監禁十一日目
成人男性が動物扱いされています。苦手な方はご注意ください。
目が覚めると、まず感じるのは清潔な香りだ。
朝になると必ず身体からは石鹸、頭からはシャンプーの香り、そして消毒液の匂いがする。
服も変わっている。見るからに高級なスーツはまるで新品だ。最近では一度着たことのあるスーツを着せられている時もあるが、ほとんどが真新しいスーツだった。
ネクタイはそれこそ毎回柄や色が違う。今日は聞いたことのあるブランドマークの入ったシックのものだった。取引先の大手社長がしていたものとお揃いだと、霞白は思った。
ネクタイピンからシャツ、靴下までが高いと分かる品物たち。全て、霞白の安月給では変えないものばかりだ。
眠る前に少女に渡される毛布も色が違う。髪も綺麗に梳かれている。数日前には伸びていた爪が短くなっていた。
全身を確認してから、霞白は身体を起こした。足を抱えて、炬燵の中に入った猫のように丸くならなければ、箱の中で横になることはできない。しかし、そんな体制で寝ても、不思議とダルさはなかった。
目を擦る。目やにはない。顔のベタつきもなく、髭も生えていない。
いつ着替えさせられているのか。どんな方法で身体を清潔にされているのか。霞白はまったく分からなかった。
あえて、考えないようにしていた。
「エサだよー」
本日一回目の食事。握られたおにぎりの形は三角ではなく、円に近かった。
中身はまともな梅干しや昆布、ふりかけなどもあるが、時折チョコレートや飴玉、クッキー。蜂蜜が掛けられているものもあった。
おにぎりの時が多いが、バリエーションは様々だ。
健康のためにか野菜は多い。人参一本。半分にすらされていないキャベツ。生のネギに、皮付きのゴボウ。洗ってあることがせめてもの救いだろう。
パックの納豆や、明らかに水で作ったカップラーメンの時もある。一番驚いたのは、見るからに特上の寿司を出されたことだった。
犬用の餌皿に入れられたそれを、霞白は手を使わずに食べる。文句など勿論言えない。言えるはずがない。
手を使って食べれば食事は即没収される。そこから丸二日程、水すら貰えなくなった。実行し、それを経験した霞白は、もう二度と手では食べないと心に誓っていた。
手は皿の横に置き、少女が喜ぶ四つん這いで食べるのが基本だ。
「おいしい?」
少女はいつも霞白の食べる姿を楽しそうに眺める。
明らかに少女が作ったのであろうおにぎり。歪に切られ、盛り付けられた生野菜。料理と呼べるものではないが、少女にとっては立派に作り上げた豪華な食事なのだろう。
「……美味しい」
お世辞でしかない言葉を吐き、バナナの頭が見えている握り飯にかじりつく。
甘さと米の味が混じり合うが、吐き気を伴うほどではない。
「ほんと?」
「ああ、美味しい」
「よかったぁ!」
美味しいと言えば、少女は顔に花を咲かせたように喜ぶ。食事の度に同じ言葉を言っているが、その度に変わらぬ喜びを見せるのだ。
霞白は今日も少女の機嫌は大丈夫だと確認し、床に零したものまで舌で口へと入れた。
食事終われば箱は閉められる。
しかし、少女は側にいる。少女は箱の外の部屋で本を読んだり、おもちゃで遊んでいるのだ。
見えはしないのだが、少女が霞白に話しかけるため、何をしているか見えているようなものだった。
絵本の朗読。今積み木を三段まで重ねられたという報告。トランプを手裏剣に見立てての忍者ごっこ。少女の楽しそうな声と時にはバタバタと走り回る音が、霞白を安心させてくれた。
箱の中で少女の言葉を聞くこと数時間。霞白は身体の異変に気づき、コン、コンと箱を叩いた。それが決められた合図だ。
そうすれば、少女は持っているものを手放した。何かが落ちた音の後に、小さな足音が聞こえてくる。
「おさんぽしたいの?」
箱の蓋が開けられた。
霞白が肯けば、少女は手招きをする。霞白は大人しく立ち膝になって首を下げた。
少女の手に握られていた見た目からして丈夫な鎖が、霞白の首輪に付けられる。こうすれば、霞白は箱から出してもらえるのだ。
「はい、立って。でていいよ」
言われた通りに霞白は立ち上がる。数時間ぶりに伸された足はふらついたが、倒れることはなかった。
箱の外の景色が見える。だが、そこは箱の中となんら変わりない。
全てが白いせいで広さがよく分からない。狭いようにも見えるが、どこまでも続いているようにも見える。
窓はない。机も椅子もない。少女が遊んでいた玩具と人工的な蛍光灯があるだけの白い部屋。その中心に、霞白が入っている箱がある。
ドアは二つある。一つを右と定めれるとすれば、もう一つはその右側にある。
一つは、外へと出られるであろう扉。しかし、そこにも頑丈な南京錠がかけられている。もう一つはトイレだ。トイレの中にも窓はない。
「はいはい、だよ! ハイハイ!」
少女が床を指さす。鎖を引っ張り、霞白の身体を下へ下へと誘導していく。
霞白は顔面から落ちる前にと、自ら床に座った。そして四つん這いになる。箱から出る時以外は、霞白は二本の足で歩いてはいけない決まりとなっている。掌を床に付け、足の裏ではなく膝を使って進むのだ。
二足歩行をしようものなら、トイレへのドアは開けてはもらえない。トイレにも鍵が付いており、それを持っているのは当然少女だ。
一度ギリギリまで排泄感を我慢してしまい、箱を出た勢いで足だけでトイレに向かった時がある。トイレの前に立っても、ドアは開けて貰えなかった。
霞白がどんなに開けてくれと頼んでも、少女は頑として首を縦に振ってくれない。少女は箱を指差し、そこからやり直せという。
箱に戻れば一度閉められてしまう。そこから少女の機嫌が治るまで謝り続けなければいけない。箱から出せてもらえたとしても、部屋の中を散歩と称し、何回も四足で回ってからではないとトイレに行かせてもらえない。
その時は、少女に飛びかかって鍵を奪おうとも考えた。だが、トイレに行けたとしても、その後のことを考えてしまい、できなかった。
シュレッダーは霞白が怖がり、震えて外を歩けなくなるため、回収された。だが、部屋の外にあると少女は言った。少女に暴力を振るおうものならば、余地なくシュレッダー行きだろう。
「トイレまでおさんぽー」
少女は鎖を振り振り歩き始める。今日もトイレに直行させてくれる気はないらしく、箱を中心として回り始める。霞白は少女のすぐ後ろに従って這っていく。まだ余裕はあるものの、動く度に腹がちゃぽりと音を立てた。
少女が鎖を振り回す。重いので、ほぼ引きずってしまっていた。鉄は霞白の腹よりも大きく鳴り、少女の鼻歌さえ聞こえなくする。
霞白は少女の笑顔を確認してから、鎖の先端に目を向けた。
鎖は出口のあるドアとは反対の壁に、まるで生えているかのように固定されている。長さにして三メートル程度。部屋を歩き回り、トイレへ行ける長さはある。だが、出口へのドアへは届かない。絶妙な長さだ。
細いが結構な重みがあり、丈夫だ。霞白が少女の目を盗んで歯を立てても引っ張ってもびくともしなかった。少女がリードのように鎖を持っていなくとも、霞白は逃げることはできない。
「シロのさんぽー」
箱の周りを回るのも三週目に突入した。少女はまだ散歩を終わらそうとはしない。まだ我慢できると、霞白の顔色で分かっているのだ。霞白は膝に痛さを感じ始めながらも、小さな歩幅に合わせる。
気を逸すために、霞白は先程まで自分が入っていた箱を見た。
外から見る箱は、やはりただの箱だった。特殊な鍵などはない。外からしか開けられず、中からは決して開かない仕組みになっている。聞きもしないのに、少女が得意げにそう語っていた。
構造はカバーに隠されて見えない。カバー自体が白のため、箱の色と混じり、どこを触れば箱が空くのか見た目では分らない。少女の目があるため、触って確かめることもできない。
箱に閉じ込められている間、少女をこの中へ閉じ込めて出ようという作戦も考えた。
小さく軽い女の子だ。開けられた瞬間に中へ引きずり込み、鍵を奪う。そして少女を取り残して箱を閉める。後は鍵を使って脱出するだけだ。体格差も力の差も、霞白の方が断然上だ。成功する確立の方が高いだろう。
だが、この部屋の外に誰かがいないとも限らない。
霞白が箱の中に詰められているのは、全てが少女のせいではない。大人が関わっていることは明らかだ。
少女の叫びが聞こえれば。少女が居なくなれば。開けたドアの向こうに、敵わないような相手がいたら。
危険なことはできない。初日のように、考える前に行動すればどうなってしまうか、身体と脳に恐怖が染み付いてしまっている。
「はい、いっておいで」
様々なことを考えている間に、散歩は終わった。
二人はトイレの前にいた。鍵もドアも開けられている。ぴかりと光る白の陶器が、霞白を呼んでいる。霞白は排泄感を思い出し、四つん這いのまま駆け出した。早く走れば膝の骨がキンと響くように痛むのだが、今はそれよりも大事なことがある。
「はやくね」
少女は手を振り、ドアを閉める。鎖のせいで完全には閉まらないものの、用を足す姿は見られない。
少女は自分の手が汚れることを嫌う。清潔な環境で育ったせいか、臭いというものにも敏感だ。故に、トイレは人間という立場でできる。排泄まで犬や猫と同じようにされていたら狂っていたことだろう。
だが、ゆっくりもしていられない。遅ければ用の最中に鎖を引かれ、トイレを汚してしまうのだ。汚せば少女の機嫌は悪くなる。無言となってしまった少女に恐怖しながら過ごすことになるという経験を、もう二回もしていた。
立ち上がって早々と済ませ、ジッパーを閉める。自動に水が流れる仕組みのトイレだ。蓋も勝手に開き、閉じる。最新式だった。
手を洗ってからすぐに四つん這いになり、ドアを押して開ける。
「おかえり! じょうずにできた?」
ドアの横で待っていた少女が鎖を引く。これ以上首を締め付けられる前にと、霞白は小さく頷いた。
「よぉし! じゃあ、おさんぽもう一回ね!」
少女はご機嫌にまた歩き始めた。早くなったペースに合わせるよう、霞白も動きを早める。
何もない部屋をぐるぐる、ぐるぐる廻る。
その間、霞白はもう何も考えないようにしていた。白い床と同じように、頭を真っ白にして進み続ける。
そうしなければ、余計なことを考えてしまうのだ。
どうにか脱出できないかと散歩中に考えた結果、ドアを壊せばいいという結論に至った。少女の目が逸れた瞬間に立ち上がり、ドアへと向かった。何とか手を伸ばしてドアノブを壊れるほど回し、足を伸ばして蹴りつけた。
だが、ドアはびくともしなかった。
それどころか「にげようとした。おしおき」と、長い時間放置の刑にされた。
どれだけ合図を送っても出してはもらえない。切羽詰まり、泣きながら謝り続けるという惨めさ。しかし、そうしなければ、更なる痴態を晒すことになる。
叫びすぎて喉が痛い。空きすぎた腹も痛い。次に出して貰えた時はあるのか。あったとしても殺されるのではないか。
身体的疲労、精神的不安手に襲われながら時間を過ごしたあの時間を、霞白は忘れることができない。
何とかギリギリの所で許しを得て、股間を抑えながらの間抜けな格好でトイレに駆け込んだ。その後は泣いて謝りながら食事をした。その記憶は、まだ新しい。
それから鎖は短くされ、ドアには届きもしなくなった。
箱へ入れられるペットとされてから、まだそう長くはない。窓がなく、時計もない部屋では正確な日にちが分からないが、毎日三回出される食事で換算していけば一週間程度であることが分かる。
今日までの間、試せることは試してきた。だが、どれも失敗に終わり、罰を受ける羽目になっている。
これ以上、作戦や逃れる策を考え、実行してはいけない。最近はそう思うようになっていた。そうしなければ、身体がみじん切りになる日が来てしまう。
「シロ、おさんぽおわりだよ!」
その声で、霞白ははっと顔を上げた。
少女は箱の隣にいた。鎖を引き、箱の中を指差している。
「シロ、はうす!」
これで何度目かになるのだろう。同じ言葉を吐くのに開き始めている少女の顔が曇っている。
行動が遅れれば、ご飯抜きと言われることは分かっている。それ以上のことをされる可能性もある。
霞白は急いで這いずり、箱の中に飛び込んだ。
「じゃあ、いい子にしててね」
その声を最後にドアが開き、閉る音がした。
二回目の食事の前は、少女が部屋からいなくなる。数時間で戻ってくる時もあるが、その場合は霞白を確認し、またどこかに行ってしまう。六時間、帰ってこない時もあった。泣きながら秒数を数え続けて分かった結果だ。
戻って来ないかもしれないという不安を抱きつつ、霞白は大人しく少女が帰ってくるのを待つ。上質なスーツの上から痣をなっている膝を撫でれば、少しは慰めになる。
初めの時こそ脱出方法を考えていたが、今では泣いていることの方が多かった。
いつになったら日常に戻れるだろうか。少女が戻ってこなかったらどうしよう。病気になったら病院には連れて行ってくれるのか。
考えること全てが不安材料となり、無性に涙が出てくる。
いつ来るか分からない夢を見て、最悪の創造ばかりして、子どものように泣く。
涙でスーツがびしょ濡れになったこともあった。そうならないように、今は山のように立てた膝の間に顔を入れ、さめざめと泣くようになった。
緊急時になれば床に溜まった涙を飲むことができると思ってしまう自分を、霞白は攻められなかった。
霞白が泣きつかれて眠りについた数時間後。少女が戻ってきた。
「シロー、おきてるー?」
少女の足音で霞白は目覚める。少女が箱を開ける前にと、腕で目を擦った。
どれだけ泣いていても、涙は拭う。例え赤くなった目でバレようとも、それだけは絶対だった。最後の最後に残された、少ないプライドだった。
「あ、おきてる!」
箱が開けられた。
「ただいま」
にこにことする少女の手にはトレーがある。
それを見た途端に腹が鳴った。前の食事から随分な時間が経っているらしい。時計を見ずとも、腹時計は正確だ。
「さんぽはエサ食べてからにしよーね」
箱の中に、紐を使ってトレーが入れられる。水音がし、少し溢れて床に落ちた。
二回目の食事はスープと野菜だった。スープはコンソメの香りがし、ほんのりと温かい湯気を出している。野菜は胡瓜。皮を向いていない細長い緑が三本、トレーを占拠していた。
「はい、めしあがれ!」
少女に監視されながらの食事が開始される。まだ完全に人間外な食事の仕方を受け入れられずにいるが、食事を目の前にすれば身体は勝手に四つん這いとなってしまう。食事に顔を近づければ生唾が込み上げる。気付けば胡瓜にかぶりついていた。
長い時間をかけて、舌だけを使ってスープを飲む。胡瓜も皮ごと食べる。食べている最中に腹の中がちゃぽりと音を出すようになり、水はなるべく飲まないようにした。
その後は散歩に出してもらい、部屋を十週した。
用を済ませてから箱に戻されたが、食事が水物だったせいかトイレが近くなっていた。二回目の食事以降以外は、少女は箱の外の部屋で過ごしている。そのおかげで合図をすればすぐに出してもらうことができた。
少女が箱の外の部屋にいなければ霞白の声は届かない。部屋の壁は防音で、ドアを明けなければどんな大声でも外には漏れないのだ。一回目の食事に水物ばかりを出されていたら、粗相をしていたことだろう。
いつもは一回のところを、三回も散歩をした。面倒だと少女が不機嫌になるかと心配した霞白だったが、少女は三回とも楽しそうに鎖のリードを振り回していた。
「はい、エサよ」
本日最後の食事は肉と米だった。冷めてはいるがちゃんと焼き目がある。色も生ではなかった。
いつもより多くトイレに行ったせいか、腹もいつも以上に空になっていた。それもあるが、肉の香りが唾液を口に溜めさせる。霞白は躊躇いを忘れ、匂いに誘われるまま肉を銜えた。
肉は、霞白が今まで食べてきたものとは別物だった。肉は肉なのだがレベルが違う。一口噛むだけで、口の中で蕩けてしまうほどに柔らかかった。冷めているというのに肉汁が滴り、米を光らせる。
あまりの旨さにがっついた。見られていることも忘れそうなほど、霞白は食事に夢中となった。
美味しいかと問う少女に声で答えず、頷いてみせた。少女の嬉しそうな笑い声を聞きながら、霞白は肉と米を頬張った。
三回目の食事の後は、眠気が霞白を襲う。
急に訪れる、どうにも勝てない睡魔。ふらふらになりながらトイレを済ませ、箱の中に入る。
三度目の食事以降の時だけは、少女は散歩を強要しない。霞白はそれを疑問に思いつつも、異様な眠気により思考は停止してしまう。
どんなに不安だろうと、恐怖があろうとも。霞白の瞼は重くなり、やがて身体からは力が抜ける。
身体を丸め、箱の床に寝転がる。少女の声は全て子守唄に聞こえ、頷くこともできなくなる。
「おやすみ、シロ。大好きだよ」
最後にその言葉の意味だけを聞き入れ、記憶は途切れるのだ。
こうして、霞白の一日は終わっていく。
そしてまた、始まるのだ。朝とも夜とも分らない時間から始まる、箱の中での生活が。