#127 絶空
「ううう、我は一体どうなってしまったのか……」
「ここは、どこだ。この奇妙な水面はなんなのだ」
目を覚ましたトウテツが浮かぶ不思議な水面。それは途轍もなく巨大な黒い円。その円の外側には更に巨大な純白の地面が広がっている。
「不思議な場所だ。腹痛に耐え兼ね気を失い、夢でも見ているのか。それとも、死んでしまったのか」
トウテツは水面に立つと、頭を捻りながら自分の置かれた状況を考える。すると、少年の笑い声が辺りに響いた。
「ん? 子どもの声。雄一とは違う、随分と禍々しい気配のする笑い声だ」
「わはははは……。俺様でも喰えぬモノを、トカゲ如きが、簡単に喰えてたまるか」
トウテツは、不穏な空気を感じ取り、構えを取る。
「誰だ! 姿を見せろ」
「ははっ、ばーか。お前の、真後ろだよ」
「!!?」
トウテツが振り返ると、五本角を持つ、巨大な赤鬼が座っていた。
「こ、こいつは、おっ、オーガかっ?」
その余りの迫力に、トウテツは、よろよろと後ずさる。
「ようこそ、哀れな後輩君。無駄だとは思うが、折角だ。俺が神谷雄一の美味しい調理方法を教えてやるよ」
「なんだと?」
「神谷雄一を喰うには、一度同化して分化するしかない」
「だが、いくら同化しても、いくら分化しても、次々と神谷が現れる。喰っても食ってもおかわりが続く状態だ。ハッキリ言って最悪だ」
「そこで、俺は今、別の調理方法を模索中。その方法と内容は、教えてやらない。企業秘密だ」
「くだらぬ。一体何の話をしているんだ」
「あはは、分らなくてもいい。要するに神谷雄一を喰おうとすれば、只では済まないってこった。トカゲの兄ちゃん」
「なっ! トカゲの兄ちゃん? 我は四聖獣の一角を担う青龍なるぞ」
「卑しい鬼の分際で、無礼者め。その口、引き裂いてくれ……るぶうっ」
びしゃあ。
鬼は、いきり立つトウテツを右腕一本で地面に押さえつける。
「くおお。なんて力だ……」
「教えてやろう、ちっぽけな爬虫類の王。俺様は、開闢以前の太古、この世界の創造神が一角、戦神、朱矢の末裔である」
「なに?」
「俺様の名は守天雄一。偉大な神の末裔だ。守天とは、朱矢が守矢と転じ、矢のノの字が取れ、転じたもの」
「夢か現実かもわからぬ場所で、訳の分らぬことばかり……ふぎいっ」
「おっと、誰が顔を上げていいと言った」
黒い水面をトウテツの顔が叩く。
「ぐぬぬっ、何たる屈辱。こんな奴、神谷を喰らい、伝説の黄金竜になれさえすれば……」
「かっかっかっ! マジかお前。この期に及んで、まだ神谷を喰らう気か」
「当たり前だ。それが、我が神、ムウ様と交わした約束……なのだから、うっうううっ」
「何! まさかお前、泣いているのか? わはは、自分の言葉に酔い、涙目になってるぞ」
「ムウも、罪深いぜ。こんなウブを騙すなんてな」
「あのお方は、絶滅に瀕する竜族を救って下さった。私を人間よりも上に扱い、愛して下さった」
「そんなムウ様が、私を騙すことなど、ありえん!」
「ぷっ! あははは! 信者ってのは、有り難いものだね、死ぬまで勝手に踊る踊る」
守天雄一は、腹を抱えて笑い出す。お陰で右手の重圧から解放されたトウテツ。しかし、彼は笑われていることにいきり立つ。
「何が、そんなに面白い。不愉快だ!」
「あっはっはっは! これが、笑わずにいられるかってんだ」
「ペテン神ムウを、どこまでも信じる気か。あっはっはっ」
「ペテン神……う~む、この上、ムウ様まで侮辱する気か」
「ククク。いやいや、わりぃ。信仰心を貶すのは悪趣味だ」
「それに、確かにムウは神だしな」
今まで笑っていた守天から笑みが消える。
「ただし、冥府の神だが……」
「冥府?」
「要するに、死神だよ」
「全能の神、ムウ様を死神だと? 好き勝手言いおって。雄一を喰らい、伝説の黄金竜にさえなれば、キサマなど瞬時に葬ってみせるのに」
トウテツの言葉に、再び噴き出す守天は、子どもの様に手足をばたつかせて笑いだす。
「あはは。だったら、さっさと喰えばいいじゃないか。方法は、さっき教えてやったろ?」
「はんっ。神谷雄一がいもしないのにか」
「かっかっか。神谷なら、ずっと一緒にいるじゃないか。俺たちの、尻の下にな」
「なにぃ!?」
「ここは、神谷雄一の、眼球の上さ」
「!!」
守天の言葉に、トウテツが慌てて立ち上がる。
液体の張った、不思議な黒い地面は、雄一の眼球、黒目部分だった。
面積が広すぎて、立っている場所が、黒目の瞳孔部かどうかすら判断できない。
バシャン!
再び、トウテツはその場に腰を下ろした。いや、腰が抜けて、立っていられなかった。
「おやおや。そんな目をして、何を怯えているんだ。喰うんだろ? 神谷雄一を」
「遠慮はいらない。さあ、喰え。おかわりは、いくらだってある。ぎゃはははは~」
「あ、悪夢だ。これは、悪い夢なんだ」
意識して途端に感じる、神谷雄一の鼓動。触れる手から、尻から、足の裏から伝わる生命の躍動。
トウテツは、雄一から逃れるように四つん這いで手足をばたつかせ、のたうち回る。
「ひいっ! ひいっ!」
「ククク、トカゲが、今更気づいたか。神谷の恐ろしさに……」
「コイツがALSと言う難病を患った要因は、そもそもここにあるのだ」
「え、エイエルエス?」
「コイツは、神谷は生まれながらに魂の器が巨大すぎたのだ。生命活動において、肉体の方が、それについて行けなかった……命の異常消費……」
「ククク、それが今じゃ、脳筋の力を得たせいで、コレで細胞一個分なのだからタチが悪い」
「一体、何を言って……」
「分からなくてもいい。お前如きが手に入れられる器ではない、と言うことだ。さっさと、このまま、溶けてしまえ。」
「溶けろだと? 冗談じゃない」
「い、いやだ、助けてくれ! 誰か! 我をここから出してくれ! 神様! ムウ様~!」
「困った時の神頼みか。便利でいいな」
その時だった。神へ祈りが届いたのか、トウテツの体が捩じ切れんばかりに引き伸ばされる。
「な、なんだ? ぐわあっ、体が、引き千切れるっ」
「んん、これは何だ? 何が起きている?」
「ん……、ああ、なんだそういうことか。単純に、外側から引き剥がそうとしているな」
「良かったなトカゲの兄ちゃん。どうやら助けてもらえるようだぞ。神様じゃなく、孝行息子にな」
「孝行息子? 娘のプルゥートのことか。うぎいっかかか、体が、意識が、ががが……。」
その途端、トウテツは、気絶するほど急速に引っ張り上げられる。
意識が遠のく中で、トウテツは雄一の声を耳にした。
「会えてよかった、四聖獣のおとーさん」
「か、神谷、雄一……」
トウテツは気を失い、闇へと堕ちた。