監禁一日目
サラリーマンが小学生に箱に監禁される話。
嘔吐などありますので、苦手な方はご注意ください。
白い箱の中で
男が目を覚ました。
酷い頭痛、軽い吐気。それに伴い身体は鉛のような重さを持っている。だが、それよりも先に男を襲ったのは、驚愕だった。
白。
右も左も上も下も同じ色。男の目の前に広がる世界は、全てが白かった。
電気などはない。壁そのものが光っているのか、漆黒ではなく白いのだ。例えるならば、そう。白い箱の中にいるようだった。
「ここは……いっ!」
立ち上がろうとすれば頭を強く打った。頭痛が悪化する。顔を顰めながら座り直し、男は拳で今しがた頭をぶつけた壁を叩く。
結構な勢いで殴ったのだが、壁はびくともしない。壊れるどころか手を痛くしただけで終わった。音からして、随分と厚い壁のようだ。
一面の白で分からなかったが、よくよく観察すれば男がいる空間は狭かった。
座った状態で背をまっすぐ伸ばすことはできるが、足を存分に伸ばせない。両腕を広げることもできない。隅に寄り、片腕を伸ばすのがやっとだ。
膝を畳み、白の壁に凭れるようにして、男はここにいた。
「どこなんだ、ここ」
眠気などすぐに飛んだ。頭痛と嘔吐感。そして節々の痛みが、これは夢ではないと教えてくれる。
「くそ……ッ」
痛む頭を押さえ、男は昨日の記憶を手繰り寄せる。
会社帰りに同僚と飲みに繰り出した。次の日が休みということもあり、二軒、三軒と店を梯子し、仕事の失敗を忘れるように馬鹿騒ぎをして飲み明かした。
三軒目までの記憶は、ある。その店を出たことも、同僚が一人、また一人と帰っていったのも覚えている。
しかし、ようやくお開きになった朝日も近い時間の帰り道から、記憶がブツリと途切れていた。
荒くなりそうな息を抑え、男は自分の身体に目を向けた。仕事用のスーツ。淡い灰色のシャツ。ネクタイは昨日と同じ、お気に入りでもない普通の青のストライプ柄だ。家には帰っていないだろうと予想が付く、昨日と何ら変わりない服装。
「ん?」
だが一つだけ、男が知らないものがあった。
首に何かが付いていた。ぐっと引き、それが何かを確認する。
「なっ……これ、は……」
男は自分の首に付いている物に、目を瞠った。
革製で、大きさを調節できるベルトのような構造。勝手に外せないようにと止め金部分には大き目の南京錠がついている。
男の首には、大型犬が付けているような黒の首輪が巻かれていた。
「何だよ、これ! 何なんだよ、どこなんだよ! こ、のっ!」
どれだけ引っ張ろうが爪で引掻こうが、首輪は取れない。
出口がない、白しかない空間。意味の分らないこの状況。頭の痛さに身体の不自由さ。最悪なことが全て重なり、不安も混ざり、男は叫んだ。
「出せ! 出せよ! 誰か! 誰かいるんだろ! 誰か助けてくれ!」
ドン!
壁を思い切り叩く。それだけでは収まらず中腰で立ち上がり、天井を押す。壁を蹴る、床を殴る。とにかく男は力の限り暴れた。
だが、部屋はびくともしない。揺れもしない。腕や足に痣ができていくだけだった。
「ねぇ、おわった?」
何十分と暴れ続け、男が息を切らして座り込んだ時だった。何も聞こえなかった外から、初めて声が聞こえた。
高く、呂律が回りきっていない声。一言聞いただけで小さな女の子のものと判断できる、可愛らしい声だった。
声はすぐ傍にあった。それを決定付けるように、とんとんと壁の外が叩かれる。
「助けてくれ!」
息切れも忘れ、男は叫んだ。
「おなか、すいてない?」
少女に確かに男の声が聞こえているはずだった。だが、少女からは男が求めていた言葉と、まったく別の言葉が投げかけられる。
まるでおままごとでもしているような少女の声に、男は思わず怒鳴るのも忘れてしまった。
「おなか、すいてなぁい?」
先ほどとは少し違うイントネーションをつけて、少女は同じことを口にする。
とんとん、とんとんと壁が叩かれる。男が黙っていれば少女はまた同じ質問を繰り返してきた。
ノックをして、また同じ言葉。ノックが一つ増え、しかしまた同じ言葉。男は、傍にいるものが機械仕掛けの人形ではないかと疑いを持ち始めた。
「すいて、る」
「やっぱり! じゃあ、エサをあげるね!」
四回目の質問をされる前に男がとりあえずと口を開けば、少女からはようやく違う言葉が発せられた。
だが、ちゃんと人間かと安心するよりも、元気がいい声だなぁと感じるよりも前に、男は少女の出した単語に我が耳を疑った。
「エサ……って、なんだ……訳が、分からない……」
「今日のエサは、ヨーグルトですからねー」
ぼそりと零れた男の声は、陽気な声に掻き消されてしまう。
箱の外から鼻歌が聞こえてくる。ぐちゃぐちゃと何か混ぜる音も聞こえ始めた。
「そんなものいらないから、ここから出してくれ!」
「ちょっと待って。今じゅんびしてるの」
「聞けよ! ここから出せって言ってるんだ!」
「いちごも入れてあげますからねー」
「聞けって!」
男がどれだけ訴えても少女は耳を貸さなかった。まるで関係のない話をしながら、リズムを付けた水音を響かせる。
話にならないと、男は再度壁を蹴った。殴った。頭を振り子にし、ぶつける。その三つを繰り返す。
五回、六回、七回……十回目に到達しない時点で、男は痛みに負けた。じぃんと痺れる手は指を握ることができない。足は痺れ、頭は朦朧とする。回りそうな目で壁を見ても、傷一つ付いていなかった。
「おわった?」
少女の言葉が初めに戻っていた。次に向けられる言葉を、男はもう知っている。
「おなかすいた?」
やはり想像していた通りの問いかけに、男は気が狂いそうだと吐き捨てた。
「出してくれ……」
「だめ」
それについては、少女の即答が帰ってきた。
「だめ。お外には出しません」
少女は、何故男がそんなことを言うのか分からないと言いたげに、不機嫌な声となっている。男が箱の中にいて当たり前。そんな声色でもあった。
同じ言語を話している少女と会話が成立していない。男は肌の下から吹き出してくる汗を感じ、身震いをした。
「頼む! 出してくれよ! くそっ、なんで、なんで俺がこんな目に!」
「だめ! 今日からあなたはわたしのペットだもん!」
「ペット……?」
再度暴れ出そうとした男は、耳に入ってきた違和感に動きを止める。
「ペットって、なんだ」
「ペットはペットだよ。今日からあなたは、わたしのペットなの。一緒にくらすの」
だから、出せない。
今度は自慢げに少女が鼻を鳴らす。箱の外で腰に手を当て、仁王立ちしている女の子の映像が頭に浮かぶ。
「なんだ、それ……」
ついていけない。意味が分からない。頭が痛い。
男は痺れの取れてきた腕で、頭を抱える。
「待ってくれ……俺は、人間だ」
「しってるよ」
「じゃあ、分かるだろう。人間はペットにはできない」
「そんなことないよ。ママはできるっていったよ」
「そんな訳がない……ママを、ここに連れてくてくれ……」
「今お出かけしちゃってるから、いないの」
男が声を出せば、少女は全てに答えてくれた。だが、男の臨むものは、何一つとして出されない。
進まない話に苛立ちが募る。そんな男に追い打ちをかけるように少女が笑った。
「わんことかにゃんこは、お散歩とか大変でしょ? うさちゃんもいいんだけど、一回飼ったからあきちゃったの。だから、あなたにしたの! すきだから!」
顔を見なくとも分かった。
円らな瞳をきらきらと宝石のように光らせ、少女は箱の前で微笑んでいる。
「だから、だめ」
その一言が、男の頭に火をつけた。
「ふざ、けるな……ふざけるな!」
「ひゃっ!」
男は力の限り壁を殴った。やはり壊れない。拳が痛みに震え、赤くなっていく。それでも男の怒りは消えなかった。
「子どものお遊びに付き合っている暇はないんだ! さっさとここから出せ!」
「だ、だめって言ってるでしょ、今日からあなたは……」
「煩い! 出せっつってんだよ! 俺はお前みたいなガキと違って暇じゃないんだ!」
男は痛む喉から声を張り上げ、怒鳴った。手が痛いということも忘れ、何度も何度も白い壁を殴る、蹴る。出せ、出せと罵声を履き続け、男は箱の中でのたうった。
しかし、それも数分で終わる。
酸欠で脳が回らなくなった。呼吸をするので精一杯で声が出せない。拳や壁で打った部分に激痛が走り、瞳に涙すら滲み出す。
「ご主人さまにそんな口の聞きかたするなんて、まったく、だめな子!」
男が静かになったのを見計らい、少女が癇癪を起こした。実際は男が暴れているときも何かを言っていたが、それは言葉として耳に入ってはいなかった。
「これは、シツケがしつよーね」
きゃんきゃんと吼える犬のような声は、怒りがあるというよりも今にも泣きそうなものとなっていく。
「ごはんもおさんぽも、なしですからねっ!」
小さな足音が、ぱたぱたと可愛らしく遠ざかっていく。
「しばらく反省してなさいっ!」
パタン。ドアの閉る音がした。
その声を最後に、少女の声はなくなった。
男が出す物音以外は、何もしなくなった。
それから男は無我夢中で鳴いた。喉から声を絞り出して咆哮した。
随分と暴れた。腕の骨が折れたと思うほど壁と戦った。
だが、やればやるほどに、どれもが無駄な行為だと分かっていった。
全身が痛む。じくじくと身体が熱かった。痣が熱を持ち、頭痛が酷く、叫ぶことは勿論声すら出せなかった。よく見れば、もう痣の色が変わり始めていた。それだけの時間が経過している。
男は壁に凭れて座り込み、目を閉じた。
頭痛がマシになるまで座っていたが、そろそろじっとしていることも辛くなってきた。
腰が痛い。同じ体制でいるのはデスクワークで慣れているが、ここまで狭い中で大人しく座っているのは初めてのことだ。身体を捻って体制を変えつつも痛さは増している。
喉も乾いてきた。叫んだせいで喉がひりついている。それ以前に、起きてから何も喉に通していない。
「おい……」
抑えながら壁をノックする。それだけで指がびりりと痛んだ。
黙って返事を待ったが、何も物音はしなかった。
どこか眺めていることも、白しかない世界ではできない。見すぎた白色を眺めていても苦しくなるだけだ。気を紛らわすには頭の中で妄想を広げることしかできない。
しかし、腰と痣の痛み、それよりも感じ始めた込み上げる整理的欲求にそわそわしてしまう。何かを考えることにも集中などできない。
「なぁ、いるんだろ?」
声は掠れきっていた。もう大声を上げても、普通の声よりも小さいものしか出なくなっていた。
「誰か、いるだろ」
それでも、喉を抑えながら声を張る。咳が出れば一度声を止めて壁を叩く。右手が痛くなれば左手で。両手が痛くなれば足で、壁を叩いた。
拳が真っ赤になり始めていた。
「出してくれ!」
喉に血の味を感じながらも叫ぶ。足と手を使って壁を叩く。どうにかして少女に、誰かに声を届かせようとする。
男は、焦っていた。
もう何時間も、壁を、床を、天井を殴っていた。蹴りもした。頭突きもした。それでも誰も現れない。
「トイレだけでも、行かせてくれ……腹が痛いんだ、頼むよ……」
嘘ではない。腹がきゅるると鳴っていた。背中の痛みは腹の痛みにかき消されていた。
朝起きて、一番にトイレに行くのが男の日課だった。酒を飲んだ日は夜に一度起きてトイレに行くのが当たり前だった。
そんな日常が、ここでは通用しない。
「おい! 聞いてるんだろ!」
ドン。天井を殴る。その度に拳と腹部が痛んだ。
キリキリとする腹が声のボリュームも下げていく。暴れたい気持ちは、振動はいけないという状況に反応して抑えられてしまう。額に冷や汗が滲む。脇汗も酷く、シャツの色が変わっていく。内股をこすり合わせる動きを止められない。
切羽詰まり、大人しくしてはいられない。
「お願いだ……!」
鼻水を出し、暴れて泣き喚いて謝罪した。もう声ではない金切り声が、獣のような声が、箱の中に響きわたった。土下座もしてみた。額を汚い床に擦り付けた。そうしながら、嘔吐した。
それでも、少女が現れることはなかった。
「五万五千一……五万五千二……」
箱の中に、数字の音だけが響く。
ひゅーひゅーと喉から吐かれる息と同じボリュームで、数字がどんどんと増えていく。何度か間違え、数字は初めに戻っている。それでも、これだけの数になっていた。
男は咳き込み、喉に血の味を感じながらも数字を言い続ける。
そうしなければ、狂ってしまいそうだった。
数字すら数えられなくなった。
何度初めからやり直しても、百以降からが分らない。分かっているのだが、口に出すことができない。
今、自分がどの数字を言っていたのかが、分からなくなってしまうのだ。
「うっ、うぇえっ」
数字のかわりに、胃液を吐いた。異臭が充満していた。
目の前に何かがいる。白い壁に何か描かれている。だが、それが何か分らない。手を伸ばしてみれば、壁は余計に模様を付けた。
男が掌を見る。血だらけだった。それに加え、涙や他の液体が付着していた。それが真っ白だった壁を汚し、絵を描いていたのだ。
そしてその自分で描いたものを、男は怖いと思った。
「あ、や……や……!」
模様が虫のように見えた。虫が迫ってくる。
ナイフのようにも見えた。ナイフが突き刺さろうと、追ってくる。
しばらく男は、狭い箱の中で回った。
白の空間に閉じ込められてからどれだけの時間が経ったか、正確には分らない。唯一男が分かっていることは、少女の言葉が本気だったということだけ。
少女は言葉通り【しばらく】ここへは来ないつもりなのだ。
「あ、あ……っ」
男の中ではもう一週間以上、ここで震えているような感覚があった。実際は数日かもしれない。はたまた、数時間しか経っていないかもしれない。
冷静になろう。そう自分に言い聞かせ何とか理性を取り戻した男だったが、もう限界だった。ここ数年は忘れていた涙が、とめどなく落ちてきてしまう。
それほどに男は疲弊していた。
白の部屋に、水や食料などある訳もない。叫びすぎて乾いた喉は張り付き、唾液すら出ない。前日に酒しか入れていなかった腹はグゥウと叫んでいる。腹が減っているのに、腹が痛い。そんな不思議な現象が起きている。
せめぎ合う生理的欲求にも耐えきれず、負けてしまった。スラックスには大人の男には不似合いな染みができている。
しばらく。
その言葉が男に重くのしかかる。
初めはこの状況を、ただの冗談だと思っていた。すぐに誰かが助けてくれるものだと思っていた。ドッキリだとも疑った。
しかし、今ではそれが浅はかだったことを突きつけられている。
子どもは嘘を付かないと、気づくべきだった。
子どもは無邪気だ。それが時に、残酷へ変わることがある。嫌がる猫の尻尾を追いかけ回す。蝉の寿命など知らず、笑顔で羽根をもぎ取る。蟻の巣にホースで水を送る。
子どもは罪だと分かっていない分、平気で残酷なことをする。
人間を狭い空間で、水も食料もなしで放置する。そうすれば人間はどうなってしまうか。子どもは、考えもしない。玩具を箱に片付けた。少女も、そのくらいの気持ちでいるのだろう。
そして、もう一つの後悔。
冷静に考えて言葉を出すべきだった、と。
この箱は、子どもが用意できる代物ではない。重さも素材も、金を掛けて作り上げられたものだ。そもそも、子どもが男をこの箱へ入れられるわけがない。
男をこの状況に追い込んだのは確実に大人の犯行だ。そうなれば、簡単にここから出してもらえる訳がない。冷静に考えればすぐに分かることだった。
これは、ただの子どもの遊びではない。
立派な、犯罪だと。
「助けて……」
何故、こんなことに。
考えても分らないことをぐるぐると考える。
誰かに恨みを買うことなどしていない。借金もない。ヤクザの知り合いもいない。男には、こうなってしまった原因が何一つ分らない。
男はいたく平凡な男だった。会社で失敗しても、上司に怒られるだけで済んでしまう平社員だ。マフィアが欲しがる情報も持っていない。命を狙われるほどの金持ちでもない。
「もう、も……う、だめ」
腕を握りすぎ、指先は白くなっていた。足を動かせば水音がする。下半身だけが惨めな冷たさを帯びて気持ちが悪い。寒気が止まらない。
男はかたかたと震え、膝に顔を埋めて少女を待つ。もう、男にできることはそれしかない。
「ごめん、なさ、い……っ」
擦れた声で助けを呼ぶ。もう何十回と謝罪を叫んだが、声は少女に届いてはくれない。
絶望だった。
空腹と喉の渇き。身体の痛みと上からも下からも覚えている排泄感。恐怖。途方もないほど長く感じる時間。プラスの要素など、何もない。
このまま死ぬかもしれない。
そう思えば思うほど、眠ることもできない。睡魔が正常な思考すら奪っていく。じっと待ち、体力を温存しておいた方がいい。そんなことすら忘れ、男はいかれた喉を酷使する。
「助けてっ……!」
ほぼ出ていない声で、そう叫ぶ。
「しにたく、ない」
男は強く、そう思った。死ぬくらいならば、今まで嫌だと思っていたことも耐えられる。そう感じていた。
毎日憂鬱だった会社に行きたい。今日の会社は無断欠席だ。明日も同じことを繰り返せば、確実にクビだろう。ただでさえ営業成績は良くないのだ。部長の怒り狂う顔が頭に浮かぶ。
成績の良い同僚に見下される映像が見えた。毎日のことだ。遅刻なんかしてる場合か、徹夜してでも書類を完璧に仕上げろよと、あざ笑う声が聞こえる。
先輩、手伝いましょうかと、馬鹿にしたような部下の声。失敗して上司に叱られているところをくすくすと笑われる。馬鹿にされていることなど、知っている。
お茶すら汲んでくれない女子社員に影口を叩かれていることも日常だった。結婚は勿論、彼氏にすらしたくないと話す高笑いは男の胃を締め付けた。
冷たくなったコンビニ弁当。サービス残業。何もすることがなくテレビを過ごして終わる休日。
男の日常は平凡とも言えないほど、荒んだものだった。楽しいことなど一つもない人生。時には、このまま死んでしまってもいいかもと思ったときもあった。
それでも男はそこに戻りたいと、心から強く願った。
ろくでもない日常が今は恋しい。あれだけ嫌だと、やめてしまいたい、逃げ出したいと思っていた日常を、男は求めずにはいられなかった。
生きていたい。
どんな惨めな生活にだろうと、戻りたい。
死にたくはない。
「ふぁーあ……」
久々に、外から音がした。
考えが中断される。男は息を止め、耳に全神経を集中させた。ぱたぱたと軽い何かが男へと近づいてきていた。
そして、
「ごめんねー、すっかりあなたのことわすれてたのー。で、どう? 反省した?」
何の悪びれもない少女の声が聞こえた。そこに怒りはない。普通の挨拶でもするような声音が男に問いかけている。
淀んでいた男の瞳に、光が走る。
まだ見えない、しかしそこにある希望に、男は縋りつく。
「ごめ、ごめん、なさい……ごめん、な、さ……っ」
プライドなどなかった。何度も何度も、謝罪を繰り返えした。
ごめんなさい、すいません、許してと、震える身体を抱きしめ、涙を流して懇願する。聞こえないかもしれないと、最後の力を振り絞って大きな声を出す。自分よりもうんと幼い少女に、助けを求める。
少女だけが男の救いだった。
少女に見捨てられれば男は。
確実に、死ぬ。
「おねが……っ、ごほ、グ……ッ」
傷んだ喉では声が思うように出ない。咳と共に喉からは胃液が出た。口を抑えても間に合わず、ぱしゃりと水溜まりの中に落ちた。もう透明な液しか出てこない。
口の中にすっぱさが広がる。ツンとした臭いにはもう、慣れてしまっていた。
「ほら、開けてあげたよ」
その言葉で、男は顔を跳ね上げた。
音もなく、箱は開けられていた。蛍光灯が見える。天井がある。そして、人影が一つあった。
「おはよ。もう朝だよ」
箱の中を覗き込んでいるのは、男が想像した通りの小さな子どもだった。
耳の横で二つに結んでいる髪は幼い印象を持つが、色は子どもにしては派手な茶色だ。だが、白とピンクのレースが多いワンピースの良く似合う、可愛らしい女の子だった。
「あーあ、ばっちい!」
くりくりとした茶色の瞳を男に向け、指をさして笑った。
涙、汗、それ以外の液体でも汚れた白の空間。床はとっくに白をなくし、嘔吐などの汚物で独特の色に染まっていた。
酷い異臭に少女が容赦なく顔を歪めた。それでも、素直になった男に満足そうな笑顔を浮かべている。
「これから、ちゃんということきく?」
もう出ない声の代わりに、男は何度も頷いた。
少女の機嫌を損ねてはいけない。逆らってはいけない。
すべてにおいて限界である男は、少女を突き飛ばして逃げるなど考えられなかった。
「なら、ゆるしてあげる! まずはおふろね。そのあとはごはんを食べさせてあげるからね」
にぱと笑う少女が、男の唯一汚れていないであろう裾部分を引っ張る。立てと言っているのだ。男は大きく頷きながら、力の入らない足を叱咤して水気のある床から腰を浮かす。
食事を、飲みのもを。睡眠を、トイレに。
様々な欲求を早く満たさせて欲しいと、男は箱の淵に手を付いて立ち上がる。
「でも、ききわけのいい子でよかった」
男が箱から顔を出す。そこで、動きは止まってしまった。
「このおもちゃと一緒にすてようかって、迷っちゃったんだから」
男の手を離し、少女は男が釘付けとなっているものの傍へ走り寄っていく。
右下にあるスイッチが押された。すると、きゅいいいんと会社で聞き慣れている音が響き始める。
「いらないものは、シュレーダーにかけてゴミ箱にぽい、だよ」
ドアのすぐ横にはシュレッダーがあった。形は会社にあるものとほぼ同じ、スタンダードなタイプだ。
しかし、大きさが違った。人の手、いや身体ごと飲み込んでしまう大きさを誇るシュレッダーが、そこにはあった。
少女は大きな穴の中に、持っていた金属のロボットを放り投げた。
ギシャン! と耳を塞ぎたくなるような音がした後に、ペキャ、ギシュ、と金属音を立てて玩具が粉砕されていく。あっという間に、玩具はただの鉄屑となって床に落ちてきた。
「今度、いうこときかないと、あーしちゃうからね?」
元玩具を指差し、無邪気に笑う少女。悪気など微塵もない。嘘など欠片も感じない。男が逆らえば、少女は本気でそれを実行するだろう。
体の震えが、消えない。
男は自分の身体が切り刻まれていく想像をしながら、気を失った。