最後の花束
私は、この世界の事を人一倍に大切だと思います。それを思うきっかけとなったのは、私のお母さんがあの時、あの場所で、私に歌ってくれた思い出の歌であって、別れの歌でもあった、あの頃からでした。
私の名前は、花村 愛、普通の母親であり
、普通の生活をしており、専業主婦で、一人の子持ちで、夫は、いつもどこかでフラフラと賭事だの、酒場で酔い潰れて帰って来るだのと、正直、信用はしていない。寧ろ、どうして一緒にいるのか、実感してはいない。
でも、私が今、ここにいるのは、勿論、子供の事もあるけれども、お母さんが病気で亡くなる前の大切な言葉がある。それほど、お母さんが好きだった。
つい、最近の話で、お母さん(知子)は、心臓のガンによって何度も何度も緊急入院をしていた。お母さんが亡くなる丁度、三日前の事だった。ガンは、お母さんの身体を蝕まれていっていた頃、私は、お母さんのお見舞に一束の花を持って行きました。
「ただいま」と私がいつものようにお母さんがいる病室を開けて言う最初の一言、それがお母さんが入院していて、お見舞に行く時に必ず言う私のきまりごとだった。でも今日のお母さんは、いつになく、苦しそうで、髪の毛も抗癌剤治療の為に、どんどんと抜け落ちて、それを隠して頭にお母さんが愛用していたカプリーヌハット(麦藁帽子の様な布製の帽子)を被っていた。ガン治療薬は、髪の毛が多くぬけていってしまう副作用と気持ちが悪くなってしまう症状もおきてしまうガン治療の唯一の薬でした。
ですから、お母さんが、いつも吐いてしまう時に、私は、それが居た堪れなくなってしまうのです。でも、お母さんの話してくれる言葉が楽しみで、見守るばかりの日々を続けていった。
お母さんが亡くなる一日前、私がいつもの様に一束の花を持って病室に行き、お母さんがベッドでスヤスヤと眠っている姿を目の前にして、近くの椅子に腰を下した。ベッドの近隣には、小箪笥があって、その上には、毎日、私が持って来る花の白いカーネーションがいくつかの花束が透明なガラス製の花瓶に入れて、今日もいつもの様に花屋さんで買って白いカーネーションを花瓶の中へ入れた。その時にお母さんは、私が側にいる事に気がついて、目覚め眼にしながら私に言った。
「いつも母さんの様子を見に来てくれてありがとうね愛。愛は、いつも私に気を遣って、おまけに、知らない内に母親になっちゃって。」とお母さんんは、何だかお母さんではなくなってしまった様に思えた。それは、病状になる以前は、厳しくて、いつも何々しなさいが口癖だった。けど…重い病気を持つようになってからは、お礼というのか顧みた申し訳がない事でなのか…私には分らなかった。でも…一つだけ…いやっ好きな所が数えきれない程に…お話してそのお母さんが話し始める時の表情が好きだった。今も私の心に強く残っている。
「それじゃあ、私から愛にいくつか心に思い止めてほしい事を話すわね。」と今日もいつもの様にお母さんが始めに言う[きまり]という事から始まった。
「あなたが落ち込んで悲しくなった時、この歌を歌ってほしいの。勿論の事だけど、友達や知りあいの人もね。そう、歌ってあげてほしい…丁度、あなたが中学の3学年の時に、合唱コンクールの行事の時だったかしら…あなたも覚えているわよね。」とお母さんは、話の途中で私に聞いた。
「えーと。確か…愛する人へだったかな?」と私は、かすかだったけど、答えた。 「そう。愛する人へ…。あの歌をあなたが歌い聴いていた時に、私は、ついつい涙があふれてしまったわ。」としみじみに言った。
「そこまで」と私は、笑って誤魔化そうとした。
「でも、私は口遊んでいたの。あの歌詞がとても好きで、心温まったわ、」とお母さんは、しみじみして言った。
「そんな…大袈裟だねーお母さんは…」といいながらも、私もその歌が好きだった。何でだろうか…本当にお母さんが言うとおり、心温まる歌だった。すると、お母さんは歌い始めた。
「私がお母さんになっても、どんなに傷がついていても、たとえ、どんなに誇らしいけども、あなたのそばで眠る…」と私の心にも響いて目を手で覆って涙が流れ溢れてしまった。それが最後のお母さんの話だったとは、思わなくて、お母さんとの思い出と共に目からあふれ出てきた。
けれども本当にそれが最後の言葉で、涙の別れだとは、思ってもみなかった。それから後には…息をひきとって天国に上っていきました。お母さんが火葬される前に、いつも私が病室に持っていっていた白いカーネーションの花束をお母さんの棺桶の中にそっとのせて、それから
「私は、お母さんの一つ一つの言葉を忘れないよ…必ず」といってお母さんと別れて、お母さんは、火葬場へ行ってしまいました。もう帰って来ないと思うと…辛かった。とても…。それ以来、その言葉を胸に、今、私はここに生きています。そう心に残しています。