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人の環り

掲載日:2026/06/07

 疲れた。

 脳が完全に疲弊して、ろくな思考もままならないままに歩く。疲れた。疲れたな。疲れたかな。そうやってその言葉だけが頭の中でぐるぐると回って、それ以外のことは思考としての形を成す前に、「疲れた」という言葉に塗り潰される。俺はそれでよかった。考えたくないことの方が多い。二十三時過ぎ、駅からアパートに向かって住宅街をとぼとぼと歩く俺の足は果てしなく重い。ふと、家が途切れて小さな公園が現れる。住宅街の中にある、小さな公園。どの街に行っても、大体あって、同じような遊具が数種類だけ置かれている。ブランコとか滑り台とか、あとは意味があるのか分からない背の低い柵とか。こういう公園を通り過ぎる度に、今はもうおぼろげになってしまった名前も知らないままに別れた男の顔が俺の脳裏を掠める。たった数日、俺の人生に足を踏み入れて、笑って、話して、そして去っていった男。おっさん、やっぱり俺も無理みたいだ。俺は、吸い込まれるように公園に入り、街灯の下に置かれたプラスチック製のベンチに腰掛ける。いつだったかな。もう十数年も前の話。俺は中三で、おっさんは二十八だった。

 ベンチに座り、ネクタイを緩めて息をつくと、疲労は瞬く間に全身に充満して、間もなくして吹き出した眠気に、俺は身を任せるように目を瞑った。



 風に揺らされる木々のざわめきと、見上げた樫の木の葉っぱをくぐって時折僕の目に届く陽光の眩しさを、僕は古ぼけた軋む木製のベンチに腰掛けて、ただ享受していた。じわりと額から流れた一筋の汗が、眉を通り過ぎ、睫毛に馴染んで目に染みた。ゆらゆらと揺れる木の葉の緑は、美しかった。

 今ごろ学校は給食が終わって昼休みの時間かな。去年の二学期頃から、徐々に頻度が減った僕の登校は、今では週に一回程度。それも保健室に行って、先生や支援員が用意してくれた宿題のプリントをやったり、そのまま受け取って帰ったりするだけ。初めの内は感じていた「学校に行かなきゃ」という焦燥感は、いつの間にかなくなっていて、「そのうちどうにかなるかな」みたいな、淡い期待だけして生きている。ゴールデンウィークが明けてもう六月になろうというのに、学校に行ったのは片手で数える程だ。今日は頑張ったと思う。母さんも父さんも仕事に出た後、寝てしまおうかと思ったけど、一応制服を着て学校に行って、渡された宿題をやって帰って来た。ずっと家にいると、次第にすることもなくなってきて、最近はスマホを持たずに家を出て、この公園でただぐったりすることがマイブームになっている。たまに小説を読む。どうすればいいだろうか、何をしたらいいだろうか、という泡沫の思考ができては弾けて、それを繰り返しながら、僕は空を見て、たまに悲しくなる。この公園は基本誰も来ない。住宅街の家と家に挟まれた一角で、鉄棒とブランコとこのベンチだけが申し訳程度に置かれている。誰もいない。それが心地良くて、少し寂しかった。でもそれでよかった。社会を諦めたい訳ではないけど、今は、これでいいと思いたい。できるだけ難しいことや悲しいことは考えずに時の流れに身を任せていたい。

「おーい、おい。なにしてんの?」

 自然の揺らぎに身体を預けながら、半ば眠るように時間を溶かしていた僕の安らぎは一瞬にして崩れ去った。突然聞こえた呼びかけが、夢うつつの意識を強引に現実に引き戻す。僕は反射的に「はいっ!」と素頓狂なトーンで返事をして、顔を声がした方にぐいっと向けた。公園の入口に、左手に缶コーヒーをぶら下げた男が煙草を咥えて立っていた。歳は三十前後くらいだろうか。僕の脳は物凄い勢いで回転を始め、視界が捉えた男の正体を考え始めた。指導員、にしては格好が見窄らしい。不審者、だろうか。いや、それにしては表情がやけに柔らかいような。僕は素性の知れない男に若干の恐怖を覚え、いつでも立てるよう身体を起こしながらも、とりあえず座ったまま、男を観察していた。男はそんな僕の逡巡を察したかのように、笑いながらゆっくりとこちらに向かって来る。

「そんな怪しいもんじゃないよ。ただの近所のお兄さん。そんで君、ここでなにしてんのって」

「いや、僕は普通に休んでただけで、別になにも」

 僕は少しだけ身体の緊張を解いて、問いかけに答えた。男は、僕が腰掛けたベンチの空きを指差して、「ここ座っていい?」と言って、僕の返事を待つ前に腰掛けた。頼りない木の板がみしっと音を立てる。

「君、制服着てるけど、あそこの中学の子? まだ学校の時間じゃないの?」

 男は立て続けに質問を飛ばしてくる。近くでよく見ると、無精髭が顔を薄く覆い、着ているグレーのTシャツはよれていて、所々にシミがある。足元を見ると裸足にサンダルで、「見窄らしい」という形容詞がぴったりと似合う男だった。

「学校、ほとんど行ってなくて……」

 その言葉は、驚くほどにするりと僕の口をついて出た。ほぼ不登校だなんて、初対面の人に言うことではない。けれど、この男にはなぜか話してもいいと思ってしまった。男の何が僕をそうさせたかは分からなかったけれど、どことなく親近感のようなものを僕に感じさせていた。男は僕の言葉を聞くと、少しだけ申し訳なさそうな顔をして、鼻を鳴らすように「ふーん」と言いながら、煙草に口をつける。僕はその横顔を黙って見ていた。ふと、「それでは男はなにをしているのか」という疑問が湧いた。平日の真昼。このくらいの年齢の男なら普通は仕事でもしている時間ではないだろうか。

「おじさん……は、ここでなにしてるんですか?」

「んー、暇つぶしかな。暇だからちょっと付き合ってよ。てかおじさんって酷いな。まだ二十八なんだけどなあ。まあ君くらいの子から見たらおじさんか、おじさんでいいよ」

「すみません。じゃあ、おじさんで。……仕事とかは行かなくていいんですか?」

「仕事ねー、この前辞めちゃって。今無職」

 と、おじさんは肩を少し上下にさせて笑いながら言った。

「君、少年はさ、なんで学校行かないの? 学校で虐められたりでもしてんの?」

「いや、うちの中学は虐めとかは多分ほとんどないです。でもなんか、教室に居たくない、というか、行けないというか」

「ああ、なるほどなあ。居場所がない感じ? 分かるよ。教室ってさ、なんだろうな、誰も悪くないし、悪意とかじゃないんだけど、柔らかな拒絶がそこにある感じするよな。分かるよ。分かる?」

「分かります。大体」

 おじさんと僕は少し似ているのだろうか。おじさんが僕を加害するような悪意を持った不審者ではないことは、おじさんの言動からすぐに理解できて、気が付けば僕の警戒は解かれていた。それどころか、不登校という僕の負い目を自然に受け入れてもらえたことを少し嬉しく感じていた。

「少年さあ。幸せ?」

「なんですか、急に。怪しい宗教の勧誘みたいな。幸せ、幸せかと言われれば、微妙ですかね。学校行ってないし」

「なんとなくだよ。そうかあ、微妙かあ。まあそんなもんだよな。じゃあさ、人と話すのは好き?」

「それはもう完全に苦手です。なんか、なに考えてるか分からないし、嘘吐くから信用できないし。あと、家族でも知り合いでも、人と話してると、本当の自分みたいなものが隠れちゃうような気がして」

「若いねー。でも分かる。なんか本質的に孤独なんだよなあ」

「本質的に、孤独?」

「なんとなくの話ね。人と話してんのに、一人だなあって思うことがよくあんだよ」

「なるほど。そういうのは、僕もある気がします。むしろそういうことが学校に行けなくなった原因かも知れない。なんて言うか、言い方悪いかも知れないですけど、弱い、んですかね、精神が」

「弱いか、確かになあ、弱いかもなあ、いや弱いな。こういうの多様性っていうのかよく分かんないんだけどさ、人間のデザイン、みたいなのって無限に存在してるんだよな、。全部一緒じゃ共倒れするからな。例えば、身体の話だったら分かりやすい。足が速い奴、遅い奴とか、風邪を引きやすい奴、引きにくい奴とかもそうかもなあ。そういう個体差みたいなのが精神にもあるんだよな、多分。そんで少年は弱い。俺もな。少なくともこの時代、この社会の中で生きていくには向いてないのかも知れないなあ」

「個体差、ですか……」

 若干の沈黙の後、おじさんの横顔にちらりと目を向けると、下を向きながら煙草を咥えていて、その目の奥に少し暗いものがちらついたような気がした。

「まあそれでも生きていかなきゃいけないんだけどねえ。悪いね、いきなりこんな話して。それで少年はさ、学校行かない間、何してんの? めっちゃ暇じゃない?」

「暇ですね。まあ大体、テレビ見たり、アニメ見たり、小説読んだり、ユーチューブ見たり、まあ後は一応学校から配られる宿題やったりして、それでも最近は暇で、こうやって散歩しながら公園に来て暇潰す、みたいな感じですね」

「へえ、なんか、羨ましいような、そうでもないような生活してんね。彼女とかいないの?」

「この顔で不登校の奴にいる訳ないじゃないですか」

「いや格好いいじゃない。自信持っていこう、少年。ついでに大志も抱こう、少年よ」

「なんすかそれ、変な冗談やめてくださいよ」

「不登校さあ、大変だと思うけど、まだ若いからどうにかなるよ、まじで。見ておっさん、二十八で仕事辞めて無職、することも貯金もないんだぞ」

「いやあ、厳しいっすね、人生」

「やめてよ、笑ってくれないと本当に悲しくなってきちゃうじゃん」

 それから、おじさんが七割、僕が三割くらいの割合で話をした。おじさんはお喋りな人で、時折上司だった人の愚痴や、変な人生論みたいなことを演説のように長々と聞かされて、「おじさんって感じのおじさんだな」と思った。

「うわ、眩しいな。いやあ、もう太陽オレンジ色やね。そろそろ帰るかなあ」

 おじさんは傾き始めた太陽に目を細めながら言って、立ち上がって伸びをした。

「少年も親御さんが心配するでしょ。そういや少年、名前は? いや、やっぱいいわ。名前なんてどうでもいい。俺はおじさん、お前は少年、そっちの方がいい。明日も来るか? 俺は毎日暇だし、多分明日もこの辺うろついてるから時間あったらおいでよ。またなあ」

 そう言い残すと、おじさんはすたすたと帰って行った。

 厄介な人に捕まった、と最初は思ったが、気が付けば僕はおじさんと意気投合していた。おじさんと話すのは案外楽しくて、僕は明日も公園に行ってみてもいいかなと思った。


 次の日も、またその次の日も、おじさんは公園にいて、僕は何時間もおじさんと話した。母さんや担任、養護教諭にも話せなかったことが、おじさんになら話してもいいかと思えた。学校の話、部活の話、人間関係の話。おじさんは、僕がどんなに後ろ向きで暗い話をしても、それを頭ごなしに否定せず、むしろ「よく頑張った」と褒めてくれた。おじさんも、楽しい話からそうでない話まで包み隠さず僕に話してくれる。おじさんと話すようになってから、今まで強がって感じないようにしていた寂しさの存在が浮き彫りになったような気がして、教室の息苦しさ、孤独、社会に馴染めない劣等感、上げたらきりがないような忘れていたはずの暗い感情の数々が、今さらになって僕を締め付けるようになった。あの時、「本質的な孤独」という言葉を繰り返したのは、無意識的に共感したからかもしれない。それでも、決しておじさんに言うことはないが、僕は気が付けばおじさんと話すのが楽しみになっていて、その時間だけは「本質的な孤独」というものを忘れられた。この時間がずっと続けばいいとさえ思い始めていた。けれど、そういう訳にもいかないようだった。


 その日も、僕が公園に向かうと、おじさんは既にいつものベンチに座っていて、もう何本も煙草を吸っているようだった。僕が近くまでいっても中々僕に気が付かず、何かを思い詰めたように、一点を見つめながら煙草を吸っていた。僕が数メートルまで近づくと、ようやく僕に気付いたようで「お、よう」と呑気な声を出す。僕は少しだけ安心して、いつものようにベンチの空きに腰掛けて話をしていた。

「そういえばさ、少年。言ってなかったんだけど、俺、ここ来れんの今日がさいごになりそうだわ。ごめんね」

「えっ、まじすか。なんでですか」

 会話の最中、唐突に切り出された言葉に、一瞬身体が固まった。動揺を読み取られないように取り繕ったつもりだったが、少し問い詰めるような口調になった。

「おっさんはおっさんで人生いろいろあるからね。仕方ないもんよ。まあでも俺が話したいことは大体話したかな。人付き合いの話もしたし、俺の友達が通信制の高校行ってた話もしたしな。少年からしたら余計なお世話って感じのおっさん臭いこと言うけどさ、折角まだ若いんだから人生頑張って欲しいんだよね、いろいろしんどいとは思うけどさ」

「確かに、おじさんみたいなこと言うっすね」

「一応まだ二十八だから。おっさんみたいなこと言ってる自覚あるけど、少年にそう言われるとちょっと傷付くから。まあでも、他にあるかな、話しておきたいこと。あ、そういえば少年さ、最初に会った日に俺が幸せかって聞いたの覚えてる?」

「まあ、覚えてますけど」

 僕が適当に返事をすると、おじさんはベンチの背もたれに預けた身体を起こし、両膝に肘をおいて少し前傾姿勢になった。それは数日間おじさんと話す中で気付いた、おじさんが長話をする時の合図のようなものだった。その合図を見ると、僕は少し身構える。

「俺さあ、結局さいごまで幸せになり切れなかったのよ。友達も彼女もろくにできないまま、気が付けば二十八になってて、まあぶっちゃけ言うと、寂しいし孤独だなって。それでさ、時々思うんだよね、少年ももう分かってると思うけど、俺ネガティブだし、あと愚痴っていうか悪口が多いし、自分の性格を省みると孤独になるべくしてなってるっていうか、幸せになるべきじゃないんだよなって。俺は人を幸せにできない。不幸を撒き散らすから。それに、少年と同じで人の優しさとかそういうものを信用できないしな。それで考えるんだよ、運命みたいなこと。そういう運命なんだって。だから幸せとかじゃない、別の大事ななにかを軸に生きられればよかったのになって。訳分からないかも知れないけどとりあえず聞くだけ聞いといて。いいか少年、お前は世界に負けるなよ。お前が世界を手懐けるんだ。俺達の世界は、それぞれがどう認知するかでできてる。脳みそを力一杯掻き混ぜて、直線的な世界を切り分ける。視神経をいじくって、世界の着色は自分でする。空は赤でいいし、なんでもいい。お前が中心の世界だと思って、孤独でもいいから、いつでも美しくあろうとすればいい。犯した罪は、忘れず見捨てず受け入れず飲み込まず、いつまでも苦しみ続けろ。適当な幸せに満足してる奴に負けるなよ。どんなに馬鹿にされても、悔しくても、寂しくても、自分から逃げずに、自分の誇りを大事にして、美しく咲く努力をしろ。そうすれば、いつかは、お前の美しさに気付いてくれる人が現れる、かもしれない。もし、現れなかったら、お前が苦しんでる誰かの美しさに気付いてやれ。泣いたっていい、笑えなくてもいい、擬態してもいい、嘘を吐いてもいい、誰かを傷付けてもいい、歯車にだってなっていい、最悪社会には負けたっていいさ、でも世界には負けないように。自分を大事に、美しく。外見の話じゃない。幸せになれなくても、美しく咲こうとすること。そういう生き方があってもいい、と思うんだよ。まあこれは俺の勝手な願いだ、世界に負けた憐れなおっさんのお願い。それでもっと変なこと言うけど、お前には幸せになって欲しいよ。これくらいかな、俺がさいごに言いたいのは。いやー、すっきりしたね」

「んー、長いっすね」

「酷いな。おっさんがこんなに頑張って話したってのに」

「要するに、『幸せ』じゃなくて『美しさ』を目指せってこと、ですか?」

 いつもの話はもっと理解できたが、今回のおじさんの話は、全く腑に落ちなかった。幸せは大事だ。孤独は苦しい。そもそも分かりにくい話だし、それもおじさんは承知の上だろう。その上でなぜ僕にそんな話をしたのかということも分からない。

「おう、多分そんな感じ。要約上手いな、お前。なんていうかな、おっさん心っていうのかな、若い子を前にすると、つい人生論みたいなこと話したくなっちゃうのよ。まあ、なんとなく、頭の片隅の方でちょっとだけ覚えてくれてたらそれでいいから」

「そう、ですか」

「今日もまあまあ日暮れて来たし、一番話したいことも話せたからさ、そろそろ帰るかな」

 おじさんの話を飲み込みきれず難しい顔をしていた僕をよそ目に、おじさんはすっきりとした面持ちで立ち上がって伸びをした。

「ねえ、もう本当に来ないの? なんで?」

「おう、来れないな。なんでってなあ、俺だって人生いろいろあるからさあ。いやちょっとね、人生に疲れたと言いますかね、身支度が整ったから次に行こうと言いますか、ね」

「人生疲れたって。なにそれ、死ぬの?」

「まあまあ、いいじゃない、なんでも」

 再就職の準備でも整ったのだろうと楽観して、本当に冗談のつもりで放った言葉に、おじさんの瞳孔が確かに一瞬大きく開くのを見た。否定もせず話をやたらと濁したがるおじさんの言葉と態度に、これ以上聞いてはいけないことなのだと悟った。

「いやね、突然出会ったおっさんがよ、訳分かんないことばっか言ってよ、お前が内心どう思ってるかも分からないがな、俺はお前と会えてよかったよ。まあもう少し早く会えたらもっとよかったんだけどな。じゃあ、そろそろ行くわ、まじで。お前も頑張れよ、人生」

「うん、じゃあ」

 おじさんは、なんでもないように、いつものように、吸殻を詰めた缶コーヒーを片手にすたすたと帰って行った。僕は、ただ呆然と、路地へ消えていくおじさんの背中を座って眺めていた。最後の別れというにはあまりにもあっさりしていて、別れを惜しむ様子もなく歩いていくおじさんの姿と、最後の別れであるという現実のギャップが脳内でエラーをおこして、おじさんの姿が見えなくなってからもしばらく固まったままでいた。永遠にも感じられた数分の後、僕は「帰るか」と声に出し、膝を叩いて立ち上がり、歩き始めた。


 次の日、家族の身支度の音で目を覚まし、身体を起こしベッドに座って窓から外を見やると、灰色の空からぽつぽつと落ちる水滴が、街を濡らしていた。

 その日は面倒臭くなってしまって、学校にも公園にも行く気になれなかった。おじさんが言った最後という言葉が頭に纏わり付いて離れずにいた。結局なぜ公園に来られなくなるのかも、詳しいことが聞けないままに別れてしまった。本当は最後とか言って、やっぱりいつものように散歩しながら煙草を吸っているかもしれない。来ていなくても雨で来られなかっただけかもしれない。また晴れた日に公園に行けば、おじさんはいつものように煙草を吸っているんじゃないか。それでも、あの時のおじさんの開いた瞳孔の奥に見えた、暗く塗り潰された黒が、希望的観測のどれもが真実でないことを、嫌でも僕に悟らせた。

 結局、夜になっても雨が止むことはなく、スマホで天気予報を確認すると、このまま明け方まで雨は振り続けるようだった。何も手に付かなかった。テレビを流したままにしてみても、読みかけの小説を開いてみても、あらゆる情報が僕の五感を素通りするだけで、頭に入ってこない。それは、いろいろなことが分からないままになってしまったという歯痒さだけではない。おじさんが不意に滲ませた影とその帰結について、出口のない思考が行ったり来たりを繰り返し、時折見えない何かに首筋を撫でられたような心地がして思わず身をすくめることを何度も何度も繰り返していた。夕食も風呂も済ませた後、掛け布団で全身を覆い隠して、眠りにつこうとしたが、鼓膜を揺らす壁掛け時計の秒針が刻む無機質な駆動音が邪魔をして一向に眠れなかった。仰向けになり、全ての明かりが消えた暗い自室の天井を見た。街灯に照らされた街は部屋よりも明るくて、窓から入ってくる光をただ眺める。寝るのが好きだ。眠っている時間が好きだ。眠っている間は、あらゆる不安や苦痛を忘れられる。けれど、眠りにつくまでのこの時間は嫌いだ。天井の角やベッドの裏から這い出た不安や孤独が僕を捕まえて逃れることを許さない。心臓が苦しさに耐えかねて今にも潰れてしまうような心地がする。酷い時は、目に水が溜まって僕のこめかみを伝う。

 それからしばらく天井を眺めながら過ごした後、僕は遂に観念した。どうやら今日は眠れそうにない。かといってやることもないが、一つだけ、それが何の意味もないことだとは分かっていながらも、自分の目で確認したいことがあった。僕は身体を起こし、家族を起こさないようそっと階段を降り、薄い上着を一枚羽織ってビニール傘を手に静かに家を出た。

 スマホで時間を確認すると、午前一時を回っていた。傘を開いて路地に出ると、雨と闇に包まれた静かな住宅街が僕を出迎える。街灯の明かりだけが街を支えていた。僕は雨の香りと共に深く息を吸い込んで、細く短く口から吐き出してから、ゆっくりと歩き出した。ほとんどの家の明かりは消えていて、街も人も寝静まっている。たまにカーテン越しに光が見えて、少しだけ安心するような、恐ろしいような心地がした。普段と違う住宅街の様子が少しだけ不気味だった。大量に家があって、その一つひとつに生活している人がいる。当たり前のことが、喉につっかえて飲み込めなくなっていく。一度鍵を閉ざしてしまえば中は見えない。それが不気味で恐ろしいことのような気がする。そこら中に存在するあらゆる形の家が、全て同じ黒い塊に見える。僕は薄い壁の向こうに何があるのかを知らない。何が生きているのかを知らない。窓の隙間という隙間から何かが僕を覗いている。そんな錯覚が身体を支配する。見知った家々に囲まれながら、恐怖が僕の心に迫っているのを感じる。人間は暗いということに対して根源的な恐怖を感じるのかもしれない。少し足を早めながら歩いていると、角を曲がった所で、ふと暗闇の中で煌々と光を放つ長方体が目に映った。自販機だ。元々そこにあることは知っていた。しかし普段は何の感慨も覚えない自販機が、その一瞬はサバンナのオアシスのように感じられた。僕は、光に吸い寄せられる虫のように自販機に向かい、前に立った。じーという駆動音が心地良く鼓膜に響き、安心する。少しだけ明るすぎる光を放つラインナップに目を滑らせていると、ある一点が僕の意識を奪った。おじさんが会う度に手に持っていて灰皿にしていた、青い缶コーヒー。現金は持たずに出たが、幸い電子マネー対応のようで、僕はその缶コーヒーを一つ買う。傘を肩に預け、屈んで缶コーヒーを取り出しプルタブを引いた。かしゅっという小気味のいい音を立てて開き、若干のコーヒーと大量の砂糖を感じさせる香りを放つ。過度に甘く、やたらと苦みが残る味のそれは、僕にとってあまり美味しいものではなかった。僕は缶コーヒーと傘を手に、再び歩き出した。家と家と家、たまに交差点。ただ歩く。それからすぐに目的地は現れた。いつもの公園。おじさんの姿は、当然なかった。非日常感に浮かされて、心のどこかでほんの少しだけ期待していたドラマのような展開は全く訪れなかった。僕は少しだけため息を吐きながら、いつも話していた木製のベンチの前に立つ。おじさんが大量に吸うせいで地面に溜まり始めていた煙草の灰はすっかり雨に流されてなくなっていた。公園を自分の目で確かめるという目標を達成し、それ以上にすることがなくなった僕は、その場に立ち尽くしたまま、雨に濡れて座ることのできなくなったベンチを眺めた。雨が、ぱたぱた、ぴちゃぴちゃと音を立てる。僕とおじさんがここで話した時間と記憶が、雨に流されて遠い過去になっていくような心地がした。絶え間なく鳴り続ける雨の音が耳に届かなくなってきた頃、どこかで響いた枝に溜まった雨水がまとまって地面に落ちる音が、放心していた僕の意識を現実に引き戻した。僕は、それ以上そこに留まる理由もなくて、ゆっくりと帰路に着いた。帰る途中、僕はおじさんが最後に僕に話したことを思い出していた。世界と僕。本質的な孤独と断絶した世界と僕。社会と僕。幸せと美しさ。揺れる木の葉の美しさ。信号の色を跳ね返す雨の雫の美しさ。世界の美しさ。皺が増えてきた母の手の美しさ。逆境でもめげずに立ち向かうことの美しさ。人の美しさ。それらはきっと二項対立で考えることではないのだろう。美しさを手に入れた上で、幸せになりたい。世界を手懐けるってなんだろう。世界と調和することだろうか。外見じゃない美しさとはどこにあるのだろうか。美しさとは、すなわち人としての誇りのようなものに近いことなのだろうか。幸せじゃなくても、信念と誇りを失わずに生きていくことだろうか。なら僕の信念と誇りとはなんだろうか。僕の頭では当分分かりそうもない。けれど「美しさ」という言葉だけは、やけに輝いて見えた。社会に馴染めないという事実が外側から、その癖中身は無味無臭で暗い感情以外何も持っていないという事実が内側から、寄って集って僕を攻撃して、僕の心と身体に風穴を開けていた。そんな現実を理解しながらも、どうすることもできないままに続いていく生活。苦しい、と言わざるを得ない現実だった。幸せからは程遠い生活だった。それでも「幸せ」ではなく、「美しさ」でもう一度人生を捉えられるなら、行く当てを失って腐りかけていた僕の人生に、もう一度光が灯るような気がした。



 全身に寒さを感じて目を覚ます。不意に鼻に不快感を覚えて、くしゃみがこぼれた。どうやら俺はベンチに座ったまますっかり眠ってしまっていたようだ。残暑が厳しいとはいえ、もう九月だ。夜はそれなりに冷える。変な体勢で寝たせいで腰が痛い。ビジネスバッグに手を突っ込んでスマホを探す。画面が映した数字に目を見開いた。既に午前二時を過ぎていた。勘弁してくれよ。まだ水曜だってのに。どう考えたって今すぐ家に帰って寝るべきだったが、どうもそういう気になれなかった。ビジネスバッグからさっき駅前のコンビニで買った缶チューハイを取り出してプルタブを引く。酒を呷りながら、首を倒して空を見上げた。誰のためでもなくただ煌々と光を放つ街灯に、蛾が集っていた。嫌な記憶だ。薄れかけていたおっさんの顔をはっきりと思い出した。自分の記憶力に感心する。忘れていたようで全く忘れていなかった。時の流れは俺が思っていたよりずっと速く、気が付けば三十になっている。あの時のおっさんがもう二個下だ。これは恨みではない、はずだが、おっさんの顔が頭に浮かぶ度になぜか憎く感じられる。それと同時に親しみも感じる。おっさんは俺の人生の数少ない理解者で、恐らく俺と同類の人間だった。今になって分かることがたくさんある。どうしておっさんは俺に話しかけたのか。なぜあんな話をしたのか。寂しかったんだ。それに俺の姿がおっさんと重なって見えたんだろう。社会から爪弾きにされて、上手いこと生きられない俺の姿が。おっさんは俺の人生に多くのヒントを与えてくれた。ほぼ不登校のまま中三になり、そろそろ進路の選択を迫られていた俺に、通信制という選択肢を教えてくれた。いや、通信制という選択肢は元々あったが、社会からさらに外れてしまうんじゃないかという当時の俺の不安を汲み取って、通信制の高校に通っていた人の話をしてくれた。俺もそこに活路を見出して通信制の高校に入り、一回ダブったがそれでもなんとか卒業して、私立の大学に入り、そこでもまた一度留年して、情けない思いをして、親にも申し訳ないことをしたが、最終的にはしっかり卒業して今の会社に入ることができた。情けないが、それでもどうにか走り続けてきたから今がある。そこには当然、両親のおかげだったり、俺の努力だったり、いろいろな要因があるが、おっさんの存在が一役買っていることは確かだ。そういうことには大きく感謝している。結局あれからおっさんの姿を見ることはなかった。おっさんはきっと死んだんだろう。おっさんは、俺が自分に似ていると思ったからこそ、俺がおっさんと同じようになってしまうことが怖かったんだろう。だからあんな話をした。「幸せ」ではなく「美しさ」で生きろ。それはおっさんが苦し紛れに吐いた言葉だったと、今は分かる。それに、おっさんがそれを成し得ていたのなら、おっさんが死ぬことはなかったのだ。それは、おっさんができなかったことで、できるかどうかも分からないままガキだった俺に押し付けたこと。あの時感じた光は、結局徐々に輝きを失ってしまった。社会人三年目になって始めた一人暮らし。俺は部屋を「美しい物」で埋めようと思った。そうすれば、曖昧になっていた概念が視覚的な刺激でまた形を取り戻してくれると思ったから。アンティークな雑貨屋にある用途の分からない置物や、お香や香立て。玄関の壁に飾ったドライフラワー。気取った形をした金色のカトラリー。枕元に置かれたランタン風のライト。目に付いた物はとにかく買った。俺の狭い六畳間は徐々に小物で埋まっていった。最初はそれで満足できた。けれど、俺の部屋に置かれたそれらは、俺が出会った時に感じた輝きをだんだん失っていく。結局全部灰色になって、ただの邪魔な小物に成り果てた。雑貨を買うのをやめた。まだ覚えてる、おっさんが幸せになれない自分の人生を、そういう運命だって言ったこと。高校で唯一仲良くしてくれた遠藤から届いた結婚式の招待状を破って捨てた日の夜、俺も同じ運命だって思ったよ。そんで、そういう言葉に甘んじて自分を変えることを諦めて、美しさがどうだとか聞こえのいい空想に逃げた精神的弱者への報い。最初から無理だったんだ、俺みたいな人間が美しく生きようなんて。遠藤は俺の唯一の親友だった。高校を卒業してからも何度も二人で飲んだ。大学を卒業して会う頻度は落ちたが、それでも欠かさず連絡を取った。そんな男の幸せを、俺は祝えなかった。嫉妬ばかりが先行して、「おめでとう」なんて言えなかった。そんな自分が恥ずかしかった。そんな自分は美しくなかった。結局俺も、おっさんと同じ運命を辿るみたいだ。いや、おっさんの人生よりも惨めで情けないかもしれない。死んでやろうかと何度も思った。その度にホームセンターで買って、いつでも使えるように輪に結んだロープとにらめっこして、俺にはそんな勇気もないことを嫌でも痛感して、酒を飲んでひたすら泣いた。笑える。笑えるよな。いい歳した大人が、夜な夜な一人で泣いてんだぜ。ああ、笑えるよ、ほんと。なんで俺はまだ生きてんだろうな。仕事で何度もミスをして、何回も取引先を怒らせて、上司に頭を下げさせた。少し歳下の同期に、新入社員歓迎会で年齢と出身大学を聞かれて鼻で笑われた。情けないことこの上ない。その上、生きる指標も意味も目的も失った。美しさってなんだよ。結局俺の人生には何の信念も誇りもなくて、ただ社会に置いていかれないようにするので精一杯だった。何が美しさだよ。この俺が美しいかよ。おっさん、世界、社会、自分、全てに対する怒りがふつふつと湧き上がる。俺は、衝動に任せて飲みかけの缶チューハイを地面に叩きつけた。がしゃんと大きな音を立てて地面に跳ね返り、飛び出た酒がスーツと革靴を濡らす。缶はぐしゃっと歪に変形し、からからと転がっていく。「死にたい」という言葉を小さく呪いのように呟く。助けてくれ。誰でもいい。そう思って気付く。俺を助けてくれるような誰かを、俺の人生から消してきたのは俺自身だ。この期に及んで、自力で現状を変えようとするのではなく、誰かに助けを求める自分が恥ずかしい。俺にはもう生きる気力なんてほとんどない。おっさん、俺も疲れたよ。「はあ」と深い溜息が漏れ出る。疲れた、死にたくなるほどに。ただ沈んでいくだけの人生を、理解しつつも変えられない。己の弱さが憎い。疲れたから、もう休みたい。ああ、でも、それでも俺はまだ、死ねない。死ぬのが怖い。死ぬことを許されていない。こういう時、死にたくなった時、必ず俺の脳内を、両親の顔、おっさんの顔、遠藤の顔、いろんな人の面影がちらついては消えていく。それは時に、大学時代に少しだけ仲良くした奴らの顔だったり、落し物を拾ってくれた人の顔だったりする。時の流れと共に、浮かぶ顔は増えたり減ったり薄れたりを繰り返す。俺は弱いし醜いし美しくない。けれど、そんな俺を受け入れてくれた人達が全くいない訳じゃない。そういうことを思うと、自らの手で命を絶ってしまうのは、彼ら彼女らに申し訳が立たないような気がしてくる。俺の人生はこの繰り返しだ。だからといって、死にたくない訳じゃない、泣かない訳じゃない。けれど、まだ、俺は俺の人生の全てを諦め切れていないのだ。往生際が悪いようで格好はつかないけれど、仕方ないのだ。人生とはそういうものだから。

 俺は立ち上がって両手を頭上で組み、勢いよく伸びをした。そろそろ帰ろうか、家に。



 駅のホームは、早朝から電車を待つ人で溢れている。人々はその顔に暗さ以外の表情を持たない。しばらくすると、彼らの頭上に設置されたスピーカーから流れる案内が、電車の到着を告げる。既に多くの人を乗せた電車が、朝日を受けて輝きながら駅のホームに緩やかに入ってくる。ドアが開くと、数人が降り、数人が乗り込む。眼の下に深い隈を蓄えたスーツ姿の男も、少し遅れて「すみません」と小さく呟きながら重たい足取りでゆっくりと電車に乗り込む。ホームに居た人を抱え込み終えた電車はドアを閉め、再び都市を目指して走り出していった。


もし読んでいただけたのなら、どんな内容でも構いませんので、何か感想を書いていただけると幸甚に存じます。

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