前編② その名も、焔 シュリ
次の朝。俺は今日も今日とて野球の練習へと向かうべく、練習着に着替えると朝食を取りにリビングへと向かった。
「あら、おはよう」
「おっはよー」
母の京子と姉の亜香里だ。父はただいま単身、絶賛海外赴任中。
味噌汁のうまそうな匂いが眠気を吹き飛ばしてくれる。
「おお、卵焼き沢山ある。珍しいね」
ご飯茶碗を片手に、大好物のおかずをさっそく箸で摘もうとする。すると横から伸びてきた箸にさっと取られてしまった。あーあ、と思いながらも、母さんの卵焼きは天下一品。姉貴も大好物だから仕方ないか。まあ、まだ皿には十分あることだしネ、と再度箸を伸ばす。
するとそれも、またその次も横から奪われてしまった。これはさすがに僕ちん、文句を言っちゃうゾ。
「ちょっと、姉さん。いい加減にーー」
眉間に皺を寄せ振り向くと、なんとそこには。
「にょはようごじゃりまふ」
なんとそこには、昨日のレイヤー少女がもふもふと伊賀家自慢の卵焼きを食しているではないか。
「!?!!?」
俺は驚き退き、思わず椅子から転げ落ちた。
しかしそんな俺のすってんころりんにお袋も姉貴もそしらぬ顔だ。
そして、その少女も。
「おや、どうかいたしましたか」
と何食わぬ顔で朝食を取り続けている。
「いやいやいや、なんでここに君がいるんだよ! それに、俺の卵焼きは?!」
俺の訴えもむなしく、すでに皿の上は空っぽになっていた。
少女は満足そうに、にこりとお袋を振り返る。
「コレトテモオイシイネ。ナントイウタベモノデスカー?」
「タマゴヤキ、トイウノヨー」
ナンデ君タチ片言デスカー?
渾身のツッコミを入れようとしたとき。俺は気付いた。この少女が今、身にまとっている服が何なのか。
……うちの学校の制服じゃないか。
ドウイウコトデスカ? 困惑顔の俺に気づいたのか、そこでようやくお袋が少女を紹介する。
「この度うちにホームステイすることになった留学生の子よ。ステイの募集の案内出してたら、この子が昨日やってきたの。ほら、お互いに挨拶して」
お袋に促され少女は椅子から立ち上がると、ゆっくり頭を下げた。
「ホシガラース国からやってきました、焔 シュリです。じめじめしまして」
はじめまして、でしょ。それにしてもホシガラース国? 聞いたことのない国だな。あとで調べてみよう。
「あんたの高校に今日、見学に行きたいって。野球部の練習でも見せてあげなさい」
お袋が空になった皿を下げながら俺に告げた。
なんだ。留学生の子だったのか。随分急な展開である気もするが。昨日は母さんにでも聞いて、俺のことを見に来たのかな。それなら少し納得。
彼女、少々不思議ちゃんだけど怪しい子じゃないみたいだし、仲良くしよう。
そう思った矢先。朝食を済ませて洗面所から出た瞬間、俺は驚きに飛び上がった。ドアの外で待ち伏せしていたシュリが突然、声を潜めて話しかけてきたからである。
「それでそれで。いつどこで、誰に熱い焔を打てば良いのですか」
「な、なんだよ! いつからいたんだ?! びっくりさせるなよ!」
「先日の学校とやらに敵がいるのだと考え、同行するべく手筈を整えたのでござります。いつでもどこでも私、焔を打つ準備は万端にござります」
朝っぱらから、しかも出掛ける前に何言ってんだ。ごっこ遊びに付き合う気はないよ。しかし、ふと俺は冷静になり、少女が昨日から繰り返す言葉に気づく。
「昨日から焔、焔ってなに。誰がそんなの打てって言ったの? 」
シュリは、この男何を言っている、とばかりに怪訝な表情を俺に向けた。そして俺の顔を人差し指で指す。
「貴方ですよ。誰かに焔を打ってほしいのですよね?」
彼女は随分ゲームかアニメの影響に侵されてるらしい。が、ここまで来て俺はようやくピンときた。――違うよ君。それ、ただの聞き違いだよ。俺は思わず安堵し、笑ってしまう。
「それ、もしかして、ホームランのことだね?」
「ほーむらん?? てなんですか。焔の変化形態ですか?」
「ホームラン知らないの?! 野球見たことないの?!」
「やきゅう……柳生ならわかります。天才剣士さんですね」
ああ、柳生氏。日本史にうとい俺でも、それ位は知ってますよ。勿論ゲームの影響で。……じゃなくて。
「野球っていうのは、バットとボールを使って2つのチームで戦うスポーツのことさ」
「ほほう、戦うとな。なるほど、そこに件の敵がいるわけですね。そこでほむらん、つまり変系焔を打てば良いのですね」
まだ言ってるよ。この子、本当にわかってないのかな。
「ホームランはね、ボールをバットで打って高く、遠く飛ばして客席スタンドに入れること。焔の火は必要ないんだよ。わかった?!」
「なななんと!? 火は不要なのですか? でも、昨日貴方は確かに、熱い焔を打ってくれ、と叫びながら魔法陣を完成させ、私をホシガラース国から召喚しましたよ!?」
うーん? しばし回想中。俺は確かに、熱いホームランを打ってくれ、とは言ったけど。
「だから、焔じゃなくてホームランって言ったんだ。だけど魔法陣って?」
「魔法陣は、長方形の白い囲み枠を、こう、夕陽に向かってうまい具合に足で蹴るのです」
シュリは足で字面を蹴る素振りを見せた。ああそれ、確かに昨日、夕焼けをバックにグラウンドのバッターボックスでやったかも。
でもそれだけで、彼女が魔法の世界からやってきたと信じるわけにはいかない。きっとこの子、妄想の世界に浸りすぎてるんだ。
俺はそんな彼女に、試すような物言いをする。それも、少々意地悪に。
「じゃあ君、魔法の国からやってきたの? 火を使うために?」
「ハイ。炎の使い手ですから。そして呼び寄せた主の願いを叶えるまでは帰れないのです」
「へえ。じゃあホントに打てるんだね? じゃあ打ってみなよ、ここで。焔ってやつを」
「いいのですか? そしたら私、すぐ帰っちゃいますよ?」
「いいよ。さ、どうぞ見せてくださいな」
はい、妄想ごっこはもう終わり。
「わかりました。じゃあ小さいのいきまーす」
シュリは大きく息を吸い込むと、パワーを貯めるように拳を握る。すると周りに赤い光が発し、やがて渦となって拳に吸収されていくではないか。
俺は焦った。
え、ま、まさか……マジなやつ?
「ハッ! 焔ッ!!」
掛け声とともに、拳が開かれる。シュリの手に込められたパワーが解放されていく――。
……炎の玉って、紅く光ってとても綺麗なんですね。
そうそう、俺のヘアスタイル、ただのスポーツ刈りだと思うでしょ? 実はコレ、絶妙のバランスで伸ばしてるんです。だけど最近知ったばかりの、『焔カット』っていうんですが。それがもう、びっくりですよ。あっという間に、自慢の髪がスッキリスッカリ、坊主頭に早変わりするんですから。
――紅蓮の炎玉は見事に俺の髪に直撃、しかしただの一本も毛根を傷つけることなく、髪のみを燃やしきったのである。
「新学期に向けて伸ばしてたのにぃぃー!!」
「焔を打ったのに帰れないぃー!」
さて。
得たもの、炎の使い手。
失ったもの、新学期に向けたヘアスタイル。
そして、二人の絶叫がいつまでも廊下に響いていた。
焔 シュリは魔界ホシガラース国に棲む炎の使い手。魔法陣を作った主の願い『ホームランを打つこと』と彼女の得意技『焔を打つこと』を勘違いしてやって来たのである。そして厄介なのは、俺の願いを叶えなければ魔界に帰れないってこと。さて、どうすんべさ、トオルくん。