監禁三十、三十一、三十二日目
箱で生活し始めてから早一か月。ようやく新たな登場人物が現れた。
霞白に脱走の意欲がないと判断したのか、最近散歩の回数が増えていた。
霞白が合図をしなくても、少女が暇な時は箱の外に出してもらえる。初めは部屋の中を歩き回るだけだった時間は、今では少女の遊び相手にされる時間となっていた。
「お馬さん!」
どすんと、少女が霞白の背に乗った。唐突な行動に、上半身を支える両手と、床に長時間付けたままの膝が痛んだ。少女は軽いが体重がない訳ではない。ずしりとのしかかる人間の重みは、腰すらも痛ませる。
最近、少女からのスキンシップが増えてきた。初めは散歩後に手を触られたり、食事中に頭を撫でられる程度だったのが、今ではこうして霞白の上に乗ったり、膝の上に座ったりとくっつくことを好む。
四つん這いの霞白に乗ることが今のお気に入りらしく、一日に二回は馬にさせられる。膝には大きな痣ができて、治らない。
だが、抵抗などできない。
霞白は犬。少女はご主人様。主従関係は完成している。逆らえば、霞白に待っているのは絶望だけだ。
「お馬さんぱっかぱっか」
少女は指を前に突きつけ、歩けと命ずる。霞白は足の痛みを堪えて前進を始めた。
きゃっきゃと霞白の上で少女ははしゃぐ。本物の馬に乗っている気分なのだろう。その反面、霞白は人間以下の存在だと目の当たりにさせられ、気分が塞ぎ込んでいく。
いっそ殺してくれ。
とは、口が裂けても言えなかった。
言ったが最後、本当に殺されてしまうかもしれない。少女の機嫌を損ね、シュレッダーの中へ入れられる。それか、まだ霞白が知らない何かの実験台にされるかもしれない。包丁で刺されて終わりかもしれない。
子どもの身勝手な我儘が、霞白にとっては死刑宣告となる。
どんなに苦しくても、辛くても、死にたいと思えないことが苦痛でもあった。
「お馬さんあきたー」
霞白の顔が青くなったところで、少女が背から降りた。言葉通り、お馬さんごっこに飽きたのだ。
「次はきせかえごっこね!」
とたとたと少女がドアの横に走っていく。
少女の向かう先は、白の中で目立っていたものが置いてある場所だ。霞白が出してもらった時からそれはあった。
「じゃーん!」
少女が掴んだのは、無造作に床に置かれていた灰色のスーツだ。
少女はスーツが好きだった。それを少女の口からは聞いていないのだが、霞白の毎日の服を見ればおのずと分かるだろう。
霞白はここへ来てからスーツ以外を着たことが、いや、スーツ以外を着せられたことがない。
「きょーは、これ! 色がいいでしょ?」
少女がスーツを持って帰ってくる。少女の背では、ハンガーに掛けられているスーツは床にずっていた。
「はい、おきがえしましょーね」
スーツを床に置いてから、少女の手が霞白の服にかかる。小さな手が器用に一番上のボタンを外した。
今から霞白は着せ替え人形となる。下着以外を全て少女に脱がされ、新しいスーツを着せられるのだ。
スーツが肩から落ちた。少女は楽しそうにシャツのボタンを外していく。胸が露となっていく。そこで霞白は、自分の肌を久々に見ることとなる。
箱の中でスーツを脱ぐ必要はない。勝手に清潔にされているため、ここに来てから風呂に自分で入っていない。それ故に、自分の身体だというのに、肌を見る機会がこの時しかないのだ。
完全にシャツの脱がされた上半身を眺める。
初日に暴れて作った痣はもう消えている。痣から医薬品の臭いがしたので、治療されていたのだろう。治るだけの間、霞白はここにいるということでもある。
霞白には、どれだけここにいるか、もう分らない。
眠った回数で日にちを数えていた時もあった。だが、少女を不機嫌にさせる度に泣き叫んでパニックになり、数えた日数は忘れてしまう。日にちなど数えても意味がないことに気づいてからは、そんなことを考えることも少なくなっていた。
「にあう!」
少女の手がズボンから離れていく。霞白が飛んでいた意識を身体へ戻せば、着替えは終えられていた。
灰色のスーツとシンプルな黒のネクタイが、よいコントラストを生んでいる。わずかにラメの入っているシャツの肌さわりが心地よい。
「にあう、にあう!」
はしゃぐ少女にぺたぺたと触られながら、小さなルビーの光るネクタイピンだけでどれほどの値段がするのだろうと、霞白はぼんやりと考えた。
次の日。
二度目の食事を終えてから、すぐ霞白は外に出された。首輪を付けて箱の側に座らされる。霞白の目の前に少女が座り、話が始まった。
少し前から、少女は箱の中へ質問を投げかけてくることが多くなっていた。それに霞白がああ、うんなどと単語を返す。答えを返さなければ、箱の外で少女は明らかに不機嫌なオーラを発するので無視はできなかった。
数日前からは外に出され、顔を合わせて会話をすることも多くなっていた。
少女はいつも楽しそうに話した。窓から見た雀の話。国語の話。去年行ったプールの話に、今日見た夢の話。
一方的な少女の話に霞白は相槌を打つだけだ。だが、ころころと変わる表情は、霞白の心を暖かくした。少女の姿、話に、箱の中にいるよりも何十倍、何千倍と霞白は安心することができた。
霞白が逃げる素振りを見せず、素直に従っていれば、少女はいつも上機嫌だった。他のことで不機嫌になることは少ないと気づいたのは、こうやって話すようになってからだ。
「あのね、それで羊さんがね」
少女は自分で作ったという物語を、身振り手振り付きで話していく。一匹の羊が川を泳いで少年を助けて友達になる。それから川に少年を落としたという悪党を一人と一匹でやっつけるという、子どもらしい話だった。
「おもしろかった?」
あっという間に少女の話は終わってしまった。霞白が頷けば、少女は手を叩いて喜んだ。
「よしっ! そろそろ箱にもどろーね」
少女が立ち上がる。あらかた話して満足したのだ。
次の話を作る気なのか、ドアの横には白紙の紙と鉛筆が転がっている。少女はちらりとそれらを見てから、立ち上がった。
「シロ、立って」
少女の手が霞白に伸びる。言うことを聞かなければいけない。
だが、霞白の腰には力が入らなかった。床に腰が張り付いている。そう言い訳をしたいほど、立ち上がるという動作ができなかった。
箱に、入りたくなかった。少しでも長く、少女の姿を視界に入れておきたかった。
もし、話を作ることに夢中になり、少女が霞白の存在が忘れられてしまったら。
「聞きたいことが、ある」
霞白は、口を開いていた。霞白から初めて、少女に向けた普通の言葉だった。
久々に出した長い言葉は震えていた。敬語の方が良いかと後から気づいたが、出してしまった言葉は変えられない。
「うん!」
少女は気にした様子などなく、ぱっと笑顔になって頷いた。今まで見てきた中でも最上級の笑顔に見えた。
少女はすとりと座り直す。もう興味は霞白にしか向いていない。キラキラとした瞳が、霞白の言葉を待っている。
あまりにも簡単に、少女の中から霞白を箱に入れるという意思が消えてしまった。思いつきで出した声だ。本当は、少女に聞きたいことなどなかった。いや、たくさんあるのだが、すぐには思い出し、口にできない。
とにかく、少女の気をこのまま惹きつけなければならないと、霞白は声を出す。
「君の、名前は?」
「あれ、おしえてなかったっけ? 結っていうの」
少女、結はすぐに答えてくれた。それから次は、次はと質問を急かし始める。
霞白は焦りながらも、新たな問いを向けていく。
「歳は」
「この前ね、六さいになったの! 小学一年生!」
結は右手を開き、左手で人差し指だけ伸ばし、六を作り上げる。この前まで幼稚園児だったことに驚きつつも、更に質問を上げていく。
「学校は、行ってないの?」
「行ってたよ。でも、さいきんは行ってないの。りょこーってことにしてあるの」
結は全てを隠すことなく答えてくれた。
苗字は。この家の住所、電話番号。質問がなくなりかけ、慌てて身長と体重も聞いた。身長は素直に答えてもらえたが、体重は「おとめのひみつ!」と教えてはもらえなかった。
初めは対等に話していることに緊張し、ろくな質問しかできなかった霞白だが、機嫌のよくなっていく結を見ているうちに、肩の力が抜け始めた。
そして、前から気になっていた質問が浮かんだ。
「親、は……?」
「ママがいるよ。パパはしらないの」
それも、キッパリと答えられた。母の名前は。年齢は二十三歳。仕事で家に帰ってくることは少ないと、結は少し寂しげに言った。
母親の若すぎる年齢に驚きながらも、霞白は次に浮かんだ質問を投げかける。
「あっちの部屋には、誰か、いるのか?」
「いるよ! お友達がいるの! すごくおっきくてね、かっこいいよ!」
結は立ち上がり、手を大きく広げてその人物を表し始める。霞白よりも背が高く、片腕だけで結を持ち上げることができると笑っていた。
結から無理やり鍵を奪い、外へ出る計画を実行しなくてよかったと、霞白は心から思った。握った掌は、数秒で吹き出した汗でびしょ濡れとなっていた。
「ごはんもね、ママのお友達がつくってくれてるの。家のおそうじとかも、ぜんぶやってくれるんだよ。霞白のエサもその人が作ってくれるときもあるんだよ! あ、でも、あたしが作ってるときのがおおいんだから!」
「そう、なんだ」
「うん! で、他のしつもんは?」
結は身体が左右に揺らしながら、次、次と霞白を急かす。
聞きたいことは山ほどあった。何故、監禁されたのか。理由はあるのか。ここに来てからどれだけの時間が経っているのか。会社は、住んでいた家はどうなったのか。
いつまで、この生活が続くのか。
だが、それらを言えば、確実に結の機嫌は悪くなる。こうして話すことも、なくなってしまうかもしれない。
機嫌を損ねない、それでいて有力な情報を聞かなければならない。
「ねーねー、ほかはー?」
だが、考え込んでいる時間さえない。
一つ、浮かんだことがあった。機嫌が悪くなる確率もある質問だ。だが、結をこれ以上待たせては、質問ごっこに興味をなくされそうだ。
断られることを覚悟で、霞白は思いを口にする。
「君のお母さんに、会わせてくれないか?」
「ママに? うん、いいよ」
「え……?」
あまりにもあっさりと、躊躇いなど一切なく、それは承諾された。
「いつかえってくるか分らないから、きたらあわせてあげるね!」
その言葉が、聞き間違いではなかったことを証明した。
結は相変わらずにこにことしており、怒り出した様子も悲しんでいる仕草もない。次の質問はまだかと、身体を揺らしている。
霞白は動揺をなるべく隠すようにしながら、適当な質問を吐いた。揺れる気持ちは当然のように抑えられず、何度も言葉を噛んで結に笑われた。
次の食事の時間まで、二人は質問と受け答えをして話し続けた。
「はい。ねんねですよ」
結が立った。それを見た霞白も立ち上がる。
結は大きな欠伸をしながら、瞬きの多い瞳を擦る。その目は今にも閉じようとしていた。
三度目の食事の後。ゆったりと遊ぶ暇もなく、就寝の時間は訪れる。異様な眠気に苛まれながら、霞白は結に付き従うようにふらふらと箱を目指す。立ったままでも寝てしまいそうだ。
会話もなく霞白は箱に入り、狭い床に身体を丸める。その様子を、眠そうながらに結はにこにこと見つめていた。
今日はほぼ全ての時間を箱の外で過ごしていた。
霞白から声を発するようになってから、二人の距離は目に見えて分かるほど縮まっていた。合図を送れば、すぐに出してくれる。一様形を取るためにトイレには入るが、結は霞白が催していないことなど顔色で分かっている。「わるい子ね」と言いながらも、結は霞白の甘えを喜んで許していた。
最近では、一度目の食事の後も結が部屋にいる時が多くなっていた。霞白が話せば話すほど、結は部屋にいてくれる。霞白は今まで喋っていなかった分を取り戻すように、色々なことを話した。
好きな食べ物、嫌いなこと。仕事のことに、どんな夢を見たことがあるか。子どものころはなにして遊んでいたか。本はどういうものが好きだったかなど、結が興味を持てないようなことまで話した。
だが結は、どの話もうんうんと頷きながら聞いてくれた。楽しい話は満面の笑顔で聞き、悲しい話には涙を浮かべた。辛かった話をすれば、えらい子だったねと頭を撫でられた。
馬鹿にされていると感じながらも、それを嬉しいと思う霞白がいた。
蓋が閉められてからしばらくして、箱の外の部屋でごそごそという音が止んだ。
「よし、っと」
小さな声が聞こえる。箱のすぐ傍で、だ。
昨日から、結も箱の外で眠るようになっていた。霞白を箱に入れてから、どたばたと準備を始める。箱の横に、白い部屋の外から布団でも持ってきているのだろう。
準備を終えれば、箱の傍に存在を感じる。小さな息遣い、耳だけに気を集中させれば、心音すら聞こえそうなほど近い。
「おやすみぃ」
結のか細い声を聞けば、安心と共に意識が薄れていく。瞼が落ちる。暗闇を見ても、傍にある大きな気配が恐怖を消してくれる。眠気に身を任せ、いつものように、そのまま闇の中へ……
バン!
しかし、眠りを遮るようにドアが開く音がした。
突然の大きな音に、霞白は床に付けた顔を上げた。驚きのあまりに、天井に頭をぶつけたほどだ。
箱の近くで、結の「あ」という声が聞こえた。ドアを開けたのは、結ではない。
「おかえり!」
眠そうだった声が張り上がった。布が擦れ、小さな足音がドアの方へと駆けていくのが分かる。
結の声に、誰かが答えた。女の声だ。
「シロがね、ママにあいたいって!」
一言二言の会話を終え、すぐに結はそう言った。数日前、霞白と結とした交わした約束だ。
「いいわ。出してあげなさい」
「はぁい!」
霞白が心臓を高鳴らせるよりも早く、女は結の交渉を飲んだ。悩む素振りも躊躇いも、まったくなかった。
わぁいと分かりやすい喜びを口にする結の声が聞こえる。だが、霞白は嘘だという思いを拭えなかった。
ぼんやりとする頭が、これは夢だと言う。
口ぶりからして、結の母親は霞白の存在を知っている。霞白がここにいることを、認めている。
諸悪の根源である可能性が高い人物が、自分に会おうとするわけがない。ただの冗談だ。言葉遊びだ。
そんな霞白の考えをよそに、スキップをしながら結が近づいてくる。もう母と子の会話は終わっている。
無駄な期待はしない。そんな気持ちが、揺らぐ。
「シロ、でておいで。ママがいるよ」
箱は簡単に開けられた。すっかり眠ることなど頭から消した結が、鎖を持ってはしゃいでいる。
戸惑う霞白の心境など知らず、結は手早く首輪に鎖を付けた。じゃらりと重い鎖を引っ張り、霞白を立たせようとする。首が絞まって苦しさを覚えたが、眠気は消えない。
それでも壁に手を付いて、睡眠欲を振り払うように立ち上がった。一瞬目眩がしたが、持ちこたえる。
罠かもしれない。そう考えながらも、霞白は結に抗う方法を見出せない。
「ほら、ママだよ」
鎖を上下させながら、結がドアの方を指さす。指の先を追わずとも、大きすぎる存在を感じ取ることができた。
言い出したのは霞白だ。チャンスになる可能性のある機会を逃してはならない。
ギ、ギと音がしそうなほど慎重に、霞白は顔を上げた。
派手な女。それが、一目見ての感想だった。
縦に巻かれた長い薄茶の髪。ラメの入った紫色のドレスは胸元がこれでもかと開いている。谷間がくっきりとしているたわわな胸が、今にも零れ落ちそうだ。
きゅっと締まっているウエスト、形のいいヒップ。指の長い爪はもちろん、十センチはある銀のヒールから見える足の爪さえ、紫とピンクで綺麗にネイルされている。
長すぎる睫に振り過ぎたチーク、垂れそうなほど付けられたグロス。やりすぎだと言いたくなる化粧だが、格好と合わせればバランスが取れてしまう。
目が眩むような派手さだが、顔のパーツパーツは美人な部類の女だった。
「ママ! シロ、シロ!」
「はいはい。そうね、シロね」
結が女に近づいていく。鎖で繋がれている霞白も、引きずられるまま女と距離を詰めていく。
倒れそうになりながら歩いている間に、霞白は結が教えてくれた名前を思い出す。
結の母親、美代。久々に見た大人というものだった。
「結、あっちにお土産があるから見ていらっしゃい」
「わぁい!」
美代の言葉で結が鎖を離した。ガシャンと、目が覚めるような大きな音が立つ。 それでも霞白の眠気は強くなる一方だ。
霞白が目を擦っている間に、結が部屋から出て行った。隙間に手を伸ばす間もなく、ドアは閉められた。
「で、何かしら」
美代が面倒臭そうにしゃがみ、鎖を手に取る。その体制のまま、美代は床に付きそうになっている髪を掻き上げた。
赤色に黒レースのパンツが普通に見えている。そのことに気を取られそうになりながらも、霞白は朝まで使うはずのなかった喉を開く。
「俺がここに入れられていることを、知ってたんだよな」
「ええ」
震える声に、美代はつまらなそうに頷く。誤魔化す気などどこにもない。
気だるげな態度に、やる気のない返事に。ありすぎる、温度差に。
「俺を、ここから出せ!」
我慢など忘れた。苛立ちがそのまま口を付き、霞白は崩れそうになりながらも前へと踏み出す。
「これは犯罪だ! 子どもはともかく、貴女は罪に問われる! こんな長期間も俺を監禁してるんだ、白を切るのも無理がある! 監禁、育児放棄……他にも、たくさん、犯罪を……っ」
だから早く、ここから出してくれ。
もう一度そう美代に訴える前に、目の前が眩んだ。美代の顔が歪に曲がる。
強烈な睡魔に力が奪われた。身体の力が抜けるのを感じながら、霞白は膝から床に落ちていく。
「ぐ、っ……」
頭に響く音を出すほどに、思い切り膝を打ち付けた。痛みのおかげで意識僅かに戻ったが、身体からは骨がなくなったように動かない。
床に手を付き、跪くような形となる。いっそ倒れてしまった方がという考えも過ぎったが、そうしたが最後、眠りの世界へ行ってしまうだろう。
まだ寝てはいけない。言いたいことがたくさんあると、霞白は気力を振り絞り、顔を上げた。
もう半分も開いていない目が捕らえたのは、
「何言ってるの。これは子どものお遊びよ」
美代の冷たい笑顔だった。
「私は仕事で、あなたのことなんて知らなかった」
混濁する脳は、美代の冷酷な言葉を理解してくれない。
「娘は好きな子を拾ってきたから、飼っていいか聞かれた。私は犬かと思って頷いた。それだけよ」
混乱をそのまま表情にだす霞白を馬鹿にするように、美代は鼻で笑う。余裕を見せつけるように肩から掛けていた小さなブランドバッグに手を入れ、煙草とライターを取り出した。
「確かに、私は子どもの世話をしていない。けれど、放ってもいない。結は私に懐いているし、あの子もそれで納得してる。世話をしてるのは私の男たち。世間的に言えば夫みたいなものでしょう。まぁ、複数人いるけれどね」
蓋を開ければ、金色のライターは大きめの火を灯した。揺らぐ炎に、鉛筆よりも細い煙草の先端が押し付けられる。すぐに火が移った。
「もし、あなたが訴えたとしても、私には関係のないことよ」
ぷかぁと気持ちよさそうに煙草を蒸してから、美代は立ち上がる。
「だって、そうでしょ。私たちがあなたをここに閉じ込めたっていう証拠はあるの? 逆に、勝手にあなたがここに住み着いていたって言ってやってもいいのよ。許可なく他人の家に上がり込むことも、確か犯罪だったわよねぇ」
馬鹿を見る瞳が勝ち誇った笑みへと変わっていく。腰を屈めてふぅと煙を吹きかけられ、霞白は咳き込んでしまう。
「それに、ここから出られると思っているの」
美代は再びバッグに手を入れ、今度は携帯を取り出した。一、二個ボタンを押しただけで携帯を耳に当てる。
「来て」
たったそれだけを伝えて、電話は切られた。その、切った直後と言ってもいい。ドアが、開いた。
白の部屋に男が入ってきた。
背の高い、ガタイの良い男だった。腕には鮮血のような刺青が見える。顎の下から頬にかけて切ったような古傷があり、喉元にも同じような痕がある。似合わない金髪の髪、口ピアス、剃られた眉毛。
どこを探しても一般人的要素の見つからない男が、ドアの前には立っていた。
「無駄なことで時間を取らせないで頂戴。私は忙しいの。それに、あなたなんかが私の娘に好かれているのよ? 怒鳴られるどころか、感謝されてもおかしくないわよ」
吸いかけの煙草を床に捨て、美代は開いているドアに手をかけた。そのままするりと隙間をすり抜け、部屋を出て行ってしまう。来たばかりの男も鼻で霞白を笑いながら、部屋を出て行った。
「さ、結。今日は久々にママと遊びましょうか」
「え、ほんと! うれしい!」
仲睦ましい親子の会話を最後に、二人の声は聞こえなくなった。ドアが閉められたのだ。
部屋の中が無音となる。それでも、まだ出続けている咳と激しい心臓の音が、霞白の耳に煩いほど響いていた。
何を考えていいか、霞白は分からなくなっていた。混乱だけが霞白の呼吸を乱していく。
そうしている間に、身体が床に落ちた。頬から地面とぶつかり、頭に痛みが広がっていく。
閉じていく瞳。だが、完全に視界が奪われる前に、霞白は白の中で色を見つけた。
震える手で、それに手を伸ばす。何とか掴んで引き寄せたが、もうそれが何なのか、霞白には物の名前を思い出すこともできなかった。
ただ分かったのは、ほんのりと甘い結の香りがするということだけだ。
「ゆ、い」
訳も分からず、霞白はただその名前を呼んだもう閉じたに等しい瞳から、意味も分からずに涙が零れ落ちた。
霞白は結の香りがするタオルケットを握りしめながら、ぷつりと意識を手放した。