20話
『白鬼、その娘はもう仕舞だ。喰うのは後回しにしろ、今はほかに厄介な怒気を感ずる』
「……怒気だと」
白鬼は、気配を探るようにあたりを見回し、龍の背から下界に眼を向けた。
白絨毯の雲海が広がるばかりで、その下がどうなっているかなど皆目わからない。
「鳥でもあるまい。こんな雲上へ登ってこれるわけが、」
そこまで言って白鬼が何か思案ぎみに黙りこんだが、やがて納得げにささやいた。
「そうか。わらわに敵為す輩が、まだいたな」
『気を抜くな。奴らは一度【鬼を倒している】のだからな』
「気に障ることをいちいち思い出させる」
白鬼は爪の折れた手からジワリあふれる血を自らすすった。
桃子は意識の遠のいていく中で、その会話を聞いていた。
何かが、やってくる。
それは桃子自身、空へ上がる前から漠然と感じていた気配だった。
龍と鬼、途方もない力を名実ともに持する両者が、結託したにも関わらずなお警戒しなければならない相手など、この世にそうはいまい。
まして【鬼を倒している】存在と聞けば、桃子には、もう彼ら以外に思い浮かばなかった。
――来てくれる。兄とともに死線を潜った彼らなら、きっと。
直接に会ったことはない。だが、方々より話は聞いてきた。
その都度、桃子の兄への憧憬はいや増したものだった。
なにせ彼ら――三鳥獣らは、兄の存在が霞んでしまうほどの、奇妙かつ大胆な印象を、桃子や世の多くの人々に与えてきたのだ。そんな彼らを、まして率いて戦ったというのだから、桃太郎の器は一層と度し難く思えてくる。
それぞれが妖雉、怪猿、奇犬の異名を持つ三鳥獣は、一方で、その存在自体が幻ではないかと揶揄されるほど不確かだ。あまりに醜い姿から、元来人間に疫病の曰くを付けられ、忌み嫌われて姿を現さなくなったとも言われている。
だが桃子は信じていた。彼らは今もどこかに居る。鬼の再来に応じて、再び、立ち上がってくれる。きっとこの大空を、かの空を駆け巡ったキジが、威風も堂々と飛んできてくれるはずだ。
桃子は、ずるずると這い、勇ましい姿を探して、龍の背から下界を見下ろそうとした。
だがそれよりも速く、白鬼が鋭く「うえ」を仰いだ。
「――忌々しいサルめ、わらわを見下ろして来るか!」
白鬼のけたたましい怒号を聞いて、つられて桃子も陽の煌めく空を見上げた。
サル!?
桃子は、わが目を疑った。
サルと聞いて、素直にそうと認識するには、ひどく抵抗感があったからだ。なにせ空から、うごめく毛むくじゃらの巨塊が落ちてくる。急降下でみるみる近づいてくるにつれて、増して、それはサルなどではなかった。
あまりに、大きすぎる。
龍が途端に退避行動を取ろうとするも、豪速で落ちてきた毛の塊が、いかばかりか速かった。
グオオオォォォ――――!
巨大な体躯から、両の手足が広げられた。
これもかなり太いはずの龍の胴を、それでも掴めそうなほど大きな獣だった。怒髪が天を衝くように、全身の体毛が逆立っている。口に収まらない野太い牙がはみ出し、シワの付いた鼻からはごふうぅと息が漏れた。龍とまではいかずとも、あんな口に噛まれたら、ニンゲンなど木端微塵だろう。
龍にぶつからんとする刹那、大サルは拳どうしをつかみ合わせ、大槌を振り下ろすように、龍に叩きつけた。その茫漠たる破壊力だけで、すべてに方が着いたように思えた。
龍の長躯がど真ん中から逆三角に折れ曲がり、乗っていた桃子と白鬼は盛大に弾き飛ばされた。
意識の薄らぐ中で、桃子が最後に見たのは、同じく自由落下する白鬼だった。
落ちているというのに、まるで焦るそぶりなく、白鬼は宙空で桃子に近寄ってきた。
その手をのばし、朦朧とする桃子の顔を包みこむと、両の眼をぐいとのぞき込んできた。
「お前がもし、地上へ降りても死なず、なお鬼へ歯向かう意志を保つのなら、わらわが何者であるかを探れ。わらわが一体何をしてきたかを知らぬうちは、到底、お前はわらわを超えられぬ。人間の内に潜む闇こそが、真の鬼だと知るがいい」
お前をここで消さないのは、わらわの気まぐれだ――。
そう告げる白鬼の、その黒い瞳に宿る、憂いの深みを見て、桃子の意識は完全に途絶えてしまった。
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桃太郎が、巨大なイノシシと対峙している。
その背姿を、桃子は後ろから見ていた。
風はあったか無かったか。よく覚えていない。けれど、燃え盛るような何かが、上へ上へと、わなわな立ち上っていくのを見たような気がする。
血気鋭い野生の獣は、今にも飛び掛かってきそうなのに、いくら経っても動こうとしなかった。
ぶふぅ! と圧のすごい荒息を漏らすのだが、まるで見えない壁がそこに在り、それ以上はどうしても近づけないようだった。やがて、イノシシはのしのし尾っぽをこちらへ向け、深い森の中へと帰っていった。




