監禁八十四日目
性欲、処理
「むー……」
今日は、結の機嫌が悪かった。
部屋に入ってきた時の足取りも重く、箱の蓋を開けた時からすでに頬をぷっくりと膨らましていた。
いつもはよく話す口は嘴のようになったり一本線になったりと忙しいが、声を出そうとはしない。出したとしても子犬が唸るような可愛い低音だ。
結は何をするわけでもなく、怒りを顔に貼り付けたまま座っている。一様、霞白のことを気にして視線は向けるものの、確認すればすぐに視線は逸らされてしまう。
こんな結の態度は初めてだ。赤のカーディガンが、怒りを具現化しているように見えるほどだった。
結の機嫌が悪かったことは、箱に入れられて初期の頃が多かった。大抵は霞白の行動が結の不機嫌を引き起こしていたので、理由は分かっていたのだ。
そして、その場合は箱から出されることはなかった。閉じ込められ、酷いことをされた。
結のおしおきは限りない。何かを拒否し、機嫌を損ねさせた時、どこに持っていたのかと聞きたくなる錠剤を大量に飲み水に入れられてしまったことがある。
目の前に水があるというのに、飲むことができない。水が見えない方が、余程精神が楽だった。脱水症状一歩手前で何とか許してもらえたが、その後はしばらく水を素直に飲むことができなかった。
最近はそんな仕置きもなくなってきたため、昔の日常を思い出しただけで冷や汗が服を濡らしていく。
霞白は湿っていく腋をぱたぱたと仰ぎ、心を落ち着けさせてから、結に視線を向け直した。
結は相変わらず床を見つめていた。
大きく開いている足をゆらゆらと左右に揺らし、靴下のレースを躍らせている。それだけなら機嫌もよさそうに見えるが、いつもは円らな瞳は釣り上がっている。時折聞こえる鼻息も荒かった。
今の結は、何が逆鱗に触れるか分らない。とても気安く話しかけられる雰囲気ではなかった。
しかし、ずっと立ち尽くしているのも心許ない。霞白は迷いながらも、そろりと結の隣に座った。
結はちらりと霞白を見たが、やはり視線を逸らしてしまった。はぁと、溜息までこぼされてしまった。
霞白は汗を滲ませ、何かしてしまったかと考える。
出された食事は全て手を使わずに食べた。二度目に出された具沢山の炒飯を零した量が多かったかと考えたが、その時の結は笑顔でお気に入りの絵本の話をしていた。
トイレの回数もいつも通りだった。外でも中でも粗相はしていない。
結が最近ハマっているというトランプの遊びも付き合った。わざと結が勝てるように手を抜いたおかげで、笑顔が消えることはなかった。
今日、結の機嫌はよかったはずだ。どれだけ考えても原因は分らない。
「ねぇ」
今まで一定の位置に固定されていた結の顔が、ぐるりと霞白へと向いた。
心の準備を怠っていた霞白の心臓が、飛び出す勢いで跳ねた。
「せいよく、しょり」
挨拶すらなく、やっと発せられたのはそれだった。
不機嫌を悪化させたかと身構えた霞白だったが、あまりにも結に不似合いな言葉に思わず「は?」と素っ頓狂な声を出していた。
「男はね、それをしないとびょーきになるんだって、ママがおしえてくれたから、知ってるもん」
結は至って真剣な口ぶりで、少し自慢げにそう言った。
「でもね、ママのおともだちがね、あたしにはまだ早いっていうの。結にはできないって言う。シロは、そうおもわないよね?」
「そ、れは」
「あたし、できるもん! だってシロのご主人さまは、あたしだもん!」
霞白の声を遮るように、結はおもむろに立ち上がる。頬を破裂しそうなほど膨らましたまま、結は前振りもなくスカートの裾を持ち上げた。
元々、丈の短い薄い白レースのスカートだ。霞白が目を閉じる暇もなく結の足が晒された。
まだ細いだけの太腿。それでも、柔らかそうな肌の色に、見えそうで見えない鼠径部。香水などではない、女の子の香り。
自然と、霞白の喉は鳴っていた。
「あたし、できるよ?」
その言葉に、意味は含まれていない。母親の行為を真似ているだけだ。性欲処理という本質を理解できていない。
それを決定付けるように、結は汚れ一つない笑顔で霞白を見つめる。事に及ぼうとする艶やかさはない。フェロモンを感じさせる色気もない。薄茶色の瞳にあるのは、純粋な優しさだけだ。
だが、霞白は自分の体温が上がっていくのを感じていた。
箱に閉じ込められてから、霞白はそういうものとは無縁に生活してきた。食事と排泄、睡眠を最優先にしていたので、考える余裕がなかったというのが正しいだろう。
それが今、性というものを目の当たりにされ、意識してしまった。
欲望という言葉を、思い出してしまった。
霞白もまだ若い男だ。結の放った言葉を実行したいと思っても無理はない。最後のしたのはいつだろうかと考え出せば止まらなくなる。
幼女とはいえど、結は女だ。そして今の霞白の世界で身近な女は結しかいない。触られる位置にある異性の足に、不純な妄想が浮かんでしまう。
動悸が始まる。唾を飲み込む音が大きく響く。下半身に、疼きを感じる。
それでも。
「そういうのは、よくない……」
霞白は赤い顔を隠すように下を向いた。伸びそうになる右手を左手で押さえ、妙なことを口走らないように言葉を選ぶ。
「君には、まだ早いから、駄目だよ」
「シロもおなじこという」
結の声が変わったのが分かった。子どもの色が残る、それでも残酷さを平気で口にする時の声だ。
見えている足から、憤怒が湧き上がるのが見えた。赤色が、空気に混ざっていく。
「シロはしてほしくないの?」
これが最終警告だと声色が伝えてくれる。見えていない結の顔を、見ることができなかった。重い空気に頭を押され、顔を上げることもできない。
この答え次第で、結の機嫌の糸が切れるか耐えるかが決まるだろう。
怒らせてはいけない。今からでも軌道修正して結の機嫌を回復させなければ、死にたくなるような仕置きが待っている。
霞白は呼吸よりも言葉を優先しようと、震える口を開けていく。
「俺は、結に側にいてもらえるだけで、いい」
しかし、音として外に出たものは、ただの本音だった。
結は何も言わない。霞白も、それ以上言葉を出すことができない。
部屋は無音となった。結の無言は、怖かった。
霞白は瞼を強く瞑り、涙を堪える。灰色のストライプが入っているスーツのズボンを握り締め、言い訳を考える。
どうして結の思いを肯定しなかったのかと、後悔に苛まれる。
しかし、これでいいのだという思いもあった。
自分の欲を満たすよりも何よりも、結を傷つけてしまうのが怖かった。霞白自身の欲を満たすには、結はまだ小さすぎる。
傷付けてはいけない。こんな、小さな女の子を。
それだけは、譲れなかったのだ。
「わかった」
どんな背筋の凍る言葉を浴びせられるかとびくびくとしていた霞白に向けられたのは、あっさりとしたものだった。
「シロがそうゆーなら、そうする」
一度口に出したことは必ず実行する。そんな結が、折れた。
霞白が顔を上げる。目が合えば、結は仕方ないなぁと微笑した。顔からは険しさが消えていた。
「じゃあ、ちゅーは?」
スカートから手を外し、結はぴょんと正座している霞白の膝の上に乗ってきた。
全体重を掛けて飛び乗られたというのに、軽い。体重などないようなものだ。馬として背に乗られるのと、膝にちょこんと腰掛けられるのではこんなにも感じる体重が違うのかと、霞白はまだ状況についていけていない頭でそう考えた。
「ね、そのくらいならいいでしょ? だって、外国ではあいさつなんでしょ、ね?」
膝の上に膝小僧を立てて、結は立ち膝となる。二人の目線が同じくらいの高さとなった。
結の顔が霞白の顔へと近づけられる。言葉はすぐに実行されるわけではなく、きちんと霞白の答えを待つために、鼻と鼻とが触れ合いそうな距離で止められた。
結からは、先程とは違う香りがしていた。
「ね、しーろ?」
首を傾げ、あどけない微笑むを浮かべるその中にほんの少しだけ、女の香りが、した。
心臓が鳴る。身体が熱い。
抗えない。
霞白は考えることを放棄して、頷いていた。そうすれば、すぐに、
ちゅ。
結の唇が、霞白の唇に触れた。
本当に触れただけの軽いキス。勢いがよく、ぶつけられたような口付け。
それでも、顔を僅かに離した結はふふんと仰け反り、満足げだ。そこからはもう、一瞬感じた女の気配は消えていた。
「あたしをよぶときは、これからも結ってよぶんだよ? ほら、いってみて!」
「ゆ、い」
「そう! いいこ、シロ!」
名前を呼んだだけで、結はきゃーっと声を上げるほど喜んだ。それだけでは足りないと、頭を抱えられて髪をぐしゃぐしゃに撫でられる。
「知ってる? シロのかみのけ、おひさまの光の下だとね、ちょっと茶色にみえるんだよ」
結の腹に顔を押し付けられているため、霞白は声を出さずに知らないと首を振る。
「やっぱり! あとね、首の後ろにほくろがあるの。にこもね、あるんだよ。それとねー」
耳朶が小さい。下を向いて歩くことが多い。眉毛が右と左で少し形が違う。霞白自身の知らない霞白のことを、結はどんどんと話していく。
髪は染めたことは何度もあるが、面倒になって止めてしまった。ここ数年は一度も染めていない。この箱に入る前に毎日鏡を見ていたが、髪は黒にしか見えなかった。
黒子のことなど初めて聞いた。耳朶が小さいことも、歩くときの癖も眉毛のことも、自分のことだというのにまるで知らなかった。
「ずっと見てたから」
耳元で囁かれる声は、暖かい。
「シロはスーツもよくにあってるの」
顔を抱きしめてくれている手には、愛が見える。
「シロ、だーいすき!」
言葉にはもう、愛情しか感じない。
霞白は目に浮かぶ涙を赤い服に押し付ける。そして結の背に手を回した。細い身体を折ってしまわないように、優しく、そっと抱きしめる。
結は食事をくれる。
結は霞白を生かしてくれている。
結は、何も悪くない。
悪いのは全て、結を甘やかし、霞白をここに連れてきた大人なのだ。
「すき。シロ、すきだよ」
それがペットに向けられる愛情なのか、それとも人間の男に向ける愛の告白なのか。霞白はそう聞こうとして開いた口を、閉じた。聞いたところでこの関係は 変わらない。
必要とされている。
今の霞白は、それだけで満ちたりていた。
息を吸い込めば鼻腔一杯に入り込んでくる甘いような香りに、霞白は酔いしれていた。
「いいこ」
結はわしゃわしゃと髪を撫でながら、大人しい霞白の旋毛を眺め続ける。少し右側に寄っている旋毛の位置を知るのは、結だけだろう。
細くした目で妖艶に笑いながら、結は黒色の髪にそっと唇を落とした。
「あたしがもうちょっと大きくなったら、してあげるからね」
溜息のようなその声は、頭に巻きつく腕で耳を覆われている霞白には、聞こえなかった。