監禁、三千六百四十日目
何故、少女が男を監禁したのか。どうして男は白い箱に入れられたのか。
そして、その二人の未来。
白い箱の中で(番外編
物心ついた頃から、結は大人びていた。
赤子の時からあまり泣かず、好き嫌いも夜泣きもせず、母親の手を煩わせずすくすくと育った。
這うことと歩き出す過程は平均だったが、言葉を発して話し出すのは他のどの乳幼児よりも早かった。
幼稚園に上がる前から、結はまだ自分が幼い子どもであることを、充分過ぎるほどに熟知していた。
大人に甘えれば多少の我儘も受け入れられる。媚びれば可愛がられ愛情を注がれる。それを理解し、実行していた。
大人に近い頭脳を持ちながらも、結は愛らしい無垢な【子ども】を演じていた。
それに加え、母親の綺麗な容姿と、見たこともない父親から受け継いだ愛嬌をフルに活用した。
それ故に、結は幼稚園でどの同級生よりも先生に可愛がられた。同級生の母親すらも虜にするほどだった。
結ばかりが大人に可愛がられると疎む子どもがいれば、おやつや玩具を与えて、自分の味方に付けた。可愛い結に嫉妬して虐めようとする女の子がいれば、男の子を使って逆に返り討ちにした。
そうしていくうちに、結は同級生にも男女問わず人気者となっていた。違う言葉で表せば、小さな姿をした大きな支配者となっていた。
家では、結の身の振り方はまた変わる。
母親の前だけでは少しだけ大人である自分を見せていた。無邪気な笑みも見せるが、頭の良い会話をする。自分でできることは自分でし、できないことはきちんと頼む。無邪気な顔と大人の顔を使い分けることができたのだ。年齢にしては、大人びすぎていた。
そんな結を、母親は恐れるどころか面倒臭くないと喜んだ。いい子だ、これからもそうしなさいと褒めた。そこから結はますます大人びていった。
そんな母親、美代は、毎日男と交わっていた。
美代は完璧な身体と美貌を持っていた。男を惑わすフェロモンもあり、口も上手い。男は簡単に美代の言いなりになった。
性行為。
それが日常であり、生きる手段だと豪語する美代は、結に行為を隠そうともしなかった。
結が同じ部屋に居ようがお構いなし。男に求められれば、自分が欲しくなれば、美代は軽々しく股を開き、高い喘ぎを上げた。
一般的には異様な光景かもしれないが、産まれた時からそのような状況下にいた結にとっては普通のことだった。排泄をする、食事をするといった日常的行為なのだと、結は思っていた。部屋から出ていく。外に聞かれないようにテレビの音量を上げるなどの気配りも忘れなかった。
知識のない結に、男女の関係ははっきりとは分からなかった。しかし、その行為により男は母親に媚び諂う。金が入り生活は豊かになる。そう解釈できていた。
子どもらしくない結には、親に甘やかして欲しい、愛して欲しいという欲求が欠けていた。
勿論、母親は大切な存在ではあった。しかし、それは自分を産み、食事や身の回りの世話をしてくれる金と男を作ってきてくれることかからの感謝だ。
話にも出てこない父親には、会いたいとも思わなかった。可愛いと言ってくれる先生も他の大人も、恋心を寄せてくる男子にも、何の感情も抱けなかった。
普通にあるはずの感情が、欠落していたのだ。
それだけではなく、結には物欲もなかった。玩具や洋服を自分から欲することはない。だが、与えられる物は甘んじて貰い受ける。一度は気に入っても、独占欲がないためすぐに飽きてしまう。そして捨てる。
馬鹿な大人を喜ばすために、時折可愛い我が儘を言い、欲しくもない物を強請ることはしょっちゅうあった。しかし、物が部屋に溜まっていくことは、なかった。
結は子どもだが、子どもではなかった。子どもの心を持たぬまま、心だけが大人になっていた。
結は自分の本質を隠したまま、小学校へと入学した。
小学生になっても、やはり先生からは誰よりも可愛がられた。同級生や上級生への配慮を忘れないようにすれば、周りはすぐに味方だけとなった。
物覚えもよく、教えられたことは一度で覚えられた。だが、騒がれるほどの知能を曝け出すことはせず、教師たちが「すごいね」「えらいね」を繰り返す程度の学力を保っていた。
簡単な授業、幼稚なクラスメート。幼稚園に比べて拘束される時間が長い文、学校生活は一ヶ月もしないうちに退屈なものとなっていた。
学校など行かなくていいという母親の言葉で不登校になりかけた、そんな時だった。
見つけたのだ。結が、初めて興味を持つことができた人間を。
毎朝、七時五分から十分の間に少女の家の前を通る一人の男。新しいはずにも関わらずくたびれたように見える黒のスーツ。地味な色の柄のないネクタイ。黒いが、光が当たれば少し茶色を見せる短い髪。特別整っている訳でもなく、だからといって決して崩れてはいない、容姿。
目立つ所などない。どちらかと言えば目立たず周囲に溶けこんでしまうような、そんな男だった。
だが、結の瞳に男は違って映った。
頭のいい同級生よりも、赤のスーツの似合う目立つ男よりも、結は苦労を滲ませる男ばかりに目がいった。
結は男の周りに漂っている、見えない空気に惹かれた。毎日疲れた顔をして出勤し、疲れた顔で帰ってくる。そんな男から目を離せなかった。
毎朝早起きをして男を見ることが、いつしか結の日課となっていた。
帰りの不定期な夜に男を見ることができれば結の心は踊った。朝から男の新しい仕草を見ることが出来れば、その日は一日楽しく過ごすことができた。
男のことを考えている時だけは、結は【大人】から【女】になった。
光に当たれば少しだけ茶色に見える髪。頚椎に沿ってある、二つの黒子。幅のなさそうな小さな耳朶に、薄い唇。
下を向いて歩くことが多い。眉毛が右と左で少し形が違う。よくパンを銜えて走っている。他にも色々、結は男のことを知っていった。一ヶ月、二ヶ月と毎日見ていれば、知らないことなどなくなっていった。
しかし、だんだんと、見ているだけでは抑えられなくなっていった。
触れたい。声が聞きたい。話をしたい。自分だけのものにしたい。
結は初めて、求めるという欲求を知ったのだ。
ある日の朝。仕事から帰ってきたばかりの美代に、結は結こう言った。
「欲しいものがあるの」
初めて物を欲しがった娘に美代は驚いた。だが、美代も娘を愛していないわけではない。買えるものなら何でもかってあげる、金はあるから何でも言ってと結を抱きしめた。
嬉しさに、結は顔を綻ばせた。その笑顔はいままで浮かべたことのないような、子どもらしい可愛い微笑みだった。
「あの人がね、ほしいの」
母親の腕を引き、結は窓の外のまだ名前も知らない男を指差した。
結は男のことを話した。自分がどれだけ男のことが気になるか、男のことをどれだけ観察したか。どれだけ、欲しているかを。
母親はその話を聞き、一つ返事で承諾した。まるでお菓子を勝手と言われて頷くように、軽く男を結に与える約束を取り付けた。
そして次の日。約束通り、男は結の元に連れてこられた。
酒でべろんべろんに酔っ払っていた男を眠らせ、連れてくることなど、母親の男たちには朝飯前のことだった。
母親のバックにはホストやヒモのような優男たちだけでなく、龍の刺青を掘り、拳銃を所持するような危ない男達が付いている。世間や警察に騒がれたとしても、もみ消せる力すら持つ男もいた。
事件になろうと犯罪だろうと、どちらにしろ、結は子どもだ。子どもを振る舞っていれば、何をしても被害者となれる。
そこまで計算をして、結は人間一人を手に入れた。
「結」
名前を呼ばれ、結は目を覚ます。
目を開ければ白の天井。そして夢ではなく、現実で手に入れた愛しの男の姿が映った。
「シロ」
不安そうに歪んでいた黒の瞳が、結の瞳が開いたことで嬉しそうに細くなる。
「おはよ」
結が言葉を出せば、その顔はさらに輝いた。シロは立派な大人だが、その笑顔だけ見ていれば幼い子どものようだ。
心地のよい目覚めに結は大きく背伸びをする。床に敷いた布団は昨日干されたばかりで、まだ太陽の香りがした。
「お腹空いたの?」
身体を起こさないまま、結は真上にある男の頬に手を添える。うっすらと、顎には髭が生えていた。通の男よりは薄目であるそれを剃るのは、小学校三年生になってからは結の日課となっている。
「違うよ」
「じゃあ、どうしたの。起こすなんて珍しいね」
「……それは」
叱った訳ではないのに、シロは落ち込んだように俯いてしまった。だが、下にいる結にシロの顔が見えなくなることはない。
先ほどの喜びは萎んでしまっていた。言おうか言うまいかと、口をもごもごと動かしている。
「シロ」
だが、結が名前を呼べば、シロから迷いは消えた。結の臨むことをシロが逆らうことは絶対にない。
「寂し、かったから」
その言葉で結は思い出す。シロがこんな表情をする原因を作ったのは、結自身だと。
昨日の夜のことだ。単なる意地悪心で、おやすみの挨拶なしに先に毛布に潜り込んだ。いつもならば、おやすみと言って一緒の布団に入り、眠る。その日常を覆すとシロはどういう反応を取るかと、思いつきの実験だった。
初めは、寝たフリをしてシロがどんな反応をするか伺うつもりだった。しかし、暖かさに蝕まれ、結は欲に逆らうことなく眠ってしまった。
そして睡眠を貪っている間に、今の今までそのことをすっかりと忘れてしまっていたのだ。
「何か、悪いことをしたかと思って、謝らないとって……」
先に寝た。たったそれだけのことが、シロにとっては一大事となる。
シロの生活は全て結中心で回っている。食事でも着替えでも、結がいいというまでシロがそれを行うことはない。
そう、結が仕込んだ。
どこまでやればいいか、どこまでなら大丈夫か。狂わせず、男の意思で従わせることができるか。長い年月を掛けて、飴と鞭を使い分けて。どん底へと突き落とし、蜜のように甘い飴を舐めさせてはまた奈落へと突き落として。
そうして。
「ごめん、なさい」
シロはすっかり、結の思うままの人間に育っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさ、い……」
目にいっぱいの涙を溜め、鼻を啜る。眠れなかったのか眠らなかったのか、目の下には少しだけ隈がある。白目にも充血が見えた。
結が黙っていれば、その後も謝罪は続けられた。大人の顔が、泣き顔に変わっていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「謝らないで。違うよ。眠かったから、先に寝ちゃっただけ」
少しばかり反省しながら、結はしゃくり上げるシロを安心させるように髪を梳く。ここまで弱らせるつもりはなかったのだ。
今日は。
「っ、本当、に?」
「うん、ほんと」
頭だけではなく額、耳、首、胸も撫でてやる。初めは不安そうな瞳で結を見つめていたシロだったが、
「好きよ」
愛を囁けばそれだけで、シロは何よりも幸せそうに微笑んだ。
「よかった……結に嫌われたら、もう……」
もう、シロには結しかいない。それを表すかのように、シロは結の手に頬を摺り寄せる。それはまるで、主人に気に入られようとする犬そのものだった。
幸いなことに男は哀れな人間だった。引っ越し、退社の手続き。その他少しの裏工作をすれば、すぐに世間から存在を抹消されてしまった。
それがまた、結の恋心を掻き立てた。
シロが哀れであればあるほど結は惹かれていった。泣けば鳴くほど、その声を自分だけのものにしたいと思った。シロから求めてこられれば、もう手放せなくなった。
これが恋だと自覚し、そして異常な愛情であるとも熟知していた。
それでも結はシロのおかげで初めて、人間らしい感情を手に入れたのだ。
「よしよし」
結の気を引こうと、シロは必死に舌を使い、白く細い指を舐め始めていた。結はその好意を楽しげに眺める。
満足そうに細めた瞳には、もう子どもらしさなどない。
「あ、そうだ」
昨日の夜、何故シロを試そうとしたのかを思い出し、結は身体を起こす。
「ちょっと待ってて」
口の中に収まっていた指を抜き、上半身を起き上がらせた勢いを借りて立ち上がる。名残惜しそうに、舌は元ある場所へとしまわれた。
きゅうんとシロの喉が鳴る。結に行かないでと、一緒に連れて行ってと訴えている。それでも結の「待て」と言う言葉で、シロは動くことが出来ない。犬の待てと同じ姿勢で、妄想で見えてしまう尻尾を垂れ下げている。
指がふやけるまで舐める様子を見ているのも一興だが、今日はそれよりも大事な予定があった。
背中に焼け焦げてしまいそうな視線を浴びながら、結はピンクのネグリジェの裾の揺れを見せつけるようにゆっくりと歩く。
白い部屋には相変わらず箱以外は何もない。持ってきても、この部屋にだけは物を置いていかないようにしているおかげなのだが。
一色しかない部屋は、より結という存在を際立たせてくれる。シロの視線を他の物に向けたくないという思いが篭められたこの部屋は、上手く機能を果たしていた。
掃除がしやすくていいが汚れが目立っていけないと、掃除係りの男が言っていた。 最近は見ない男の顔がどんなものかと考えているうちに、目的の物の前へと付いた。
白い包装紙に包まれている大きな荷物。昨日、結が準備しておいシロへのプレゼントだ。
柄も色もないそれは空間の中に溶け込んでしまっていた。つま先で蹴らなければ見つけることが出来なかったほどだ。
「みーっけ」
皺が寄らないように白の塊を掴み、結はくるりと身体の向きを変える。歩きながら薄い紙を剥がしていけば、中からは真新しいスーツが現れた。
「はい。お着替えしようね」
まだ重みのあるそれを静かに床に置き、取り出したスーツをシロの目の前に翳す。シロはスーツよりも戻ってきた結を見て、嬉しそうにこくこくと頷いた。
「はい、バンザイして」
着る前にまずは脱がせようと、結はスーツを腕にかける。そして腕を上げたシロから、パジャマであるスーツを脱がせ始めた。
パジャマ用のスーツにはボタンがない。上着とスラックスはすぐに脱がすことができる。シャツにはボタンがあるが、四つ留められているだけなので、するりと身体から剥がれていく。
結がシロの着替えをさせるようになった当初は、よく母の男たちに手伝ってもらっていた。だが、今では結一人で脱がすところから着せるところまで完璧に出来るようになっている。
「ねぇシロ。今日が何の日か知ってる?」
シロの腕にラメ入りのシャツを通しながら、結は数日前から言いたくてうずうずしていた言葉を吐き出した。
シロは分からないと言うように首を傾げる。結が黙って待てば「分からない」と、申し訳なさそうに答えた。
「今日はシロと私の、十回目の記念日なのよ」
分らないのは当然だと、結は心の中で呟きながら最後の金の釦を嵌めた。
監禁、三千六百四十日目。
今日は、シロがこの部屋で暮らし始めてから丁度十年目となる日。結がシロを我物にした日。シロが知るはずもない記念日だった。
「十回目?」
「そう、十回目」
分かるはずのない記念日を思い出そうと、シロはうんうん唸り始める。そんな真剣なシロを見つめつつ、結は着替えを再開させた。
シャツの衿のよれを直しながら、結の視線は悩むシロの頬にいく。
肌艶がいい。細かいシミはレーザーで消し、日々のマッサージのおかげで法令線も薄い。吹き出物などはしばらく見ていない。
シロは歳を取った。
だが、いい食事を与え、充分な睡眠にストレスを与えても解消させてやることで、とても四捨五入をすれば四十歳には見えない容姿となっていた。拾ってきた時よりも若くすら見える。
適度に運動させ、体力も付いてきた。少し悪かった視力も矯正し、眼鏡がなくとも新聞の字を読めるようにさせた。
全てを、出会ったときよりも良くした。結の好みに変えていった。
「ね。久しぶりにお馬さんごっこでもしよっか」
きゅっとネクタイを結び終えれば着替えは完了した。結はシロから手を離し、一歩、二歩と後ろへ下がっていく。
「ほら、おいで」
下がり続けながら、結は腕を上げた。真っ直ぐに伸された手を求めて、シロは両手を上げて歩き始める。ネクタイを結びやすいようにと体制を変えた立ち膝のまま。
「四つん這いになって」
結が言い終える前に、宙をさ迷わせていた腕が落ち、床に付く。すぐに結の望んだ形は出来上がった。
「お馬さんごっこしたい?」
「したい」
わざと聞けば、答えはきちんと返ってきた。喉を鳴らして結を見上げているシロの姿をしばらく堪能してから、結はとっとと跳ねてシロの上に乗った。
ほぼ垂直になっていた背が結の体重でしなる。平均よりは軽い結の体重だが、もう人の背に軽々飛び乗ってよい重量ではなくなっていた。
結の身体も成長した。
母親譲りのおかげで、同級生の誰にも負けない豊満な胸。腰は括れ、足には女らしい肉が付いた。
身体だけでない。子どもの影を残しつつ、可愛らしさと色気を交えた面持ち。細くなった顎のライン、リップで手入れしている唇も、ネイルされた爪も。
全てが大人の女に近づいている。
「重い?」
結がシロの上でわざと弾んでも、首は横にしか振られない。シロは馬というよりもはしゃぐ犬のごとく、部屋を走り回っている。
シロの息が上がっていく。それは、走っているせいだけではない。
「いい子」
数日前、綺麗に染めてあげたばかりの黒髪を撫でる。数本あった白髪は、もう一本も見当たらない。
歩幅に合わせて揺れれば、天使の輪が切れ、そしてまた繋がった。
「今日はね、私の誕生日でもあるの」
スピードが落ち始めたシロから押し付けていた胸を離し、結は細い背中から降りる。
「十六歳になったんだよ」
驚いて止まったシロと視線を合わせたまま、一度は置いた包装紙の中に手を突っ込む。掴めば、まだ膨らみのあった中から一枚の紙と白い衣服が飛び出した。
「似合う?」
結は胸の前に服を当て、一回転。床に擦るほど長いスカートが優雅に靡く。
誕生日という発言にも、煌びやかな服にも驚いたシロは、言葉を失っていた。だが、結がもう一度同じ言葉を吐けば、はっとしたように口を開ける。
「似合う……凄く。おめでとう、結」
「ありがとう」
「でも、ごめん……俺、プレゼント……」
誕生日は喜ばしいことだ。しかし、そんな大事な日を知らず、プレゼント一つ用意せずに迎えてしまったことに、シロは消沈していた。先ほどよりも更に沈んでいた。
今日二度目となるその表情は、結が予測していたものだ。
家から出ない、出られない、金も持っていないシロが、プレゼントを用意出来るはずがない。
しかし、前もって誕生日の話を出せば、シロはプレゼントを用意したがるに決まっている。家の中にあるものは全て結のものだからと、プレゼントのために家を出る可能性が出てきてしまう。
なので、結はわざと言わなかった。シロが気に病むことを分かっていながら。
大切なシロを閉じ込めておくために。悲しげなシロの顔を見るために。
「俺っ、知らなくて……しらな、くって」
そんなことなど知らないシロは、馬の格好のままどうしよう、どうしようと唇を震わせる。瞬く間に瞳には涙が溜まり、睫毛に乗ってから、落ちた。
「いいよ。その代わり、お願いがあるの」
滑稽に焦るシロを可愛いと声に出して褒めてから、結は今日一番の目的である紙を差し出した。
「これに、名前書いてくれるよね」
宥めるようにビクつく背中を撫でてやりながら、ここ、と爪の長い指が空白の四角を指す。一番上の、枠から唯一はみ出している文字を見たシロの瞳から、涙が止まった。
「これ……」
瞼が裂けてしまいそうなほど見開いた双眸が、信じられないと言いたげに結を見つめる。今まで結が一度も見たことがないような感情を燈した顔だった。
シロの全てを知っているつもりでも、こうしたふとした切っ掛けに新しい発見がある。まだまだ、結が知らないシロの一部がたくさんある。結はこれからそれを、一生かけて知っていくつもりだ。
今日はそのための、記念すべき日となる。
「ペットで夫婦って、素敵だと思わない?」
冗談ではないことを証明するように結は指を右隣に滑らす。妻を示す位置に書き込まれているのは、結のフルネームだった。
白と黒の色しか持たない、しかし、人生を大きく変えてしまう、紙。
その紙は、そう。
「婚姻届、読めるよね? ママに持ってきてもらったんだ。私たち、結婚しよ」
紙の下に隠していたペンを取り出し、人差し指と中指を使ってくるりと回す。
「いや?」
「そんな訳ない!」
短い二文字が言い終えられる前にシロは立ち上がった。それから何度も、何度も何度も首を横に振ってから、笑った。
泣きながら、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「でも俺、犬なのに……こんな、いいの?」
「いいの。あたしがいいって言ってるんだから。でしょ?」
「そう、だね……嬉しい……夢、みたいだ」
「夢なんかじゃないわ。ほら、書いて。書かないと取り上げちゃおっかな」
「い、嫌だ!」
「じゃ、早く」
早くという言葉に従うように、シロはくるくると回っていたペンを受け取った。結の気が変わらないうちにと、シロは膝から床に落ちるように座った。そしてペンを落としそうになりながらもペンを拳で握り、素早くペンを走らせていく。
何粒もの涙が紙に落ち、印刷されている文字を滲ませる。結の名前もじわりと揺れる。しかし、結が怒ることはなかった。
「結、これでいい?」
久々に持ったペンに苦戦しながらも、シロは自分の名前を書き終えた。
夫を示す場所に書かれた名前は、シロ。名字もなく漢字でもない。ただカタカナで『シロ』と書かれていた。
住所や生年月日は書き込まれていない。父母の氏名も、証人の名前もない。
しかし、元々名前以外は求めていなかった。どうせ役場へ提出などしないのだ。シロの意思さえあれば、この紙は成立してしまう。
「うん。オッケー」
大切な書類を、まるでティッシュでも貰ったかのように受け取る。
宝となる紙だが、完成することは結の中で当然だった。紙が破れても紛失したとしても、作り直せばいい。
紙の意味は、シロに結婚を意識させる。それだけの役割だ。
「ねぇ、シロ」
紙を見つめて幸せに浸りながら、シロの名を呼ぶ。自分の本当の名前を忘れてしまったシロが首を傾げた。
「何、結」
「あたしのこと、どう思ってる?」
「好きだよ」
いまだ涙を流しながら、シロは言う。何の迷いもなく。爪の先程の嘘もなく。口角を上げる口は、結を好きだという。
シロが結の望む言葉を心から言うようになったのは、監禁二年目のことだった。
監禁三年目には、漢字の書き方を忘れてしまった。監禁五年目には自分の名前を忘れてしまい、七年目で欲望を我慢するということを忘れ、九年目で人間であることをたまに忘れてしまうようになった。
そしてようやく、ここまで来た。
「私も好きよ」
腹に擦り寄ってくるシロの涙を指で弾いてやりながら、頬にキスを落とす。柔らかい肌は結と同じほどに張りがある。
「はい、これ」
ちゅ、ちゅと何度もキスをして肌の滑らかさをたっぷり興じてから、結は残りの服をシロに渡した。
「シロが着せてね」
そう言うが否や、結はするりとネグリジェを脱いだ。その下には、上下お揃いの白い下着しか身に着けていない。今日のために新調した下着だ。
面積の狭いブラジャーは溢れんばかりの膨らみを強調している。触れなくともそのたおやかさが分かるほどだ。
きゅっと引き締まった腰の括れ。パンティはシースルーで、ほぼ透けているといっても過言ではない。
たまにしか触れさせない肌を大胆に晒せば、シロの喉がごくりと、まるで大量の水でも飲んだように大きく鳴った。それに、結は笑ってしまう。
まだ、二人の関係はプラトニックだ。しかし、いつまでもお子様の恋愛をしている気は、結にはない。
後数年もしないうちに二人は大人の関係となる。結によって立てられた予予定に、狂いはない。
だが、今はまだ、焦らせ足りない。
従順なシロが切羽詰って襲い掛かってくるほど焦らしてからしか、事に及ぼうとは思わない。しかし、それを待っていては、いつまで経っても時は訪れないだろう。
頃合を見て結から仕掛ける。それが、次の楽しみだ。
「ほら、早く」
地団太を踏めば、胸がぷるんと上下する。それを目の前で見たシロは、ただでさえ赤かった頬を更に紅葉させた。
「早くしないと風邪引いちゃうわ」
「わ、かった」
小刻みに震える手が純白のドレスを握る。レースとリボン、ベールまである衣衣装をどうやって着せるものかと悩みながらも、シロは結の身体に触れる。指先が鎖骨に触れただけで、シロはどんどんと前かがみになっていった。
それでも、途方もない時間を掛けながら、厳かな白が結を包み始める。
掌すら赤くしていくシロと、綺麗なドレスをうっとりと眺め、結はこれからの未来を描く。
身体を重ね、子どもを生み、父と母となる。生れた子どもには当然愛情を注ぐが、それ以上に今まで以上に、結はシロを愛す。
例え初めは犯罪だったとしても、今は違う。卑怯な手を使って陥れたとしても、これがマインドコントロールだとしても。
シロは自分の意思でここへ留まり、結婚を同意し、喜んでいるのだ。
これはもう、犯罪ではない。
「私、綺麗?」
「ああ……凄く、綺麗だ」
てこずりながらも、ドレスの完成が見えてきた。
出ている谷間のせいで上半身はあまり変わらないように見えるが、胸より下は違う。
胸の下から丸みを帯びて広がるロングスカートは、普段出している足をすっぽりと隠している。床すら隠してしまう長さのスカートは、ふんだんのレースとスパンコールで飾り付けられている。一人では歩くのが大変そうだ。
シロが着ているタキシードとお揃いで作った、オーダーメイドのウエディングドレス。婚前祝だと、昨日の日中に母から送られたものだ。物に固執しない結だが、これも捨てることはないだろう。
母親から愛され、好きな人と結ばれて。
これ以上幸福な人間はいない。
「ね! 誓いのキス!」
着替えが終わるのを待ちきれず、結は腰にある数十個のリボンを結んでいるシロの頭にキスをした。
「これからもずっと一緒だよ、シロ」
そう言って頭を撫でれば、最後のリボンを結び終えたシロは頷いた。何度も、何度も何度も、何度も。 枯れてもおかしくないほど流した涙を目の縁に溜めて、生きた機械のように首を振り続ける。
そして、結に敬いを示すように跪いたまま、シロから結に口付けた。
触れるだけのキス。しかしそれは、シロの感情が全て詰ったキスだ。唇を合わせただけで、二人は一つになれる。
シロの瞳の中には結だけが見える。瞳だけでなく、頭の中からどの臓器の中にまで、結で満たされていることだろう。
いつまでも離されることのないキスを受けながら、結は目を閉じた。
瞼を下ろしても見える景色は白い。瞼の裏にまで白が焼き付いてしまっている。夢に見るまでに焼きついてしまった、白。これから二人は永遠、その白の世界で生きていく。
現実から離れ、非現実の小さな世界で、二人きり。
それで、幸せなのだ。
「好き」
合わせられていた唇の隙間から愛を漏らし、またキスをする。それ以上の言葉はいらない。
箱のように狭い世界で、浮世離れした真っ白な部屋で。純白の衣装に身を包んだ二人だけの結婚式が今、始まった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
監禁ものは好きですが、二次元での話で、現実でするのは良くないと思います。空想の中でだからこそ、監禁は胸躍るもの。