19話
しとどに血の滴る音がした。
このまま力の根源――桃の血が流れ続ければ、勝機は瞬く間に失われてしまうだろう。
まだ勝負を諦めていなかった桃子は「一刻を争う」と直感した。
血の混じる唾をのみ、歯を食いしばり、ドクン、ドクンと桃の血をたぎらせていく。再び全身の熱気が高まり、動体視力が鋭敏化する。
決死の覚悟を決めた桃子とは反対に、白鬼は遊んでいるように余裕だった。
「力めば血が溢れ、それだけ早く死が近づくぞ。わらわの腕にお前のたぎる血潮がみるみる伝ってくる。これでまだ観念しないのだから大したものだ。殊勝と褒めてやろう。しかし、その血これから用いたとして、まともに鬼に通ずるのか? 分かっているはずだ。わらわとの力の差を」
「だま、れ……」
「わらわは黙らない。これから先、永遠に黙するようになるのは桃子、お前の方だ」
白鬼はぐぐと爪を持ち上げた。
「ぐ、ああっ」
壮絶な痛みが、桃子の思考を弾けさせる。視界には幾つもの光筋がほとばしった。
涙のにじむ先に、かつては大きな背をもって桃子を護り抜いてくれた、兄の背姿が浮かぶ。
あの人はやり遂げてくれた。
だから努力すれば自分も必ず果たせるものだと、確証もないのに、運命づけられていると思っていた。だが、どうだ。手も足も及ばない強敵が、今、桃子の目前に頑として立ちふさがっている。ここで敵わなければ、その先にあるのは、例外なく死だ。たとえ兄・桃太郎であっても、旅の道中、最悪の結末への恐れは常に付きまとっていたはずだ。
そんな当たり前のことを、桃子は勝てると立てた信念の影に、我知らず追いやっていた。自分を不安にさせるもしものリスクを、深奥では受け止めていなかったのだ。
ここにきてようやく、桃子は「鬼と対峙」することの恐怖や困難さを身をもって知った。
だからこそ、命を含め己がすべてを出し切らなければ未来はあり得ないと、確と改心することができたのかもしれない。
ゴキィッ!
白鬼の爪が根元から折れるのと、
ブシュウ!
桃子の腹と口から勢いよく血が噴きだしたのは同時だった。
爪に貫かれたままの桃子が、身を回したのだ。
勢いで爪を弾き割ったが、激しく圧迫された内臓のダメージは、それをはるかに上回っただろう。鬼の爪から解放された(といっても刺さったまま)桃子は龍の背に落ち、全身が急激に冷めていくのを感じた。
「ぐふ、」と痛みに声を漏らしながら、腹の爪を引っこ抜いて、あっちへ放つ。
途端、塞ぐもののなくなった腹部から勢いよく血があふれた。
熱気がジュウと立ち上り、空の風に押しやられていく。
宝桃は、食べた人間に様々な効能をもたらすが、そのうちの一つに回復力がある。たいていの病や傷はすぐに治ってしまうが、かといって出来た貫通傷がすぐそばから塞がるほどではない。失った血量も痛みもすでに度を越していた桃子は、瞬間的に意識を失いかけた。ふらりと足が揺らぎ、ともすればそのまま天に召しかねなかった自我を、持ち前の精神力だけを頼りにつなぎ止め、ぐぐと踏ん張る。
ここで眠りこけるわけにいかない。まだ仕事が残っているのだ。
桃子は吸い込むのもやっとな息を、最後とばかりに盛大に吸引した。頬一杯にしてせき止め、全精魂を込めて力む。狙うは、白鬼ではない。盛大に振りかぶった小太刀を、足元の龍、そのウロコとウロコの隙間へ、思いきり突き立てた。そのまま刃を、今度は全力で薙ぎきる。
しかし、桃子の期待とは裏腹に、大半を龍の硬い背肉中に残したまま、途中で刀身が折れてしまう。窮地にあってさらに虚を突かれた桃子は、著しく戦意を削がれ、もともと限界域にあった体力が悲鳴を上げた。
もはや武器としては使い物にならない小太刀を手にしたまま、膝ががくりと崩れる。
うすらうすらぼやける意識の中で、白鬼の足音が次第に近づいてきた。
「龍を斬ることで、わらわを諸共、地面へ叩き落とす算段だったのか。浅知恵も甚だしい。たとえ成功したとしても、そんな安直なことで、わらわは倒せない」
桃子はかすかに首を横に振った。
「……おぬしを、地面へ返そうとしたのは、……約束だからじゃ。会いたがっている仲間が、……いる」
「下の者に、わらわを倒してもらおうと? それもまた望み薄だ。わらわは誰にも止められない。それに、もう地面に返す力は、その体には残っていないであろう」
カラン……。
力が抜けて、小太刀がするりと手から落ちた。
血まみれの桃子の体に、大気が吹きつけていく。ぱりぱりに固まった血から、もう熱気は昇らない。か細い息を続けるのがやっとだった。
虫の息の桃子の顔を、白鬼はのぞき込んできた。
「潔くわらわの糧となるか。大したことにはならんだろうが、せいぜい足掻いてみるか」
桃子の頬にふれ、その血を指に付けると、白鬼はぺろりと口に含んだ。
すると、形相を悪くしてプッとすぐに吐き出した。
「……なんだこの味は。宝桃の食者というのは、こんなにも胸糞悪い風味なのか。食えたものでない」
やれやれと、白鬼が興ざめの感を呈した折、図太い龍の声が轟いた。




