4話
婆やが寝付くまで、桃子は床の側にいた。
深夜帯の月明りが部屋をうっすらと照らしている。
夏虫が奏る音に耳を傾けて、桃子は婆やの言葉を回想した。
――そんな心持ちで、鬼を倒せるわけがない。
よく見通しているものだと感心する。
婆やは、桃子が心の深層ではわかっていたつもりのことを、浮き彫りにしたのだ。
――兄・桃太郎の影に酔狂しているだけだ。
寝静まる婆やの顔を覗き込んで、寝息が穏やかなのを確認すると、桃子は立ち上がった。かつて兄が巻いていた鉢巻きを、棚からするりと引き出す。
記された「日本一」という言葉の凄みに、想いを巡らした。
清算する機会を、桃子はずっと欲していた。
幼き頃より憧れし兄の死が、本当の意味で受け入れられるようになるには、自分がその背の「大きさ」を超えねばならないと考えていた。希代の勇者を無くした喪失感は、おのれが成長し切り、新たな希望に胸を膨らませることが最も前向きであろうと。
つまりは自分が代わりに英雄になればいいのだ。
だが、兄の大木斬りや岩砕きといった鍛錬の程は、桃子には到底及ばないものだった。
――お前はおなご。
婆やは真っ先にそう口にした。
「お前はおなご」
言われたことを小さく反芻しながら、桃子は衣服を脱ぎすてた。
一糸まとわぬ姿が月光に浮かび上がる。
成長するにつれ次第に大人へとふくらむ自分を、うんざりする目で見下ろした。
土台、男と女。同じ人間であっても作りが違う。だからその役割も違うのだと、至極当たり前のことを婆やは伝えたかったのだろう。
言いつけに従い、女の子らしくあろうとしばらく伸ばしていた長髪を、一度手で束ねる。
ほんのりと名残り惜しさが去来するも、直後には、小刀でばっさりと切り落とした。
胸にはさらしを巻き、右腕には鉢巻きを、左手と口で「きゅ」ときつく結んだ。
戦闘装束である武士の直垂にするすると身を通し、胸や足首など各所を結べば、桃子の見た目は立派な「桃太郎」だった。うれしくて、つい頬がゆるむ。
軒下に隠していた桃子専用「小太刀」を取り出して帯刀。荷物をまとめた風呂敷を担げば、あとは気持ちを固めるのみだった。
旅立ちの準備が整うと、桃子は再び婆やの床へ寄った。
婆やは起きていた。
う、と小さく声を上げ「わっちは、」と言い訳を続けようとするが、それより先に婆やが言った。
「忘れもんじゃ」
床から出された指先が指し示す棚の方を見やると、布包みが置いてあることに気付く。
いつから用意していたのだろう……。
それは「きびだんご」だった。
説明を求めてみると、婆やは柔い表情で応じてくれた。
「お前は、兄をひいきしておると言うたが、勘違いじゃ。わしはあの子にも同じように、いやもっと厳しく問うたよ。だがあの子は、それでもと譲らなかった。あの頃、鬼の戦禍はわしらのすぐ近くまで迫っておったからの。あの子の目は真剣じゃった」
「……兄じゃらしいのう」
桃子が笑うと、婆やも同調した。
「そうじゃな」
しばらく、桃太郎が生きていた頃の楽しい思い出を婆やと共有し、やがて、そっと胸にしまった。
婆やは何かを決したように桃子を見つめてきた。
「あの子はのう、最後に言っておった。やらなければならないことがある、と。もしかすれば予期していたのかもしれん。鬼が再び現れることをな。わしが鬼切丸を側に置いておいたのは、それが一番の理由じゃ」
「兄じゃが……やり残したこと?」
「わしはお前に鬼を倒せとはいわんよ。ただ一つだけ、これだけは約束してくれ。必ず、元気な姿で帰ってくると。なんならいい機会じゃから良い人を見つけて持ち帰れ?」
「んなっ、わっち、そんなつもりない!」
髪も切ってしまったし、と目をそらすと、婆やは桃子に手を伸ばしてきた。応えて、桃子は婆やの手が届くところまで、顔を寄せた。婆やの手が桃子の短髪に、次いで頬に優しく触れる。
「こんなにも美しい子、そうおらんよ」
微笑む婆やに、桃子はぎゅうと抱き着いた。
外は夜風が気持ちよかった。
星を仰いで一つ息をつく。
直垂の裾をまくりあげ、右腕をあらわにした。
「――ふぬ!!!」
めきめきと力を込めると筋肉繊維がはちきれんばかりに盛り、血管が浮かび上がった。
しゅーと皮膚の水分が蒸気するのは、体温が100度を優に超えるからだ。殿方が見れば絶句してドン引きするだろう猛る二の腕を、桃子は一瞥した。
努めておなごであろうと封印していたコレが、まだ自分の中で健在することを確認してほっとする。
桃の形をした心臓から生まれる成分【桃の血】が全身を巡ると、桃子は人間のおなごではなくなる。
瞳に黄金色を宿せば、視界は異常に利きがよくなった。
遠くかなたを見据えたらば直後、
疾風をまき、放たれた弓矢のごとき速度で、桃子は走り出した。