怪しくなる雲行き
ひと呼吸置いてから、王太子がセルファに目を向けた。
深い藍色の瞳は星が輝いているように美しく、自然と背筋が伸びるような迫力がある。
そっと抱きしめる腕を解いた王太子の婚約者は、隣に座ったまま手を握る。
甘やかで少し涼しげな香りが遠ざかって、なんだか残念な気がした。
「デュクロ侯爵令嬢。このたびの件、元はと言えば王家が不問律を破り、貴族家間の縁談に口を出したのが発端だ。そなたは、ただ巻き込まれた被害者であり、何の罪もない。しかし、今のままでは、そなたの名誉に傷がつく」
「ご配慮に感謝いたします、王太子殿下」
こうして会話をするのは初めてで、慎重に伺いながらセルファは口を開く。
「しかし、王命を賜りながら遂行できなかったこともまた、わたくしの咎にございます。当事者としての責を、わたくしと侯爵家も負うのが当然と愚考いたします」
いかなる理由があろうと、何を置いても最優先に遂行されるべきなのが、王命というものである。
たとえ相手にすべての責があっても、だ。
それが貴族であり、貴族家というもの。理不尽であっても。
今回に関しては、セルファがもっと穏便に対応すればよかったことでもある。
まあ、狙ったは狙ったが、馬鹿の行動がちょっとばかり暴走したため、筋書きが狂わされてしまった。
でも、それも含め、咎である。
こんな奴と婚姻してたまるか、と思っても。
よりによって神殿内で不倫する奴が悪い、と思っていても。
そもそも王家が首突っ込むことじゃないだろ、とうっかり過ぎっても。
淑やかな笑みで本心を美しく隠し、控えめな振る舞いをするのが淑女である。つらい。
「そのことなのだが、実は事前に陛下とラウディ公爵とデュクロ侯爵との間で、もう一つ密約が結ばれている」
「……密約、でございますか?」
ちら、と兄を見ると、なんだか苦虫を噛み潰したような顔をしている。
嫌な予感しかしない。
「デュクロ侯爵は、そなたを退学させてまで婚姻させるのは、妥当な理由なく侯爵家内の決定を覆す行為だと言った。私も同意見だ。そもそも、この縁談には政略の意味すらない。益を得るのはラウディ公爵家のみで、デュクロ侯爵家はただただ優秀な者を手放すことになる」
どうしよう。なんと返せばいいのか、さっぱりわからない。
肯定とも否定とも取られない角度に首を傾けつつ、セルファは黙って続きを待った。
というか、王太子はこの王命に最初から否定的な立場だったらしい。
ずっと言動が厳しいし、完全に侯爵家寄りだ。
まあ、今回の陛下はちょっとばかり妹贔屓が過ぎたのは事実だ。
下位貴族に現を抜かす息子に困ったなら、家で再教育を施すのが本来の形だ。
それを、いくら泣きつかれたからといって、王命で婚姻させたら愛人と別れるだろうという結論になるとは。
正直、王命という尊く重大な権利を行使するには、理由が浅すぎる。
この国での王命とは、戦地に向かう騎士への激励だったり、国政に益を齎すための婚姻などに行使されるものだ。
王家とは、すべての貴族の中立である。建前上、必ず。
でなければ、王政はあっという間に崩壊する。
「デュクロ侯爵家にまったく益のない状況で、優秀な令嬢を王命により婚姻させるのであれば、ラウディ公爵家は侯爵家に多大な恩ができる。そして、もちろん王家も」
待って。一気に方向が怪しくなってきた。
なんだか寒気がする。
「万一、ないとは思うが、万一令嬢が軽視されることがあれば決して許さないと、侯爵は言った。陛下も公爵も、当然と請け負った」
本当に待ってほしい。足が震えてきた。
お兄様、格上の相手になんてことを言っているのだ。
いや、気持ちはわかるのだけれど、でも言葉が強すぎて心臓に悪い。
「もしものことがあれば、王家主導により名誉を回復し、公平な益を得る縁談を用意すること。また、公爵家も同様に名誉回復に尽力し、『誠意に基づく謝意を示す』こと。両名とも、これを快く了承した」
どっと背中に汗が噴き出した。
兄が言ったという『誠意に基づく謝意』は、一歩間違えれば公爵家が家門の誇りを失いかねない。
どれだけ悪いと思っているか行動で示せ、と暗に言っているのだ。
簡単に言えば、ラウディ公爵家は今後、半永久的にデュクロ侯爵家の『下に』つくということ。
格上の爵位を名乗りながら、だ。貴族の誇りを、自らで傷つけろと言ったのと同義だ。
(陛下も公爵も、なんでそれを了承しちゃったの……!)
絶対にありえないと、もしも確信があったとしても、あまりにもリスクが高すぎる。
それに。
「王家と貴族家当主が、一度交わした契約を違えることは許されない。私と宰相が証人だ、書面もある」
「……な、んてことを……」
思わず口から本音が飛び出たが、これは不可抗力だ。
いくらなんでも、高名な方々の前でリスキーな賭けをするなんて、もしや全員酒でも飲んでいたのではなかろうか。




