回想
僕が思うには、人はそれぞれ心の記憶、すなわち毎日の「感情」の記憶を持っている。僕はこれを「色の記憶」と呼んでいる。
例えば、うれしいことがあった日の色は、好きな色、いやなことがあった日の色は、嫌いな色、というようにそれぞれの日は、それぞれの色を持つ。
けれど、そんなふうに特別な日々というのは、人生のほんの数ページ程度のものでしかない。
では、大半を占めるふだんの日々、「非日常」に対する「日常」の日々の色はどんなものだろうか。
大勢の人が「退屈」とか、「つまんない」っていうんではないだろうか。
だけど、それに目を向けて、少し考えてみてはどうだろう。
ふだんの何気ない瞬間、友達と笑いながらポテトをつついたり、彼氏や彼女と手をつないで一緒に帰ったり、帰り道に猫がいたり、そういうことに何気ない、小さな幸せを必ず見つけられるはずだ。
退屈な「日常」に対して、相殺以上になるものほど幸せな「日常」を見つけるのは難しいかもしれない。けれど、一見、なんの変哲もない石ころが高価な宝石であるように気がつかないだけで、幸せの卵は案外そこらへんにころがっているものだ。
例えば、今君の横を通り過ぎた人が、生涯の伴侶や、親友になるかもしれないように、だ。
僕はその出会いを、人と人との出会いを、奇跡と呼ぶことにしようと思う。
これは、なんでもない、ごくふつうの話だ。
ごく普通の少年と、ごく普通の少女がごく当たり前に結ばれるまでの話だ。
まあ、それなりに紆余曲折を経てきたわけだし、僕たちも色々と訳あり同士だったわけだが、基本的にはただの少年少女にすぎない。この話は、あの大きな戦争の中で起きた、無数の取るに足らない話の一つでしかない。
けれど、僕たちにとってそれは特別なことだった。
この平穏な日々を、本来ありふれているはずの日常を手に入れるために、何千万もの血が流されなければならなかった。
その末に手に入れたこの日々を、僕は本当に奇跡だと思う。
そういう理由もあるけれど、僕は人と人との出会いそのものが奇跡だと思う。僕たちの、そしてすべての人の出会いが。
奇跡という言葉を良く思わない人もあるだろう。
しかしなぜ「奇跡」、神の御業、もしくは偶然の産物、こんな言葉が存在しているのだろうか。
確かに、偶然の産物なのかもしれない。けれど、間違いなく人の手である程度までは引き起こし得るものだ。
僕はなにより、「奇跡」と呼ばれる現象を信じること、そしてそれを掴み取ろうと足掻くことに意味があるのだと思う。
この回想が公開されることはないだろう。
あえてその公開されざる記録を著すのは、決して表にはされない、あの戦争の裏側を記しておかねばならないと思うからだ。
対外的には後の平和と融和へと繋がったとされるあの戦争には、幾多の悲劇があり、不条理な、そして理不尽な死があった。
それらが忘れ去られ、戦争の記憶そのものが美化されることだけは防がなくてはならない。無残に奪われた一つ一つの命には、重さがあった。彼らはただの数字ではなく、家族を、友人を、愛する人を持つ、世界に二つと無い存在だったことを、書き残しておかなければならない。
僕自身、あの戦争の最高指導者として、そして学園軍暗部トップとして数々の殺戮を指揮した立場だ。本来そういうことを述べていい立場ではないだろう。今はただ、後世の評価を待つばかりだ。
しかし、あの戦争を、世界大戦を戦った軍人の立場から書き残された資料に何らかの価値があると、今はただそう信じ、書き残すことにする。
この回想を、亡き妹に捧ぐ
永き平和の礎になると信じて