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監禁二日目

監禁二日目。

男の名前は、犬のような名前に決まった。



 男が起きた時には、使い物にならないほど汚れていた服は変えられていた。

 スーツには変わらないが、男のものではない。高い生地で作られたのが一目で分かるブランド物のスーツを着せられていた。

 シャツは細いストライプの入った肌さわりのよい生地。ネクタイは艶やかに光る黒。ネクタイピンの先には青の宝石が輝いていた。

 身体も清潔にされ、肌からは石鹸の、髪からはシャンプーの香りがする。箱の中も、初めに見たただの白一色に戻されていた。僅かに消毒の匂いがした。

 排泄感も嘔吐感もない。空腹と喉の渇きはあったが、足元に置かれていた大量の果物とどんぶり一杯に入れられた水を夢中で胃に治めれば、収まった。残るは、身体のダルさだけとなる。

 それ以外が満たされた頃、ドアの開く音が聞こえた。

「おはよ」

 開いたドアは、男の入っている箱の蓋ではない。箱が置かれている部屋のドアだ。

 足音が、箱の前で止まる。人の気配が、少女が箱の前に立つ。首にある、見ないようにしていた首輪が重たく感じられた。

 これは、夢ではない。

 箱の中にいる時点で気づいてはいたが、少女の存在がさらにこれが現実だということを目の当たりにさせる。

「おはよう」

 もう一度、少女が言う。男が返事をするまで続くのはもう学習済みだ。

「おは、よう」

 まだ少し痛む喉で挨拶をすれば、気配で少女が喜んでいるのが分かった。きゃっきゃと手を叩いて跳躍する音が聞こえる。

 箱の外にいるのは紛れもなく、単純なただの子どもだ。

「ごはんは食べた?」

 男が頷く。

「おトイレはまだだいじょーぶ?」

 再び頷く。

「じゃあ、おさんぽはもうちょっとあとね」

 男が答えれば答えるほど、少女は上機嫌になっていく。声のトーンが、来た時よりも明らかに高くなっていた。

 微かに箱が揺れた。そう思った直後に、箱が開けられた。箱の中から、手の届かないような天井が目に飛び込んでくる。だが、それを遮るように、小さな顔が男の視界を埋めてしまう。

「新しいおようふく、にあうね」

 箱を覗く少女は、今日は水色のワンピースを着ていた。所狭しとリボンが並んでいる。兎のついたゴムで二つに結った髪の毛は、毛先だけをカールされていた。女性の髪形に関しては無知に近い男から見ても、大人が手を加えているのが分かった。

 穢れを知らない輝きを放つ茶の瞳が、男を見て嬉しそうに細められる。

「あばれちゃだめだよ? あばれたら、おしおきですからね」

 お仕置き。それがどんなものか聞く前に、男はこくこくと頷く。あんな大きなシュレッダーを見せられて、暴れる勇気などなかった。

 生き残るためには、逆らってはいけない。腕に爪を立て、男は恐怖でのたうち回りそうな気持ちを押さえ込む。

「ペットのご本よんだんだよ! まずはね、あ、名前をきめてあげる!」

 箱の縁に身を乗り出しながら、少女は一指し指を立てる。うきうきという文字が見えるようなはしゃぎようだった。

「そうだ! これをさんこーにするの!」

 少女がポケットを弄る。そして、長方形の紙を取り出した。

「これ、めいし、っていうのでしょ。お名前がかいてある紙。知ってるんだから!」

 男の顔の前にぶら下げられたのは名刺だった。男の名刺だ。

名刺に夢中の少女の目を盗んで、男はポケットを探る。ペンも、ハンカチもない。私物は全て没収されていた。

 昨日も同じ結果だった。なので、そう落胆は大きくない。

「えっと……白……」

 紙を見つめる少女の顔が曇っていく。名刺には会社名から住所など、難しい漢字しか並んでいない。少女の年齢では男の名前の一文字、白という漢字しか読めないようだった。

 裏返したり、横に向けたりと少女が奮闘を見せる。だが、数分もしないうちに少女はぷくっと頬を膨らませ、紙を投げ捨てた。

「シロ! あなたはきょーから、シロよ!」

 鼻めがけて指をさされる。少女はにこにこと、今決めたシロという名前を繰り返す。

 当然ながら男はシロという名前ではない。親から貰った名前を侮辱されたようで、男の眉がぴくりと動く。

「俺は、山田 霞白だ……ちゃんとした名前がある」

 冷静でいようと思っていた霞白の口が、勝手に開いていた。すぐに気づいて口を覆ったが、少女の顔は明らかに不機嫌なものとなっていた。

「もうシロって決めたの!」

 先程よりも大きく頬を膨らませ、少女は床を蹴る。

「ご主人さまにさからうなら、三日くらいエサぬきにしちゃうんだから!」

 膨れっ面は何の迷いもなくそう言った。その言葉一つで、霞白の顔が青くなる。

 少女の言葉は確実に実行される。三日間、少女は箱を開けない。食事は勿論、水すら与えてくれはしないだろう。箱の外にどんなに謝罪しようが、助けを請おうが、少女は三日、霞白の存在を無とする。

 少女と霞白が出会ってまだたったの数日。話している時間にすれば数十分もなく、顔を合わせた時間はそれよりも少ない。

 しかし、その数日でよく分かった。

 少女は嘘をつかない。

 無垢な少女は、嘘など知らないのだ。

「ごめん、なさい」

 素直に、謝罪が落ちた。

 霞白の身体は震えていた。無意識に涙すら出ていた。食べたばかりの果物が食堂から上がってきている。それを阻止するように、口元にあった指を噛んだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

 一瞬見せたプライドは粉々に砕けて消えていた。霞白はとにかく少女の機嫌を取ろうと謝罪を続ける。その他に少女を取り繕う方法は、思いつかなかった。

 もう、あんな辛い放置を受けたくはない。奴隷のような罰を受けるくらいならば、ペット扱いの方が何十倍も増しだった。

「いいよ。ゆるしてあげる。シロはだいすきな、かわいいペットだもん」

 素直に謝れば、よしよしと頭を撫でられた。その顔は笑顔だ。早速名前を使え満足している。

 痙攣するように震えていた身体は、少女のご機嫌な表情を確認して、ゆっくりと落ち着いていく。上手く取り込めなかった酸素が、喉の奥へと入っていく。

「いいこ、いいこ」

 霞白を落ち着かせるように、少女は霞白の髪を乱すように撫でる。皮膚に爪が刺さってもお構いなしだ。

 そこでふと、霞白は思い出す。数ヶ月前の記憶を。

 結婚した姉が実家に遊びに戻ってきた。その腕には、もうすぐ一歳になる子供。霞白の姪に当たる子だ。

 姪は実家の犬が好きだった。霞白になど見向きもせず、自分より倍はあるゴールデンレトリバーに向い這いずっていく。

 まだスプーンも操れない人形のような手が、きゃっきゃと犬を撫でる。だが、犬にすれば迷惑極まりない行為でしかないだろう。

 毛や耳を引っ張られる。腹をバンバンと叩かれる。遊んでもらっているというよりも、虐められているように見えてしまう。

 犬は大人しくしていたものの、いつものように尻尾を振ってはいなかった。視線を逸らし、子どもが自分に飽きるのを待っている。どことなく瞳が寂しげに見えた。

 赤ん坊に頭を撫でられていた犬はこんなにも荒んだ気持ちだったのかと、霞白は身を持って実感していた。

 あの時は、ただ可哀想な犬としか思っていなかった。まさか自分が犬の立場で物事を考えられる日が来るなど、あの時は微塵も思っていなかった。

「じゃあ、シロ。いい子にここでまっててね」

 手が、頭から離れていく。

 過去に浸っていた霞白は、一瞬にして現実へと引き戻された。

「やだっ、行かないでくれ!」

 思わず、縋る声が出た。見開いた瞳が少女に向く。手が少女に伸びたが、恐怖が勝ったのか、手は何も掴まず上がった状態で静止した。

「だじょーぶ。すぐにもどってきてあげるから」

 少女は霞白の態度に顔を綻ばせる。小さな手を横に振り、箱から手を離す。

「いや、だ……」

「いい子にまっててね。いい子でおるすばんしてたっら、エサいっぱいあげるから」

 エサという単語を出され、霞白は何も言えなくなった。少女の言葉は、裏を返せば静かに待っていなければ食事は抜きとも取れるのだ。

 霞白はそれでも嫌だ、行かないでと出そうになる情けない言葉を、口を塞いで引き止めた。

 潤む瞳が少女を見上げる。少女は霞白の双眸から視線を逸らさない。だが、手は箱を閉めるため蓋に伸びていた。

「ばいばい」

 静かになった霞白を見つめながら、少女は少し寂しそうな笑顔で蓋を閉じた。

 少女の瞳は、最後まで霞白の瞳から離れなかった。


「ただいま!」

 宣言通り、少女は霞白の精神が壊れる前に戻ってきた。

 たたた、と小さな足音が向かってくる。霞白は浅い眠りを振り払い、膝に付けていた顔を上げた。睫毛の上に溜まっていた涙がほろりと散った。

 眠りそうになりながら数えた秒数を時間に直せば、約三時間。それ以上の時間放置されていたとすれば暴れ出していたかもしれないと、霞白は思った。

 箱の外で息を切らす音が聞こえる。少女はもう、霞白を囲う壁の傍にいた。霞白はいつ天井が開いても少女の姿を捉えられるようにと、瞬きを止める。

「いい子にしてた?」

 そう言って、小さな密室が開けられた。

 少女は笑窪を作り、はぁはぁと荒い息を繰り返している。ずっと走っていたのか頬が赤らんでいた。

 少女の顔を見た瞬間、霞白は呼吸らしい呼吸を思い出した。酸素が肺に入り、生きている心地を味わう。涙が出た。

 少女の存在が、もはや霞白の精神安定剤だった。

 死なない。殺されない。見捨てられていない。まだ、大丈夫。

 心の中で何度もそう呟きながら、霞白ははらはらと涙を流す。

「さむくない?」

 霞白の涙など気にせず、少女は口角を上げる。

霞白は頷く。秋先で最近は寒くなってきたというのに、この部屋には冷えというものがなかった。

「じゃあ、あつくはない?」

 更に頷く。寒くもないが、暑い訳でもなかった。箱の中は適温に保たれている。パニック状態にならなければ適度な酸素がある。息苦しさはないはずだ。

「おなかすいた?」

 その言葉には、二度、三度と頷く。

 これを逃せばいつ食べられるか分らないという気持ちが先走り、三度では足りず四、五度と首を揺すった。

「よかった! じゃあ、いい子にしてたからごほうびで、エサいっぱいにしてあげるからね!」

 少女は一度霞白の視界から消えたが、数秒で戻ってきた。手には、足元にずっと置いてあったらしいトレーがあった。

 少女と同じほどの箱の中に入れやすいようにと、トレーの四方には紐が付いていた。四つの紐を纏めて持ち、少女は溢れないように気を付けながらトレーを下げていく。

「はい、めしあがれ!」

 箱の床にたどり着いたのは、犬の餌入れに入れられた水と味噌汁と白飯だった。

食器はともかく、普通の食事だ。空腹を感じてはいなかったが、食事を見せられた途端腹がきゅううと鳴った。口に唾液が溜まり出す。

 だが、箸はない。スプーンもフォークもない。すぐさま食べようと思っても、それができない。

 何となく、少女が言いたいことは分かった。

 だが、微かな希望を持って、霞白は食事に釘付けとなっていた顔を上げる。月のようなアーチを描く瞳は、興味を持って霞白を見つめていた。

「手はつかっちゃだめ」

 少女は悪戯めいて言う。

「じょーずに食べられなかったら、エサはぬきだからね」

 厳しい声になりながらも、少女の上機嫌さは消えない。やはりと思いながらも、霞白の心は沈んでいく。

「ほら、はやくたべて!」

 少女はばんばんと足で箱を蹴り、霞白の食事を急かす。霞白は音に肩を震わせながらも視線を落とした。

 円形で黄色の、どう見ても犬や猫に食事を与える器。そこに口を付ける無様な自分の姿が簡単に想像できた。

 人間、耐えられるものと耐えられないものがある。犬や猫と同じような行動をする。例えその扱いをされていても、自分から甘んじることは一言返事でできるものではない。

 反抗してしまいたい。

 霞白は少女に見えないように、掌に爪を立てる。だが。

「はーやーくー」

 少女は箱を蹴りながら、霞白を見下ろしている。急かしはするものの、それ以上は何も言わずに、ただ霞白がどんな行動をするかを伺っている。

 少女は、霞白を試している。

 従順なペットであるかどうかを。

 逆らった後の悲惨な末路だけは、考えたくもなかった。奴隷の扱いと巨大なマシーンが頭に浮かび、失禁してしまいそうだった。

 苦しんで死にたくない。死にたくない。

 下手なプライドを貫き、取り返しのつかないことになるくらいなら……

「っ……」

 床にしゃがみ、霞白はゆっくりと顔を皿に近づけていく。臭いが濃くなる。腹が鳴る。そこまで行ってしまえば後は勢いだった。

 舌で、味噌汁を舐めた。冷めていた。だが、味噌の味が口の中に染み渡り、舐めることを止められなくなる。ペチャペチャと、零さないように気を付けながら舌をスプーンにして液体を啜った。

 次は固形物だ。もう何の躊躇いもなく、白い米に顔を突っ込んだ。鼻や頬に米粒が付いても無視した。今度は舌ではなく歯を使って米を掻き込む。そう噛まずに飲み込んだ。

「シロ、いいこ。だいすきよ」

 味噌汁と同じようにして水を飲んでいる時、少女が霞白の頭を撫でた。

 その声は、確実に犬を嗜める飼い主の声だった。

 霞白は口を動かし、涙を流す。少女に涙を見せまいと顔を上げず、皿の底の雫一つ残さないように、舐め尽くした。


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