中編 契約の午睡、告発は静かに
三日目の午前。雲は薄く、ガラスは正直だ。映したいものと映したくないものを区別せず、ただ光を等分する。編集部のドアを押すと、紙とインクの匂いが夜勤明けの体温を平らに戻した。
ローザが椅子を半回転させ、眉で会話を始める。
ローザ「で?」
ミオ「時限公開は今夜。内部の“戻し”が通れば導入を書き換える。通らなければ一面で出す」
ローザ「あなた、恋をしてるね」
ミオ「そんな便利な総称で殴らないで」
ローザ「殴ってないよ。対象の“人間”に肩入れしてるってこと。見えるものも増えるし、見えなくなるものも増える」
肩入れは記事の体温を上げも下げもする。訃報欄を続けて学んだのは、体温の上下に責任が要るという、単純で厄介な事実だった。
昼前、ハルが現れた。袖口に潮の粉、作業着には油の薄い膜。
ハル「北側の安全予算、戻ったよ。書類、朝イチで回ってきた。速いな。正直、驚いた」
ミオ「コピーは?」
ハル「撮ったよ。お前の時限公開の管理番号と一致した。――それと、図書館の閲覧予約が二件入ってるらしい」
ミオ「二件ね」
ハル「一つはローザだろ。もう一つは知らん。あと、お前の上司にクレーム。“訃報欄の女が政治的だ”」
ミオ「訃報欄に政治が混ざらない日は、だいたい祝日」
ハル「それ、見出しにするなよ」
笑いは喉を湿らせるが、現実の角は丸めない。わたしは引き出しから寿郎表の控えを出し、紙の繊維を指で確かめた。落ち着いているのは紙で、落ち着かないのは心だけだ。
午後。携帯が震える。
リヴィエル「――通りました。北だけじゃありません。西の桟橋も。時限公開も取消しません」
ミオ「導入、書き換えるわ。“内部の意思で、死なずに済む人が増えた”」
リヴィエル「その言い方」
ミオ「褒めてるの。本当に」
通話口の向こうで小さく息を吸う音。言葉に代わる前の温度は、時々文章より多くを運ぶ。
夕方、図書館。閲覧席の光は冷たく平等で、誰の肩書も淡色に戻す。背筋の伸びた女性が端末に向かっていた。海の浅瀬の色をしたスカーフ。
ミオ「こんばんは」
リヴィエルの母「こんばんは。あなたがミオさんね」
ミオ「はい」
リヴィエルの母「うちの息子、夜の港でよく風邪を引くの。昔は恋の予感と笑っていたけど、今は仕事の熱だと思うの。港の匂いは知らない。だから、あなたの仕事を見させてもらいに来たわ」
ミオ「訃報欄は恋の話しでは……ないですよ」
リヴィエルの母「恋はいつも死の隣り。偉そうでごめんなさい。私は寄付名簿の“顔”で、あなたは記事の“顔”。どちらも顔にすぎないのに、責められるの」
“閲覧予約のもう一件”がこの人だとわかる。救われる感覚と、責任の重みが同時に肩に乗った。
リヴィエルの母「息子は家の名前を半分嫌い、半分使って生きている。あなたがそれを“数えて”くれるなら、続けて」
ミオ「数えています。配り方も」
リヴィエルの母「いい言葉ね、配る。――私は、息子が“有限の約束”を覚えたのが嬉しいの。無限を言う男は、誰かを雑に扱いがちだから」
ミオ「肝に銘じます」
母は頷き、画面に視線を戻す。端末の白がスカーフに薄く反射し、わたしのメモの鉛をわずかに明るくした。
夜。公開時刻。館内カウンタが零を示し、資料が一般閲覧に切り替わる。さざめきはすぐ引き潮のように静まった。
ミオ「出た」
ローザ「出たね――書ける?」
ミオ「書けるわ。導入、差し替える。『三日の間に内部で戻れた予算。これは仕事だ。仕事で誰かの古野湯気を守る』」
ローザ「効いてる」
ハル「骨があるな」
ミオ「難しさは盾にも刃にもなる。今日は盾でありたいの」
キーボードの高さを一段下げ、呼吸を整える。指が同じテンポで進むと、文章は過不足なく息をする。
送稿の報告を済ませると、携帯がまた震えた。
リヴィエル「今から……会える?」
ミオ「うん。じゃあガラス桟橋で」
港風。塩、金具、遠い海藻。欄干に触れた掌がすぐ冷える。
リヴィエル「今日は、新たに分かった情報を数えましょう」
ミオ「まず一つ。あなたが時限公開を取消さなかった」
リヴィエル「それから二つ。時限公開が一般閲覧に切り替わった」
ミオ「三つ。あなたの母が図書館に来ていた。予約の二件目は、あの人」
リヴィエル「四つ。君が母の言葉を、記事にはしていないですね」
ミオ「五つ。あなたの手はまだ冷たい」
リヴィエル「六つ。君の手は、その温度差を受け入れられる」
数えるたび、夜の輪郭が少し柔らかくなる。有限は、配り方で意味が変わる。
沈黙が一度だけ落ちた。わたしたちは同じ方向を見ているのに、違う高さを見ている。高さの差は、経験の段差と、名前の重さだ。
リヴィエル「僕、会社を辞めることにしました」
ミオ「意外、いきなりね」
リヴィエル「内部で戻せるのは今日が限界です。次が来たら、外からやります。君の外側で」
ミオ「じゃあ、わたしは内側で書くわ。あなたの内側と外側を結ぶ接続詞になる」
リヴィエル「接続詞は、分を壊さずに曲げられますね」
ミオ「壊れにくい曲げ方を覚えよう」
彼は小さく笑った。潮風は笑いの輪郭だけを削り、熱は奪わない。代わりに、覚悟の線を細く長く伸ばす。
別れ際、彼が言いにくそうに続ける。
リヴィエル「母に、君のことを話しました。共に“数える人だ”って」
ミオ「それは光栄。数え間違えたら、訂正して」
リヴィエル「訂正は早めにですね。君が言っていた」
ミオ「うん。早めに腐るのは疑い。早めに育つのは信頼よ」
頷きは、紙に押す軽い印の重さに似ていた。
社に戻る途中、わたしは自分の中の在庫を点検する。配れる言葉、守れる沈黙、残りの空白。空白はまだある。続報のために、そして誰かの湯気のために。
編集部の灯りは低く、印刷機の軋みは小さい。机に腰を下ろすと、ローザからメッセージが来た。
ローザ「記事、よかったよ。ねえミオ、あなたにとっての恋って何?」
ミオ「うーん、“時限公開”の逆かな。今を少し先に渡すこと、みたいな」
ローザ「難しい」
ミオ「じゃあ簡単に。“風呂に入れるようにすること”」
画面を閉じ、手帳に小さく記す――本日、配った幸福:六。数字の隣に点は打たない。点は終わりの印だから。今はまだ、続けるための余白が要る。




