黎明編 #96 邪神と女神
雷鳴と豪雨の音だけが地上を包み、双方ともがひび割れた赤い大地を叩き続ける。
その雷雨は確かに大災害規模のもので、地表の全てを洗い流すほどの洪水を引き起こしていた。
しかし、今のそれは邪神アバドンによる「審判の日」で受けた深い傷を癒しているかのようだった。
やがて雨が収まると、地球と呼ばれたこの星に再び海が生まれたのだった。
赤土に染められたその海は果てしない血だまりのようであり、そこに生命は只の一欠片もない。
かつての五大陸は全て海に沈み、代わりに新たな大陸が一つだけプカリと浮かぶようにしてあった。
「この地形って・・。まさか・・。」
「うむ。間違いない。ムウ大陸。妾たちの世界じゃ。」
ティアたちが目にしたのは自分たちの住むムウの世界。遂に新世界が幕を開けたのだった。
「ちょっと見て!あそこの海岸!誰か海から上がってきたよ!?」
「ちっ。アバドン!やはり生きていたか・・。」
「ううん、ティアちゃん。目を凝らしてよーく見て?・・女の人みたいよ?」
ムーンとララが見つけた人影をティアが目を凝らせてみる。
「あれは・・。女神ちゃん?」
そう。新大陸に現れたのはアダムによって造られたホムンクルス「女神」だった。
海岸へと流れつくように現れた女神は、とぼとぼと微生物すら存在しない赤土に足跡を残していた。
「・・そうだ。・・女神ちゃんは不死身の肉体を持っていたんだった・・。良かった・・。ほんと良かった・・。」
ムーンが口に両手を当て涙を零し、ララがムーンを後ろからそっと抱き寄せた。
『ふはははは。』
皆が見せた少し安堵の表情に水を差すようにしゃがれた邪悪な笑い声が響き渡る。
「やばい!今度こそ奴だ!女神逃げて!!クソゴミ邪神から逃げて!」
ティアが女神に迫るアバドンをなじる。
『くくく。あれ程念入りに焼いた煉獄の世界を受けてなお生き続けるとはさすがだな「女神」よ。ん?見覚えがある顔だな・・。お前は砦でパイプオルガンを演奏していた奏者か。』
『・・・。』
バシュウ!
アバドンは女神の真ん前に降り立つやいなや片腕を振り上げ女神の右腕を握り潰す。
「畜生!やりやがった!あのクズ!」
ティアたちが目を覆う。女神の右腕はアバドンの腕をすり抜けるように砕け散り砂浜へぼとぼとと落ちる。
『・・。くくく・・不思議な体だ。我にもこのカラクリは解けぬわ・・。』
『・・・。』
『ははは・・。腕を飛ばされても眉一つ動かさぬか・・。気に入った。「女神」よ我の奴隷にしてやろう。我を新しい主とし、我に付き従うがよい。』
『・・・。』
『ふっ、そうか。お前は殆ど言葉を操れないのだったな。まあいい。この星にはもはや我とお前しか存在しない。我らは「アダム」と「イブ」なのだ。分かるか?』
女神は虚ろな目をアバドンに向ける。
『・・私は・・。イブ・・。』
女神がアバドンに呼応するのを見てアバドンは口角を極限まで上げる。
「ダメ!女神ちゃん!そんなクソ野郎を主にしちゃダメ!絶っっ対ダメえ!!」
ムーンが届かないことを承知で大声を張る。
アバドンは極めてご機嫌な様子だ。
『ははっ!そうだ!お前はイブだ。そして我が本物のアダ・・。』
『お前はアバドン・・。』
『なに!?』
予想外の女神「イブ」の言葉にアバドンの口角は極限まで下がり、ピクピクと引き攣る。
『お前はアバドン・・。滅ぼす者・・。その手に何も得られぬ者・・。』
女神「イブ」の言葉にアバドンは怒りに顔を歪め、見る見る赤くなる。
『なんだと?世界の頂点に君臨した我を・・世界の全てを手に入れたこの我を・・お前は主と認めぬ気か?』
『・・私の主はアダムにその身を捧げた・・。』
『そのアダムを滅ぼしたは我だ!この新しい世界の王にお前は付き従わぬと申すか!?』
『はい。』
『な・ん・だ・と・・。」
ドシャ!
アバドンの申し出をハッキリと断る女神「イブ」。アバドンは力無く顎を上げガクリと両膝を着く。
「あはっ!聞いた?アバドンったら女神ちゃんにフラれちゃったよ♪ざまあみろ!」
「ぷふっ。ほんとざまぁ無いわね。ほら見てよあのクズゴミカスバカアホの顔を。白目を剥いて鼻水出してるわよ?」
ムーンとティアは大喜びで手を取り合いくるくると回りだす。
「うれしい・・。やっぱり女神ちゃんにはちゃんと心があったのね。信じてたよ、私。」
ララも喜び、ムーンとティアに混ざり三人でくるくる踊りだす。
「えっと・・。妾は・・。妾は・・。えーい!アバドンのおたんち~ん!・・ほれ!妾も妾もっ!」
喜びを分かち合いたい一心でケッツァコアトルが適当にアバドンをなじって輪の中心へ入ってモモカを抱き上げながらくるくる回る。
モモカも嬉しそうに「ばかどんばかどん!きゃっきゃ。」と笑っている。
『なぜだ・・。お前の主は死んだのだぞ?』
放心状態で顎全体をパクパク動かしながら呟くアバドン。
「ぷぷぷっ。アバドンって意外としつこい性格なのね。」
「未練がましい男は余計に嫌われるってこと誰か教えてあげなさいよ。ぷぷぷっ。」
「ちょっと、ティアちゃん、ムーンちゃん。いくらアバドン本人に聞こえないからって言葉が過ぎるよ。ぷぷぷっ。」
「ううむ・・。ぷぷぷっ・・。えーっと・・ぷぷぷっ・・。むむむ・・。」
「ケッツァコアトルちゃん無理に話を合わせなくていいよ?それより一緒にアバドンを嘲笑しましょ?」
「おおっ!そうじゃな!ぷぷぷぷぷっ!」
ティアたちは、まるで放課後に思いを寄せる女生徒を体育館裏側に呼び出し、告白したが、見事に失敗した男子生徒を影で冷やかす女子生徒たちのようだった。
しかし思春期モードのアバドン青年は中々引き下がらない。
がばっ!
アバドンは突然女神の左腕を掴んで力任せに抱き寄せる。
「なっ!?あんにゃろう相手の気持ちを無視して抱き着きよったぞ!信じられん!なんて破廉恥な奴じゃ!」
「・・雄一を一方的に襲ってキスしたあんたがそれを言う?」
「でもアバドンの野郎女神ちゃんを力づくで手に入れる気かしらね。」
「最っっ低ねアバドン。」
「うん。知ってた。」
冷やかす女子生徒たちは少し興奮気味にアバドンと女神イブの成り行きを見守る。
ぎゅううっ・・。
『・・??』
苦悶に満ちた表情で慈しむように女神「イブ」を抱きしめるアバドン。
無表情にアバドンを見つめる女神「イブ」。
『お前は「最強の称号」を手に入れた者になら、どんな奴にでも付き従うのではなかったのか?』
『・・違う。』
『ならば何が違うのか教えろ!!まさかお前は、お前を「おもちゃ」のように扱った下衆な人間どもに「愛」を感じていたのか!?』
『・・・。主は私の愛に応え、私を大切にしてくれた・・。それにまだ契約期間が残ってる・・。』
『・・契約期間だと?』
アバドンは女神の肩を優しく掴み、そっと腕を伸ばして女神との距離を取る。
『お前と人間との間で交わした契約のことか!』
『・・。』
小さく頷く女神「イブ」。
『どのくらいだ!』
『・・。』
『あとどれだけ契約期間は残っているのかと聞いている!!』
怒鳴るように問い詰めるアバドン。その目は激しく強いが殺気は無い。
『・・あと、2万年・・。』
『な゛っ!2万年だと!!?』
女神「イブ」の口から出た契約満期は2万年後。その途方もない年月を聞いたアバドンは一瞬青くなるが、すぐに顎を引きカタカタと震えながら笑い出した。
『我が肉体の耐用限界はおよそ千年・・。おのれアダムのやつ・・どうしても我にイブを渡したくないらしいな・・。』
アバドンは女神「イブ」の肩から手を離すと、スーッと空中へと昇った。
『くくく・・。おもしろい・・。いいだろう・・。アダム、キサマは我を嵌めたつもりであろうがそうではない。我には「時空を超える神の力」があるのだ。』
『・・。』
ティアたちが「2万年」と「時空を超える」のキーワードから「まさか」と目を見開き、ごくりと生唾を呑む。
『・・イブよ我は今から2万年後のお前に会いに時空を超える。その時は我を主とし、付き従うのだ!よいな!!』
『・・。」
ギュオオオオ!
アバドンはそう言うと耳障りな音を放ちつつ濃縮された暗黒の闇を全身に纏う。
シュウウウウ・・。
そしてアバドンを包んだ球状の闇は徐々に小さくなり消えてしまった。
「女神ちゃんにフラれたショックでアバドン消滅ちゃった・・。結局の話、女神ちゃんがアバドンをやっつけたってこと?」
「違うよ。ムーンちゃん。たぶんアバドンは契約期間の切れる2万年後へタイムスリップしたんだと思うよ。」
「つまり、ネアセリニ歴1607年に現れた「厄災」は、時空を超えた「アバドン」だったってことかな。」
「それで決まりじゃな。」
皆がララの憶測に納得する中、ティアはつい、
『もし、女神がここでアバドンの相手を千年してくれてりゃ千年後にアバドンは滅んでいたってことじゃないのか?』
そう思ったが、自分が女神の立場だと思うと「一晩でもごめんだわ」と思い、考えを改めた。