謝女と呼ばれた私は、婚約破棄の場で笑顔でお礼を申し上げます
「この女に近づくな! 微笑みながら人を破滅させる、謝女だ!」
殿下が私を指さして叫んだ。
シャンデリアの光の下、数百の視線が一斉に突き刺さる。
「貴様との婚約は破棄する。もう二度と、その顔も見たくな――」
「ありがとうございます」
私は笑顔でその言葉を遮った。
――この、嘘つき。
そう罵れたらどんなにいいだろう。
でも私の口は、人を貶める言葉をひとつも紡げない。
物心つく前にかけられた呪いのせいで、私に許されたのは、感謝と丁寧な言葉だけ。
だからこの口で戦う術を覚えた。
罵れないなら、微笑んで礼を言う。それが私にできる唯一の反撃。
――謝女。
殿下は今、そう言った。
礼を言われた者は失脚し、没落し、二度と社交界に戻らない。その噂とともに、人はいつしか私をそう呼ぶ。
けれどこの人は、その名を口にしながら、意味を何ひとつ分かっていない。
「……なに?」
レオンハルト殿下の眉が不快そうにゆがむ。
私はドレスの裾をつまんで、深く頭を下げた。
「これほど大勢の前で婚約破棄を宣言してくださるなんて。おかげで、証人には事欠きませんもの」
貴族の何人かが、はっと息を呑んだ。謝女が、礼を言い始めた――その意味を知る者たちだ。
怯えの広がる大広間で、たった一人、笑っている者がいた。
ミレーヌ。
薄紅の髪を巻いた可憐な少女。
右も左も分からなかった頃から、妹のように可愛がってきた。
その手が今、殿下の腕に絡んでいる。指に光るのは、かつて私に贈られた婚約指輪。
慕ってくれていると信じていた。婚約者ごと、私の居場所を奪われるまでは。
「お姉様、往生際が悪いですわ」
ミレーヌが甘い声で言う。
「感謝だなんて。強がっていらっしゃるのね。……でも、もういいの。お姉様は、じきに何もかもどうでもよくなりますもの」
勝ち誇った甘い声。
その言葉の意味を彼女は今夜にでも果たすつもりだったのだろう。
私は顔を上げて微笑む。
「本当に、感謝しているのです。心の底から」
◇
「クラウディア・エルンフェルト」
レオンハルト殿下が、指を突きつけてくる。
「お前は、呪いで幾人もの貴族を破滅させてきた。ダルトン伯もそうだ。マイヤー子爵もそうだ。お前に礼を言われた者は、みな没落した」
その声が、大広間に反響する。
「そして次は、王家だ。お前は私に取り入り、この国そのものを呪い蝕むつもりだったのだろう。もう、その手には乗らん」
「まあ、恐ろしい」
私は頬に手を当てた。
罵れないなら、問えばいい。
「その断罪、どなたのお調べで?」
「僕が自ら調べた!」
彼が胸を張る。
「お前の罪は、この僕がすべて把握している。間違いない」
「では、この裁きのすべては、殿下ご自身のお言葉。……そう、記録に残してよろしいのですね」
「当然だ」
「ありがとうございます」
また頭を下げた。
その一言に彼が言葉を詰まらせる。
「……何を、企んでいる」
「企むだなんて。私はただ、殿下のお心遣いに感謝しているだけですわ」
一歩前に出る。
「たとえば――そちらの指輪。私に贈られた婚約指輪ですけれど、あれは私の生家エルンフェルト家が王家に納めた宝石で作られたものですわ」
「それがどうした」
「婚約の証は、破棄となればしきたり通りお返しいただくもの。それとも、代金をお支払いくださいます?」
「……どちらも断る。婚約を破棄した以上、あの宝石はもうこちらのものだ」
「まあ」
両手を合わせた。
「返しもせず、払いもせず。――そう決めてくださって、心から感謝いたしますわ」
貴族の間に、小さな波が走った。
王家が、公爵家の品を証も代金もなく奪い取る。
――たった今、殿下自身がそれを大勢の前で言い切った。
「ち、違う。あれは正当な――」
「ええ、もちろん正当ですわ。殿下がそうおっしゃるのなら」
私は小首をかしげてみせた。
「返済は不要。そう受け取ってよろしいのですね? こんなにも大勢の証人の前で」
殿下の顔が赤くなり、そして青ざめた。
◇
「それに、妃教育のことも」
言葉を継ぐ。
「本来、王太子妃候補は三年の教育課程を修めねばなりません。けれど殿下は、ミレーヌにその課程を免除なさった」
「ミレーヌは聡明だ。教育など不要だ」
「まあ、なんてお優しい」
手を合わせた。
「免除してくださって、感謝いたしますわ。……ただ、ミレーヌが少し心配で」
「何がだ」
「妃ともなれば、学ぶべきことは尽きませんもの。礼法も、外交儀礼も、他国の言葉も。何も学ばぬまま王妃の座に立たされるのは、あまりにお気の毒ですわ」
諸侯の視線が、ミレーヌへ向いた。
この国の未来の王妃が、何ひとつ学んでいないという事実。
それを気遣いの形で、全員の耳に刻み込んだ。
「お、お姉様っ」
ミレーヌの声が、初めて震えた。
「わたくしを、貶めるおつもりですのっ?」
「とんでもない」
心から気の毒そうな顔をしてみせる。
「私はただ、殿下のご判断に感謝しているだけ。貶めているのは――さて、どなたでしょうね」
◇
「そういえば、殿下」
ふと思い出したように私は語りかけた。
「殿下は、ミレーヌを王城の奥までよく連れ歩いていらしたとか。薬務庫にも、ご一緒なさったそうですわね」
殿下の肩が、震えた。
「薬務庫に立ち入れるのは、本来、王室薬務官と鍵を持つ殿下だけ。国中の毒薬すら納められた、王城でもっとも厳重な場所。……そこへ、婚約者でもないご令嬢を幾度もお通しになるなんて」
「な、なぜ、その話を」
「まあ、なんて特別扱い。ミレーヌが羨ましいこと」
声だけは、あくまで柔らかく。
「あの場所で、いったい何を、お見せになりたかったのでしょうね」
殿下は答えなかった。
私は礼も言わずにただ殿下を見つめた。
謝女が、礼すら惜しむ。その沈黙の意味を、広間の誰もが読み取っていた。
殿下の額に汗がにじむ。
◇
「もう、たくさんだ!」
レオンハルトの声が、裏返った。
「聞いたか、皆! この女はこうして人を惑わし、破滅させてきたのだ! ダルトン伯も、マイヤー子爵も、この女に礼を言われた直後に没落した!」
彼は、衛兵を振り返った。
「これ以上、魔女の弁を許すな! 捕らえろ! 王家を呪う前に、この場で裁く!」
衛兵が二人、私の腕をつかんだ。
広間の空気が、ぐらりと揺れる。
呪いは、証明できない。だからこそ濡れ衣に都合がいい。
この口では、身の潔白すら叫べない。
でも――つかまれたまま、微笑んだ。
殿下。あなた、自分から名前を挙げてしまいましたわね。
◇
「ありがとうございます」
「……は?」
彼が、間の抜けた声を出した。
「お名前を挙げてくださって。心から感謝いたしますわ」
「な、何を言って」
「ダルトン伯」
静かに告げる。
「孤児院への寄付金を、長年横領していた方。この広間の皆さまも薄々ご存じでしたでしょう。……誰も、口には出さなかったけれど」
貴族の何人かが、目を伏せた。
「私が礼を申し上げた翌朝、その罪は表沙汰になりました。マイヤー子爵も同じ。領民から二重に税を搾り取っていたことが、私がありがとうと申し上げたその週に」
広間が、しんと静まっていく。
「私が礼を申し上げるのは、いつも――皆が知りながら見て見ぬふりをしてきた罪に対してですの」
まっすぐに、彼を見た。
「隠された悪事に礼を言えば、それは表に出る。私の感謝は、蓋を開ける鍵。中身を腐らせたのは、その方たち自身ですわ」
その顔から、血の気が引いた。
「そして今日――私は、殿下に、何度も礼を申し上げました」
深く頭を下げた。
「婚約指輪の踏み倒しに。妃教育の免除に。薬務庫の私用に。……そのすべてに、心から」
彼が、後ずさる。
「ああ、そうでした。薬務庫といえば」
私は、ミレーヌへ視線を移した。
「ミレーヌ。さきほど、おっしゃいましたわね。私がじきに何もかもどうでもよくなると」
彼女の笑みが強張った。
「あなたが薬務庫から小瓶を持ち出すところを、見ていた者がおりますの。この城には、私に仕える者がまだ残っておりますのよ」
「な……なんで、それを」
「その小瓶の中身を、私にどうなさるおつもりでしたの?」
可憐な顔から、血の気が引いていく。
「わ、私は……」声が裏返る。
「私は悪くないっ、殿下が、殿下がやれって言ったのよ……!」
「ミレーヌ! 黙れ!」
けれど、もう遅かった。
呪いで人を害する魔女。毒を手にしていたのは、ほかならぬこの娘だった。
「ありがとう、ミレーヌ」
できるだけ優しく言った。
「ご自分の口で、認めてくださって」
彼女が床にへたり込む。
「謝女に礼を言われた者は、終わる。……ご安心なさって」
私は二人を見た。
「お二人には、心から感謝しておりますわ」
衛兵の手から、力が抜けていく。
私をつかんでいた腕が、戸惑うように離れた。
誰も、もう止めなかった。
◇
私は彼の前に進み出て、最後に、いちばん深く頭を下げた。
「殿下。婚約を破棄してくださって、心から感謝申し上げます」
「……もう、いい。感謝など、やめてくれ」
その声は掠れていた。
「おかげで、王家の負債を引き継がずに済みますもの。……この三年、王家の財政を支えていたのが、我がエルンフェルト家の支援だったこと。婚約が破談となれば、それも消えること。ご存じなかったでしょう?」
広間の奥から父が進み出て静かに頷いた。
その一礼だけで諸侯は全てを悟った。
レオンハルトは、崩れるように床へ膝をついた。
自らの手で婚約を破棄し、自らの手で、王家を傾けた。
その傲慢さと、無知だけで。
◇◇◇
断罪劇から、三日が過ぎた。
王家は大きく揺れた。
毒殺未遂を大勢の前で自白したミレーヌは、捕らえられ、地下牢へ下った。裁きを待つ身だという。
彼女の自白で毒殺の首謀者と露見したレオンハルトは、廃嫡された。財政の破綻を恐れた国王が、真っ先に切り捨てたのだ。彼は王都のいちばん遠い塔に、幽閉されたと聞く。
私を魔女と呼んで嗤った声は、もうどこにもない。
残ったのは、謝女の名だけ。
あの日以来、噂は社交界を駆け巡った。
そして私の周りは、皮肉なほど静かになった。誰も、迂闊には近づいてこなくなったから。
後ろ暗いものを抱えた者ほど、私のありがとうに怯えるようになった。
挨拶ひとつで青ざめ、目を逸らし、そそくさと去っていく。
――呪いだと、ずっと思っていた。
人を罵ることも許されず、感謝しか紡げない口。
けれど、悪くなかったのかもしれない。
罵れないこの口だったから、私は誰も憎まずにいられた。憎しみは、言葉にした時に牙を持つ。
その日、公爵邸の庭に一人で座っていた。
誰に頭を下げる必要もない。誰かに礼を言う必要もない。
久しぶりの、静かな午後だった。
庭の薔薇が、一輪、音もなくほどけた。
その花をしばらく眺める。
――ありがとう。
声には出さなかった。
誰かを縛るためでも、誰かを終わらせるためでもなく。
ただ、そう思ったから。
生まれて初めて、私は、私のためだけに、そう呟いた。
目を閉じて微笑む。
その笑みは、誰に見せるためでもない、私だけのものだった。




