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桃姫伝  作者: 立花豊実
19/25

19話

 しとどに血の滴る音がした。

 このまま力の根源――桃の血が流れ続ければ、勝機は瞬く間に失われてしまうだろう。

 まだ勝負を諦めていなかった桃子は「一刻を争う」と直感した。

 血の混じる唾をのみ、歯を食いしばり、ドクン、ドクンと桃の血をたぎらせていく。再び全身の熱気が高まり、動体視力が鋭敏化する。

 決死の覚悟を決めた桃子とは反対に、白鬼は遊んでいるように余裕だった。

「力めば血が溢れ、それだけ早く死が近づくぞ。わらわの腕にお前のたぎる血潮がみるみる伝ってくる。これでまだ観念しないのだから大したものだ。殊勝と褒めてやろう。しかし、その血これから用いたとして、まともに鬼に通ずるのか? 分かっているはずだ。わらわとの力の差を」

「だま、れ……」

「わらわは黙らない。これから先、永遠に黙するようになるのは桃子、お前の方だ」

 白鬼はぐぐと爪を持ち上げた。

「ぐ、ああっ」

 壮絶な痛みが、桃子の思考を弾けさせる。視界には幾つもの光筋がほとばしった。

 涙のにじむ先に、かつては大きな背をもって桃子を護り抜いてくれた、兄の背姿が浮かぶ。

 あの人はやり遂げてくれた。

 だから努力すれば自分も必ず果たせるものだと、確証もないのに、運命づけられていると思っていた。だが、どうだ。手も足も及ばない強敵が、今、桃子の目前に頑として立ちふさがっている。ここで敵わなければ、その先にあるのは、例外なく死だ。たとえ兄・桃太郎であっても、旅の道中、最悪の結末への恐れは常に付きまとっていたはずだ。

 そんな当たり前のことを、桃子は勝てると立てた信念の影に、我知らず追いやっていた。自分を不安にさせるもしものリスクを、深奥では受け止めていなかったのだ。

 ここにきてようやく、桃子は「鬼と対峙」することの恐怖や困難さを身をもって知った。

 だからこそ、命を含め己がすべてを出し切らなければ未来はあり得ないと、確と改心することができたのかもしれない。


 ゴキィッ! 


 白鬼の爪が根元から折れるのと、


 ブシュウ! 


 桃子の腹と口から勢いよく血が噴きだしたのは同時だった。

 爪に貫かれたままの桃子が、身を回したのだ。

 勢いで爪を弾き割ったが、激しく圧迫された内臓のダメージは、それをはるかに上回っただろう。鬼の爪から解放された(といっても刺さったまま)桃子は龍の背に落ち、全身が急激に冷めていくのを感じた。

「ぐふ、」と痛みに声を漏らしながら、腹の爪を引っこ抜いて、あっちへ放つ。

 途端、塞ぐもののなくなった腹部から勢いよく血があふれた。

 熱気がジュウと立ち上り、空の風に押しやられていく。

 宝桃は、食べた人間に様々な効能をもたらすが、そのうちの一つに回復力がある。たいていの病や傷はすぐに治ってしまうが、かといって出来た貫通傷がすぐそばから塞がるほどではない。失った血量も痛みもすでに度を越していた桃子は、瞬間的に意識を失いかけた。ふらりと足が揺らぎ、ともすればそのまま天に召しかねなかった自我を、持ち前の精神力だけを頼りにつなぎ止め、ぐぐと踏ん張る。

 ここで眠りこけるわけにいかない。まだ仕事が残っているのだ。

 桃子は吸い込むのもやっとな息を、最後とばかりに盛大に吸引した。頬一杯にしてせき止め、全精魂を込めて力む。狙うは、白鬼ではない。盛大に振りかぶった小太刀を、足元の龍、そのウロコとウロコの隙間へ、思いきり突き立てた。そのまま刃を、今度は全力で薙ぎきる。

 しかし、桃子の期待とは裏腹に、大半を龍の硬い背肉中に残したまま、途中で刀身が折れてしまう。窮地にあってさらに虚を突かれた桃子は、著しく戦意を削がれ、もともと限界域にあった体力が悲鳴を上げた。

 もはや武器としては使い物にならない小太刀を手にしたまま、膝ががくりと崩れる。

 うすらうすらぼやける意識の中で、白鬼の足音が次第に近づいてきた。

「龍を斬ることで、わらわを諸共、地面へ叩き落とす算段だったのか。浅知恵も甚だしい。たとえ成功したとしても、そんな安直なことで、わらわは倒せない」

 桃子はかすかに首を横に振った。

「……おぬしを、地面へ返そうとしたのは、……約束だからじゃ。会いたがっている仲間が、……いる」

「下の者に、わらわを倒してもらおうと? それもまた望み薄だ。わらわは誰にも止められない。それに、もう地面に返す力は、その体には残っていないであろう」


 カラン……。

 力が抜けて、小太刀がするりと手から落ちた。

 血まみれの桃子の体に、大気が吹きつけていく。ぱりぱりに固まった血から、もう熱気は昇らない。か細い息を続けるのがやっとだった。

 虫の息の桃子の顔を、白鬼はのぞき込んできた。

「潔くわらわの糧となるか。大したことにはならんだろうが、せいぜい足掻いてみるか」

 桃子の頬にふれ、その血を指に付けると、白鬼はぺろりと口に含んだ。

 すると、形相を悪くしてプッとすぐに吐き出した。

「……なんだこの味は。宝桃の食者というのは、こんなにも胸糞悪い風味なのか。食えたものでない」

 やれやれと、白鬼が興ざめの感を呈した折、図太い龍の声が轟いた。

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