二十七話 電波、届いた?
走って、走って、走って。
息が切れて、足が痺れて、心臓が軋んだ。
それでも一生懸命に走って、階段を上がって、息を切らしながら扉を開けた先に──。
「──待ってた」
屋上のフェンス、その真上に座っている翼ちゃんの姿があった。一部、血の滲んでる上靴を履いた足をぶらつかせながら、いつもと変わらない無表情で私を見つめている。
その姿が危なくて、不安定で、私が遠ざけたかった危険の上で、火遊びしてるみたいに感じたから。
「……翼ちゃん、降りて」
命令形で、今すぐ止めてと指示、してしまっていた。チクリと、胸が痛む。翼ちゃんの自由を、また縛ろうとしてるって自覚して。
そんな指示に、翼ちゃんは小さく首を振った。
必要ないよと、もしもなんて起きないからって言わんばかりに。
「お話、聞いて」
いつもと変わらない、日常の延長線みたいにこともなさげに、そう呟いた。当たり前を、繰り返そうとしてるみたいに。
この場では、翼ちゃんこそがルールみたいな振る舞いだった。
……ふと、初めて会った時のことを思い出す。
あの時も、この四方をフェンスで囲まれた小さな領土は、翼ちゃんの王国であったことを。独特な、神秘的ですらある雰囲気で、誰も居ない王国を統治していたことを。
仲良くなる度に、薄れて行った感触。
接する度に、ちゃんと人間なんだって理解できた。
それは多分、翼ちゃんが堕天していったから。
天使じゃなくなっていって、人間として私の隣に立ってくれていた。
けれど今、私の目の前にいる翼ちゃんは……。
「りお、勘違い、してる」
──夕焼けの国の、永遠の王女様。
足が竦んだ、心が軋んだ。
あの日の翼ちゃんが、目の前にいたから。
今までの積み重ねが、無かったことになったみたいで。
翼ちゃんが、天使様に戻った気がして。
「かん、ちがい?」
震える声で、復唱する。
目の前の翼ちゃんが何を思っているのか、怖くて仕方ない。
酷いことをしていた自覚、あったから。
……もう会いたくないって言われても、仕方のないことをしていたから。
夏なのに、寒い。
背筋が、腕が、蝕むように冷たくなる。
顔が俯いてしまう。
何かが羽ばたいた様な夏風が、翼ちゃんの制服のスカートを揺らしているのだけが、目に入った。
「──ここに来てくれてるの、りおだけ。ほか、誰もいない」
裁きを下されるつもりで、震えていた。
なのに、掛けられた言葉は全く違っていて。
言葉の意味を読み取れなくて、頭に空白ができる。
真っ白ですらない、鈍くて動いてない状況。
そこに、翼ちゃんは言葉をさらに重ねた。
「ボクは、りおじゃ、ない。思ってること、全部は、わから、ない。けど……」
顔を上げると、目が合った。
真っ直ぐ私を見ている、透明な目。
水の中にいるみたいな、揺蕩っている目。
まるで水の中にいる様な、何処までも澄んだ湖の中で浮かんでいる感覚。
「こうして、来てくれるの、りおだけ。他の人、なんて、いない。行為は、胸の気持ちから溢れてたものの、結果」
水の中、だけれど。
──息が出来る、溺れることなんて微塵も考えられない。
「りおは、優しい。良い子──嘘じゃない、ホントのこと」
ちゃんと言葉が、耳に届く。
翼ちゃんの言葉を、受け入れられる。
ここは翼ちゃんの世界で、嘘なんて必要のない世界だって信じられたから。
温かな水、クリアな世界。
翼ちゃんの思い遣りに溢れた、優しい、二人だけの。
「ボクにりお、必要。ボクの話、聞いてくれた、一人だけの、大切な人。──誰でも、良くない」
吸い込まれそうな、揺れる瞳。
穏やかで、緩やかな、優しさに包まれている。
その目をずっと見ていると、記憶にない何処かに浮かんでいたことを想起させられる。
「それでも、りおが、信じられない、なら……自分、信じて、あげられないなら……行為で示すしか、ない」
そう言って、翼ちゃんはジッと私を見つめた。
「だから、りお。あなたの……」
そこまで口にして、翼ちゃんは固まった。
フェンスの上で、カチコチに。
そうして、一言。
「……降りれ、ない。たすけて」
──世界に、翼ちゃん以外の音が戻った。
緊張感が抜けて、へたり込みそうになる。
でも、安心できた。
翼ちゃんは、ちゃんと人間なんだって思えて。
何なら、少しおっちょこちょいなくらい。
「……無茶、するからだよ」
フラフラしそうな体を叱りつけながら、翼ちゃんに手を差し伸べて。
「ん、ありが──」
瞬間、フラフラと翼ちゃんの姿が傾いた。
そしてそのまま、フェンスの向こう側へと──。
「っ、翼ちゃん!!」
咄嗟に、私はその手を──。
理央ちゃんは、自分に自信がない。
だから、ボクの隣にいて良いのか悩んでいる。
だったら、隣にいる理由をあげちゃえば良いんだ。
そうしたら、きっと安心してくれるから。
そういう発想で、ボクは学校の屋上まで来ていた。
何でここなのかと言えば……常に理央ちゃんが何かしらの反応をしていたのが、この場所だったから。
理央ちゃんが気にしている何か。
ボクが何処かに行っちゃうって思い込みの源泉が、恐らくはここにある。
だから、一緒にいる理由を付けるついでに、ここには何にもないよって証明しようと思ったんだ。
怖がらないで、お空は単に綺麗なだけだよって。
フェンスの上に登った、簡単に理央ちゃんに捕まらないために。よじ登る時、足が痛かったけど頑張ったんだ。あとで理央ちゃんに、褒めてもらわないとね。
ついでに言えば、帰り際は助けてもらおうって考えてた。足が傷だらけになってるから、歩くの大変だし。
そうすることで、ボクはこれだけダメダメだから、理央ちゃんの助けがあるんだよって口にできなくても、実感してもらえないかって魂胆もあるよ!
居て欲しい気持ちに納得してもらえないなら、居なきゃダメだって理由にする。半分は自虐で、もう半分は脅迫みたいなもの。
あまりにあんまりだけど、仕方ない。
ボクのことをちっとも信じてくれない、理央ちゃんが悪いんだよ。
……まだ、ぷち怒ってるもん。
少し待ってると、屋上の扉が開いた。
顔を覗かせた理央ちゃんは、必死に走ってきてたのか汗でびっしょり。その姿を見ると、ぷち怒ってたのが、ミニ怒ってる気がするくらいに、落ち着いてしまった。
ボクのために、必死になってくれてたのが伝わってきたから。
……でも、まだやめない。
「──待ってた」
理央ちゃんの憂いごと、全部吹き飛ばしちゃおうって決めてたから。
覚悟してね、理央ちゃん。
この後、その……勇気を振り絞って、とんでもないことしちゃうつもり、だから!
あれから、話して、聞いてくれて。
理央ちゃんの表情から、険しさが抜け落ちていた。
……まだ、肝心なこと、していないのに。
でも、仲直りできそうな空気感あるし、もういっかな……。
そんな弱気が心に差しかけるけど、昨日までの理央ちゃんを思い出すと、今更引き返すなんて出来ない。
また、ふとした瞬間に、理央ちゃんは不安で仕方なくなっちゃうかもしれないし。
だから、何としてでも、えっと、その……。
し、しちゃうんだ、今日、ここで!
「だから、りお。あなたの……」
大切なもの、ください。
理央ちゃんに近寄って、そう言うつもりだった。
けど、今更ながらに気がついた。
いま、フェンスから飛び降りたら、着地の衝撃でボクの足が木っ端微塵になりかねないことに。
そうなったら、格好つけて色々する余裕が無くなってしまう。
おバカ、ボクって本当にアホウドリ!
お間抜け極まれり、ボクはRTAとかできないタイプの人間だった。
「……降りれ、ない。たすけて」
始まる前から、格好つかなくなってしまった。
うぅ、こんなの、理央ちゃんに笑われちゃう……。
背に腹は変えられない、今更引き下がれないから。
だから、どうかボクの間抜けな姿だけは、全部忘れてくれると嬉しいです……。
図々しさの塊みたいなことを考えながら、差し伸べてもらった手、握ろうとして。
「……無茶、するからだよ」
「ん、ありが──」
瞬間、前のめりになって落ちそうになった。
このままだと、理央ちゃんに真上に倒れ込んじゃう。
思わずバランスを取るために、咄嗟に体重を後ろに掛けて。──掛けてから、後ろに壁がなかったこと、思い出した。
あっ、もしかしてボク、今から死ぬの?
どうしよう、そんなことなったら、理央ちゃん泣いちゃうよ……。
それは、嫌だな……。
視界がスローモーションになる。
ボクはそのまま、フェンスの向こう側にゆっくりと……。
「っ、翼ちゃん!!」
倒れる──前に、理央ちゃんが、ボクの太もも辺りを腕でホールドしてくれていた。
り、理央ちゃん!!
慌てて、フェンスを握りしめる。
力を入れて、上体を起こそうとする。
まさに間一髪、理央ちゃんそのものが、命綱の代わりになってくれていた。
「っ、り、お」
「翼ちゃん、頑張って!」
粘る、ひたすらに。
踏ん張る、トイレに行く時以上に。
そうすることで、ギリギリの均衡を保てていた。
落ちず上がらず、ギリギリを生きている──そんな最中でのこと。
理央ちゃんの腕に、太ももをへし折りかねないくらい、力が入って。
「──翼ちゃんを持っていかないで、神様!!!」
空の彼方、雲さえ切り裂きかねないほどの大声を出してから、思いっきり後ろへ倒れる形で体重を掛けて。
衝撃と共に、ゴツンと鋭い痛みが走って。
気がつけば──二人して、屋上に倒れ伏していた。
…………たす、かったの?
心臓が破けちゃいそうなくらい、バクバクしてて。
骨がひび割れたそうなほど、ジクジクしてて。
足は相変わらず、ジャリっと傷付いたまま。
……要するに、生きてるみたいだった。
「つばさ、ちゃんっ」
「り、おっ」
息も絶え絶えに、お互いの名前を口にする。
大丈夫だよねって、二人して確かめ合う。
吐息が触れ合う距離で、鼻先をくっつけ合いながら、二人して身じろぎをする。
……痛いけど、痛いだけ。
体、ちゃんと動いてる。
よかったぁーーっ!!!
「りお、ありが──」
今度こそ、ちゃんとお礼を伝えようとした──直後、おでこを凄まじい衝撃が襲った。理央ちゃんの頭突きが、見事なまでに突き刺さったのだ。
「バカ、バカだよ翼ちゃんっ!」
そして、即座に浴びせられる怒りを滲ませた言葉。
考えるまでもなく、当然の叱責だった。
その通り過ぎて、何も言えない。
理央ちゃんに心配、掛けちゃった……。
「もう少しで、し、死んじゃうところだったんだよ!!」
泣きそうな目をしてる姿に、本当に申し訳なくて仕方なくなる。
「……ごめん、りお」
「危ないこと、もう二度としないで!」
「……ん」
申し開きのしようがない。
粛々と、その言葉に頷くしかなくて。
「──でも、助かって良かった。神様に翼ちゃん、取られなくて、良かった……」
ギュッと抱きしめてくれた腕。
それが何よりも、理央ちゃんの気持ちを伝えてくれた。
本当に、ごめん。
もう二度としないって約束、するね。
……でも、本当に申し訳ないし、こんなこと思うのはダメって思ってる。反省してないって思われても仕方のない、そんな考え、頭によぎったんだけど。
「……りお、命の、恩人」
ボクの命を助けてくれた。
決死の覚悟で、自分の身を賭けてでも助け出してくれた。
これってさ、隣に居て良い理由するには十分すぎるんじゃないかな?
「だから──ボクの命、りおのもの、だね」
ねぇ、知ってる?
日本の法律では、落とし物を拾って届けたら、その内の数パーセントは拾い主のモノになっちゃうんだよ。
だからさ、ボクの命の幾らかは、理央ちゃんのモノになっちゃった。
「──だったら、私の命も翼ちゃんのモノ、だよ」
抱き締めながら、理央ちゃんは囁いた。
もう、怒ってる声じゃない。
緊張が抜けた、緩やかな声。
「私たち、命の分け合いっこ、したんだね」
その言葉に、耳がピクリと反応した。
だって、その理屈だと、ボクは理央ちゃんの命を救っていることになるから。
そんな何か、あったっけ?
……分かんないし、思い出せないね。
でも、一つだけ言えることがある。
「神様の、じゃ、ない。ボクの命は、りおの命」
さっき、理央ちゃんは言っていた。
ボクのこと、持っていかないでって。
神様に向かって、そう叫んでいた。
あの必死な姿を見て、分かった。
天使の階段をあれだけ嫌がっていたのって、神様にボクが連れていかれると思って、不安がっていたんだ。
ボクのことが信じられなくて、神様に持っていかれちゃうって。実際、ボクがバカすぎたせいで、さっきそうなりかけた。
けど、もう二度とふざけたこと、しないよ。
だって、ボクだけの命じゃなくなったから。
ボクの命の権利は、ボクと理央ちゃんの共同財産になっちゃったもん。
転生させてくれて、神様にはすごく感謝してる。
ありがとうって、何度も伝えたいくらいに。
でもね、理央ちゃんが不安がるから、これからはあんまり感謝できそうにないかもしれません。二人で命を管理することになっちゃったから……ごめんなさい。
それから──本当にありがとうございました!
「りお、あの、ね」
「うん」
天使の階段、もう見にいけないかもしれない。
けど、神様よりも理央ちゃんを何より優先するって、そう決めたから。
「……これからも、一緒。見守ってて、くれる?」
「っ、うん!」
夕暮れ時、今日が眠る間際の時間。
ロウソクが燃え尽きる間際、俄かに激しく燃える色合いの時間帯。
微睡む様に、ボクたちは新しい約束を交わした。
前に交わした、ずっと一緒に居ようねって約束と、似ているようで違うもの。
──ボクの面倒みてください、代わりにあなたを支えます。
前の時より具体的で、踏み込んだ約束。
まるでプロポーズみたいだと、二人で囁き合う。
冗談めかしてるのに、本気だって通じ合えてた。
それが嬉しくて、ドキドキで、素敵すぎたから。
──二人して、満面の笑みを浮かべていた。
これからも、ずーっとよろしくね、理央ちゃん!
「ところで翼ちゃん」
「……なに?」
「落っこちちゃう前に言ってた、"だから、りお。あなたの……"の後に、何て言おうとしてたの?」
「………………くちびる、ください」
「………………する?」
「……いい、の?」
「痛いから、おでこにしてほしい、かな」
「わかっ、た」
頭突きをして、ほんのりと赤くなってしまっている理央ちゃんのおでこ。そこに、そっとボクは唇を落として……。
「っん」
──初めてのキスは、ほんのり汗の味がした。




