監禁百一日目
ある日、唐突に箱が空いていた。
*直接的な表現はありませんが、グロテスクな表現があります。ご注意ください。*
朝起きた時、既に箱の蓋は開いていた。
目やにでくっ付いている瞼を擦ってから、もう一度上を見上げる。しかし、入り口であり出口であるそこはぽっかりと口を開けていた。
いつもならば結の足音で気づいて霞白は目を覚まし、それから蓋が開く。だが、今日は足音に気づかなかった。それほどまでに深い眠りについていたのかと、霞白は首を傾げながら起き上がる。
昨日は何をしていたかと考えながら立ち上がれば、見慣れた風景が現れる。
白。全てが白い部屋だ。箱の中と広さしか変わらない。
しかし、それはおかしなことだった。箱の中と部屋の中では、広さ以外で決定的に違うものがあるはずだ。
そう、結の存在。
「結……?」
呼んでも返事はない。箱の陰に隠れているのかと探しても、やはりいない。
箱から出てトイレを開けてみる。いない。それ以外に探す場所はなく、結がいないことは一目瞭然だった。
そこで霞白は、いつもより動きやすいことに気づいた。首が軽いのだ。
指を首に這わせれば、首輪があった。だが、鎖が付いていない。じゃらりというもう慣れてしまった音が聞こえなかった。
自然と視線はドアに向く。鎖がなければ、ドアに触れることができる。
今なら。
どくりと、心臓が鳴った。
最近はすっかりと萎んでいた当初の思いが、むくむくと膨らんでいく。
逃げなければ。今なら、逃げられる。
霞白はもつれる足で走り、ドアノブに手をかけた。
鳴りすぎる心臓が痛む。まだそう走っていないのに息切れがする。恐怖と希望で頭が破裂する。
様々なものを無視して、霞白はドアノブを回す。そうすば……
ガチャリと、ドアは開いた。それはもう簡単に。
信じられないと、霞白はしばらく立ち尽くす。あれだけ遠いと思っていたものが、あっけなく手元に来たのだ。すぐには行動を起こせなかった。
だが、時間は限られている。いつ結が、他の誰かが来るかなど分からない。
最後の、チャンスかもしれない。
霞白は拳を握り、息をせず、できた隙間からドアの外を覗き込んだ。
何があるかなど目に入らない。頭で物の名前を思い浮かべることができない。だが、どれだけ目を凝らしても、人の姿がないことだけははっきりと確認できた。
そして、見つけた。
霞白が覗くドアから直線に数メートルの位置に、ドアがあった。そこから光が注している。
希望の光などという象徴的なものではない。どれだけ求めたか分からない日の光が、見えたのだ。
霞白は何も考えず駆け出した。ドアから見える光に向かって、握れもしない光に手を伸ばしながら、走った。
「はっ、はっ、は、ぁ……ッ」
気づいた時には公園にいた。
霞白の家と会社のほぼ中央にある、小さな公園だった。象の形をした塗装の剥げた遊具と、兎の形をした小さなブランコがある。知っている公園に間違いなかった。
切れる息を整えながら、霞白は周りを見回す。
砂場には小さな子どもと遊ぶ母親がいた。霞白のことになど気づかず、三歳にも満たないような男の子と仲睦ましく砂の山を建てている。
背の高い時計があった。久々に見た時刻というものは、きっかり十二時を示していた。
老夫婦がベンチでまったりと日向ぼっこをしている。晴天の空には気持ち良さそうに鳥が飛んでいる。近くの小学校のチャイムの音が聞こえてくる。
よく見る風景。毎日でも見ていたような、些細な日常。
だが、霞白にとってはもう見ることもないだろうと思っていた景色だった。それが今、目の前にある。
外に出られた。現実に戻ってきた。そんな実感が、じわりじわりと沸いていく。
「ねぇ、あの人……」
「嫌だわぁ、何で……」
泣きそうなほどに感激に浸る間もなく、抑えたような、それでいてよく聞こえる声が耳に届いた。
久々の他人の声に嬉しくなった霞白は、見開いた瞳で声の方を向く。そうすれば、見えた人の顔は、不快感に染まっていた。
中年の主婦たちが、霞白を怪訝そうに見つめていた。目が合いそうになれば視線は逸らされたが、横目で見られ、ひそひそと話される会話は途切れない。
霞白はそこで、自分の身なりを思い出した。
しっかりとしたスーツだが、靴を履いていない。無我夢中で走ったため、そのスーツすら乱れている。このところセットしていない髪も伸びきり、寝癖でぐしゃぐしゃだ。
真っ昼間に小汚いスーツの男が息を切らして公園に飛び込んでこれば、怪しまれるのも無理はない。
霞白は跳ねる寝癖を押さえ、赤い頬を隠すようにそそくさと公園を後にした。
それから霞白は、色々なところを回った。
まずは自分の住んでいたマンション。
鍵を持っていないため、霞白は管理人の部屋を尋ねた。事情を説明する前に、管理人である老人は霞白を見て一言、お前など知らないと言い放った。
まったく取り合ってもらえず、仕方なく一人で住んでいた一〇五号室に向かえば、ちょうどその部屋から見知らぬ男が出てきた。慌てて話しかければ、男は妙なものを見るような目で霞白を観察しながら、いつから住みだしたかを話してくれた。
男が住み始めたのはもう三ヶ月も前。前の住人はそれよりも前に部屋を引き払ったと聞いたとだけ言って、男は霞白を気味悪がってさっさと出かけてしまった。
仕方なく、次は会社へ向かった。
会社はやはりクビになっていた。受付の女に「山田 霞白様は、三ヶ月以上前にお辞めになっています」とはっきり言われてしまった。
会社で何度も挨拶を交わしたことがある女だったが、目の前の男が霞白だということに、まったく気づいていなかった。いや、気づいていたかもしれないが、そ知らぬふりを決め込まれた。
無断欠席をし続け、首になった男だ。関わりたくないのも当然だろう。
何もできないまま会社を後にし、いくつもの電話ボックスを回って見つけた古いテレフォンカードで、飛行機でしか帰れない実家に電話をした。だが、通じない。何度掛けても、使われていない電話番号だと機会音が教えてくれる。
五度目の挑戦の最中に、霞白は監禁される数ヶ月も前に、姉夫婦の家に引っ越したという手紙が来ていたことを思い出した。
そこに電話番号と住所が書かれていたが、さらりと目を通しただけだ。覚えているわけがない。
それからは友人知人の家、同僚の家を回ってみたが、居留守を使われたり煙たがられるだけだった。
警察や市役所にも行ってみたが、自分の置かれる状況を上手く説明することができず、大丈夫ですという意味の分からない言葉を貰っただけで追い出されてしまった。
結局霞白は、最初に来た公園に戻ってきていた。
公園にはもう誰もいない。あれだけ眩しかった白い太陽は、オレンジ色へと変わっていた。暖かかった空気も一変し、冷たい風が霞白の体温を奪っていく。
黒に近づいていく公園で一人、霞白は堪えられなくなった涙を流した。
誰も、霞白を知っている人間などいなかった。知っていたとしても、面倒なものを背負いたくないと無視された。
世間は簡単に、霞白の存在を忘れてしまっていた。消してしまった。
「はは……」
乾いた笑いを零し、霞白は力なくベンチに座る。
半日以上歩き回ったせいで、足は悲鳴を上げていた。そのうち初めの数時間は裸足で歩いていたせいで、足の裏の皮が捲れてしまっている。
後半はゴミ捨て場で見つけたサンダルを履いていたため、何とか血が出るまでには至っていない。しかし、使い捨てらしき黄緑色のサンダルはスーツに不似合いだ。
そこでようやく、今日着ているスーツが霞白自身のものだと気がついた。
会社に着ていっていた一張羅。捨てられていなかったのかと、霞白は懐かしいスーツの襟を摘む。
クリーニングをした匂いと形をしているが、少女の持ち物であるスーツの方が肌に馴染んでしまったせいか、安物のスーツは着心地が悪かった。
薄く、寒い。吹き付けてくる風が、直に肌を撫でているようだ。
冷たくなってきた指をポケットに突っ込めば、こつりと何が当たった。
取り出してみれば、拾ったテレフォンカードだった。
携帯に入っているからと、姉の電話番号など覚えていない。残金はまだ一回ほど残っているが、どこにもかける場所がなければただの紙切れだ。
霞白はカードを投げ捨て、頼りないベンチの背に凭れかかる。もう涙を拭う気力もなかった。
ぐうぅと腹が鳴った。朝から何も口にしておらず、走り回っていたせいで水すら飲めていない。
炊いてある米が恋しかった。中にチョコやマシュマロが入っていようが、列記とした食べ物同士の組み合わせだ。思い出しただけで腹が大きな音を出した。
今はもう、精米する前の米すら食べられない。金がないのだ。五円のチョコすら買うことができない。
公園に水のみ場があることを思い出したが、疲れきった霞白は動く気になれず、目を閉じた。
外に出ることばかり考えていた。
出られた後のことは考えていなかった。いや、現実に戻れば何とかなると甘く考えていた。前のような生活が待っていると思い込んでいた。夢見ていた。
霞白が閉じ込められていた間も、社会は進んでいく。待ってくれているほど世界は甘くできていない。
深く考えれば、考えていれば、分かりきっていることだった。
『知ってる?』
目を閉じれば、可愛らしい、愛らしい声が聞こえてきた。
『シロのかみのけ、おひさまの光の下だとね、ちょっと茶色に見えるんだよ』
そこにはないはずの手が、霞白を撫でる。覚えている暖かさが身体に染みる。
『ずっと見てたから』
結の笑顔で、冷めていた心が温かくなっていく。流れ続けていた涙がようやく止まった。
思えば、一度足りとて誰かにこんなにも見ていてもらったことはあっただろうかと、霞白は考える。
友達はいたが、いつしか疎遠になってしまうほど浅い関係が多かった。恋人も長続きしたことはない。
親ですら、できのいい姉ばかりを可愛がっていた。一年ほど連絡しなくとも心配されたことすらない。
霞白のことを一番に思っているのは、誰か。
最近は、鎖のリードを引いての散歩もすっかりなくなっていた。トイレに行きたいといれば行かせてくれた。
勉強を見て、遊んで、一緒に食事もして。
無邪気に笑う結の顔を思い出せば、疑問が浮かんできてしまう。
何故自分は今、ここにいるのか。
そこで、霞白は我に返った。何を考えているのかと、激しく首を振る。
「ずっと、あそこから出たかったはずだ。そうだ、出たかったんだ、俺は、現実に……ッ」
言葉にすることで、ここにいることは正しい判断だと自分に言い聞かせる。決して、元に戻りたいと、箱の中に戻りたいと思ってはいけないことだ。
あの非現実を受け入れるようなことは、決して。
あっという間に夜が暮れた。
寒さは増し、スーツだけでは凌げないほどに身体は冷え切っていた。
ゴミ箱から新聞紙を拾い、身体に巻きつけて寒さに耐える。みっともないと思いながらも、スーツだけよりは幾分マシだった。
少しでも体力を温存しようと横になったが、目を閉じても眠れない。寒さと空っぽの腹のせいで眠気が来ないのだ。
それでも何とか眠ろうと、指を脇に挟みながら羊を数えてみた。白くもこもこした羊が、柵を越えて向こう側へと飛んでいく。
上がりそうになる瞼を懸命に閉じながら、羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……そう数えている間に、六十匹目で何故か羊は鮭に変わっていた。しかも、加工された鮭だ。
「あーあ、今日は鮭弁当かよ」
霞白がいた。しかし、霞白が見ているのは過去の霞白だ。現在の霞白、過去の霞白と、霞白という人間が二人いる。
思い描いていた風景は、牧場から会社へと変わっていた。
過去の霞白が見つめるのは冷めたコンビニ弁当だった。中身は、霞白のあまり好きではない鮭。不味いからといって、過去の霞白はそれをゴミ箱へと捨ててしまった。
丸めて捨てた書類の上に落とされ、鮭は同じゴミとされた。過去の霞白はそれに未練などなく去っていく。
しかし、現在の霞白は、それがどれだけ高級なフレンチよりも美味そうなものに思えた。
「鮭……」
手が伸びていた。ゴミ箱だろうが関係ない。そこにあるのは食料だ。霞白は手を伸ばし、鮭を掴もうとする。過去の自分が捨ててしまった、冷めた鮭を。
しかし、指先は触れたのは、ベンチの背もたれだった。鮭は、ここにない。
霞白は思い切りぶつけてしまった指を撫で、身体を起こす。ゴミ箱はどこに行ったかと探してみたが、薄らと明るい公園を見て、全てが夢だったことを悟った。
見上げるところにある時計を見れば、朝の五時過ぎ。どうやらいつの間にか夢の中に落ち、少しだけでも眠ることはできたらしい。
剥がれそうな新聞紙を身体に巻き直しているところで、腹が鳴いた。
弁当は夢の中の産物だと頭では分かっていても、腹はそれを受け入れてくれない。グーグーとまるで動物のように唸り続けている。
空腹に痛みすら感じ、霞白は重い身体を持ち上げた。新聞紙を羽織ったまま水飲み場へ向かう。
歩きすぎた足は痛み、硬いベンチで寝たせいで身体も全身が軋んでいた。泣きすぎて腫れた瞳も、寂しさに押しつぶされそうな心も痛い。
それでも生きていたいと、霞白は寂れた蛇口を捻る。水を腹いっぱい収め、まずは空腹を紛らわせた。
日が出てこれば、暖かくなってきた。
新聞紙を剥ぎ、霞白は公園を出た。もうランニングをしているスポーツマンや、早朝散歩を始めている老婆がいる。通学、通勤時間が始まる前にと、なるべく人気がなさそうな道を選んで入り込む。
目指すべき場所はもう、一つしかない。
身分証明書、免許証、財布。もしかしたら取り戻せる可能性があるかもしれない。
新しい仕事を探すにしても、身分を証明できるものがないといけない。
住むところも失った。金が少しでもあった方がいい。
そのためにいくのだと自分を言い聞かせ、霞白は、一度は逃げ出した結の家を目指し始めた。
結の家を見つけた頃には、もう夜の空気が流れ始めていた。
住所も知らない。夢中で走ったせいで、道順も知らない。それで何故見つけられたかといえば、走っている最中、霞白が一度だけ後ろを振り返ったおかげだった。
一瞬見ただけだというのに、目に焼きついていた家の概観。それだけを頼りに、見つけてしまった。
「見つけた」
霞白は乾く喉を痛めつけるように呟いていた。半分は諦めていた場所を、見つけることができたのだ。
伊崎。
確かにその家の玄関には、結のノートに書かれていた苗字が書かれていた。
外から始めて見た結の家は、洋風の一軒屋だった。
似たような家が隣接し、姿は見えないが子どもの遊ぶ声が聞こえる。何の変哲もない住宅街の中の家だ。
見つけてからのことを考えていなかった霞白は、家の前で立ち尽くす。
チャイムを鳴らす勇気はなかった。だが、勝手に入れば不法侵入で訴えられるかもしれない。監禁されていた証拠を一つとして持っていない霞白と、見方が何人もいる結の母親とでは、分が悪すぎる。
「でねぇ、あそこのお宅って……」
そんなことを考えている間に、人の気配がした。少し歳を召し女の声が、大きくなっていく。誰かが、霞白のいる場所へと近づいてきている。
見つかってはいけない。犯罪にも近い行為の実行を考えていたせいか、霞白はそう思ってしまった。
相手のまだ姿は見えないが、声の大きさと足音でもう距離が近いことが知れる。今からここを離れようにも、足の裏を怪我している状態では走って逃げることもできない。
どうすればよいかと霞白は視線を彷徨わせる。目の前にあるドアは無理だ。まだ気持ちが固まっていない。
他にはと右に向いた目に入ってきたのは、庭だった。
結の家を取り囲むようにして生やされている高めの植木。庭もそれで取り囲まれているため、屈めば大人だろうが人目を憚ることができる。
敷地に入ってしまうが見つかってしまうよりもいいだろうと、霞白は形振り構わず庭へと飛び込んだ。
息を潜めて、目を閉じる。
コツコツと響く足音。楽しげな声。一度は側に聞こえた声は段々と小さくなり、やがて聞こえなくなっていった。
耳を澄ませても自分の心臓音しか聞こえなくなったところで、目を開ける。しばらくは緊張で動くことができなかったが、このままじっとしていてはまだ誰か来る可能性がある。家の中から人が出てこればそれこそ終わりだ。
耳を澄ませても、足音も声も聞こえない。霞白は息すら静かに吐き、中途半端に屈んでいただけの腰を落とす。
そこでようやく、庭全体に目を向けることができた。
角に並んでいるプランターには、名前の知らないピンクの花が咲き誇っている。手入れも行き届いて、水を与えられたばかりなのか花びらが輝いていた。
そう広くはないため、後見るものと言えば芝生だ。短いながらに長さが揃い、こちらも隅々まで整備されている。
壁も白くて綺麗だ。掃除されたばかりのような色だと視線を上に上げていった時、見つけてしまった。
大きくはないが、窓があった。そこで、霞白は後に後にと伸ばしていた目的を思い出してしまう。
中を覗く絶好のチャンスだ。人が居なければ、侵入して自分の持ち物を見つけ出すこともできるかもしれない。鉛のように重い腰が、ゆっくりと浮いていく。
そこで、声が聞こえた。
小さな、耳を澄ましても聞こえないと言われてしまうほど微量な音の声だった。しかし、霞白には確かに聞こえたのだ。
シロと呼ぶ、声が。
「ゆ、い」
霞白の身体が、慎重さをなくして素早く動く。あれだけ色々と考え、土に根を這わせようとしていた足が、軽々と一歩を踏み出した。
跳ねすぎて痛む胸のままに歩き、霞白は壁に手を付く。立ち上がれば道路から見えてしまうという配慮は、できなくなっていた。
窓の横に立ち、霞白は流行る気持ちのままに中を覗く。部屋の中を観察する前に、見るものは一つに絞られた。
結がいた。
そこは白い部屋ではない。フローリングと絨毯があり、白以外の色がある。だが、結はいた。窓の中に、笑顔の結の姿があった。
だが、結は一人ではなかった。
名前は知らないが、見たことがある有名な犬種だ。大きさ手にまだ子犬だろう。白く小さな犬は舌を出し、結の膝の上で仰向けとなっている。服従のポーズを取り、円らな瞳で撫でろと訴えている。
そんな犬の無言の命令を受けるままに、結は無防備な腹を撫でる。白いシフォンのスカートに犬がじゃれつき、破れそうになっても結は笑っている。幸せそうに犬の身体を撫でている。
犬を飼っていたのかと、霞白は心にもないことを呟いた。そんなことなど、一ミリも考える余裕などないというのに。
霞白の目頭は熱くなっていた。胸には、心臓を雑巾のように絞られ、一つ一つの細胞を爪と爪との間で切断する。そんな、いい知れぬ痛みに支配されていた。
指が勝手に窓ガラスに触れていた。こつりと指の先がぶつかる。幻想ではない、実質的な透明な壁に阻まれ、向こう側へ行くことはできない。
強く押せば、ガラスと指とが擦れきゅっと音が鳴ってしまった。見つかってしまう。そんなことにすら頭が回らない。
犬から、白い塊から目を離せない。沸き上がる感情を抑えられない。いけない思いを、止められない。
頭の真ん中に浮かぶ文は、ただ一つ。
――その、場所は――
そこまで考え、霞白は窓から手を引いた。
今、何を考えたのか。霞白は頭に浮かんだ言葉を否定する。違う、違うと、頭の中で何度も繰り返す。そう、違うのだ。ありえないと、数え切れなくなるほど反芻させる。
「違う、違う!」
大声を出して思いを口にし、霞白はその場から逃げ出した。
庭から出た途端、きゃあという女の声があがった。その後すぐ誰かとぶつかった。車のブレーキ音とクラクションが痛いほど耳の中に入り込んでくる。怒鳴り声すら霞白を攻め立てた。
それでも、霞白は走った。身なりも人目も気にせず、全力疾走した。家から抜け出したときよりも数倍早く、走った。
何故、自分のスーツを着せられていたのか。
何故、あれだけ頑なだったドアが開いていたのか。
何故、簡単に外に出られることができたのか。
可愛らしい犬を撫でている結の瞳で、分かってしまった。
犬を見つめる瞳を霞白は知っていた。あれは、霞白に向けられていたものと同じだった。
今、結の愛情はあの犬に注がれている。それは何を意味しているか、相当な馬鹿でなければ理解できるだろう。
霞白は飽きられ、捨てられたのだ。
「いいじゃないか……よかったんだ。捨てられて、助かったじゃないか、俺は……」
自分を励ますように、そう声に出す。
それでも肉を抉られ、あまつさえ目の前で食されるような痛みは、広がっていくばかりだった。
ドアを開ければ、そこには金髪の男がいた。筋肉質で背も高い。座っている木製のイスが悲鳴を上げている。前に白の部屋に呼ばれた男とは、違う人間だった。
霞白と男の視線が合う。男の目の色は絵の具で作り出したような水色をしていたが、顔は日本人だった。そして、霞白を映すその瞳にある感情は、哀れみ一つだった。
男は何も言わず、上げた顔を新聞に戻した。目を閉じ、自分は何も見ていないと言いたげに首を振っている。
しばらく迷った霞白だったが、ゆっくりと玄関に入り、ドアを閉めた。
結局、霞白はここへ、結の家へと戻ってきてしまった。自分の、意思で。
この五日間で霞白は急激に痩せ衰えた。
ゴミ箱から見つけた賞味期限切れのパンを食べて下痢を起こし、一日中公衆トイレに篭っていた。
水道水が身体に合わず、それでも水を飲まなければ喉の渇きを潤せず、飲んでは吐きを繰り返した。
ベンチで寝ようと歩いていても意識を保っていることができず、土の上で力尽きてしまうこともあった。
それでも、誰も霞白に声などかけてくれなかった。
普通に生活している人間からは蔑んだ瞳を。ホームレスすらも、霞白をないものとしていつも通りの生活を送っていた。
身体の中も外もボロボロだった。胃の中には何もない。服も乞食のようだ。スーツで小汚いところが、また不憫さを増幅させる。
精神的にも底の底にあった。自殺すら考えた。初めて死にたいと思えた。
だが、最後の最後で踏み切ることができなかった。手首を切ろうにも餓死しようにも、これ以上の痛みと苦しみを身体に与えることができなかった。
弱さが、邪魔をするのだ。苦しさから逃れる方法を一つ、知っているせいで。
この五日間、霞白は結のことを思わない日は一日もなかった。
もう本心を否定する力もなくない。今までにない仕置きをされようと、残飯を与えられようとも、人間としてみられなくとも。暖かさが、恋しかった。
会いたい。
その思いだけが、霞白を突き動かしていく。
「おじゃま、します」
律儀に挨拶をして、霞白はサンダルとも呼べないような形となった履物を脱ぎ、廊下へと上がる。
床は暖かかった。当然だが、砂や小石のある地面とは別物だ。傷ついた足を労わってくれている。
男を気にしながらも霞白は家の中に目を向ける。
逃げる時や窓を覗いた時は無我夢中で気づかなかったが、中も普通の家だった。
子どもがいると分かるような装飾をされているリビング。綺麗に片付けられているキッチンと繋がっており、普通の家よりも多少広く見える。
高そうな絵画。優雅に揺れる淡い花柄のカーテン。透明な入口の先に続く廊下。大きな冷蔵庫に、玩具箱。
様々なものが目に飛び込んでくる。だが、霞白が探しているものはたった一つだ。
「あ」
思わず、声が出た。擦れた声に男が反応し、一瞬だけその視線が向いた。
玄関から真っ直ぐ位置した場所に、それはあった。白い壁に紛れたドアノブ。白いドアを、見つけた。
躊躇いはあった。だが、霞白の足は迷いなくそこへと進んでいく。男の視線が背中に突き刺さる。それを感じながらも、ただ真っ直ぐに進んだ。
ドアノブを握れば、迷いは砂となって飛んで消えた。間髪いれずに捻る。鍵は掛かっておらず、難なく開いた。
覗くように、ゆっくりとドアを開けていく。部屋の中が見えていく。
白。そこには、白が広がっていた。ドアと同じく真っ白な空間。求めていた部屋だった。中央には大きな真っ白の箱。その上には霞白の頭を支配している、女の子がいた。
「あ、おかえり、シロ!」
向けられたのは、トイレから出てきた時に向けられるような、朝起きた時に顔を合わせたような、そんな挨拶だった。
そこに激昂は、ない。
「かえってきたのね、いいこ!」
結は箱の上に座っていた。ぶらぶらと足を上下させる度に、ピンクとも赤とも言いがたいスカートのリボンが揺れ動く。
にこりと、笑顔が霞白に向けられる。無邪気で、無垢で、子供らしい笑顔。間違いなく、目の前には結がいた。
会いたかった。優しく抱きしめてもらいたかった。いい子だと言って、頭を撫でてもらいたかった。
涙腺が崩壊し、瞬きをしていない瞳から涙が流れ落ちていく。ふらりと、霞白の足が前に出た。
「でも、シロはもういるの」
足は、一歩前に出ただけで止まった。そこでドアが閉まる。密室になったが、霞白はそれにすら気付けない。
結の言葉の意味を理解しようと、頭がぐるぐる、ぐるぐると回る。掻き回しすぎて脳が溶けてなくなってしまいそうなほど回し、考える。
本当は、意味などすぐに分かってしまった。だが、頭がそれを受け入れてくれない。なので、いつまでも考えてしまう。動けなくなってしまう。
「シロね、ここだよ」
ひょいと、小さな身体が箱の上から降りた。視線だけが結を追う。
結は霞白から目線を外さないまま、魔法のように簡単に箱を開けた。箱の中を覗き込み、中を指差す。おいで、と小さな声で誘われれば、自分の力では動かなかった足はふらりと結の横へと赴いた。
「みて」
言われるがまま、揺れる瞳が箱の中を覗く。
そこには、ボールを齧って遊んでいる子犬の姿があった。透明な壁を挟んで見た、あの白の綿毛の犬だった。
犬は霞白を見つけ、ボールから口を離す。黒目しかないビー玉のような瞳を上に向け、きゃんきゃんと可愛らしい声で霞白に遊んでと訴え始めた。
「シロがいなくなったから、新しいシロをみつけちゃったの」
霞白から微妙な距離を取った位置に立ち、手を後ろで組んだ結が身体を右へと傾げさせる。
「シロは二匹も、いらないなぁ」
指で顎を摩りながら、結は霞白を見つめていた。
くりくりとした薄茶の瞳は、霞白を追い出そうとは言っていない。出て行けというよりも、もっと残酷なことを伝えている。
「だっこしてあげて」
頷きもせず、霞白は犬に手を伸ばした。犬が霞白の手にじゃれ付いてくる。赤い舌を出して、肌をミルクでも飲むように手の甲を舐めてくる。
それを上手く避け、首根っこを掴んだ。犬は警戒もせず霞白に身を任せる。
箱から犬を出した。
その、犬を。
「さ」
一言が、重かった。感情一つ変えず、結は非道なことを霞白に命令する。早くしろと、瞬きすらしない瞳が訴えている。
霞白はカラカラの喉を鳴らし、結でも犬でもない場所に視線を移す。白い部屋では存在感が、いや、この部屋以外にあったとしても目立ちすぎるものが、どんと構えていた。
そこには、片付けられたはずの巨大なシュレッダーがあった。
『いらないものは』
結の言葉を思い出し、霞白は知らぬうちに身震いをする。
手の中の犬を見直す。動く生き物は暖かい。毛からすら温もりを感じそうだ。息をしている、血が巡っている。生きている。
しかし、その犬がここにいれは、霞白は。
「はっ、はぁっ……っ、う……」
息ができない。吐き出すことか、吸うことしかできていないが、どちらができているのか分らない。全身から汗が吹き出して、震えも涙も止まらない。服と呼べない布が、汗で色を変えていく。熱いのか寒いのかも、感知できない。
それでも、やらなければ霞白の居場所はない。
生きて、いけない。
「シロ」
名前が呼ばれた。それがどちらを呼んだかなど明白だった。
「やって」
その言葉が、終わりを意味した。
「う、うわぁあああああああああああああああああああああ―――――――!」
叫びを上げた。
そして、瞳を閉じた。何も見えない。何もない。黒で染まった視界の中で、霞白は手の中の命を……
捨てた。