想いの残り香
魔王という名のセイレーン
-想いの残り香-
一人の青年が、夜の街を走る。
傍らには、黒い猫。
『オニサンコチラ』
声がして、青年はキョロキョロと見回す。
『クスクス…』
青年はやがてあるものを見つけた。
街の行き止まりには、キラリと光る結晶。
「…これもハズレか…くそっ」
青年は苛立ったように結晶を割った。
結晶は光を出して、どこかへ飛んでいった。
猫がにゃあと鳴いて、青年を気遣う。
「ごめんタナトス…苛立つなんて僕らしくないね」
青年は座り込み、タナトスという名の猫を撫でる。
「でも、シュベルツの命がかかってるんだ。僕だって焦る」
ごろごろと喉を鳴らしていた猫。
シュベルツという名を出すと瞳が変わったように見えた。
そしてまた猫は何かに向かって走り出した。
『オニサンコチラ…』
また、誰かの声がそこから聞こえてくる。
青年もまた、立ちあがり、その声に向かって走り出す。
「待ってて、シュベルツ。絶対君を助けるから」
青年の家には端正な顔立ちな青年が布団に入っていた――。
とある日の朝だった。
その日は家の中の静寂がいつもより耳についた。
違和感に視線をめぐらせ、床に目を落とす。
いつもは僕よりも早くに起きている、青年が寝ていた。
(珍しいなシュベルツ…起こさない方が、いいかな?)
そう思って、シュベルツという青年の眠る布団に近づく。
「…?」
(なんだか、顔色が悪いような…)
起こすかどうか迷っていると、シュベルツは目を開けた。
「あ…ミュージ…」
「!どうしたの?シュベルツ…酷い声だ」
「え…」
そう戸惑って返事をした声も、なんだかかすれている。
音に対して人より敏感な僕だ。
それでもきっと他の人も疑問に思うだろう。
(声にうるさい、セイレーンでこんなことって…)
シュベルツは、セイレーンだ。
今まで一緒に暮らしていた中で、こんなことはなかった。
人外のものの青年を見つめながら考える。
「とにかく…起きないと」
かすれた声でシュベルツは身を起こす。
しかし、何かがおかしいのはシュベルツも感じたようだった。
身を起こした瞬間、シュベルツは頭を手で押さえて固まった。
「シュベルツ…?」
「すみません、なんだか力が入らなくて」
「今までにこんなことって」
「ないで、すね…」
シュベルツはなんだか喋るのもつらそうだった。
僕は、シュベルツの肩を支え、寝かせようとする。
(…重い…本当に力が入ってない感じだ)
シュベルツをなんとか横にして、僕は傍らに座った。
「シュベルツ、昨日なにか変ったことは?」
「昨晩は、日が落ちてから少し街に出てました」
シュベルツは、日があるうちはあまり出かけない。
光に弱いからだ。
「うん…それで?」
「人がいないのを確かめて…広場で歌ってました」
「…それ、で?」
「それだけですが」
聞いた限りで変わったことはない。
(じゃあ…なんで?)
考えあぐねていると、シュベルツがドアの方を見た。
「この魔力…意外なお客様のようですね」
「え?お客様って」
「ミュージも知ってる方ですよ…」
この家を訪ねてくるものは、滅多にない。
しかも、僕の知ってる人?
ドアを開けると、そこには黒い猫が座っていた。
「もしかして…お前、タナトスか?どうした?」
「にゃあ…」
「もしかして、また死の影?シュベルツ、ごめんお願い」
死の影、というのは、この猫が死神だから。
つらそうなシュベルツ。
だけどその力を借りないと、この猫の言葉は分からない。
「…街に…私の魔力?」
「え?だってシュベルツはここに」
「ここと、街の中に…だから変だと思って来た…」
そう言って、シュベルツはため息をついた。
「ご、ごめんシュベルツ…」
「にゃあにゃあ」
なんだかタナトスもシュベルツを気遣っているようだ。
「一度街に行ってみた方がいいかな。タナトスいい?」
「にゃあ」
賛同するようにタナトスが鳴く。
「すみません…一緒に行けなくて」
「ううん、シュベルツはゆっくり休んでて」
夜を待って僕とタナトスは街に出た。
シュベルツが出かけていた時間に合わせる目的もあった。
だけど、シュベルツからあまり目を離したくなった。
こんなことは初めてだったから。
僕は、家にひとりにしたシュベルツのことを想いながら歩いた。
夜の街は人通りがやはり少ない。
「何もない…かな?ねぇタナトス」
タナトスはぴんと尻尾を立てて僕の前を歩く。
言葉が通じなくてもその緊張感は伝わる。
「…分かった。もう少し様子を見ようね」
ほぼ独り言のように言ったその時だった。
「がはははは!だからお前はよお…」
突然の大声にびっくりしたが、ただの酔っ払いの二人組のようだ。
「なんだ、びっくりした…タナトス?」
タナトスの目が変わった気がした。
タナトスは身を低くして、酔っ払いの方を見ていた。
「え?ただの酔っ払いじゃ…あれ?」
その酔っ払いの影に、小さな影が見えた。
こんな時間に、あんなに小さな子が歩いてるなんて。
そう思っていたら、ひとりの酔っ払いがせき込んだ。
「どうしたお前ぇ、飲み過ぎか?」
「いやなんだかよお、喉に違和感が」
その言葉の通り、酔っ払いの声はなんだか籠っていた。
「早く帰って酔いを覚ませ、がはははは」
もう一人の酔っ払いは気にする様子もなく二人は歩いて行った。
そして、そこには一人の少年が残った。
後ろ姿だが、何かキラリと光るものを持っているのが見えた。
そして、少年はぐっとその光るものを握った。
『こんな酔っ払いの声…ベルには似合わないけど、な』
「!」
僕は耳を疑った。
その声は、さっき通った酔っ払いの声だったからだ。
「タナトス、聞いたよね?」
僕は声をひそめてタナトスに聞いた。
タナトスのその目は間違いなく少年を見ていた。
僕は迷わず足を速めて少年に近づいていった。
その様子に気がついたのか、少年は走り出した。
「ちょ、ちょっと!君!!」
若さではやはり敵わず、少年はあっという間にいなくなった。
「駄目だ…見失った…今のは」
「にゃあにゃあ」
タナトスは何かを見つけたようだ。
地面には、少年が落とした光るものの欠片があった。
僕とタナトスは家に帰った。
シュベルツはやはり、だるそうに横になっていた。
僕が近くに寄ると眼を開けるが、顔色は変わらず悪かった。
「おかえりなさ、い…」
「無理に喋らなくていいよ」
僕は思わず手を伸ばし、シュベルツの頭を撫でた。
「すみません…」
シュベルツの頬はセイレーンだけど、ほんのりと暖かい。
「にゃあ」
「あ、ごめんタナトス。これを見なくちゃね」
僕はふところにしまってあった光るものを出した。
よく見れば、それは結晶のようだった。
「ミュージ、これは?」
「さっき、街で男の子が落としてったんだけどね」
僕はシュベルツに一連の出来事を話した。
「なるほど…タナトスの意見は?」
「にゃあにゃあ…」
タナトスは、光るものをつっついた。
すると、それはひときわ光り、音を発し始めた。
『がはははは…』
「これ、さっきの酔っ払いの声?!」
「にゃあ!」
タナトスは間違いないと言っているようだ。
しばらくすると、その結晶にピシリとヒビが入り声は止んだ。
「…どういうこと?」
「これは…声を結晶化したもの、ですね」
シュベルツが言った。
「声を結晶化?そんなこと、出来るの?」
「にゃあ…」
「…出来るか出来ないかは別として、間違いないかと」
「じゃあ、さっきの子は…」
「さしずめ…声泥棒とでも言ったところですかね…」
「そんな…」
けれど、これは紛れもなく、さっきの人の声だった。
信じられないが、事実だった。
そして僕ははたと気づく。
「この声の人…どうなるの?」
「にゃあ」
「大丈夫、ヒビが入った時に声は逃げました…」
「じゃあシュベルツも…でもまだ声は」
「ええ…どうやら私の声の結晶がどこかにあるようです、ね…」
シュベルツが少し顔をゆがめたのを僕は見逃さなかった。
「シュベルツ?…大丈夫?シュベルツ!」
「どうやら…」
その後の言葉に僕は何ともいえないショックを受けた。
「私は、歌えないと、死ぬようです」
その次の日、僕と声泥棒との追いかけっこが始まった。
声泥棒は、毎晩のように街に現れていた。
ある日は通りすがった人の声を盗んだ。
ある日は楽しそうな家から聞こえる人の声を盗んだ。
そして、何か選定をしているように、数個の結晶を置いていく。
それは僕らをミスリードする意味もあるようだった。
少年は結晶に話をさせて、自分はさっさと逃げてしまうのだ。
耳がいい僕は、すぐに結晶の声の罠にはまり、数日が過ぎていった。
今日も日が明けていき、とぼとぼと家に帰る。
「シュベルツ、ただいま…」
いつもはすぐに帰ってくるシュベルツの声。
もう随分と聞いていない。
そして、その日は様子がまた悪化していた。
「ぐ…う…」
「シュベルツ…?シュベルツ!大丈夫か?」
シュベルツの顔は真っ青だった。
それに呼吸も荒い。
本当に、シュベルツの命は失われてしまうかもしれない。
恐怖が僕を襲う。
「ごめん…ごめんシュベルツ!今日もダメだった…」
叫ぶように僕は言うと、勝手に涙が出てきた。
僕はシュベルツの肩を思わず抱きしめた。
「ミュー…ジ?…おかえ、り…」
シュベルツが言った。
その声は、もう絶え絶えで。
涙が止まらない。
「…泣いているんですか…?」
「ごめん…ごめんね…」
視界がにじんでシュベルツの顔が見えない。
本当は、今一番見たい顔なのに。
「泣かない…で…くださ…」
涙を望まないその声が、一層僕の涙を呼ぶ。
「嫌だ!シュベルツがいなくなるなんて…」
どうすればいい?
どうすれば、シュベルツを助けられるんだ?
考えるんだ…考えろ!ミュージ!!
「ミュ…ージ…歌ってくれませんか?子守歌…」
「こんな時に何を…」
「怖くて…眠れないんです…」
その言葉にはっとした。
そうだ。シュベルツが一番怖いんだ。
今まで向き合うことがなかった事象に向き合って。
「分かった…歌うよ」
涙をぬぐいながら、僕は楽譜を探した。
(…そういえば、なんで声泥棒は声を盗んでるんだ?)
そうだ。何故、普通の声はすぐに返されて、シュベルツの歌声は。
声泥棒の、欲しいものは。
僕は、夜の街の真ん中に立った。
この街全てに、ここなら響くだろう。
深呼吸をする。
そして僕は歌い始める。
シュベルツは、この罠に反対した。
僕の声も盗まれるかもしれないと。
だけど、そんなことは言っていられない。
シュベルツを失いたくない。
その為に、僕は…。
シュベルツの顔を思い出す。
何故か、悲しそうな声しか思い浮かばなかった。
僕が涙を浮かべはじめた時に、視界の先で何かが動いた。
『…うわぁ!なんだこの猫!やめろぉやめろ…っ』
タナトスが飛びかかった影を、僕は見据えた。
『っ!』
影はたじろいだが、その場から動けなかった。
「君は、タリスだね?事故で声を失った女の子、ベルの弟」
「…そうだよ。俺は、ベルのために声を…なのに!」
その声は、ガラガラだった。
きっと、彼自身もその声を姉のベルのために使って来たのだろう。
「歌を失うのは、悲しいよね…?でも、きっと」
僕は少年の目の前に立った。
「きっと、君がベルのためにこんなことをするのも悲しいと思うよ」
『…ごめんな、さい、おにいさん』
少女が、物陰から出てきた。
その声は、間違いなく、シュベルツの声だった。
『私、もう一度、歌いたかったの…』
「ベル!隠れてろって…!」
『いいのよ、タリス。私はもうこの運命を受け入れるわ』
少女は、悲しそうだったが、毅然とした態度だった。
「どうして!どうしてなんだよ!俺は、この声をわたさねぇ!」
「それは、ダメだ。許さない。僕の…大切な人の、命がかかっているんだ」
『おにいさん…その人のこと、大好きなのね』
(シュベルツの、こと?)
「うん、そうだね。大好きだよ」
大好きで、かけがえのない、大事な存在。
『そう…』
少女はそう言って、目をゆっくりと閉じ、言葉を発した。
『最後に、お願いがあります』
涙をたたえた瞳が、僕を見つめる。
『私のために、曲を書いてください』
私は何かを見ていた。
見慣れた、青年の背中。
そして、少年と少女。
二人は青年におじぎをして去っていく。
心の中に暖かいものが広がる。
もう、大丈夫な気がした。
私は、ゆっくりと目を開けた。
そこにはさっきの青年…ミュージの顔があった。
「…ミュージ…」
口に出し、その声がいつもどおりになっていることを確かめた。
「シュベルツ!大丈夫?もうどこも苦しくない?」
「ああ、もう大丈夫です」
ミュージはそれを聞いてボロボロと涙を落とし始めた。
「シュベルツ…!シュベルツ…怖かったよぉ…」
「みゅ、ミュージ、落ち着いてください」
「うわあぁぁぁぁん」
私は仕方なく、肩をそっと支えた。
ここ数日まともに見ていなかったせいか、細くなった気がする。
ミュージは数十分にわたって泣いた。
「ごめん…落ち着いた。もう大丈夫」
ミュージはそう言って私から離れた。
その目は赤く、そして、それ以上に目の下のクマが目立った。
(ずっと私のために起きてたのか…)
「いつかと、逆ですね」
「え?」
「ミュージがボロボロじゃないですか…少し、寝ましょうね?」
「その前に」
ミュージがずいっと私の顔に近づいた。
「笑って」
「…は?」
「シュベルツの笑った顔見ないと眠れない」
そんな無茶な…そう思ったが、ずっと見れなくて不安だったのだろう。
それに答えて私は懸命に、笑おうとした。
「シュベルツ…なんか怖いよ?」
「あ、笑えてないですか?」
「…馬鹿にしてるの?」
「違いますけどっ」
「もう…お仕置きでこうしてやる!」
ミュージは私の脇をくすぐりだした。
「ちょっ止めっミュ、ミュージ!」
「笑えー笑えー!」
「くっくすぐったいです!」
家のなかに、久々に笑い声が響いた。
まるで、失っていた色を取り戻したように。
張りつめていた空気も、緩んでいった。
「ところで…タリスとベルはこれからどうするんですか?」
「声泥棒は、辞めて…っていっても能力自体が一時的なものだったみたい」
「つまり、タリスの声も戻ると?」
「うん、シュベルツはセイレーンだったから、今回みたいになっちゃったけど」
「じゃあ…ベルの声に対する想いの残り香みたいなものだったんですね」
「うん…それで、タリスは今度は自分が歌えるようになりたいって練習するって」
「ベルは?」
「曲が書けるようになりたいって言ってたよ。たまに僕も見に行こうと思う」
「ちなみに、どんな曲を書いてあげたんですか?」
「…えと、『幸せになりたい』って歌」
「…まんまじゃないですか…」
「いや、だって、その…」
「まぁ深くは聞きませんが…、どんな歌詞なんですか?」
「二人の人間が、お互い違う世界に生きてても、互いがいなくちゃ幸せにはなれないって歌」
「…そうですか…相変わらずミュージらしいですね」
「楽譜はあげちゃったけど…聞きたい?」
「そうですね、気が向いた時にでも」
「うん、これからまた歌えるもんね!」
「ええ…また歌いましょう…二人で」
20100713