後編 配分の方法、幸福の記帳
数時間が過ぎた。記事は波紋になって桟橋の際を繰り返し叩き、勤務表の列を一行ずつ書き換えた。就業ベルの前に上がれる班が増え、帰宅時刻の矢印は短くなる。訃報欄は相変わらず短いが、その白さに、前より薄い安心が混ざる。
わたし――**Mio・Nivalis**は手帳の月間欄に小さな枠を増やした。『今日、配った幸福』。所有しないで配る。それは在庫管理より、日々の現金出納に似ている。
――ローザの徹夜明けに、弁当の卵焼きを一切れ。
――訃報の本文で、ご遺族が言い淀んだ言い回しを一行だけ差し替え。
――見知らぬ観光客を港の高架まで案内し、マフラーの端を結び直して別れた。
午後、ハルが編集部に寄る。作業着の油膜は薄く、目の下のくまも薄い。
ハル「西の桟橋、転落ゼロ週。……ゼロって言い切るのは好かんが、今週は本当にゼロだ」
ミオ「“ゼロ”は記録の語彙。生活はすぐ反例を作るけど、今日は祝っていい」
ハル「家に帰って湯を張って、まだ湯気が逃げないうちに入れる。これがどれだけのことか、紙面で誰かに伝えてくれ」
ミオ「脚注なら、場所を作れるかもしれない」
彼は手袋を外し、指を鳴らす。その音は、前より柔らかい。
夕方。港の一角が白く塞がれている。落下防止の改修で、透明だった床に乳白の養生板が仮置きされ、すり減ったネジ穴だけが点々と見えた。安全のために景色は少し曖昧になったが、人の足取りは迷わない。
**Riviel・Aqualis**と欄干に寄る。彼は会社を辞め、小さな監査アトリエを借りた。古い木の机、塩で曇る窓、相変わらず薄い紅茶。
リヴィエル「景色は意図的に鈍化しましたが、見えなかった責任が少し露出した気がします」
ミオ「輪郭が拾えれば充分。核心は歩きながら確かめるわ」
リヴィエル「また数えましょう。今の」
ミオ「一つ目。西の桟橋に“早く帰れた”が増えた」
リヴィエル「二つ目。k身の脚注案が上司の机を通った」
ミオ「三つ目。今日のあなたの紅茶に角砂糖を一つ。苦さは仕事で、甘さは生活」
リヴィエル「四つ目。母が“名簿の顔”であることを、僕は正面から引き受けようと思えた」
数えるたび、呼吸の幅が増える。有限は、配り方で意味を変える。
夜。訃報欄の余白に小さな脚注を置いた。
〈本紙は、配られた幸福の総量を測る術を持たない。ただ、“家で湯気が残っているうちに風呂へ入れた”という報せに、静かに賛同する〉
編集長は眉を少し寄せ、最後に頷いた。
編集長「脚注は、よほどの時だけだ」
ミオ「今日はその“よほど”です」
編集長「……なら、いい」
削りたての鉛筆の匂いが立ち、紙面の線が少し濃く見えた。
別の日。アトリエに寄ると、壁際に段ボールが積まれている。通報の写し、匿名のメモ、未整理の領収書。リヴィエルは分類用の札を切り出しながら窓を少し開けた。
リヴィエル「内部の時ほど早くはありません。外からは順番を守らないといけない分、列が伸びるのです」
ミオ「順番は呼吸みたいなもの。焦ると逆流して咳が出るわ」
リヴィエル「君の比喩は喉にやさしい」
ミオ「喉は仕事道具だから」
彼の母から届いた焼き菓子を一つ割る。柑橘の皮の香りが、塩の気配を薄めた。
わたしたちは前に交わした句を復唱する――“早めに腐るのは疑い。早めに育つのは信頼”。
内陸から、わたしの母が港へ来た。硬いパンの匂いと羊毛のコートを連れて。
ミオの母「海の匂いって、よく発行した生地に似てるわね」
ミオ「塩と時間のせいだと思う」
台所でスープを温め、母は帳面を一枚だけめくる。
ミオの母「“今日、配った幸福”。まだ続いてるわ。配り方は、その人の手癖が出るわね」
ミオ「わたしの、手癖は丁寧な方?それとも雑な方かな」
ミオの母「丁寧は“雑の反対”じゃない。“向ける先が合ってる”ってことよ」
湯気が鼻腔をくぐり、舌の奥で塩がほどける。体が、言葉より先に納得した。
港を歩くと、時々声をかけられる。
例えば今日は「風呂が早くなった」と声をかけられた。
危うい誉め言葉だ。慢心のすぐ隣に立っているから。
ミオ「長く続けば、記事ではなく街の手柄ですよ」
街に返す語彙を持つ――最近ようやく手に入れた矜持だ。
黄昏、封鎖区画の案内板に工事の順番が貼り出された。誰が、いつ、どこを、どこまで。見通しは安心の一次情報だ。
リヴィエル「ここで最初に“数えた”んですよね」
ミオ「うん。床が透明じゃなくなって、代わりに自分の足もとをよく見るようになった」
リヴィエル「見えない分、創造の責任が生まれます」
ミオ「責任がある想像は、現実と手をつなぐから。数も、そう」
彼はポケットから折れかけの付箋を出した。<次にやること>が短文で並ぶ。外から動くというのは、列を絶やさないことだ。
帰り道、雲は低く、潮は高い。小雨が来て、最初の雫が傘を叩いた。━━"とん"。
ミオ「一つ目。今、同じ傘に入って肩が触れ合っている」
リヴィエル「二つ目。傘は一本でも、分け合える」
ミオ「三つ目。今日、あなたを思い出した」
リヴィエル「四つ目。君の手が温かかった」
雨脚は強くならない。夜の風は、先に輪郭を冷やす癖がある。それでも掌はまだ温かい。
家に戻る前に、最後の仕事をする。訃報欄に使う語を一つ磨き、誤字の芽を二度つぶす。亡くなった人の名前を越えに出して読む。名前の読み上げは、街への送信だ。
机の端に帳面を開く。
――配った幸福:七。
点は打たない。点は終わりの印だから。続けるには余白がいる。
窓の外で港の照明が順に落ちていく。順番は呼吸の様なものだ。速すぎても遅すぎても、誰かが咳き込む。
わたしは小さく呟く。
ミオ「幸福は在庫が少ない。けれど配り方で足りる。あなたとだから、足りる」
言葉は紙にしない。今夜は胸の棚にだけしまう。明日の配分に手を開けておくために。
お読みいただき、ありがとうございました。
この『ガラス桟橋の約束-図書館の“時限公開”と脚注で守った生活の湯気-』は、原作となる短編連作『薄氷に配られた光―水鏡に書く、有限の幸福―』から発展させた派生バージョンです。
原作のお知らせ
原作はTalesにて公開中です。
タイトル:『薄氷に配られた光-水鏡に書く、有限の幸福-』
https://tales.note.com/noveng_musiq/wyy1fxg08nfuw
読み比べポイント
・『数える幸福』…原作は“雪と湖”、こちらは“ガラスの港”で同テーマを別アングルから描いています。
・キーワード:『配分』『時限公開』『風呂に入れる夜』という生活指標。
・会話の“数え上げ”は両作共通のリズムです。
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