・・・」
縁起でも無いと呟いた。
エレベーターは5階で止まり扉が静かに開いた。降りて廊下を歩むと外は暗闇に覆われ、足下を照らす蛍光灯の明かりが護を迎えた。玄関ドアの脇に記された部屋番号をたどりながら、護は足を進めた。
目的の玄関ドアの前に立つと、眼を疑いたくなる紙が貼られてあった。夢で見た紙と一緒の文字が、墨で書かれていたのである。驚いた護は後ずさりして、表札を見たが名前がなかった。護は自分が間違えているのではと思い直し、各室の表札を見て回ったが、ママから聞いていた名前はなかった。護が504号室に戻るように足を向けると、エレベーターで擦れ違った喪服姿の老婆が戻ってきた。護が足を止めて行き先を眼で伺うと、老婆は504号室前で立ち止まり護に向かって会釈した。丸くなった肩を深々と下げる悲しげな姿に心引かれた護は、たまらず声をかけた。
「失礼ですが、どなた様が?」
「はい、息子です」
老婆は護をとなりの住人と思ったのか、問いかけに素直に応えた。
「色々と息子がお世話になりました。・・・・・・これから郷へ連れて帰るところです」
途切れそうなか細い声で挨拶するのだった。
「何かのご病気で、お亡くなりになったんですか?」
と護は哀れむようにたずねた。すると老婆は、
「病気で亡くなったのならまだ諦めもつきますが、・・・・・・息子は殺されたようなもんなんです」
「エッェ、殺された?」
「お恥ずかしい話ですが、いい年して若い女に溺れて・・・・・・」
「若い女って、それは・・・・・・」
護は驚きの眼を見せて、陽子ではと口にしそうになったが止めた。
「真っ正直で律儀な息子は、自分を頼ってきた部下を、ほっとけなかったんでしょう」
「それでご命を?・・・・・・」
護はドアに貼られた紙に眼を向けた。すると老婆は、
「それだけならまだしも、情けないことに、その女にカードを預けたばっかりに、自ら寿命をちぢめ、親よりも先に逝ってしまったんです。・・・・・・色々とお世話になりました」
「・・・・・・」
護がうなだれるように無言で会釈すると、老婆は目頭にハンケチを当てながら504号室に入っていった。
護はママから気かされた話が逆ではないかと感じ、この老婆の話が真実なら、いったい自分は何を見て、何を信じてきたのだろうかと不安になり、陽子が見せていた泣き顔が脳裏から消えなかった。
完結