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二十二話 電波が空に届きませんように

 夏休みの初日、夕暮れ時に雨が降る。


 厚い雲が空を覆って、風が適度に空を撹拌する。

 雨脚は強くなく、けれども数時間に渡って雲が空を覆う。


 条件としては、結構悪くなかった。

 多分、今世で一番の機会。


 ──天使の階段を見るのに、絶好の日和だった。


 別名を薄明光線、天使の梯子とも呼ばれてる。

 彼の文豪、宮沢賢治先生は光のパイプオルガンなんて言ったらしい。


 ずっと屋上で待っていた、ボクが望んでいた時が来そう。

 そう思うと、ワクワクドキドキが止まらない。


 前世で見たキラキラ、大気が軽く感じるくらいに綺麗な光景。見るだけで幸せになれちゃいそうな、全部が浄化されちゃいそうな景色。


 空から溢れた、神様の世界の欠片。

 雲の狭間に、神様の国は存在しているのかも。


 ……なんてね!


 見れるかもって機会が訪れて、すっごくテンションが上っちゃってる。


 絶対見れるって訳じゃないし、むしろ見れなくても不思議じゃない。でもね、最近のボクなら見れちゃうなって思ってるんだよ!


 理央ちゃんに出会ってから、人生が楽しいから。

 ジッと一人、屋上で妄想してるだけの生活を、理央ちゃんが華やかにしてくれたんだ。


 話すことは楽しくて、親しく名前を呼べるのは特別で、手を繋ぐことはこそばゆい。

 仲違いすると息苦しくて、怒らせちゃうとしょんぼりして、イジワルすると胸がジクジクする。


 毎日が夕焼け一色だったのが、理央ちゃんと出会ってから目まぐるしいくらいに世界が彩られた。


 素敵が明日を待ち受けてるんだって、期待、しちゃうようになってしまった。


 だからさ、多分見れちゃう。

 天使の階段、見れちゃうんだ!


 全部思い込みなんだけど、そうなったら素敵だよね!



 理央ちゃんには、この前一緒にみようって言って困らせたから、当日はボク一人で見に行って、撮った写真を見せてあげようって思ってる。


 素敵な写真を頑張って撮るから、それを見ながら、一緒にミステリアスしちゃおうね、理央ちゃん!


 それにね、実はね……天使の階段見るのも楽しみにしてるけど、それと同じくらい理央ちゃんと写真を見るのも楽しみにしてるから。


 綺麗な写真撮って、それで理央ちゃんが喜んでくれたら嬉しいなぁ。



「りお、見れそう」


 だからね、理央ちゃん。


「何が見れそうなのかな、翼ちゃん」


 ボクが撮ってきた写真を見て、良いって感じてくれたらさ。


「──天使の階段、見れそう」


 ──今度は、一緒に天使の階段を見に行って欲しいんだ。


 もし良いって言ってくれたら、今度はボクからデートに誘ったことになるね。


 理央ちゃんとデート、正面からは上手く言えないから、神様に勇気を借りるんだ。

 えへへ、今からドキドキが止まらないよ!




 そうして当日、小雨が降る空の下。


 学校の屋上で、モーセの奇跡を願うが如く、雲間から光が差しますようにとお祈りしていた時のこと。


 誰も来ないはずの屋上の扉が、重苦しい音と共に音を立てて開いた。そのまま、足音を立てながらこっちに誰かが近づいて来る。



「……翼ちゃん、傘、差してないんだ」



「り、お?」


 ──来れないと思っていた理央ちゃんが、雨空の下に立っていた。


 一瞬、もしかしてって気持ちが湧いた。

 ボクと一緒に、天使の階段を見に来てくれたのかなって。


「……風邪、引いちゃうよ」


 けど、何かがおかしかった。

 何がって言うと、理央ちゃんの雰囲気が。


 夕暮れじゃなく、曇天だからかもしれないけど。

 今日の理央ちゃん、何だか暗い顔、してる気がして。


「だいじょう、ぶ?」


 慌てて、理央ちゃんの体をそっと支えた。


 今日みたいな日は、気圧が高くなりがちだから、理央ちゃんはそういうのに弱いのかもしれないって思って。


「……大丈夫じゃ、ないよ」


 すると、言葉の弱々しさとは裏腹に、信じられないくらい強い力でぎゅっとされた。

 ……ちょっと、痛い。


「り、お?」


 チクッて痛みが、背中に走る。

 一生懸命ギュッとして、爪まで立っちゃってる。


 理央ちゃん、本当にどうしたの?

 どこか苦しいの? 痛いの?


 だとしたら言って。

 苦しいなら、直ぐに力になるから!


「……ねぇ、翼ちゃん。聞いて、くれる?」


「……ん」


 だから、話してくれようとしてる理央ちゃんを、そのまま受け入れる。


 相変わらず力が強いままだけど、必死な感じがあったから。添えるみたいに、理央ちゃんの背中を摩った。


 大丈夫だからね、と気持ちを込めて。


「……翼ちゃんは優しいね」


「ん」


「──でも、残酷だよ」


 爪が食い込む。

 背中に跡、残っちゃいそう。


 不安、がってる?

 何が不安なの、理央ちゃん。


「話、なに?」


「…………私のこと」


「ん」


 大人しく、抵抗せず耳を傾ける。

 理央ちゃんに、とにかく落ち着いてもらいたくて。


 想像してた、体のどこかが苦しいのって話とは違ったけれど。理央ちゃんのこと、あんまり聞かせてもらったことないなって思いもしたから。


「聞か、せて」


 お願いすると、理央ちゃんは小さく頷いて。


「あの、ね。私……ずっと──自分自身のこと、嫌いだった」


 小さく声を震わせながら、そんな語りだしで話を始めた。


 ……ボクの方からも、軽く理央ちゃんを抱きしめた。少しでも、楽になって欲しくて。


「私ね……良い子、らしいんだ」


 だから、戸惑った。

 さっきの言葉と、繋がりが見えなくて。


 理央ちゃんは、本当に色々よくしてくれたから。

 良い人かどうかって聞かれたら、良い人って答えると思う。


 けど、理央ちゃんの表情は冴えない。

 むしろ、段々と暗くなっていく。


 ……理央ちゃんにとって、良い子ってどんな意味なんだろう。


「私ね、要領が悪いタイプなの」


 耳元で囁かれるそれは、明らかな自嘲。

 薄い笑みすら浮かべてるのに、ちっとも楽しそうじゃない。


 抱きしめられた腕から、ちっとも力が抜けない。


「お母さんとお父さんは、どっちも良い学校を出て、良い大学に進学して、良い企業に就職した人。要領良くて、努力ができて、大抵のことはできちゃう」


 むしろ一生懸命、耐えるみたいにボクにしがみついてる。

 ……理央ちゃんの腕、震えていた。


「なのにね、そんな二人の子供なのに、私は全然できない。一生懸命、たくさん嫌な思いしなきゃ良い点数は取れないし、だからといって運動も好きじゃない。他のことも、全然できない──私、取り柄がないの」


 半笑いなのに、涙声。

 ぽつぽつ降って来る小雨が、全部理央ちゃんからこぼれたものみたいに、感じちゃう。


 ……取り柄がないなんて、そんなことないよ。


「私、お母さんお父さんから、怒られたことはあんまりないの。ただ、こんなことで躓くなんてって、呆れられてるだけ。ね、知ってる? ──呆れるってさ、失望を通り越した時に起こる感情なんだよ」


 あまりに強い自嘲、止まるところを知らない自虐。理央ちゃんは、自己肯定感がとても低い。そんな大事なことに、たった今気がついた。


 ボク、今まで理央ちゃんの何を見てたんだろう……。


「でもね、お母さんもお父さんも、私にだって何か良いところの一つや二つあるって、そう思い込んでるの。私たちの子供なんだから、そのはずだって。それが──」


 背中に、理央ちゃんが顔を埋めた。

 声がくぐもる。けれど、はっきりとそれは聞こえた。


「"──理央は良い子なんだけどねぇ"って、そんな言葉。両親が私にくれた、唯一のアイデンティティ」


 最初に理央ちゃんが言ってた、良い子。

 その意味に、ようやく気がついた。


 要するに理央ちゃんは……自分に褒められるところがないから、そう言われてるんだって、思い込んでるんだ。


「……嘘、ばっかり。私、良い子なんかじゃない」


 自分を褒めてあげられなくて、褒められたとしても、全部お世辞に聞こえてしまう。


 悲しいくらいに、自分を認めてあげられない女の子。それが、理央ちゃんなんだって、言葉の端々から伝わって来る。


 理央ちゃんはずっと、息苦しさを感じてたんだって。


「いつも、何でできないんだろうって、劣等感でいっぱいになってた。だって──2歳年下の妹は両親に似て、大体のことはできてたから」


 妹さん、いたんだ。

 それも、とびきり優秀な子が。


 理央ちゃんの妹さんなら、とっても優しくて可愛い子だって思う。けど、だからこそ、余計に卑屈になっちゃったのかもしれない。


 ……もしかしたら、ずっと比較されてるって感じてたのかな。


「両親が嫌になった、妹を避けたくなって……だから、家から遠い学校に進学して、一人暮らしを始めたの。そうしたら、この胸の重たい気持ちからも、解放されるんじゃないかって思って」


 そっか、理央ちゃんも一人暮らしだったんだ。


「……でもね、全然ダメ。胸の重たくて辛くて黒いの、消えてくれない。私、ずっと黒いタールの中で溺れたまま。醜くて黒い──私の心の中で、溺れてるの」


 さっきから、理央ちゃんはずっと、自分を傷付ける事ばっかり言ってる。苦しいよって、必死に悶えてる。


 そんな辛い気持ちを抱えて、一人で夜を過ごしてたんだ。

 もっと早く、気付いてあげたかったな……。


「良い子なんて何処にもいない、私は何者でもなくなった。……何にも、無くなっちゃった」


 震えてる理央ちゃんを、とにかく抱きしめた。

 腕の中に、ボクがいるよって伝えたくて。


「じゃあ、私って何なの? 何にも無いのに──何で息、してるの?」


 ……流石に、それはダメ。

 それ以上、自分を傷付けないで……。


「りおは、りお。ボクの、大切な、人」


「こんな汚らしい、私の心を知っても?」


 一生懸命、今度はボクの方が抱きしめた。

 寂しさと悲しさでいっぱいの理央ちゃんと、少しでも辛さを分かてることを願って。


「……だいすき」


 精一杯の気持ちと想いを込めて、伝える。

 何者でも無いっていうのなら、それをこれからボク達で決めていこうって。


 理央ちゃんは既に素敵だけど、それ以上に胸いっぱい詰め込んでいけるって知ってるから。


 この前、ボクの胸が甘酸っぱいので、いっぱいになっちゃった時みたいに。


「………………翼ちゃんは、本当に私のこと、好きって思ってくれてるの?」


「しんじて」


 ボクはいつだって、理央ちゃんの味方。

 どんなことがあったって、絶対。


 そんな気持ちで、惑うことなく答えたボクに、理央ちゃんは……。


「──じゃあ、天使様の階段と私なら、どっちを選んでくれる?」


「…………りお」


 一瞬、どうしてそれを並べて、比べなきゃダメなんだろうって思った。


 けど、もし比べなきゃいけないのなら……それは絶対に理央ちゃんだ。ボクにとって、理央ちゃんはもう、かけがえのない人になってるんだから。


「そう、なんだ。…………なら、今から私の住んでるとこ、来てくれない、かな。……ここから、離れられる?」


 試されてる、理央ちゃんに。

 不安な心でいっぱいになってる中で、手を伸ばすみたいにして。


「……いい、よ」


 その儚くてか弱い手を振り払うことなんて、そんなことしたくなかったから。


 今は空じゃなくて、一番大切な理央ちゃんの手を取った。……空に手を伸ばすのは、いつかまた別の機会に、と決めて。


 ずっと抱きしめられてた腕の力が、ようやく弱まった。立てられてた爪が、ひっそりと引き抜かれる。


「…………ごめんね、翼ちゃん」


「ん」


「しんじる……私も、大好きだよ」


 そうして、一歩離れてお互いの顔を見つめた。

 ……理央ちゃんの顔は、泣き腫らされて赤くなっていた。






 翼ちゃんは、多分今日、旅立つつもりだった。

 何もかもから解放されて、21グラム軽くなるつもり、だったんだと思う。


 けど、呼び止めたら止まってくれた。

 汚れちゃうのも構わずに、私の心ごと抱きしめてくれた。


 嬉しい、本当に私のこと、大事にしてくれてたんだって分かって。

 愛おしい、私の汚い部分を私ごと抱きしめてくれて。


 ……でも、汚れちゃったね、翼ちゃん。

 私なんか抱きしめて、好きなんて言ってくれたから。


 純白の体と心は、きっと私の色で汚れてるよ?

 そんな人、神様は好きになってくれるかな?



 ……翼ちゃんなら、それでも神様に抱きしめてもらえるかもしれないね。


 だからね──ごめんね?

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