二十四話 電波を遮断
ドライヤーが熱風を吐き出す音だけが、ボクたちの周りに響いている。
温かな風と、櫛で髪を梳いてくれる感触。
目を閉じながら、それを味わっていると、何だか落ち着いてきた。
さっきはもう、色々と大変だった。
理央ちゃん、急に変なこと言い出すし。
一緒にお風呂に入った挙句、お胸触られたし。
二人して真っ赤で、湯船でぶくぶくしたし。
感情の処理が追い付かなくて、もう本っ当に色々変になりそうで。
……あんなの、本当にえっちすぎた。
ただ、大変さと同じくらい心配になる。今日の理央ちゃんは、明らかに情緒不安定さんだったから。
「……りお」
「なにかな、翼ちゃん」
呼び掛けると、平坦な声がした。
ボクみたいに、感情の色が見えにくい声。
「だいじょう、ぶ?」
今日、色んな顔を見せた理央ちゃん。
それは全部、確かに彼女自身。
知ってる面も、知らない面も、全部が理央ちゃんだって感じられた。
……けれど、あんまりに落ち着きがない。
忙しなく表情を変えていく姿が、何処か不安がってるみたいだったから。
「聞か、せて」
理央ちゃんが何を思っているのか、不安がってるのか……怖がっているのか。
分からないから、理解したかった。
理解者になって、一緒に悩みたかった。
……親友で、大切な人だもん。
背中を預けて、理央ちゃんに軽くもたれる。
こんなこと聞いたのは、理央ちゃんのためじゃなくて、ボクのためだよって伝えたくて。
口下手なボクの、軽いジェスチャー。
あなたに甘えてますって、言葉じゃなくて行為で示した。
それに、理央ちゃんは……。
「……翼ちゃんは、かわいいね」
ドライヤーを止めて、乾いたボクの髪へと顔を埋めた。
それがこそばゆくて、何だか照れくさい。
ボクの甘えるという行為に、理央ちゃんも甘えるで返してくれたってことだから。
「……私ね、翼ちゃんのことが好き、大好き」
ずっと今日、理央ちゃんの言いたいことが分からなかった。コロコロと表情を、情緒を変えていた故に。
「ボクも、りお、好き」
だけど、今はお互いに甘えている、甘え合ってる。
そういう格好を取っているから、本音をこぼしあえる。そんなスタンスで、ボクはもたれて、理央ちゃんは突っ伏し合っていた。
なので、いま交わしている言葉は、本物だと信じられる。……信じないと、始まらない。
何も分からないままは、嫌だから。
「教えて、りお」
「……翼ちゃんが、教えてくれたら」
「ん」
何でも聞いて、全部答えるよ。
そんな気持ちで頷いた、今は甘えてる最中だもんね。
ボクの髪の中で、理央ちゃんは猫みたいに顔を擦り付けて。軽く息を吐いて、呟いた。
「……天使様の、階段のこと」
天使の階段、雲間から降り注ぐ薄明光線。
前世で見た、今世でも見たい景色。
今日、見れるかもしれなかった現象のこと。
「見た、い?」
正直な話、ちょっと複雑な気持ちはある。
昨日は寝る直前まで、ずっとワクワクしてたから。
どうして屋上に現れたのか、ボクに何を伝えたかったのか。
分からないけど、何となく察したこともある。
……理央ちゃん、天使の階段、あんまりよく思ってないよね。
「見たくないよ、ずっと」
だから、その答えにも納得できた。
できた、んだけど……。
それと一緒に、胸の奥底で気持ちが揺らめいた。
……ボクにも見せたくなくて、止められちゃったのかなって。
「じゃあ、なに、聞きたい?」
けど、今の理央ちゃんはボクを信じて、甘えてくれてる。だから、こうして正直に話をしてくれた。
ボクになら、甘えても良いんだって思って。
だから、頭によぎった考えに蓋をして、理央ちゃんの話に付き合う。この瞬間だけは、否定するのは信頼を裏切ることとイコールだから。
「……翼ちゃんは、どうして天使の階段に拘るの、かな」
どうして、それは今日のボクたちの間に渦巻いてる気持ちの形。まるで絡まった糸みたいに、奇妙に絡みついてくる。
「空が、綺麗だった、から」
その糸に、そっと触れた。
大変に思えても、解かない理由にはならないから。
一つ一つ、ほぐしていこう。
理央ちゃんが気にしてることを、一つずつ。
「空、が?」
「そう、ユラユラ、キラキラ」
前世での一生の思い出、脳裏に焼きついた神秘的な景色。あの日のボクは、神様の裾を見た気がした。
「世界の果ては、空にある。そう、思った、の」
一目惚れって、多分あの時のことだと思う。
あの瞬間、ボクは空に片思いを寄せていた。
「……だから、なの?」
ある意味で初恋のことを思い出していると、お腹に手を回されて、ギュッとされた。
「……何に変えても綺麗だから、お空に向かってるの?」
緊張したみたいに固い腕、力を入れるのを我慢してるみたい。その腕が糸の絡まり、ボクたちの間にある"どうして"、その形だと思えて。
「そう、あそこなら、聞こえる、から」
だから、その腕に手を添えた。
不安があるなら、解くから。
頑なにならないで、伝え合おうって。
「神様に、ありがとう、伝えたくて」
そう決められたからか、素直に思ってたことが口からこぼれ出た。
景色が綺麗だから、前世で見て感動したから。
全部その通りだけど、それだけじゃない。
神社に行く時とは違う、直接声が届けられる。
そんな気がする空に、もう一度逢いたいだけなんだ。
「……安心、して」
もしかすると、理央ちゃんは神々しすぎる景色が怖いと感じてるのかも。綺麗な桜の下には、死体が埋まってるって思っちゃうみたいに。
でもね、大丈夫だよ。
怖いことなんて、何にもない。
天使が街を滅ぼしに来たりしないし、神様が気まぐれに洪水を起こすこともない。
ただ、後光が空から差してるだけなんだから。
「怖く、ない」
怖くないと繰り返しながら、お腹に回された手に触れ続けた。
何度も、何度も。
僅かに震えながらも、力を込めない様にしてくれてる優しい腕を。
「……どこにも行かない?」
「一緒、ずっと。約束、した」
お腹に回された腕が、ダラリと弛緩する。
代わりに、背中に何度も顔を擦り付けて。
「…………そうだね、うん、そうだったね」
理央ちゃんの声に、色が戻ってきた。
それも、温かい声。
色々滲んでる、力が抜けた声。
「神様の前で約束、してくれたもんね」
「ん」
もしかして、理央ちゃん。
天使の階段を見たら、ボクが何処か行っちゃうって思ってたのかな。
だから、こんなにも必死、だったの?
神隠しに合っちゃうって、そう思ってた?
……どうしよ、思い返してみると、天使の階段について話してた時って、大体テンション高くてミステリアスしてた。勘違いされてる可能性、なくもない。
「信じて。いなく、ならない」
ボクの言葉に反応するみたいに、理央ちゃんは呟く。
「信じるよ……翼ちゃんのことは」
背中から重さが無くなる。
お風呂上がりで、暖かいを超えて暑く感じていた熱が離れていってしまう。
「ね、今日は一緒にいて」
そうして、ボクの目の前に現れた理央ちゃんは──眩いばかりの笑顔。
「り、お?」
「夏休み、だから……ダメ、かな?」
甘えるみたいな上目遣い、夏休みだからって言葉。
それに、さっきまで落ち込んでいた理央ちゃん。
……一日くらいなら、良いかな。
理央ちゃん、落ち着けたか見ててあげたいし。
「いい、よ」
だから、頷いていた。
ボク自身、理央ちゃんのお願いを無碍にしたくなんてないし。
……別に、理央ちゃんの色香にやられちゃった訳じゃないよ?
理央ちゃん、もう大丈夫なのかってだけだし。
落ち着いてるなら、大好きな友達とのお泊まり会。落ち込み気味なら、慰め会になるだけだから。
「お泊まり、する」
「うん、一緒しようね。──ずっと、ずっと」
今はただ、理央ちゃんが寂しくなることがありません様に。それだけを願って、理央ちゃんの部屋にお泊まりすることを決めた。
そうして、ボクは……。
「この、部屋?」
「そうだよ、ここが翼ちゃんの部屋」
余っている部屋があって、そこに案内された。
使ってない筈なのに、埃一つない綺麗な部屋。
「今日は一緒に寝ようね、翼ちゃん」
「……一緒?」
「うん、一緒」
一緒、二人でたくさん口にした言葉。
離れ離れになんかならないって、そんな決意を込めての言葉。
それはそれとして、一緒にお布団並べて寝ちゃうってことだよね、これは。
……そんなこと、許されちゃっても良いの?
いやいやいや、もうお風呂も一緒しちゃったもんね。
じゃあ、これくらいは誤差ってこと?
うーん、頭がこんがらがってきた。
考えすぎると、パーンってなっちゃいそうな感じ。
「そういうことだから、少しここで待っててね、翼ちゃん」
ご機嫌な声でそう告げて、部屋の扉が音を立てて閉められた。
──続けて、カチャンとどこかが施錠された音。
ん、何処が?
ていうか、ここにはボクと理央ちゃんしかいないから……あれれ?
えっと、この部屋は……鍵、付いてない。
ふぅ、気のせいだったね、焦っちゃったよ。
まさかね、理央ちゃんが急にボクを閉じ込めるなんて、そんなこと……。
ドアノブを回して、引く。
当然、開いてくれるよねって判断して。
……なのに、引っ掛かって開かない。
あれ、あれれー?
おかしいね、どうしてだろうね?
このドアノブ、鍵なんてないのに……何でだろうね?
…………理央ちゃん、どゆことかな?
翼ちゃんのことは信用できる、信頼してる。
ずっと一緒って約束、守ってくれるって。
……でも、神様はそうじゃないよね?
翼ちゃん、本当に素敵で可愛い子だから。
絶対、見つかったら連れていかれちゃう。
一緒にいるって約束、無碍にされちゃう。
そういう訳だから、ごめん。
翼ちゃんは、神様から隠さなきゃいけないの。
私が絶対に面倒見るし、何だってしてあげる。
寂しい思いだって絶対にさせないし、翼ちゃんはただ側にいてくれるだけで良いの。
私が、世界の全てから守ってあげる。
……だから、今日からそこが翼ちゃんの部屋。
外からしか解錠と施錠ができない、神様から遮るために日曜大工して作った翼ちゃんの部屋。
今日から、ずーっと一緒だからね、翼ちゃん。




