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微糖 「別れのボート」

微糖です。

微糖

「別れのボート」


 刑事コロンボに「別れのワイン」という話がある。ワイン醸造工場の工場長が、自分の愛するワイン工場を売却しようとするオーナーを殺してしまう、という話だ。

 コロンボは犯人とコミュニケーションをとるためにワインの勉強をする。そうして最後、犯人を追いつめたとき、一杯のワインを供するのだ。

『いい選択だ。勉強されましたね』

『恐縮です』

 チンという、澄んだグラスの音がして。

 車の中で犯人と乾杯をする。

 刑事と犯人。この乾杯のあとは、犯人は牢屋の中へ。コロンボは別の事件へ。

 決着と決別。にもかかわらずお互いへの敬意を感じる静謐とした場面。

 シリーズきっての名シーンだ。

 さて。

 あたしの前にはボートがある。

** 

「え、あの二人、ボートに乗るの?」

 通行人の声が少し離れた場所から聞こえたとき、あたしは桟橋からボートに右足を突っ込んだ。

 水面に浮かぶボートが、不安定にぐらりと揺れる。

 先に乗っていた礼文(のりふみ)が面倒くさそうに眉をひそめた。

 そこは手を差し伸べるとこなんじゃないの? 一応、彼氏としては。

「早く乗れよ」

 ムカつく。

「わかってるよ」

 右足に重心を移して、次は左足。

 ちょっとだけ、棺桶に足を突っ込んでいる気分になる。

 それもなんだか言いえて笑えた。

「あの二人、知らないのかな」

「え、なに?」

 あたしの目に、こっちを物珍しげに見てくる、犬の散歩中の女子二人組が目に映った。

「井の頭公園のボートに乗ったカップルは、別れちゃうってジンクス」

 うっさい通行人。

 知ってるよ、そんなこと。だから、乗るんだよ。

 座ると礼文(のりふみ)はやっぱり面倒くさそうにため息をついて、オールを漕ぎだす。

 日曜日。青みの濃い夏の空。ちぎれたように浮かぶ白い雲。

 買ったばっかの、半袖のワンピース。おろしたてのサンダル。お気に入りの日傘。

 完璧だ。完璧なデートだ。

 ただひとつ、あたしたちが、別れることが決まってなければ。

「これで最後だな」

 ニヤリと笑って礼文(のりふみ)のほうから切りだしてきた。

 あたしは、彼氏と一緒に乗れてうれしい! みたいに見える笑顔を作ってみせた。

「ほんとだね! もう思い残すこともないし!」

 言いきってやると、今度は礼文(のりふみ)の方がむっとした顔で黙った。

(勝った)

 小さな勝利をかみしめて、日傘をくるりと回す。

 去年買ったワンピース。デートに着ようと思ってたら、忙しすぎて、夏が終わってた。だから、来年こそデートのときにこれ着るんだって思ってって。見るたびに楽しみだった。

 やっと着れたし。思い残すことはない。

「明日からさー」

 しばらくの沈黙のあと、膝の上に肘をついて、礼文(のりふみ)があてもなく景色を見ながら言う。

 こいつの服は、勝負服でもなんでもない三年もののボーダーシャツにジーンズ。 

手抜きだ、手抜き。大学時代から、四年も付きあった彼女との最後のデートだってのに。

「もう、お前の真夜中のメールに対応しなくていいと思うとせいせいするよ。人の悪口ばっかり」

 さっきの仕返しかな。

 イヤな気持ちになることを言う。

 あたしは、小さな声でぼそって言い訳した。 

「仕事終わるのが遅いんだから、仕方ないでしょ」

「悪口は」

「……他の人には言えないじゃない」

 あたしはカフェの契約社員をしてる。嫌みなオーナーに対応したり、すぐに「休みます」っていうアルバイトの機嫌とりをして、シフトを埋めたりするのが仕事だ。そんなんばっかだ。

「お前は俺を利用してすっきり、俺は、お前の悪意に毎日どんびき」

「イヤならイヤって言えばよかったじゃん」

 あたしが、そうやって毎日メールをしたのだって、れっきとした理由がある。

「毎日、メール送れって言ったのは礼文(のりふみ)じゃん。自分からはぜったい連絡よこさないし。デートだってなんだっていつもあたしが計画してさ」

「お前だって、イヤならイヤって言えばよかっただけだろ」

 この間から口を開けばこの調子だ。

 一緒にいるときに、部屋で流す大音量の礼文(のりふみ)の洋楽がじつはイヤったとか。

 あたしのご飯はいつも味が濃くて、我慢して食べてたとか。

 しまいには、着ている服から、電気の消し方。洗う食器の順番まで。

ーー もうだめだ

 と言ったのは、どっちが先だったかな。

 もう、だめだ。そんな些細なことまで、許しあえなくなったら。

 そう思った。

「あたしから連絡するのはいいよ。礼文(のりふみ)だって、忙しいのは知ってたし」

 礼文(のりふみ)は機械整備の仕事をしてて、コピー機やFAX機械のメンテナンスや修理を請け負っていた。

「でもなんで、広島に転勤する話を知美から聞かなきゃいけないの」

「しかたないだろ、同じ会社にいるんだから」

「違う部署じゃん!」

「なんで、仕事の人間関係まで口だされなきゃいけないんだよ」

 知美は、あたしたちの大学の同級生だ。

 知美から「これを機会に結婚?」なんて連絡をもらって、あたしはそれを知った。

『え、知らなかったの』

 知美の声が、今も耳に焼きつく。

「知美より先に、連絡する暇本当になかったの」

「……。」

 ほら。あったんじゃん。

 でも、しなかったんじゃん。

(正直、わかってたよ)

 うっとうしかったんでしょ。

 礼文(のりふみ)の心が離れていくのは感じてた。

 それをどうにか気づかずに、やり過ごそうとしてた。

「もう。いいだろ。もう、終わるんだし。傷つけること言うの、やめよう」

礼文(のりふみ)から言いだしたんじゃん。メールのこととか」

「……。」

「……。」

 あたしたちのすぐ横を、空気を読まない「白鳥ボート」が通り過ぎて、ボートが揺れる。

 揺れながら、お互いボートの縁をつかんで、なにも話さない。

 あたしたち、今はもう、悪口以外話すことなんかない。

(……あっつい)

 じり、と肌が日に焼けるのがわかる。

 今日の気温は三二度。水の上とはいえ、暑いもんは暑い。っていうか、水面に太陽光線が攻撃するみたいにぎらぎら光って反射してるし。

 塗ってきた日焼け止めももう汗で流れて、腕がひりひりするし。おろしたてのワンピースだって、こんなにだらだら汗かいちゃ、洗うのめんどいし。

(こんなはずじゃ、なかったのにな)

 もう一回。好きあってたときみたいにデートをして。

 いい思い出だねとか言って。

 気持ちよく、お互いを称えあって。

 別れようと思ってたのに。

***

 あれから、どのくらい過ぎたのか。

 時々、風がボートを揺らして。

 時々、雲で日が陰って。

 あたしたちは、ただ黙って、向きあって座ってた。

 このあと、なにが起こるかあたしは知ってる。

『そろそろ帰ろうか』

 ってどっちかが言って。

 ボートは、桟橋に戻って。

 あたしたちは、別々の部屋に帰って。

 お互いの部屋にあるものを、処分して。

 アドレス帳から連絡先削除して。

 それから。普通に仕事にいく。

 あたしはカフェに。

礼文(のりふみ)は広島に。

 それで、もう会わない。

 これで、最後だ。

ーー そろそろ帰ろうか。 

 だれが言うんだろう。

 どっちから、言うんだろう。

 導火線に火が灯って、じりじりと爆発を待つみたいな気分。

 終わらそうと決めたのはあたしたち自身なのに。

「なんで、」

 礼文(のりふみ)がしゃべったとき、あたしは露骨にびくっとした。

 あたしの様子に驚いたみたいに「あ、いや」とごにょごにょ言う。「そうじゃなくて」。

「な、なに」

「なんで、ボートに乗ると別れるんだっけ?」

「ああ……」

 あたしは首をめぐらせて、池のほとりを指さした。

 赤い、小さな鳥居。

「池にまつられててる女神様が、カップルに嫉妬するんだって」

「ああ、なんかそんなこと言ってたっけ」

「あと、恋愛で入水自殺した人に呪われるんだって」

「へえ……」

 礼文(のりふみ)はあたしの方を見て、苦笑した。

「俺たち、乗らなかったのにな」

 そんな顔、久しぶりに見た。

 俺たち。とか。久々に聞いたのは。

 俺が。とか。あたしが。とか。

 そういうことばっかり言ってたから。

「今、乗ってるじゃん」

「別れるって決めたからだろ」

 別れたくないから、乗らない。

 そう決めたのは、最初のデートのときだった。

「ねえ……」

 最後だからいっか、と思って聞いてみる。

 今度は礼文(のりふみ)の方がびくっとした。「そうじゃなくて」と、苦笑する。

「なんで、イヤだったのに。メール返してくれたの」

 礼文(のりふみ)は、教えてくれなかった。

 そのかわり、こっちを見た。

 さっきまでの嫌みを言うような顔じゃなくて。

 本当にわからないんだけど、って言うみたいな。隙だらけの間抜けな顔で。

「そっちだって。なんで疲れてるのに、わざわざ毎日連絡してきたんだよ」

 あたしも言わなかった。

 あんたがメールしろって言ったんでしょとか。

 言えるはずなのに、答えが出てこない。

 代わりに質問を重ねる。

「なんで、今日は来てくれたの? 忙しいのに」

「そういう約束だったろ」

 礼文(のりふみ)はあっさり言った。

 そう。そういう話だった。

『じゃあ、もうあたしたちあのボートに乗れるじゃん』

『いいね。じゃあ最後に乗るか』

 そう言って今、ここにいる。

 つまり、あたしたちがここにいるのは、別れるためだ。

 きれいさっぱり、いい思い出にして。別れるためだ。

 きっとあと数分。

 この会話が終わったら、あたしたちはボートを返すだろう。

 さよならだ。

 そう実感したとき、おなかのあたりがぎゅっと痛くなった。

(なにこれ)

 息が、苦しい。

「どうした?」

「な、んでもない」

 とっさに笑うけど、心の中が急に冷え込んでいくのがわかる。

(ちがう)

 気づいちゃだめだ。と言い聞かせるけど。

 その思いは、どんどん確信に変わっていく。

(会わずに別れることだってできた)

 わざわざ。こんな夏の暑い日に。お互い仕事を休んで調整して。

 最後に、会いたかったのは。

 それは。

「も、戻って!」

「は?」

 あたしは、礼文(のりふみ)から目をそらして、叫んだ。

「いいから、早く岸に戻ってよっ」

「なに、トイレ?」

「ちがっ」

 トイレって言えばよかった。

 そういえば、礼文(のりふみ)はきっとすぐに岸に戻してくれたのに。

 ボートってあれじゃん。

 逃げ場がないし。隠れられないし。

 だから、

「……見ないでよ」

 とっさに持ってた日傘を礼文(のりふみ)にむけた。

 ずいぶん間抜けな光景だけど、やむを得ない。

「あほ、気持ち悪いなら、そう言えって」

 日傘の先をつかまれて、柄がつるりとあたしの手から離れる。あたしはその柄を追いかけて顔を上げてたから、自分の顔をおもいっきり礼文(のりふみ)に見せてしまった。

 とっさにうつむいたけど、間にあわない。

 うつむいた拍子にぼと、っと涙がこぼれて、ワンピースにしみた。

「おい、」

「ちがうからっ」 

 別れる前に泣くなんて。そんな惨めなことしたくない。

 まるで、すがってるみたいじゃん。

 別れないでって。

 好きだって。

「ちがう、から」

 泣いてなんかないって言いたいのに。

 ごまかそうと思えば思うほど、涙が止まらない。

「……ごめん」

 胸を張って。

 お互いを称えあって。

 いい出会いだったねって言って。

 別れようと思ったのに。

「くそ、」

 いらだたしげにぼやいて、礼文(のりふみ)が立ち上がった。

 ボートが揺れる。

 バランスをとるみたいに、礼文(のりふみ)の両手があたしの肩をつかんで支える。

 怒ってるみたいにまっすぐこっちを向いてくる目が。

 肩に触れる手の強さが。

 汗の匂いが。

 一センチ、一センチ近づいてくるたびに、あたしの体は安心しきったように、力がぬけていく。

 唇が降りてきたとき、あたしはそれを待ってたみたいに目を閉じた。

***

 体を触ることを許していない人に、触られると、体はこわばる。イヤなものはイヤだと。許さないものは許さないと体は知ってるからだ。

 でも、礼文(のりふみ)のキスは、ぜんぜんイヤじゃなかった。

 あたしはこの人を受け入れるのになんの抵抗もないんだ。

「ほら」

「うん」

 ボートから降りて、いつもデートで座ってたベンチに並んで座った。礼文(のりふみ)が缶ジュースを買ってくれて、あたしはそれを目に当てる。

 泣き顔が戻るまで、恥ずかしいからボートを下りたくないって言ったあたしに、「戻らない方がいい見せ物だぞ」って残酷な事実を告げられた。

 たしかに。

 井の頭公園の池のまわりはぐるりと遊歩道になっていて。池をガン見するかようにベンチがそこここにい置いてある。

 急に人の視線を意識しちゃって、あたしは縮こまるように体が硬直するのがわかった。

 ボートから降りるときから、さっきの自販機にいく直前まで。礼文(のりふみ)はずっと手を握っててくれた。

 蝉の声がけたたましく響く。あたしの横に座った礼文(のりふみ)がもう一回あたしの手を握った。

(……イヤじゃない)

 触れられたところから、また泣きたくなるくらいに体がほっとするのがわかる。

「どうする?」

 礼文(のりふみ)が聞いてきた。

 どうする? 別れる?

「……わかんない」

 積み重なっていたお互いのストレスがなくなったわけじゃない。

 別れようと思ったのだって、衝動的に決めたことじゃない。ずっとずっと考えてきめたことだ。それはもう、お互いわかってる。

「じゃあ、とりあえずもう来週もう一回ボートに乗るってのは?」

 答えの出せないあたしに、礼文(のりふみ)は意外な提案をしてきた。

「はい?」

「別れたらそれでおしまい」

 あたしは目に当ててたジュースをはずして、礼文(のりふみ)を見た。至ってまじめな顔をしてる。

「……別れなかったら?」

「次の週も乗る」

 次の週も。そのまた次の週も。別れるまで、試す。

 まるで、肝試しみたいなデートの約束だ。

 なんだかおかしくなって、あたしは礼文(のりふみ)の手をぎゅっと力を入れて握った。

「いいよ。賛成」

 あたしたちは、急に許すこともできないけど。

 急に別れることもできないみたいだ。


おわり

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