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監禁 日目

そして男の世界は、白と、少女のものになった。

 霞白は目を覚ました。

 真っ暗だった視界が、目を開けただけで色を一転させる。白。その色は、今では霞白を一番安心させてくれるものだった。

 目を擦り、ぼうと天井か壁かも分らない一点を見つめる。相変わらず快眠だ。柔らかい床はすっかり身体に馴染んでいる。もう一度寝てしまおうかと霞白は大きく欠伸を零した。

 結が学校や買い物に出ている時は必ずと言っていいほど、霞白は箱の中にいた。箱の蓋に鍵はかかってない。それでも、自分から白の部屋にすら出ることはない。

 どんなに空腹になっても、血を吐けるほどに喉が渇いても、風邪で吐き気を催しても。霞白は結が帰り、いいよと言うまで決して箱から出なかった。

 命令されているわけではない。そうすれば結は喜び、褒めてくれる。箱の中を酷く汚すことになったとしても、よく我慢したねと慰めてくれる。

 霞白は人間的な感情を後回しにして、痛みや苦しみと伴うとしても、結の笑顔を優先させるようになっていた。

 かさり。

 寝返りをしようとした時、乾いたような音がした。仰向けになった胸の上に視線を落とせば、そこには紙が置かれていた。

 ピンクの兎が所々に描かれているメモ帳は、結のお気に入りのものだ。その中央には水色の文字で、

『おへやでまってるね』

 と、書かれていた。

 ひらがなが真っ直ぐに並ぶ手紙一つで、霞白は起き上がる。迷いなく蓋を開け眠り眼で外へと顔を出した。

 白い部屋には結がいない。

 相も変わらず白一色の部屋。今日はおもちゃも筆記用具も片付けられ、床も白色しか見えない。壁にも、ドアの凹凸しか存在しない。

 唯一あったシュレッダーは随分と前に片付けられた。結が言うには、汚くなったので捨てられたらしい。

 新しいものを買おうかと美代が言ったが、結はいらないと言った。もう必要がないものだから、と。

 白。その空間には確実に、霞白しかいない。

 箱の影にもいないか確認してから重たい身体を持ち上げ、のそりと箱から脱する。どうやら手紙に書かれている『部屋』の場所は、ここではないらしい。

 白は安心する。しかし、それは箱の中での話だ。広くなった白の中では、質感のよい紺のスーツを着ていなければ溶けてしまいそうな感覚すらある。霞白は助けを求めるようにドアに手をかけた。

 首輪は相変わらず付いているが、鎖を付けられることはなくなった。歩ける場所の制限がなくなり、最近は家の中ならどこへでも行くことができる。

 静かにドアを開け、部屋の様子を隙間から覗く。色のある部屋には、見知らぬ男はいない。たまにいる美代の姿も今日はない。ほっと息を吐く。

 白しかない部屋から出るのは、本来は結と隣同士でないとありえない。待っていてと言われない限り、二本足や時には四足となって、結の後ろを付いて回る。

 美代や男たちは、結の見ていないところで霞白をからかうことが多い。男は人によるのだが、赤い髪やピアスの多い男の時は意地悪な言葉を雨のように浴びせられる。美代は言葉では勿論、霞白の身体の至る所を突くという幼稚な悪戯をしてくる。

 なるべくは結から離れないようにしているが、隙をついては虐められるので白の部屋から出たくないと口に出したことはあるが、結はにやりと笑うだけだった。

 結は、霞白の困る顔が好きなのだ。わざと男の前に置き去りにし、慌てふためく霞白を見て楽しむ節がある。それもまた愛情なのだと、今の霞白は理解することが出来ている。

 声がしないか、音がしないか、念入りに確認するが、いない。

 額の汗を拭ってから、霞白はドアからリビングへ出た。白の部屋にはない日光が目に刺さり、瞼を閉じてしまう。

 腕で影を作って目を庇い、前へと進んでいく。裸足の足がぺたぺたと茶色のフローリングを踏み鳴らすが、それに反応をしめしてくれる人物は出て来ない。

 机の前で止まり、カウンター越しにキッチンを見る。そこにも結の姿はない。シルバーの冷蔵庫を見れば喉の乾きを思い出したが、結を見つけることを優先させた。どうせ自分では開けられない。

 他にもトイレ、寝室、押入れまで開けて探したが、探している人物は見つからない。あと開けていない場所はと考えた霞白の視線が、自然とあるドアに向く。

 何の変哲もない木製のドア。外に出ることができる唯一のドアだ。

 外にも出ようと思えば簡単に出られる。玄関のドアは夜以外鍵を掛けられていない。日中は誰もが出入りできるようにされている。

 だが、霞白が外に出ることは、なかった。ドアから目を背け、涙を溜め始めている瞳は結だけを求める。

 昨日、明日は学校へは行かないと言っていたはずだ。結の部屋にランドセルも置いてあった。近づいていないが、玄関先には赤い靴が見えた。あのサイズは結のものだ。外には出ていない。

 時計を見れば九時少し前だった。日光で分かるように朝の九時だ。買い物に出かけるにもまだ早い。

 美代も男もいないことが、喜びではなく心配の元となっていく。

 心拍数が上がっていく。部屋の景色が暈けていく。年齢も性別も忘れて、感情に任せた表情が浮かび上がっていく。

 もし、自分だけがこの家に取り残されていたら。家ごと、自分だけが置いていかれていたら。

 捨てられたら。

「結」

 分かりやすいほど切ない声が結を呼んだ。それはもう、泣いているような声だった。

「ばあ!」

 ごそりと、どこかで動く音が聞こえた。その次には、一秒でも早く耳に入れたかった声も。

 引き寄せられるように顔が声の方へと跳ね向く。見逃さないようにと大きく開いた瞳に、ソファの裏からこちらを覗く、白い色が見えた。

「かくれんぼしてたの! でも、シロ泣いちゃから、これで終わりね」

 息すら止めて隠れていたらしく、結は苦しげだ。犬のようにはっはと呼吸をしながらソファを上り越え、てててと走り寄って来る。

「おはよ。お腹すいた?」

 いつもの調子で朝食を進めてきた声に、霞白は頷く。その振動で、目の縁に溜まっていた涙がぽろりと落ちた。丸い涙が床に叩きつけられて、歪な形となって飛び散る。裸足の結の足にも雫が掛かった。

「シロ、さみしかったの?」

 よしよしと腹を撫でられ、霞白はさらに涙を流す。肩を上下させながら二度頷き、撫でてくれる結の腕に指を寄せた。

「そっか、ごめんね」

 腰を撫でられた時点で立っている力はなくなった。霞白は結の人差し指を握り、しゃがみ込んでしまう。

「だいじょーぶ」

 結の目線の高さに近くなった頬が、スカートで拭われる。乱暴ではないが頬が擦摩擦でより熱くなっていく。

「もう、しないよ」

 そう告げる結はとても楽しげだ。

 これでもう三回目となる、霞白を試すようなかくれんぼ。本当にこれで最後だということを祈りながら、霞白は震える腕を目の前に来た結の身体に巻きつけた。

「いま、エサあげるからね」

 鼻を啜って頷き、出された結の手を取る。体重を掛けて引かれれば、抜けた腰が何とか浮いていく。それでも立つことは出来ず、床に手を付き、四つん這いとなった。

「おへや、行こ」

 まだ止まる気配の見せない霞白の涙を舌で舐め取ってから、結が歩き出した。手を繋いだまま出発した結に、霞白は片手と両膝を使って転びそうになりながらも付き従う。

 真っ白のワンピースが、歩みに合わせてひらひらと揺れる。その色をちらつかされ、早く二人きりの部屋に帰りたいという心が強くなる。

 強く叩けば折れてしまう、しかし霞白にとってはこの世の全てを掌握する手を握り直す。

 外へと、現実へと繋がっているドアに一瞥することもなく、結の背だけを見つめて、霞白は自分の居場所へと戻っていった。


 今日の朝食はサンドイッチと野菜スープだ。

 少し焼いた薄でのパンとパンの間に、生ハムとレタスと半熟の目玉焼きが挟まれている。これでもかと詰められた具財で、一口で齧りつけないほどの太さとなっている。

 透明な碗中で揺れる黄金色のスープからは、コンソメの良い香りが漂ってくる。霞白のために湯気は少なめだ。

 細かく切られた人参とセロリ、キャベツと玉葱と椎茸。その他にも見えない野菜も液体の中に溶け込んでいるだろう。

 ダイエットするのと言い出した結のために、最近は野菜がたっぷりと使われた料理が多い。

 結いは太っているわけではなく、どちらかと言えば痩せている。ダイエットを止めようとした霞白だったが、色気づいているから仕方ないと美代に止められてしまった。

 恋する女に年齢はないと教えられたが、男である霞白にはよく分からなかった。

「いただきます!」

 向かい合う結が食べ初めてから、霞白の食事も始まる。

 青い花模様がある皿も、そこに乗せられる食物も同じものだ。違うのはスプーンがあるかないかだけ。

 床に置いた皿から、結は手とスプーン、霞白は舌と唇を器用に使って食事を口に運んでいく。

「あ!」

 食べながらの、今日は何して遊ぼうかという会話はそこで途切れた。

「シロ、こぼした!」

 サンドイッチを咥えたまま、結が立ち上がりそうな勢いである箇所を指差した。指先が向けられた床は汚れていた。結の話に頷いた拍子に、舌からスープが跳ねてしまったのだ。

 汚れ一つない白の上では、半透明なスープの雫さえ目立ってしまう。結の口からもレタスの欠片が飛んだが、それはカウントされない。

 結は人間なのだから。

「しーろ」

 怒るのではなく、嗜めるような声が霞白を突く。

 言われなくとも、こういう時にどうすればいいか霞白は学習済みだ。食事を中断させ、腰を上げた。

「そうそう」

 うんうんと頷き、真ん丸な瞳は霞白の動きを見守っている。結の表情を伺いながらも、霞白は汚れた場所まで這っていく。

 箱の中なら、壁にぶつかって遠くにはいかない。だが、この部屋では首を伸ばすだけでは届かない位置を汚してしまうことがある。

 それでもきちんと対処すれば、叱られることも罰を受けることもない。

「ごめんなさい」

 落ち込んだ表情を浮かべて謝罪して、霞白は自らが零した液をぺろりと舐め取った。床に落ちた摘むことも出来ないパンの欠片も、綺麗に舌で掃除していく。

「いい子! シロはいい子ね!」

 そうすれば結は褒めてくれる。

 マヨネーズで汚れた手をワンピースで擦り落としてから、戻ってきた霞白の髪を梳くように優しく撫でる。

「いい子はすきだよ」

 欲しい言葉をくれる。

「だぁいすき」

 自分の存在を、認めてくれる。

「ね、もーお腹いっぱいになっちゃった。だから、おさんぽしよっか」

 半分しか食べていないサンドイッチを置き、結は立ち上がる。食後の遊びは散歩で決まったようだ。

「おいで」

 上から手が伸される。

 小さな、小さな手。頼りがない子どもの手。それでも、霞白には全てであるもの。

 食事に未練はなかった。空腹よりも痛みよりも何よりも。それ以上に怖いものを、知ってしまったから。

「結」

 霞白は立ち膝となり、無我夢中で結の掌にしがみつく。自分の半分にもみたない身体を引き寄せて距離を詰め、腕が二回りもしそうな腰を強く、強く抱き締める。

「こら、痛いよシロ」

 肩を叩かれるが、結は嫌がっていない。語尾が笑っていた。

 力を調節して腹に押し付けていた顔を少しだけ離せば、呼吸が出来た。凹んでいた結の腹も元に戻る。

「どうしたの? おさんぽ、いや?」

 話し方は幼いというのに、まるで母親のように問いかけられる。背中をぽんぽんと叩かれれば、胸に抱いていた言葉が氾濫していく。

「怖、かった」

「こわい?」

「そう……怖い。だから、一人にしないでくれ」

 もう結がここにいるというのに、心に巣食った闇は中々取り払えない。

 一人慣れない部屋に残される。その時を思い出すだけで、涕涙してしまう。震えさえ止められなくなる。

「そっか」

 霞白の思いに気づいた結が、くすりと笑う。昨日の夜、トリートメントをしてしっかりとドライヤーまでかけられた霞白の髪を一束摘み、親指と人差し指で毛先をぐりぐりとすり潰していく。

「そんなにこわかったの? 思いだして、泣いちゃうくらい」

 暖かな腹に擦りつけるように、霞白は頷く。

「どうして怖かったの?」

「捨てられたかと、思って」

「すてられるのは、いや?」

「い、やだ」

 素直に答えれば、結の腹が揺れた。顔が見えなくとも、笑ったのが分かる。

「あたしがいないと、やだ?」

「いやだ……いやだっ」

「どうしていや?」

「……どう、して?」

「そう。どうして、いやだと思うの? 言ってみて」

 ぐっと肩を押され、霞白の顔が結から離される。突き放された訳ではない。顔を見つめられる程度の距離を作られ、結はじっと霞白を瞳に映している。

 見開かれた薄茶の眼光には、期待が込められていた。それは結の瞳に変わりないのだが、この時に帯びる光は、違う人間のもののように見える。

「ね、言ってみて。なんでもいいから」

 結は、霞白から何かを引き出そうとしていた。怖い、捨てられたくない。その言葉以外を所望している。

 しかし、結の望むべき言葉が霞白には分らない。

 最近では、ある程度まで出された言語の奥を読み解けるようにはなったが、こうして時折見せる大人びた瞳の時は何を言っていいか分からず固まってしまう。

 機嫌を取ろうと心にもないことを言えば、バレてしまう。結は本心しか望んでいない。

 逸してしまいたくなる視線をぐっとこらえ、水分を望んでいく喉を無理やり開く。

「分らない……でも、嫌なんだ。一人は嫌だ。結の、側にいたい」

 恐る恐る、考えずとも言える言葉を吐き出した。

 それはもう何度も繰り返した言葉。しかし、嘘偽りのない思い。理由など分らない。本能が結を求めているのだ。

 結はしばらくうーんと考え込んでいたが、まぁ、いいかと霞白を抱きしめ直した。

「今は、それでいっか。もう一回くらいかくれんぼしようとおもってたけど、やめてあげる。シロ、もう出ていく気、ないもんね」

 機械仕掛けのおもちゃのように頷き続ける霞白の額に、唇が添えられる。キスはすぐ終わり、結はぴょんぴょんと飛んで後に下がる。

「つめたい」

 歯を見せて笑う結が自分の腹付近を指さす。そこは涙で濡れ、透けていた。

 元々薄い素材の服だ。しかも、その下には何も着ていない。胸から臍に掛けて、くっきりと肌色が浮かび上がっていた。

 綣の窪みや、まだ膨らみすらないような胸の透けに、霞白は畏怖とは違う心臓の鳴りを覚えてしまう。

 結が七歳になったと言ってから、もう数カ月は経つ。

 時計を見られるようになり、時間は分かるようになったが、日にちは把握してない。必要のないものだと結も言わないし、霞白も知ろうとも思わない。

 霞白が知らぬうちに学年も変わっていた。初めて会った頃に比べて背も伸びた。ダイエットと言い出したのも、身長に合わせて体重が増えてきたせいだ。

 結は着実に成長している。まだまだだが、大人へと近づいてきている。

「せくしー?」

 腰に手を当てて、長い髪を指でくるくると巻いて一回転。前に一緒に見た、テレビの女優の真似だとすぐに分かった。

 ボン、キュ、ボンの女優とは違い、結に凹凸はない。それでも、色気がある。どこにあるかと言われれば言葉にしにくいのだが、見た目ではない内部に、それはある。

 結の年齢すら忘れさせる色香が。

「今日はやっぱり、おひるねにしよ」

 欲望を持て余している霞白を横目に、結は唐突に床に横になった。足も両手も広げて大の字になり、欠伸をする。

 おいでおいでと動く手に、霞白は立ち膝のまま近寄っていく。残り数センチとなった所でスーツの裾を引かれ、身体は床に吸い寄せられた。

「おひるねしたら、おさんぽね」

 二度目の欠伸で、結は瞼を落としていく。結の隣に身を置いた時点で、霞白も眠気で頭の働きを鈍らせていた。

 横になったら眠らなければならない。いつか結に言われた命令に、身体は確実に順応している。

「おやすみ」

 結の瞳が完全に閉じた。真っ直ぐに射抜いてくる光線がないだけで、霞白は泣きたくなってしまう。手足を拘束していた鎖が外されたような開放感が、嫌で堪らないのだ。

 涙のせいで冷えてしまうといけないからと言い訳を作り、霞白は躊躇いながらも結の腰に腕を回す。霞白の手が呼吸で上下する腹に触れれば、結は瞳を開けないまま笑った。

「もう、さみしがりやね」

 仰向けだった身体を横にし、結は霞白へと擦り寄った。細い手が、きちんとボタンの閉じられているスーツの下に潜り込む。そしてアイロン掛けされたシャツの背中を両手でぐしゃりと掴んだ。

「こうすれば、寝ててもはなれないよ」

 眠りにくいのではと思うほど密着した身体。呼吸が胸に掛かり、後ろからも前からも体温を感じ、鼓動すら聞くことが出来る。凝視よりも確かな枷に包まれている。

 目を覚ましたとしても、初めに目に入れるのは結の旋毛だろう。

「おやすみ」

 二度目となる合図に従うように、霞白は目を閉じた。

 白と結を映していた視界が一瞬にして黒に変わる。正反対の色と見えなくなった結の姿に霞白は目を開けそうになるが、思い止まった。

 結の鼓動が、体温が、息遣いが。霞白が一人ではないことを教えてくれる。

 安堵と共に身体から力が抜けていく。意識が揺らぎ、小難しいことは考えられなくなっていく。

 何も敷いていないが、床は硬すぎることはない。次第に柔らかくなり、やがて溶け始めた。

 二人の身体だけが床の奥へ落ちていく。深く、深く沈んでいく。

 暗闇の中で、霞白は結と離れないようにと、その細くか弱い身体を強く、それでいて壊さないように抱き締める。それに答えるように、背中に回る手が霞白の背中を慈しむように撫でた。

『シロ!』

 結が霞白の名を呼ぶ。漆黒の中で、ピンクと白のチェック柄のミニスカートの結が、ここ三日ほどお気に入りのテディベアの人形を持って走り回っている。

『おいで』

 今度は右で霞白を呼ぶ声がした。顔だけをそちらへ向ければ、水色のネグリジェを着た結が手招きをしていた。

『だいすき』

 結の元へ足が動く前に、今度は後ろで愛を紡がれた。振り返れば、そこには白のウエディングドレスすら想像させるワンピース姿の結がいた。片足でくるくると回って遊んでいる。

 ころころと衣装が変化していく結の姿で、霞白はもう自分が夢の中の住人なのだと理解する。

 最近夢に見るのは結のことばかりだった。一緒に食事をしていたり、寝転がってお絵かきをしていたり。日常でした、夢か現実か迷ってしまうことばかりを夢に見る。

 現実にいても夢の中でも結一色だ。結が関わっていない過去のことは、考えることもなくなっていた。

 もう霞白は、会社がどういうところだったか思い出せない。家族の顔も忘れてしまった。自分の本当の名前さえ、消えかけている。

 それでもいいと思い始めたのがいつかなど、昔過ぎて記憶が蘇る気すらない。

「ずっと、あたしの一番でいさせてあげるからね」

 夢か、それとも現実か。どちらかで結が囁く。

「ずっとここで、いっしょにいようね」

 右の結か、それとも前か後か。もしくは腕の中の結なのか。どこから発せられる声か分からぬまま、それでも霞白は微笑みながら頷いた。

 もう、現実などに未練などない。

 ここにいることだけが、霞白の存在意義なのだから。

「ずっと、ね」

 幼さと艶やかさを含む声は霞白の毛穴から入り込み、血管から細胞まで、全てを侵食していく。

 もう逃れる術はない。いや、初めからなかったのかもしれない。

 黒を垂らせばすぐに灰色となる白とは違い、赤や青さえ打ち負かし、汚れ一つつけない白に、勝てるはずがないのだ。

 好きよ。愛してる。ずっと一緒。

 いっしょう、いっしょ。

 呪文のように聞こえ始める言葉に頷きながら、霞白は どこまでも、どこまでも白い世界の中に、堕ちていった。




後は番外編の一話だけです。

ここまでお読みいただきありがとうござます。

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