三、ふれて灯る
翌日。
文とともに摘みたての椿が送られてきた。
しかし、咲は文を冷静に読むことができないでいた。何故だか彼の文に綴られた文章が、彼の低い綺麗な音声で脳内再生されてしまう。
「……やだわたし、なんか変態みたいじゃないの」
真っ赤になりながら呟くと、松島がそれを微笑ましそうに見つめてくる。
なんだか、少しだけやり取りを楽しみ始めている自分が、酷く恥ずかしい。顔の見えないやり取りをあんなに馬鹿にしていたのに、顔さえきちんと見ていないのに──彼が頭から離れない。
そんな事で悶々していると、またもや数日後、彼は提案をしてきた。
今度は手だけ握りたい、だった。
このまえの様に障子を挟んで座り、ほんの少しだけ障子を開けて彼が手を差し出す、というものだ。
「……松島。手を握るだなんて、この人大した勇気よね」
「それだけ姫様に本気って事ですよ!」
そうなのだろうか。
顔は見ていないが、彼が好意を持ってくれるのならば嬉しい。
松島はそんな咲の顔を見つめて微笑んだ。
「お受けする旨の文を送りましょうか、姫様」
あんなにくだらないと馬鹿にしていたのに、もう馬鹿にはできなくなってしまった。彼とのやり取りは、純粋に楽しめた。
***
同じ時刻の同じ場所。
先に座っていた咲は、東野が来ると緊張が高まった。
声を聞いただけでもあんなに頭に残ってしまうのに、手なんて握られたらわたしはどうなってしまうのか。
まだ約束の時刻まで時間があるはずなのに、こうして早めに来ているのも、風で音がなる度酷く落ち着かなくなるのも──全て東野正昭という人に惹かれつつあるせいだ。
すると、まだ時間にはなっていないのに、障子の向こうから黒い影が現れる。
部屋に入りながら、こちらを向き、やがて安心したかのように障子の前に影は座った。
「東野正昭様でいらっしゃる?」
「ええ。待ちきれなくて早めに来てしまったのですが、まさかあなたも同じように思ってくれていたとは」
「わ、わたしはただ暇でしたので……」
見え透いた嘘を言ってしまう自分が酷く恥ずかしい。
緊張で体が強ばるが、彼との会話が始まると、その話を楽しんでしまい、あっという間に緊張も解かれてしまう。
少しの間そうして会話を楽しんでいたが、ふいに訪れた小さな沈黙が訪れ──やがて遠慮がちな声をかけられる。
「障子を開けても?」
「ほんの少しでしたら」
すると障子の向こう側の影が動き、やがてゆっくりと、本当に少しだけ障子が開かれた。
夜闇を照らす行灯の明かりすらも恥ずかしい。見えるはずもないのに、顔が見えている気がしてならない。
やがて障子の隙間から差し込まれた手に、どきりと心臓が跳ね上がった。
おずおずと、こちらへのばされた手を握り、彼の手のひんやりとした冷たさが広がる。
「温かいですね、あなたはの手は」
冬も近いこの季節、屋敷からここまで赴いてきたせいで彼の手は冷えてしまったのだろう。
「東野様は外からいらしたからですわ」
繋いだ手から、自分の考えている事が伝わらないか、早い鼓動に気づかれてはいないか、落ち着かなくて咲は呼吸すらままならなくなる。
やがて咲の手の感触を楽しむように手の甲や指を撫でられたり、強弱をつけて握られたりして、更に緊張する。
骨ばった硬い指も手も、なんだか見てはいけない気がして、真っ赤になりながら目を逸らした。
「緊張しておられる?」
低い声で至近距離から言われ、まるで耳元で囁かれた錯覚に陥る。
「殿方に手を握られた事などありませんから……」
「あなたの肌は酷く心地いい。わたしだけの物ならいいのに」
「……わたしは誰のものでもありませんわ」
誰のものになるつもりはない。しかし、女達は男の所有物である傾向があり、結婚しても位の高い家は亭主関白が基本だ。
こんな強がりを言えるのは今だけだという事を、咲はわかっている。
「……こうして実際に触れてしまうと、あなたの顔が見たくて、今すぐこの障子を開けるという不敬を働いてしまいそうだ」
「それは……」
咲も彼の顔が見たかった。見て、何の遮りもなく、話したかった。
しかし、未婚の女性が殿方にみだりに顔を見せてはいけないと教え込まれて育った咲にとって、軽々しく返事をしていいものではない。
何と返そうと迷っていると、彼は笑って、するりと手を離した。
急に温もりが消え、ひやりとした寒さに、寂しくなる。
しかし、自分から求めるような、はしたない事はできず、咲は握られていた自分の手に視線を落とすだけだった。
「やり取りを始めて、もうすぐみつきになります。そろそろ、あなたの気持ちを確かめさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「……と、言うと?」
「まず、わたしだけ顔をお見せします」
そう言う彼に、咲は戸惑った。どうやって彼の顔だけ見ると言うのか。
そう思った咲の気持ちを察したのか、東野は立ち上がりながら話を続けた。
「あなたは、そちらの部屋の明かりを消して、その少しだけ開いた障子からこちらを覗きこめばいい」
なるほど、と思って咲はすぐに奥にある行灯と、障子の近い所へおかれたものも消した。彼も障子に近い行灯は消したらしく、障子の向こう側は小さな明かりがぼんやりとあるだけだ。
咲はそっと隙間から覗き、奥で立ち上がったままこちらを見つめる彼を見た。
少ない明かりで照らし出される顔は端正で、驚くほど整っていた。
彼は見惚れるような笑みを浮かべて耳障りの良い声を発する。
「わたしの心をあなたに捧げます。わたしに寄り添ってもいいと考えて下さるなら、明後日の晩、この部屋にいらして下さい。もちろん、障子は開けて」
そう言ってすぐに踵を返して出口の扉を開けて出ていった。
颯爽と歩いていく後ろ姿を見つめながら、咲は赤くなる頬を片手で抑えた。