婚約破棄ありがとうございます。――感謝しか言えない「謝女」に礼を言われた者は、隠した罪ごと破滅する
7/11改稿しました
「この女に近づくな! 微笑みながら人を破滅させる、謝女だ!」
レオンハルト殿下が、私を指さして叫んだ。
シャンデリアの光の下、数百の視線が一斉に突き刺さる。
「クラウディア・エルンフェルト。貴様との婚約は破棄する。もう二度と、その顔も見たくな――」
「ありがとうございます」
私は笑顔で、その言葉を遮った。
大広間が静まり返る。
婚約を破棄されたからではない。
私が、礼を言ったからだ。
本当は、たった一言でよかった。
――この、嘘つき。
喉の奥までせり上がった言葉は、いつものように音になる前に消えた。
だから私は微笑む。
罵れない代わりに、丁寧に頭を下げる。
「これほど大勢の前で、殿下ご自身の口から婚約破棄を宣言してくださるなんて。おかげで、証人には事欠きませんもの」
貴族たちの間に、かすかな動揺が走った。
「謝女が……」
誰かが声を震わせる。
その呼び名を知らない者は、この広間にはほとんどいなかった。
私に礼を言われた者は、終わる。
そう信じられている。
「……何を企んでいる」
レオンハルト殿下の眉が、不快そうにゆがんだ。
「企むだなんて」
私は顔を上げた。
「婚約を破棄していただいたことに、感謝しているだけですわ」
殿下の隣で、たった一人、笑っている者がいた。
ミレーヌ。
初めて王城へ来た夜、迷子になって泣いていた彼女の手を、私は引いた。
『お姉様がいれば、何も怖くありません』
あのとき私の指を握りしめていた手が、今は殿下の腕に絡んでいる。
その薬指には、かつて私に贈られた婚約指輪が輝いていた。
「お姉様、往生際が悪いですわ」
ミレーヌは殿下の腕に頬を寄せた。
「感謝だなんて、強がっていらっしゃるのね。でも、もういいの」
甘い声が、広間に落ちる。
「お姉様は、じきに何もかもどうでもよくなりますもの」
笑みを浮かべたまま、私は彼女を見た。
その言葉だけは、聞き逃さなかった。
「本当に感謝しているのです、ミレーヌ」
私はもう一度、深く頭を下げる。
「心の底から」
ミレーヌの笑みが、ほんの少しだけ強張った。
彼女はまだ知らない。
私が礼を言うとき、それは降伏ではない。
始まりだ。
「黙れ!」
殿下の怒声が広間を震わせた。
「皆も騙されるな。この女は、こうして人を惑わせるのだ」
私を指す手が震えている。
「クラウディア。お前は呪いによって、幾人もの貴族を破滅させてきた。ダルトン伯も、マイヤー子爵もそうだ。お前に礼を言われた直後、あの者たちは失脚した」
「恐ろしいことですわね」
私は頬に手を添えた。
「その調査は、どなたが?」
「僕だ」
殿下は胸を張った。
「お前の罪は、僕が自ら調べ上げた。間違いはない」
「では、私が呪いによって人を破滅させたと断じ、婚約を破棄なさったのは、すべて殿下ご自身のご判断なのですね」
「そう言っている!」
「国王陛下や王室顧問会のご決定ではなく?」
「必要ない。王太子である僕の判断だ」
記録官たちが、互いの顔を見た。
この夜の祝宴には、王家の公的な記録係が置かれている。
王太子の婚約者変更を発表するために、殿下自身が呼び集めた者たちだ。
「ありがとうございます」
私は記録官へ視線を向けた。
「ただいまのお言葉、どうか一言も違えず残してくださいませ」
「……何をするつもりだ」
「殿下のお言葉を、後世まで正しく伝えていただくだけですわ」
殿下の顔が赤くなる。
「そのような小細工で、婚約破棄を取り消させられると思うな」
「取り消していただくつもりはございません」
これは、偽りではなかった。
むしろ取り消されては困る。
「私はただ、清算をお願いしたいだけです」
「清算?」
「まずは、その指輪を」
私が視線を向けると、ミレーヌは反射的に左手を胸元へ隠した。
「この指輪が、何ですの?」
「中央の紅玉は、エルンフェルト家から王家へお貸ししたものです。婚姻が成立した際に限り、王家へ正式に譲渡される契約でした」
王太子妃となる娘のために、父が選んだ宝石だった。
幼い頃、母が身につけていた紅玉。
母の死後、父が大切に保管していたものを、私の婚約のために差し出した。
それが今、ミレーヌの指で輝いている。
「婚約が破棄された以上、紅玉はお返しいただきます」
「断る」
殿下は即答した。
「あれは僕が婚約者へ贈ったものだ。僕が誰に持たせようと、勝手だろう」
「契約書には、王家への貸与と明記されております」
「王家へ納めた時点で、王家のものだ」
「では、返還義務はないと?」
「ない」
「代金をお支払いいただくおつもりも?」
「くどい!」
殿下が声を荒らげる。
「婚約を破棄された女が、宝石一つにいつまでも執着するな。返還も支払いも必要ない。これは王太子である僕の決定だ」
広間の空気が変わった。
婚約者への贈り物の話ではない。
王家が、公爵家との正式な契約を一方的に破棄すると、王太子自身が宣言したのだ。
「ありがとうございます」
私はゆっくりと頭を下げた。
「契約を守らないという王家のご方針を、これほど多くの方の前で明言してくださって」
「違う! そういう意味では――」
「返還も支払いも必要ないと、確かにおっしゃいましたわ」
記録官の羽根ペンが、紙の上を走る音だけが響いた。
ミレーヌが指輪を外そうとする。
けれど殿下が、その手を押さえた。
「外す必要はない。怯えるな」
「殿下……」
「僕が守る」
その言葉を、私はかつて信じていた。
何から守るのかも知らない人の言葉を。
「それから、ミレーヌの妃教育について確認させてくださいませ」
「今度は何だ」
「王太子妃候補は、通常三年の教育課程を修めます。外交、歴史、法、財政、他国語、王室儀礼。ミレーヌはまだ、いずれの課程も始めておりませんね」
「ミレーヌに、そのような教育は必要ない」
殿下の返答に、今度こそ広間がざわめいた。
ミレーヌが誇らしげに微笑む。
「殿下は、わたくしならすぐに覚えられるとおっしゃってくださいましたの」
「彼女は聡明だ。お前のように、何年も机にかじりつく必要はない」
「さようでございますか」
私は微笑んだ。
「ではミレーヌは、他国の使節を迎える際の席順も、条約締結時の宣誓文も、王家が喪に服している国への禁忌も、すでにご存じなのですね」
「それくらい、必要になれば覚えられますわ」
ミレーヌが唇を尖らせる。
「難しいことばかり並べて、わたくしを貶めたいのね」
「貶めるつもりなどございません」
それは私の口にはできない。
相手を傷つけようとして発する言葉は、喉を通らない。
幼い頃から私を縛っている、古い呪い。
怒りも、罵倒も、相手を責める言葉も、声にしようとすれば息だけになって消える。
私に許されているのは、礼節を失わない言葉だけ。
だから私は、事実を問う。
相手が自ら答えるまで。
「むしろ心配しているのです」
私はミレーヌを見つめた。
「何も教えられないまま、失敗すれば国の名誉に関わる席へ立たされるのですもの」
「ミレーヌを侮辱するな!」
殿下が私と彼女の間に立つ。
「教育を免除したのは僕だ。彼女には必要ないと判断した」
「承知いたしました」
私は殿下へ頭を下げた。
「責任の所在まで明らかにしてくださって、ありがとうございます」
殿下の口が閉じた。
広間の誰もが、今の言葉の意味を理解していた。
ミレーヌが王太子妃として失敗したとき、教育を受けなかった彼女だけを責めることはできない。
教育そのものを不要と断じたのは、レオンハルト殿下だ。
「殿下」
私は続けた。
「もう一つだけ、よろしいでしょうか」
「まだあるのか」
「薬務庫についてです」
殿下の肩が、わずかに動いた。
隣のミレーヌから、笑みが消える。
「王城の北棟にある王室薬務庫へ、ミレーヌを何度かお連れになりましたね」
「何の話だ」
「薬務庫の鍵は、王室薬務官と王族にしか扱えません。入室の際には、鍵番が時刻と使用者を記録する決まりです」
私は懐から、紙を出した。
原本ではない。
けれど王城の書記官が正規に作成した写しだ。
「こちらには、殿下が鍵を持ち出された日時が記されております。そのすべての日に、ミレーヌが殿下と北棟へ向かう姿を複数の侍従が確認しています」
「そんな記録が、何だというんだ」
「薬務庫には、治療薬だけでなく、王家が管理する毒物も収められております」
広間から、声が消えた。
「婚約者でも薬務官でもないご令嬢を、なぜそのような場所へ?」
「僕が何をしようと、僕の自由だ」
「では、ミレーヌを薬務庫へ入れたことはお認めになるのですね」
「入れたから何だ!」
殿下が一歩、私へ近づく。
「珍しい薬を見たいというから、見せただけだ。それの何が罪だ」
私は答えず、ミレーヌへ視線を移した。
「ミレーヌ」
「な、何ですの」
「先ほど、私がじきに何もかもどうでもよくなるとおっしゃいましたね」
「言葉の綾ですわ」
「どのような意味だったのでしょう」
「お姉様は婚約を失って、すぐに何も考えられなくなるという意味よ。悲しくて、何も手につかなくなるでしょう?」
「そうでしたか」
私は微笑んだ。
「教えてくださって、ありがとうございます」
ミレーヌの顔が青ざめた。
私が心から礼を告げた相手の、隠していた罪は、いずれ必ず人の目に触れる。
帳簿の奥から数字が見つかる。
口を閉ざしていた者が証言する。
捨てたはずの証拠が拾われる。
それが私にかけられた、もう一つの呪い。
誰かを傷つける言葉を奪う代わりに、感謝を捧げた相手の罪を、光の下へ引きずり出す。
人々は、それを私が破滅させたのだと言う。
だから、謝女。
けれど私は、存在しない罪を生み出すことはできない。
空の箱は、開けても空のままだ。
中身を腐らせたのは、いつだってその人自身だった。
「もうたくさんだ!」
殿下が声を張り上げた。
「この女の言葉を、これ以上聞く必要はない!」
衛兵を振り返る。
「捕らえろ! 王家を呪い、罪のない者たちを陥れた魔女だ!」
衛兵が二人、私の両腕をつかんだ。
広間が揺れる。
呪いは目に見えない。
だから、魔女という言葉は便利だ。
私の口では、自分を陥れた相手を罵れない。
無実だと叫ぼうとしても、その言葉に相手を責める意志が混ざれば、声にはならない。
衛兵の指が腕へ食い込む。
怖くないわけではなかった。
ここで地下牢へ送られれば、証拠が表へ出る前に口を塞がれるかもしれない。
けれど殿下は、焦るあまりに口を滑らせた。
私が待っていた名前を、自分から挙げてしまった。
「ありがとうございます」
殿下が息を止める。
「……何に対する礼だ」
「先ほど、ダルトン伯とマイヤー子爵のお名前を挙げてくださいましたでしょう」
「それがどうした」
「お二人がなぜ失脚したのか、皆さまへ説明する機会をくださったことに感謝を」
私は、腕をつかまれたまま広間を見渡した。
「ダルトン伯は、孤児院へ送られるはずの寄付金を、十二年にわたり横領していました」
何人かの貴族が目を伏せる。
知っていたのだ。
薄々は。
「私はある夜会で、ダルトン伯から『孤児たちを守るために尽力している』と伺いました。ですから、心からお礼を申し上げました」
翌朝、閉鎖された倉庫から改ざん前の帳簿が見つかった。
伯爵家の使用人が、処分を命じられた書類を隠していたのだ。
「マイヤー子爵は、領民から同じ税を二度徴収していました。私が子爵へ感謝を申し上げた一週間後、徴税官が王都へ逃げ込み、すべてを告発しました」
「偶然だ!」
殿下が叫ぶ。
「お前が裏で仕組んだに違いない!」
「では、ダルトン伯もマイヤー子爵も、罪を犯していなかったと?」
「それは……」
「横領された金も、二重に徴収された税も、私が作り出したものだとおっしゃるのですか」
殿下は答えない。
「私は罪を与えたのではありません」
静かに告げる。
「隠されたものに、礼を申し上げただけです」
私の腕をつかんでいた衛兵の力が緩んだ。
「隠された悪事に感謝を捧げれば、蓋が開く。私の言葉は、そのきっかけにすぎません」
殿下の顔から血の気が引いていく。
「そして今夜、私は殿下へ何度も礼を申し上げました」
指輪の返還を拒んだことに。
ミレーヌの教育を不要と断じたことに。
王室薬務庫へ、権限のない人間を入れたことに。
「やめろ」
殿下が呟く。
「もう、それ以上は言うな」
「ご安心くださいませ」
私は微笑んだ。
「何も隠していらっしゃらないのなら、何一つ困ることはございません」
誰かが息を呑んだ。
殿下は答えなかった。
代わりにミレーヌが、殿下の腕へ縋りつく。
「殿下、わたくしを守ってくださいますわよね」
「ああ。もちろんだ」
「お姉様が変なことを言うから、みんな誤解して……。わたくしは何もしていません。小瓶だって、まだ使っていないもの」
言葉が落ちた。
ミレーヌ自身も、自分が何を口にしたのか理解していなかった。
広間中の視線が、彼女へ集まる。
「小瓶?」
私は尋ねた。
ミレーヌの唇が震えた。
「違うの。今のは――」
「何の小瓶ですの?」
「何でもないわ!」
「薬務庫から持ち出したものではありませんか」
「違う!」
叫んだ拍子に、彼女のドレスの胸元から細い鎖が飛び出した。
先端に、小さな銀の容器がついている。
薬瓶を人目から隠して持ち運ぶための、王室薬務官用の容器。
その場にいた薬務官が、椅子を蹴って立ち上がった。
「なぜ、それをお持ちなのです」
ミレーヌは両手で容器を隠した。
「これは殿下がくださったのよ!」
「ミレーヌ!」
殿下が彼女の肩をつかむ。
「余計なことを言うな!」
「だって、殿下が!」
ミレーヌが殿下の手を振り払う。
「少しずつ飲ませれば、考える力がなくなるって言ったじゃない! お姉様が自分から婚約を辞退したように見せられるって!」
誰も動かなかった。
誰も、声を発しなかった。
ただ記録官の手だけが、震えながら紙の上を走っている。
「違う」
殿下が首を振る。
「僕はそんなことを言っていない」
「言ったわ! 薬務庫へ連れていって、これならすぐには死なないから疑われないって!」
「黙れ!」
「わたくし一人のせいにするつもりなの!?」
ミレーヌの目から、涙があふれた。
かつて私に向けていたのと同じ目だった。
助けてほしいと訴える目。
初めて王城で迷子になった夜、私はその手を取った。
けれど今は、取らない。
私は彼女へ、できるだけ穏やかに微笑みかけた。
「ありがとう、ミレーヌ」
彼女の肩が跳ねた。
「ご自分の口で、話してくださって」
「いや……」
後ずさったミレーヌの足がもつれ、床へ崩れ落ちる。
「嫌。お礼なんて言わないで」
「心から感謝しております」
「やめて!」
ミレーヌの悲鳴が、大広間に響いた。
私の腕をつかんでいた衛兵たちが、完全に手を離す。
代わりに王室警護隊長が進み出て、殿下とミレーヌの間に立った。
「薬瓶をお渡しください」
「僕に命令するのか!」
「毒物の不正持ち出しと、公爵令嬢への投薬計画について、確認が必要です」
「僕は王太子だぞ!」
「だからこそです」
隊長の声は冷たかった。
殿下が周囲を見回す。
誰も目を合わせなかった。
先ほどまで彼の言葉に頷いていた者たちさえ、一歩ずつ距離を取っている。
王太子の権威よりも、目の前で交わされた自白の方が重い。
「クラウディア」
殿下が私を見る。
その顔には、もう怒りはなかった。
ただ、怯えだけがある。
「お前は、僕を破滅させるつもりだったのか」
私は首を横に振った。
「いいえ」
「嘘をつくな!」
「私は殿下のために、三年間できる限りのことをしてまいりました」
妃教育を受けた。
王家の借財を整理した。
諸侯の不満を聞き、父に頭を下げ、エルンフェルト家の信用を使って資金を集めた。
殿下が失言すれば、その意図を穏便に説明した。
約束を忘れれば、相手へ詫びた。
王太子として立っていられるよう、隣で支え続けた。
けれど、それを言えば殿下を責めることになる。
だから私の喉は、苦い息しか通してくれない。
代わりに、私は礼を言う。
「殿下」
彼の前へ進み、今夜いちばん深く頭を下げた。
「婚約を破棄してくださって、心から感謝申し上げます」
「もういい」
殿下の声が掠れる。
「感謝など、やめてくれ」
「おかげで私は、王家の負債を引き継がずに済みますもの」
殿下が顔を上げた。
「……負債?」
「この三年間、王家が諸侯と商会から受けた融資には、エルンフェルト家が保証をつけております」
広間の奥で、それまで黙っていた父が一歩前へ出た。
「保証契約は、娘と王太子殿下の婚姻を前提としたものです」
父の声は静かだった。
「婚約が殿下のご意思で破棄された以上、我が家が保証を続ける理由はございません」
「待て」
殿下の声が震える。
「婚約と国の財政は別の話だろう」
「契約書には明記しております」
父は一通の書面を掲げた。
「殿下も署名なさったはずですが」
「僕はそんなもの、読んでいない」
誰かが、低く息を吐いた。
それが決定的だった。
王太子が、国の財政に関わる契約書を読まずに署名した。
その事実まで、自分の口で認めた。
「ありがとうございます」
私は最後の礼を告げた。
「ご存じなかったことまで、皆さまの前で明らかにしてくださって」
殿下の膝が折れた。
磨かれた床へ手をつき、呆然と私を見上げる。
「僕は……知らなかっただけだ」
その言葉に、答える者はいなかった。
知らなかった。
読まなかった。
学ばなかった。
支えていた人間を見なかった。
そして知らないまま、すべてを自分のものだと思っていた。
殿下を破滅させたのは、私の感謝ではない。
その無知と傲慢さだった。
◇
あの夜から三日後、レオンハルト殿下は王太子の座を失った。
王室薬務庫への不正入室。
毒物の持ち出し。
私への投薬計画。
公爵家との契約を公の場で破棄したこと。
国の財政に関わる書面を読まずに署名していたこと。
どれも、私が作り上げた罪ではない。
大勢の証人の前で、殿下とミレーヌが自ら明らかにしたものだった。
ミレーヌは地下牢へ送られた。
彼女が持っていた薬瓶からは、少量ずつ服用すれば判断力を鈍らせ、量が重なれば命を奪う毒が見つかったという。
最後まで彼女は、自分一人の考えではなかったと訴えていた。
その言葉もまた、記録に残された。
国王陛下は、事件が王家全体への不信へ広がることを恐れ、殿下を即座に廃嫡した。
エルンフェルト家は王家への保証を打ち切った。
王家は領地の一部と宝物を手放し、負債を整理することになった。
私に贈られた紅玉も、数日後、傷一つない姿で返還された。
けれど私は、その指輪を二度とはめようとは思わなかった。
母の紅玉は、指輪から外して保管することにした。
誰かとの約束の証ではなく、母が生きていた記憶として。
謝女の噂は、以前よりも広く王都を巡った。
私に礼を言われた者は、隠していた罪ごと破滅する。
後ろ暗いものを抱えた者ほど、私を避けた。
夜会で目が合っただけで青ざめる者。
私が口を開く前に立ち去る者。
過去の行いを思い出し、突然寄付や返済を始める者まで現れた。
私の周囲は、皮肉なほど静かになった。
以前の私は、この呪いを憎んでいた。
怒ることもできない。
罵ることもできない。
傷つけられても、相手へ同じ痛みを返す言葉がない。
微笑み、丁寧に話し、礼を告げるしかない。
そのたびに、私は自分の怒りまで奪われたように感じていた。
けれど、本当は違った。
怒りは消えていなかった。
言葉にならないまま、ずっと私の中にあった。
呪いが私を優しくしたわけではない。
ただ、怒りをそのまま相手へ投げつけることを許さなかった。
だから私は、事実を集めた。
契約を読んだ。
証人を確かめた。
相手が自分の口で認めるまで、問い続けた。
罵れない代わりに、私は、相手が逃げられない言葉を覚えた。
けれど、もう誰かを追い詰めるために、その言葉を選ぶ必要はなかった。
事件の後始末が一段落した日の午後、私は一人で公爵邸の庭にいた。
夏の光が、薔薇の葉の隙間から落ちている。
もう王城へ向かう必要はない。
殿下の予定を確認する必要も、誰かの失言を取り繕う必要もない。
誰かのために微笑む必要さえなかった。
一輪の薔薇が、風もないのにほどけた。
重なっていた花びらが、ゆっくりと外へ開いていく。
私はそれを、しばらく眺めていた。
「ありがとう」
小さく呟く。
誰かの罪を暴くためではない。
自分を守るためでもない。
誰かに許された言葉だからでもない。
ただ、美しいと思ったから。
その言葉を口にしたかったから。
薔薇は何も隠していなかった。
だから、何も起こらない。
誰も失脚せず、誰も捕らえられず、静かな庭に私の声だけが残る。
生まれて初めて、私の「ありがとう」は、誰のための武器でもなかった。
私は目を閉じて微笑んだ。
その笑みは、誰にも見せる必要のない、私だけのものだった。
ここまで読んでいただきありがとうございます
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけるとありがたいです




