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本日、ルナはシエルとトールと一緒に、城から馬車に乗って、シルヴァ家領内にある港にやってきた。ルナは急いで馬車から降り立ち、目の前広がる、初めて見る海を輝く瞳で見つめた。
事の発端は、シルヴァ侯爵であった。いつもの通り、彼は城にシエルを連れて仕事に訪れ、その際にルナを探して、シエルと仲良くするように熱心に声かけをしてきたのだ。シドといたルナは、対応を全てシドに任せていた。いつもの通りするりとかわすのだろうとルナは静観していたけれど、なんと、シドは了承したのだ。ルナが驚いて彼を見上げると、溜飲を下げさせるためです、と小声で彼は言った。
城からかなり近いところにあるシルヴァ領にある流行りのカフェにシエルが案内するのはどうか、個室もあるから姫のことは領民には知られないようにできる、とシルヴァ侯爵が提案すると、3時間後に帰ってくるなら、ということとカフェだけにいくならなら、という条件でシドはその案を受け入れた。そういうわけで、トールのお守り付きの、ルナの初めての城外探索が叶ったのである。
馬車に乗りこみ、シエルが運転手に場所を伝えた瞬間、ルナが、海がいい!とシエルに告げた。シエルは、え、と目を丸くした。
「海?」
「近くに港があるんだろ?そこに行きたい!」
「俺は構わないですけれど…」
シエルは、それでもいいのかという確認がしたくて、トールの方をちらりと見た。しかし、トールはすでに大口を開いて寝ていた。
「(えっ、この人ルナ様の護衛の人だよね…?)」
「海!海いくぞ!」
目を輝かせるルナに、シエルは少し目を奪われたあと、わかりました、と微笑んだ。
こうして、一行は港に到着したのである。漁船や交易のための船が数隻港にとまっている。遠くの方では、船が運航している。
ルナは、初めて見る海に目を輝かせる。シエルは、馬車の中で爆睡するトールを気にかけながらも、どんどん歩いていくルナを置いて行けずに、彼女の隣を歩く。
「シエルはよくここに来るのですか?」
ルナがシエルに尋ねた。シエルは、はい、と頷いた。
「仕事の関係で父と来たり。あとは、休みの日に釣りをしにきたり」
「釣り…!」
ルナがまた目を輝かせる。シエルはそんなルナに微笑んで、次は釣り道具を持ってきましょう、と言った。そのあとすぐに、シエルははっとして口元に手を当てて顔を横にしてルナからそらした。
「(…いや、次って…また2人で来る前提みたいな…)」
「楽しみにしています」
潮風に銀髪を揺らしながら、ルナが嬉しそうに目を細める。シエルは、そんなルナを見つめて頬を赤く染めたまま固まる。シエルは、脈打つ鼓動に驚いて心臓を手で押さえる。
「(お、落ち着け、落ち着け俺…)」
「(…風が強いな…。カツラを飛ばしたらシドに怒られそうだ)」
ルナは、あわてて頭を手でおさえて、風にカツラが飛んでいかないように気をつける。シエルは、目を伏せて、自分の気持ちを落ち着かせようと試みる。
「シエルは昔から釣りが好きなのか?」
海を眺めながら、ルナは何気なく尋ねた。シエルは、突然の声かけに、えっ、と声を裏返して反応した。
「あ、ああ、はい。…俺の母が、釣りが好きだったんです。女性では珍しいかもしれませんけれど」
「(…女は釣りあんましないのか…?)」
「父はいつも仕事で忙しそうでしたから、母がよくここに俺を連れてきてくれて、遊ばせてくれたんです。…母は俺が8つの頃に死んでしまって、…小さい頃は寂しくて、母の思い出を追いかけてよく1人でここに来ました。そのまま、それが習慣になってしまって、今でもここに来ます。休みの日にここに来て釣りをすると、気持ちがすっきりするんです」
「…死んで、さみしい…」
ルナはぽつりとつぶやく。マックスが死んでしまって、そのときに自分は泣けなかった。マックスがもういないこと、会えないことをようやく理解できてきたけれど、時差によって訪れた感情に、どう対処したらいいのかわからずに、ずっとくすぶり続ける不可解な感情が、彼女の腹の底にずっと居座り続けている。
シエルは、ルナを見て小さく笑った。
「小さい頃はすごく泣きました。俺、泣き虫だったから。…父によく叱られました。みっともないって。だから、隠れて泣いていました。みっともなくても、俺は心の折り合いがつかなくて、だからずっと、ずっと泣いていた。そうしたらある日、前を向けました。もう寂しくないかって言われたら違うけれど」
ルナは、シエルの横顔を見つめる。ここ城に来て、ルナは自分は周りの人と違うことに気がついた。心の機敏に鈍くて、表情に出ない。それが良いことか悪いことかはわからない。けれど、少しずつ感情というものに気がつくにつれて、あの日、マックスの亡骸を抱いたままただ立ちつくすだけだった自分がもどかしくてたまらないのだ。
「…オレは、泣けなかった。親父が死んだ日。周りの人はみんな泣いていたのに、オレは何も出来なかった」
ルナの言葉に、シエルはルナの方を見た。
「親父のことを悲しめなかった。あんなに好きだったのに。あの日、周りの子どもみたいに、泣ける人間になりたかった」
ずっと心の奥で抱えていた不安を、なぜかルナはシエルに吐き出すことができた。言い終わると、なぜか胸の奥が締め付けられるような苦しい感覚になる。
シエルはルナの方を見て、彼女を優しい瞳で見つめた。
「別に、悲しいから泣かなくちゃいけないとか、そういう決まりはないと思います」
シエルの言葉に、ルナはシエルの方を見た。
「多分ルナ様は、ルナ様なりの方法でお父上の死を悲しんでいらっしゃる思います。他者からわかりやすいかどうかは、問題ではないと思います。それに、そんなふうに思っていることが、悲しんでいる証拠だと思います」
「…」
「今度、お父上のお墓にお花を供えに生きましょう。きっと喜ばれます。俺も一緒に行きます」
ルナは、シエルの言ったことに、あの日の子供たちを思い出した。
ルナはゆっくり目を伏せる。潮風が、ルナに強く当たる。ルナは視線を上げて、海の方を見つめる。一度、マックスが、海に行ったという話をルナに聞かせたことがある。特に盛り上がりもなにもない話で、ただ仕事の帰りに寄ったというだけのことだった。けれど、マックスが見たという海というものがどんなものか、ルナはずっと気になっていた。初めてみた海は果てしなく広くて、青くて、あの時のマックスは今のルナと同じ感想を抱いただろうか、とルナは心を寄せる。
「…シエルは優しいな」
ルナがそう言うと、シエルは目を丸くしたあと、苦笑いをした。
「いいえ、俺なんて」
「そんなことはない」
「本当に、俺には何にもないんです。役立たずで、愚図だから」
「…」
まるで反射的に繰り出されるシエルの自身を貶める発言に、ルナは首を傾げる。すると、向こうの方から子どもたちが走ってこちらへやってくるのが見えた。
「なんだ?」
「どうかしましたか…あっ」
シエルが子どもたちを見ると、驚いた顔をした。子どもたちは嬉しそうな顔でシェルのそばに近寄った。そして、シエル様シエル様、と彼の周りを囲った。
「来てたんですね!遊んでください!」
「お話して!」
「ま、まって、まってって…」
シエルは子どもたちにずいぶんなつかれているようだった。シエルは苦笑いをしながら、しかし嬉しそうに子どもたちを見る。すると、すこしませた女の子3人組が、もうだめよ、とシエルを囲む子どもたちを咎めた。
「シエル様は今デート中よ」
「わからないの?私たちおこちゃまはお邪魔よ」
「早くあっちで遊びましょう」
女の子たちは、シエルの周りの子どもたちをあちらへ行くように促す。シエルはそれを聞いて、顔を赤くして、ちょ、ちょっと!と女の子たちを止める。
すると、子どもたちの視線がルナに移った。
「この人がシエル様の恋人?」
「この髪の色、王様と一緒だね」
「えー、なになに、ケッコンするの?」
「き、君たち、失礼だからやめなさい!」
必死で止めるシエルを横目に、そうだな、とルナは肯定する。そんなルナに、シエルは、へっ、と声を裏返す。
「私たちは結婚する可能性がある」
「いやっ、それはそうかもしれませんけれど…」
盛り上がる子どもたちに、慌てるシエルは、話題を変えるために、みんななんでここで遊んでるんだ、と尋ねた。すると子どもたちは、幽霊船!と口々に言った。
「幽霊船?って、何の話?」
「木曜日にね、ときどき夜中に船が動いてるんだって」
「こいつらの中にも数人見たことがあるらしいんだけど、そんな時間に動くことはないから見間違いだろうって」
「それか幽霊船なんじゃないかって!」
シエルは、ゆ、幽霊…と嫌そうな顔をする。ルナは子どもたちに、なんで今見に来るんだ?と尋ねた。
「幽霊が出るのは夜だろ?」
「だってほんとだったら怖いもん」
「…」
ルナは、なんだそれ、と心のなかでつぶやく。シエルは、そうだろ、おばけは怖いんだからそんな夜に見に来たりしたら駄目だ、あぶないよ、と子どもたちを諭す。
そんな騒ぎの少し遠くで、子どもの悲鳴が聞こえた。全員が悲鳴の方を見ると、ガラの悪そうな恰幅のいい男たち数名が、子ども2人の首根っこをつかんでぶら下げていた。体を浮かされた子どもたちは泣いていた。
「このガキ、こんなとこで遊んでんじゃねえ、殺すぞ」
「海に投げろそんなクソガキ」
男たちは下品に笑うと、子どもを海に投げようとする素振りを見せた。子どもの悲鳴がさらに上がる。
シエルが慌てて走り、男達の前に立ち、子どもを投げようとする男の腕をつかんだ。
「なんだてめえ?」
「やっ、やめろ!ここらは子どもが遊んでも構わないはずだ!」
「うるせえな、ヒョロヒョロしやがって!」
男の一人がシエルを殴り飛ばした。シエルの体が地面に打ち付けられる。ルナの周りにいる子どもたちも悲鳴を上げる。
ルナは、静かに男たちの前に立った。男たちはルナを見ると、ああ?と声を上げた。地面に伏したシエルがゆっくり顔を上げ、だ、だめだ、逃げて、とルナにつぶやく。しかし、その声はルナには届かない。
「なんだこの女」
「銀髪なんて珍しいな。高く売れそうだ」
そう下品に笑ってルナに近づいてきた男の顎を、ルナは勢いよく蹴り飛ばした。男は地面の上を数メートル転がりながら体を打ちつけられ、そのまま地面に伏せてしまった。うめき声はあげているが、体がうまく動かないようである。他の男達の下品な笑いが止む。シエルも固まる。
ルナは子どもを持った男たちの方を見据えて、おい、と声をかけた。
「そのガキを大人しく返せば、お前たちは見逃してやる」
「なっ、なんだこのおん、」
ルナに食って掛かってきた男の腹をルナは蹴り飛ばした。男の体は地面に打ち付けられると、うめきながらうずくまった。残りの男たちが、冷や汗をかきながらルナの方を見つめる。
「もう一度だけ言う。そのガキを返せ、今すぐ」
ルナがそう言うと、男たちは子どもを地面に下ろすと、うずくまる仲間を抱えて一目散に逃げていった。子どもたちは、それぞれとらわれていた子どもたちと、殴られたシエルの側による。ルナはシエルの側へ行き、大丈夫か、としゃがみ込んで尋ねる。シエルは、え、ええ…とまだ状況が読み込めないまま返す。子どもたちがシエルの手当てや、とらわれた子どもたちの無事の確認をしだした時、他の子どもたちが尊敬の視線をルナに見せた。
「お姉ちゃんめちゃ強いな!」
「すっげえ!」
「超人だな姉ちゃん!」
「(…シドにバレたら不味いかな…オレの前職のことは誰にも言ってはいけないっていわれてたのに…)全然すごくない。ほんの少し鍛えれば誰でもできるぞ」
苦し紛れにルナが誤魔化すと、教えて教えて!と子どもたちがルナに群がった。
その騒ぎに、ようやく起きたらしいトールが馬車から降りてきた。トールは、ここが街のカフェでなく港であること、更にはどうやら一悶着あった中でシエルが怪我をしたことに気がつくと、顔を青くしてこちらへやってきた。シエルの無事を確認すると、ああ…、と額に手を当てた。
「よりにもよってここに…しかもこんなことに…シドにどやされる…」
「お前、あいつに何言われてもいつも平気な顔してるじゃないか」
「いや、今回はマジでやばいんだって…」
頭を抱えたトールがふと言葉を止めて顔を上げた。ルナも一緒に顔を上げると、そこには平民に扮したソルがいた。ソルはルナたちを見ると目を丸くしたあと、いつもの笑みを浮かべてみせた。
「みなさん、こんなところで奇遇ですね」
「そ、ソル様…」
額に汗をかくトールに一度にこりと笑みを見せたソルは、ルナとシエルの方を見た。シエルの頬が赤く腫れているのを見ると、自身の付き人に手当てをするように言った。
「口の中が切れていますね。殴られたんですか?」
「え、ええ…」
「暴漢に対して勇敢に立ち向かわれたんですね、素晴らしいです」
そう言って微笑むソル。シエルは、え、いや、俺は何も…と言いかけて、素晴らしいですね、とソルはシエルに圧をかける。お前が追い払ったことにしろ、というソルの意思を察したシエルは、え、ええ、はい…と歯切れ悪く言った。ソルはそんなシエルに頷くと、ルナの方を見た。
「姫は恐ろしい場面に出くわしましたね」
「そんなことはない。一発蹴りを入れただけでビビって逃げる雑魚ばかりだった」
シエルと違って察しないルナに、笑みを深めるソル。そんな2人を冷や冷やしながら見守るトール。
そんな3人を置いて、1人考えるシエル。
「(…あいつらは誰だ。俺の顔を知らないということは、港の関係者じゃない…)」
考え込むシエルの側に、ソルがやってきた。
「あっ、ソル様…」
「シルヴァ侯爵のご子息、今回の件、姫が巻き込まれたことにより、他人に広まるとさらに大きな問題になりかねません。そうなれば、シルヴァ侯爵家にも責任を問わなければなりません。ご聡明なあなたはならばご理解いただけるはず。どうか内密にしていただけませんか。もちろんお父上にも。ご子息の傷については、シドの方からシルヴァ侯爵に説明させますので、それに合わせてください」
ソルの笑顔ながらも有無を言わせない雰囲気にただならぬ物を察し、シエルは、は、はい…と頷く。ソルはそんな彼を見ると今一度微笑んだ。
「僕は先に城に戻ります。シドに事情を説明する時間がほしいので、みなさんは少ししてから戻ってきてください」
ソルはそう言うと使用人を連れて馬車に乗り込んだ。
ルナは、おい、とソルを呼び止める。ソルが馬車の窓から顔を出す。
「なんですか、姫様」
「なんでソルはここに?」
「ああ、…ここの魚がおいしいと聞いて、買い付けに来たんです」
「魚あ?」
「まあ、それどころではなくなってしまいましたけれど。姫様は、シルヴァ家のご子息とデートですか?」
「そんなところです」
素直に答えるルナに、ソルは目を少し丸くする。しかしすぐに微笑むと、妬けますね、と言った。
「次は僕が姫様をお誘いします。どうかお付き合いください」
それでは、とソルが言うと、馬車は走り出した。ルナは、その馬車を見送りながら、小さくため息をつく。
「(…前に平民に紛れて暮らしの視察をするとか言ってたが、でもなぜ、わざわざ他領のシルヴァ家領に?何か他に理由がある?)」
考えてもわからなかったルナはすぐに諦めて、まだ顔を青くするトールに、ほら帰るぞ、と背中を叩く。トールは力なく、おう、と返す。
「なんだよ、らしくないぞ」
「…さすがにやらかしたんだよ俺は…」
「いつものことじゃないか」
ルナは柄にもなく落胆するトールを馬車に乗せると、考え込むシエルを呼んだ。シエルは、あ、はい、と少し元気なく返事すると、子どもたちに手を振った。
「みんな、はやく帰るんだよ」
「シエル様…」
「シエル様大丈夫?」
子どもたちがケガをしたシエルを心配そうに見上げる。シエルは優しく微笑むと、大丈夫だよ、と笑った。
「それより、みんな怖い目に遭ったね。はやく家に帰るんだよ。俺が、これからあんな怖いやつがこないようにするから。それまで少し待っててくれ」
「うん…」
不安そうな子どもたちの頭をなでると、シエルは、それじゃあね、とまた子どもたちに手を振った。そして、シエルは馬車に乗り込んだ。
「大丈夫ですか、傷」
ルナが向かいに座るシエルの顔を覗き込んだ。シエルは、悪党に殴られて頬を手で触ると、いたっ、と声をもらした。
「あ、はい、大丈夫です。あはは、情けなくって、俺…」
「情けなくない。普通は逃げる」
ルナの言葉に、シエルは少し目を丸くする。しかし、目を伏せる。
「…俺はこんなに情けないのに、ソル様はすごいな。俺より3つくらい年上なだけなのに、あんなにしっかりしてて、俺なんか…」
「…シエル、」
「あっ、ごめんなさい、また卑屈になって、…ごめんなさい、もう何も言いません」
落ち込んでしまうシエルに、ルナは眉を下げる。ルナは隣に座るトールの肩を叩く。
「おい、なんか景気のいい話しろ」
「ごめん、マジで無理…」
シエル同様に落ち込むトール。ルナは、はあ、とため息をついて窓の外を眺めた。