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アラクネ

サンジーバニーの汁が女王の体内に染み渡ると、効果は劇的だった。

深い裂傷から流れていた黒い体液が止まり、折れた脚がゆっくりと再生していく。

他の影蜘蛛たちにも悠真はサンジーバニーの実をすり潰して分け与え、瀕死の状態だった一団は、次第に息を整え始めた。

「よし……これで大丈夫そうだ」

悠真は安堵の息を吐きながら、女王の様子を観察した。




彼女の赤い目はまだ鋭く、威嚇の気配を残している。

ルナが低く唸り、狼の群れが警戒を強める中、悠真は冷静に考えていた。

中途半端に追い払うことの危険性を。




瀕死の蜘蛛を見捨てれば、生き残った個体は「飢えた獣」として、いつか必ず農園を襲うだろう。

サンジーバニーで治すだけでは、単に「元気な化け物」に戻すだけ。

話が通じない相手が最強なのが、一番困る。

なら、対話ができるレベルまで無理やり引き上げるほうが、長期的には安全だ。

これは「手懐ける」のではなく、「文明の土俵に引きずり出す」という、冷徹なまでのリスク管理だった。




悠真は能力を起動し、月影の実の木を育てた。

金色に輝く実を摘み、まず女王の前に恭しく差し出す。

「これを食べてみてくれ。君たちを、さらに強くできるはずだ」

女王は虚ろだった赤い瞳で実を見つめ、震える牙で慎重にかじった。




瞬間――。

女王の巨大な体が銀色の光に包まれた。

甲殻が音を立てて変化し、8本の脚のうち上半分の4本が、優雅な人間の女性の腕と脚へと変異していく。

上半身は美しい女性の姿となり、下半身はなお巨大な蜘蛛のまま。

完全なるアラクネの姿。

そして、その瞳に宿ったのは、ただの獣の本能ではなく、深い知性と理性の光だった。




アラクネはゆっくりと体を起こし、悠真の前に跪いた。

蜘蛛の脚を丁寧に折りたたみ、人間の姿になった上半身を深々と下げた。

その声は、鈴を鳴らすような澄んだ女性の声だった。

「……我が名は、アラクネ。

影蜘蛛の女王……かつてはそう呼ばれておりました。

貴方様は……我を殺せました。

瀕死の我が牙を向けても、貴方様は怯まず、むしろ進んで近づき……

この至宝を、惜しげもなく与えられた。

我は……衝撃を受けております。

これほどの慈悲と器量を、かつて見たことがありません。

故に――」

アラクネはさらに深く頭を下げ、震える声で誓った。

「我ら影蜘蛛の一族は、今日この日より、

貴方様を主と仰ぎ、生涯に亘って仕えましょう。

我らに光をもたらした恩人……どうか、どうかお受けください」




その言葉を合図に、他の影蜘蛛たちも次々と月影の実を食べ、進化を遂げた。

彼らの目にも知性が宿り、乱雑だった動きが一瞬で統制された。

まるで精鋭の軍隊のように整然と並び、悠真に向かって一斉に頭を垂れる。

「森の神……」「我らが主……」

そんな囁きが群れの中から漏れ聞こえた。




悠真は少し照れながら微笑み、言った。

「そんな大げさな呼び方はいいよ。

俺はただ、悠真だ。

……それより、みんな腹が減ってるだろ。

少し待っててくれ」

彼は丹精込めて育てた魔力を帯びた作物を大量に収穫した。

黄金のトマト、蜜のように甘い林檎、クリーミーな根菜、香り高いハーブなど。

それを大きな葉っぱの上に盛って、蜘蛛たちに振る舞う。




最初、影蜘蛛たちは警戒していた。

彼らは元来、肉食の獣。

しかし、一匹が恐る恐るトマトにかぶりついた瞬間――。





「……っ!?」

体がビクリと震え、8本の脚が同時に震えた。

次々と蜘蛛たちが作物に群がり、夢中で食べ始める。

アラクネでさえ、頰を赤らめながら林檎を頰張り、恍惚とした表情を浮かべた。

「この味……この魔力の流れ……

戦って奪うだけの食料など、比べ物になりません……

これは……『恵み』です」




その瞬間、彼らの中にあった根深い凶暴性が、静かに変化した。

「奪う」から「守る」へ。

「殺す」から「守り抜く」へ。

この農園は、彼らにとって死守すべき楽園へと変わった。

アラクネは優雅に立ち上がり、微笑んだ。

「主様……我らに、このような安寧を与えてくださり、ありがとうございます。

我ら影蜘蛛は、この楽園を、誰であろうと侵させはいたしません」





その言葉が終わらぬうちに――

アラクネの指先が、ほんの少し動いた。

目に見えないほど細い銀色の糸が、空間に無数に張り巡らされる。

「主様、三時の方向……不浄な風が吹きました」

数キロ先の深い霧の中で、闇の斥候が弓を構えていた矢が、突然空中で絡め取られた。

アラクネが指を軽く引くと、斥候の体が銀糸に巻かれ、数キロ離れた場所で吊り上げられる。

悠真は言葉を失った。

アラクネは静かに微笑み、こう言った。

「この糸は『因果を紡ぐ銀糸』。

視界などなくとも、魔力の流れと殺気を感じ取ります。

どうかご安心ください。

我が一族がいる限り、主様に害が及ぶことはありません」

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