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甘々 「病めるときも」

甘々です。

甘々

「病めるときも」


病院の廊下に置いてあるグリーンの公衆電話にたどり着く。

 ふるえる手つきで一〇〇円を財布から取りだして、職場の番号を入れると、ぶるりと全身に悪寒が走り、受話器をもったまま、あたしはしゃがみ込んだ。

 ぶー、って音と、トシジマ商事です。っていう柏木ちゃんのかわいい声。

「ずびばぜん……」

 ほとんど吐息であたしはささやいた。インフルですって。

 あらまー、って柏木ちゃんが、受話器の向こうで、驚いてる。

 今は五月だというのに、なんでまたって自分でもあきれる。季節はずれの、イヤなクジをひいてしまった。あたしは壁に寄りかかるみたいに座ったまま、目も開けられない。

 がんがん、と息をするだけで頭が脈打つような音がする。

「十時からの、打ち合わせで、使う、発注リストは……一番下のひきだしの、みどりの、ファイルで。明日以降の、予定は、キャンセル、で」

 まるでうわ言みたいに、目を閉じたまま、どうしても引き継がなきゃいけないことだけ、伝える。

 ご迷惑おかけします。失礼しますって言ったのは、何分か前だったか。

 しばらく気を失っていたようで、あたしは受話器がぶー、ぶー、ぶーって低い音を繰り返しているのを聞いて、意識を浮上させた。

「木下さん、木下さん、大丈夫ですか?」

 さっき、診察の受付をしてくれた看護士さんが、心配そうにのぞき込んでくる。

(やばい)

「だ、だいじょぶ、です」

 生まれたての子鹿のようにがくがく、と立ち上がり、受話器を本体に戻す。

「誰かに迎えに来てもらいますか? ご家族はいますか?」

「い、ません」

 群馬から出てきて、一人暮らしが四年目だ。

 あたしは、今から一人でインフルエンザを乗りきらなくっちゃ。

 かえって、気合いが入ったあたしは、財布を握りしめて立ち上がった。その看護士さんに、聞く。

「売店、どこですか?」

***

 家だ。

 あたしは、マンションの駐車場を横切り、なんとか集合ポストの前までたどり着いた。

 我が家たずねて、八00メートル。

 何度も行き倒れるかと思った。

 道の途中で、ガードレールに手をかけて、三分おきにしゃがみ込んだ。

 両手には、肩が抜けるくらい買い込んだ食料のビニール袋。

 スポーツドリンクのペットボトルが六本。飲むゼリーのパックが六つ。ヨーグルトと、みかんゼリーが四つづつと。インスタントのお粥が五つと、カップ麺のうどんが三つ。アイスとおにぎりは何個買ったのか正直覚えていない。

 途中から、買い物をする上での判断能力とかなくなってた。小銭を見もせずに、一万円を出してお釣りをしまって。

(これで、三日は大丈夫なはず)

 ともかく、家にいて、兵糧がなくなることだけはさけなくっちゃ。あたしの体はこれから戦いに行くんだから。

 マンションの入り口までたどり着いて、ほとんど絶望するような気持ちで、階段を見上げる。

 三階までたどり着くのが、地球の裏側に行くぐらいむずかしい気がした。

 それでも、行かなくっちゃ。

 歩きだそうとして、ぐらりとめまいがして、あたしはまたしゃがみ込む。

 自分の内側からわいてくる悪寒の波に、平衡感覚を失いそうになる。立ち上がる気力や歩く気力を失いそうになる。

(しっかり、しないと)

 ただ、この気持ち悪さが少し下火にならないと、立ち上がる気力がわかない。

 体のなかに、こもるような熱さと、寒気が交互におそってきて混乱してきた頃、不意に、誰かがあたしの肩に触れた。

 ぎこちなく首の間接を動かして、しゃがみ込んだまま顔を上げる。なかなかまぶたが持ち上がらない。

「行こう」

 誰かがあたしの肩を抱えて、立ち上がる。

 五本の指が、しっかりあたしの肩に当たって、あたしはそれに体重を預けて。

 両手に食い込んでたビニールが床に落ちて、あたしの体はふんわり持ち上げられて。

 もう大丈夫だ、と思ったとき、かえって体の心から力が抜ける。

 あたしは安心してつぶやいた。

「おかあさん……」

「ちげーよ、ばか」

 その人は、ひどく不機嫌そうに、あたしに言った。

***

 冷たい外気があたしの部屋をぴゅーって通りすぎたとき、わずかにたばこの気配を感じて、あたしはゆっくり目を開けた。

 視界が熱でにじんでて、なかなかピントが合わない。でも、頑張って首を巡らせていると、カラカラってガラス戸が閉じる音がして、「悪い、起こしたか」と彼の声がした。

 部屋でたばこは吸わないでって言ってるから、トモヒロは冬でもベランダに出て、たばこを吸っていた。その匂いであたしは、来てくれたのがお母さんっじゃなくってトモヒロだって知る。

「し、ごと、は?」

 思ってたより、自分の声がかれてた。どれほど寝たんだろう、外はもう夕方だった。

「まあ、気にすんな」

 トモヒロは携帯ショップで窓口業務をしてる契約社員だ。なかなか人手がないって言ってたから、そう簡単には休めないはずなのに。

 だからあたしは、彼に連絡しなかったのに。

 一人で、どうにかしようと思ってたのに。

「柏木ちゃんが連絡くれたんだ、いい子だよなあの子」

 そう言いながら、長い指が、あたしの汗ではりついた額の髪をなぜる。

「部屋の中で行き倒れてるんじゃないかって。来てみたら、案の定だし」

「だい、じょうぶ、だし」

 じつは、一人暮らしをしていて、インフルエンザにかかったのは初めてじゃない。いつも、いつだって、なんとか一人でそれを乗り越える覚悟はしていたんだ。

「あほ」

 なでてた指で、びしっとあたしの額を打った。

 結構容赦ないデコピンだ。

 くわん、くわん、と、頭の奥までよく響く。

「お前さ。今呼ばずに、いつ俺のこと呼ぶんだよ」

「だ、だって」

 熱がしみ込んでるとような涙が、ゆっくりとシーツに流れていく。

「いつも、来れるとは、限らないし」

 あたしだって大人の働く女ですから。

 仕事がある人が、そうそう簡単に抜けられないことくらい知ってる。

 あたしだって、逆の立場だったら駆けつけられる保証はない。

 現実は、有名な俳句みたいなもんだ。

 咳をしてもひとり。

 風邪をひいてもひとり。

 インフルエンザだって、ひとりだ。

 あてにしていて空振りするとか。そういうがっかりをしたくない。

「……お前、本当にバカだなあ」

 ベッドサイドに腰かけて、怒ったみたいな顔のまま、でも声だけは優しく、トモヒロが言う。

 ばかだ。本当に。

 指が、涙をたどるように目尻に触れる。

 さっきまで外にいた彼の指は冷たくて、それが気持ちいい。

 優しくされればされるほど、強がろうとした心が優しく溶けて、壊れてしまう。ひとりで頑張ろうとしたときのさみしさが刺激されて、こみ上げる。

 気がつくとあたしは、ひゃっくりをあげて泣きだしてしまった。

 寝てるままだと息苦しくって、起きあがろうとするあたしの肩を、力強い手が支えてくれる。

 さっき支えてくれたのは、この手だ。

 お母さんじゃなくて。

「ほら」

 ベッドに腰かけたまま、彼は手を伸ばした。ぐずぐず泣いてるあたしの肩を抱いたまま、まるめたティッシュが顔に当たって涙と鼻を拭ってくれる。

「……泣くほど心細いんなら、早く呼べばいいのに」

 あたしは首を振って、体をずらす。

 彼にぎゅって抱きついた。

 ネクタイをはずしたシャツは、襟がぴん、ってなってて堅い。服にこもってるたばこの匂いと、やわらかい熱。

 頭を首筋を肩を背中を、彼の手と、声が通り抜ける。

 ここにいるよ、ってゆっくりとあたしの体に教えてくれる。

 そうやって、あたしはこんなにも、彼にそばにいてほしかったんだって思い知らされる。

「……す、き」

 素直な言葉がぽろりと口から出た。

「知ってる」

 汗でべとべとになっている髪の毛に、手を入れ、ゆっくりなでながら、トモヒロは当たり前みたいに、あたしのそばにいてくれた。

***

 足でひっかけるように、ダイニングと六畳間につづく戸をあけて、両手に持ったカップ麺のうどんを、テーブルにトンとおく。

「できたぞー」

 あたしは鼻をずるずる言わせて、おでこに冷えぴた張って、はんてん着込んで、三分待つ。

 格好わるいけど、そのことが気にならないくらいには、トモヒロとの付きあいは長い。

 二人で向かいあって、いただきますって言う。

 そういえば朝からなにも食べれてなかったから、食欲がでてきて、あたしはゆっくりと、ふやけたうどんを口に入れてく。

「明日も仕事?」

「そのことなんけどさ」

 トモヒロはカップの中に割り箸を入れて、掻き揚げをふやかしてながら言った。

「おれたち、結婚しない?」

「は?」

 トモヒロはなんにもないことみたいに、ずぞーって麺をすすりあげる。

(今、そういう話をしてたっけ?)

 なんのロマンもなく、脈絡もない。

 あたしはあっけにとられてるのに、トモヒロは当たり前みたいに、続ける。

「俺だって、カノジョが病気だから、じゃ、仕事休めないし」

「あ、うん」

 事務的に伝えてきただけみたいに思ってたら、カップを置いて、こっちを見る目は真剣だった。

「あの、」

「ーーだから」

 あたしが、なにか言うのを遮って、トモヒロは続けた。

「俺のときは、お前が仕事休んで、来て」

 あたしが病気のときは、トモヒロがそばにいてくれて。

 トモヒロが病気のときは、あたしがそばにいく。

 社会人になってよくわかる。

 それは、簡単なことじゃない。

 体がぶるり、とふるえた。

 しびれるみたいに。

(でも、きっと、そういうことなんだ)

 熱を持ったあたしの頭の中が、高速で動きだす。

 それから、理解する。

 何度も、何度も繰り返し。例の言葉がかけめぐる。 

 トモヒロの手が、テーブルの向こうから延びてきて、あたしの手を握る。

「わかった?」

 せきをしても。

 風邪をひいてても。

 インフルエンザのときも。

 病めるときも、健やかなるときも。

 あたしはこれから、トモヒロと。ずっと一緒にいるんだ。


おわり

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