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城では、数多くの要人たちが常に出入りしていた。その中で会談をしたり会議をしたりと、常に城内は慌ただしい。国王の体調が優れず、寝たきりとなった今、王家の人間が代理人を務め、また、大臣たちがその補佐をしてなんとか国を動かしていた。
そんな状況の中、次期女王候補であるルナは、自室のテーブルに額を付けて顔を伏せていた。シドは笑顔でそんなルナを見下ろし、姫、とルナの肩を叩く。
ルナは恨めしげに左頬をつけたままシドを見上げる。彼女の頬の下に置かれたノートには、同じ文字の羅列がびっしりと並んでいる。
「姫、これらの文字を覚えなければ、今日の勉強は終わることができません」
「馬鹿言うな。一体何時間私をここに座らせる気だ…」
「姫、淑女は、馬鹿言うな、などという言葉は使いません」
シドの言葉に、文字をただただノートに書き続けて3時間経ったルナは勢いよく椅子から立ち上がり、ペンをシドの眉間目掛けて投げつけた。しかしシドは、2本の指で自分の顔の前スレスレでそれを捕らえると、にこりとルナに微笑む。ルナは、ぎりっと歯を食いしばりながらシドを睨みつける。そんなルナに、シドはまた笑みを深くする。
「初めて出会った時はお面を貼り付けたようなお顔でしたのに、随分と表情が豊かになられましたね」
「うるせえ便所行かせろ小便がしたい」
「姫、そのようなお下品なお言葉遣いはいたしませんよ」
「早くオレをこの部屋から解放しろ。てめぇのその薄ら笑いにはもう辟易してんだ」
「姫、語彙力も随分豊かになられましたね。私は心からうれしく思いますよ」
ルナが怒りで震える手でノートを握りしめたせいで、文字が羅列されたページが破れる。笑顔のシドと怒るルナが見つめ合っていたとき、ドアが勢いよく開いて、笑顔のトールが入ってきた。
「よーっすルナ、今日手合わせの約束だろ?もう時間だいぶ過ぎてるぜ」
「トール」
ルナは目を輝かせてトールに視線を移す。シドは、申し訳ありません、とトールに笑顔で言った。
「まだ姫はお勉強中です。今日はキャンセルにさせてください」
「げっ」
「えーっ、それなら俺、他の奴らと鍛錬に出かけたらよかったよ。今日は城外演習だったのに」
「大変申し訳ありません」
シドは笑顔で謝罪する。そんなシドに、相変わらずの
謝罪の気持ちが伝わらない申し訳ありませんだな、とトールは笑う。
「でも、いい加減ルナの集中も切れてるんじゃない?短時間でもリフレッシュした方が効率良いと思うけど」
トールの言葉に、それもそうですね、と案外素直に受け入れるシド。ルナは、また目を輝かせてシドとトールを順番に見上げた。
「それでは、1時間後またこの部屋に姫をお連れしてください」
「おう!帰ってきてなかったら迎えに来てくれ」
トールはそう言うと、じゃあ行くか、とルナに言った。ルナは、ばっとカツラを脱ぎ捨てて、走ってトールの側に近寄った。シドは、姫、とルナを呼びつけた。
「姫、淑女は、」
「走らないんだろ?わかってるよ。ほらいくぞトール!」
「おうよ!」
ルナとトールは快活に走りながら部屋から出ていった。そんな2人を、ふう、と小さくため息をつきながらシドは見つめた。
城の最上階の一番奥の部屋に、シドは一人で向かった。シドを見ると、扉の前に立つ兵士たちは敬礼をして扉を開けた。シドは失礼致しますと声をかけて部屋に入る。天蓋付きのベッドには、国王が静かに寝ている。国王の側で看病をしていたメイドたちは、シドの姿を見ると深々とお辞儀をして、部屋の外に移動した。中に控えていた兵士たちも部屋から出ていき、部屋には国王とシドの2人だけになった。シドは国王の枕元の側で片膝をついた。国王は、シドに気が付くとゆっくりと視線を動かした。
「……シド…」
「陛下、お加減はいかがですか?」
「……わしはもう、駄目だ……。ルナは…ルナはどうだ……、女王になれるのか……」
「…平民としての生活があまりにも長く、お教えすることはまだまだたくさんございます。しかし、必ずや私めが姫を立派な女王へとお導き致します。この王家の長く高貴な素晴らしき血統を途絶えさせることなど、私が決してさせません」
「……アルベリック……貴方だけが頼りだ……わしの父上も、お祖父様も仰っていた……貴方だけが……」
「陛下、どうかご安心を。私を信じてください」
シドの言葉に国王は安心したように目を閉じた。シドはそんな国王をしばらく見つめたあと、ゆっくりと立ち上がり、部屋から出ていった。
トールとのしばしの鍛錬を終えて、ルナは幾分かすっきりとした気持ちで汗を拭いていた。鍛錬場の休憩スペースのベンチに腰掛けて、ルナは、はあ、と息を吐いた。ほかに誰もいなかったため、ルナはフードを脱ぎ、汗に濡れた短い髪をタオルでごしごしと拭いた。ここに来るまでは短く切っていた髪も、シドから伸ばせと言われて切らなくなったので、耳が隠れるほどの長さになってきた。長い髪なんて動くのに邪魔だと思うけれど、もうマックスがいた頃のような動きをすることもないのかもしれない、とルナは少しさみしい気持ちで思う。
汗を拭うトールが、ルナの隣に勢いよく座った。
「どう?この城の生活は慣れた?」
「慣れる訳ないだろ」
ルナが左膝に腕を立て、頬杖をついた。トールはそんなルナを見て快活に笑った。
「だよな!あんな田舎での生活から、いきなり王宮でお姫様扱いなんてな」
「…お姫様扱いっつーか、お姫様矯正だろ。窮屈でしかない。シドもロゼも口うるさい」
ルナは、また小さく息をつく。シドはあの調子であるし、一番ルナの身の回りの世話を焼くロゼも、圧が強く、ハキハキとした口調と行動でルナのだらしない生活態度を律してくる。
トールは、まあまあ、と笑った。
「シドもロゼも、君をどこに出しても恥ずかしくない姫にしようと頑張ってるのさ。君は生い立ちが特殊だから、貴族としての生き方がまだできない。だから、それができるように君は今毎日勉強してるんだ。君を大臣や他の貴族たち、国民に姫だって知らせることができるように、しかも陛下の今の様子じゃああんまり猶予はなさそうだし、シドもロゼも必死なんだろ」
まあ、ちょろちょろと貴族たちに君の話は漏れてるけどね、とトールは呟く。トールの言葉に、ルナは目を伏せる。
「オレは別に、女王になんかなりたくない。姫としてここに迎えてもらわなくてもいい」
「そんなわけにはいかないよ。陛下の実子は君一人なんだから」
「オレじゃなくたっていいだろ。王の親戚とかから出せばいいじゃないか。そうしてる他の国だってあるんだろ?」
「この国の王の象徴は、君のその銀色の髪と緑色の瞳だ。不思議なことに、この特徴は王の実子にのみ受け継がれる。王位を継がなかった子どもたちの息子や娘には引き継がれず、王位を継いだ実子のその息子や娘にしか引き継がれない、不思議な特徴なんだ。その銀色の髪と緑色の瞳を見て、国民たちは王だと認識するんだ」
「馬鹿馬鹿しい。髪の色だの瞳の色だの、歩き方だの喋り方だの、見た目ばっかかよ」
「まあそう不貞腐れんなって」
トールはそう言うと、ルナの頭にフードをかぶせた。
「こんなとこで姫が鍛錬してるなんてバレたら大変だろ。君が始末屋だったってことは、陛下と俺とシドとロゼ位しか知らない」
「…そんな野蛮な仕事をしてたって、知られたらまずいんだろ」
「だからふてくされんなって」
「お前らはまだしも、…ロゼはオレがそんなことしてたって知ってるのに、よく物怖じせず接するよな」
「あいつ、いい家のご令嬢にしては肝が据わってるから」
トールは、そろそろ時間か、と呟くと立ち上がった。ルナは、はあ、とため息をついてしぶしぶ立ち上がる。するとトールが、あ、と声をもらした。
「そう言えば、あの人もルナのことを知ってるのか…」
「あの人?」
「ああいや…、まあ、そのうち向こうから来るだろ。さ、部屋に戻るか。約束の時間よりオーバーしたらシドにどやされる」
トールはそう言うと歩き出した。ルナはそれの後に続きながら、どやされてもいつも応えてないじゃないか、と呟いた。
トールと城内を歩きながら、ルナは部屋に向かった。すると、その途中の中庭で、向こうからシドが歩いてくるのが見えた。シドは、周りに人がいないのを確認すると、姫、と言って近づいてきた。
「時間が過ぎていますよ。さあ、お着替えをしに参りましょう。トール、ロゼを呼んできてください」
「はーいよ」
トールはそう言ってロゼを探しに出かけた。ルナは、嫌そうにシドを見上げる。シドはいつもの笑顔をルナに向ける、またこれから数時間、シドと向かい合って文字の勉強をさせられるかと思うとルナはうんざりした。なんとか逃げられないかと逃げ道を探すけれど、これまでそう試みて逃走できたことなどなかった。ルナは、視線を動かして何かないかと探す。ふと、見覚えのある顔が見えた。以前ルナに挨拶をしに来たシルヴァ侯爵家の嫡男、シエルだった。ルナはすすすとシエルのところへ行った。シエルは目を丸くすると不思議そうにルナを見た。深くフードをかぶった、訓練着の人物が、あの時会ったルナだとは気がついていないようだった。シエルは学生服を来ており、書類を脇に携えていた。ルナは、おい、とシエルに話しかけた。
「は、はい、ええと、君は…?」
「お前勉強できるんだろ?オレに勉強を教えろ」
「えっ?え??」
シエルは、瞬きを何度も繰り返した。シドはルナの側に近づくと、姫、と話しかけた。シドの姫という言葉にシエルは、えっ!と驚きの声を漏らした。
「シエル様はお忙しいのです。お手間を取らせてはいけません」
「姫って…えっ、ルナ様?なぜこんな格好を?」
「シエル様、姫は貴族の淑女らしいウォーキング練習のため、動きやすい格好をしております。なにも不可解に思われませぬよう」
「あ、そ、そうなんですか…」
「オレはシエルに勉強を教わる。こいつはオレの婚約者なんだろ?仲を深める必要がある」
「えっ、こ、婚約者って…」
「いいえ違います。婚約者候補の男性です」
「いや、候補って…、そんな、俺なんか…」
「いいえ、シルヴァ家のご子息であれば立派な候補でございます」
「ほらみろ。オレはコイツと親密になるぞ。だからコイツに教わる。お前はどっかいけ」
「(ルナ様、平民に育てられていたとは聞いていたけど、それにしても口調が…)」
シエルは、これまでこのような言葉遣いをする女性を見たことがないために、驚きのあまり口があいたままになる。シドは、ですから、と笑顔でルナをたしなめようとする。すると、1人の使用人がシドを呼び止めた。
「シド様、ジェームス公爵がお呼びです」
「ジェームス公爵が…」
シドは、あの件か…と呟き口元に手を当てた。ルナは、シドが呼ばれたことに目を輝かせる。すると、後ろからトールがロゼを連れて戻ってきた。シドは、はあ、と溜息をつく。
「それでは、シエル様、大変申し訳ありませんが、お願いできますでしょうか」
シドの言葉に、トールとロゼは、えっ、と声をもらした。ロゼはシドの側に近づき、いいんですか、と小声で聞いた。
「ルナ様はまだ他人に会わせられるような所作は…」
「シルヴァ侯爵から、姫と彼を会わせるように常に要請があって、断り続けていたので随分気を悪くさせていました。そろそろ溜飲を下げさせる頃です。見張りは頼みますよ」
ロゼは不安そうにシドを見上げた。シドは笑顔でシエルを見つめる。シエルはおずおずと口を開いた。
「俺でよければ、構いませんけれど…」
「ロゼ、姫のお着替えを。シエル様、しばし別室でお待ち下さい。トールにご案内させます」
シドはそう言うと、ルナを見て、にこりと微笑んだ。
「姫、私はこれで失礼いたしますが、くれぐれも、姫としての品格を貶めることのなきよう、お気をつけくださいませ」
シドの釘刺しに、ルナは図星を突かれる。シエルならばやすやすと逃げられると踏んでいたために、こういった行動に出た彼女は、顔に出ないように、ああ、とだけ返した。シドは、そんな彼女を見透かしているように一瞥すると、それでは失礼いたします、と深々とお辞儀をして、使用人と共に去っていった。ルナは、ほっとため息をついた。
お嬢様らしいスカートと、長髪のカツラにかえて、ルナはシドの待つ部屋に向かった。ロゼが着替えさせる間に逃げようかとルナは考えたけれど、いつものあのロゼの圧には勝てなかった。
部屋に入ると、お茶を飲みながら本を読むシエルと、後ろの方で立ちながら寝ているトールがいた。ロゼは真っすぐにトールの側に行くと、トールの肩を音が出るほどの強さで叩いた。すると、トールは目を覚まし、あれ、ロゼ、と寝ぼけながら口を開いた。ロゼは、トールをひと睨みしたあと、すんとした態度でトールの隣に立った。トールは、相変わらずキツイな、と笑いながらロゼの隣に立った。
ルナは、悪いな、と言いながらシエルの前に立った。すると、ロゼのわざとらしい咳払いと、キツイ視線が送られた。ルナは、少し固まったあと、咳払いをした。
「申し訳ありません、無理を言ってしまって。このあとご予定はありませんでしたか?」
ルナは、そうシエルに尋ねた。シエルは、いえ、と頭を振った。
「学校終わりに、父の仕事の関係で城に寄って、もう帰るところだったんです。…それより、俺の父が申し訳ありません」
「え?」
シエルは、気まずそうに頬をかいた。
「俺の父が、ルナ様と俺とを結婚させようと躍起になってしまって。…ご迷惑でしたよね、俺なんかと」
シエルは、目を伏せてそういった。ルナは、不思議そうに首を傾げる。
「迷惑?」
「困りますよね、俺みたいなのと結婚だなんて言われても」
困ったように眉を下げるシエルに、さらにルナは首を傾げる。
「…困るも何も、私はあなたのこと何も知りませんから、なんとも言えません」
ルナがそう真っ直ぐな瞳でシエルに話す。シエルは、そんなルナに目を丸くしたあと、そ、そうですよね、とまた困ったような顔をした。
「でも、大丈夫ですから。俺は、ルナ様と結婚できるような器じゃないって、自分でわかってますから」
「…そんなに自分を卑下するな」
ルナはシエルにそう言った。シエルは、え、と声を漏らす。ロゼのわざとらしい咳払いがまた聞こえると、ルナは、うっ、と気まずそうな顔をしたあと、またシエルを見た。
「あなたは良い人だと思います。不躾な私のお願いを快く聞いてくださったのですから」
「…ルナ様」
「これからゆっくり、お互いのことを知っていけば良いんだと思います、私たち」
ルナの言葉に、シエルは瞳を大きく開く。シエルの頬は少しずつ赤く染まるのに対して、ルナは無表情のままである。
ルナの放った言葉に、トールとロゼは同時に、えっ、と声を漏らす。
「(えっ、なに、ルナ口説いてる…?)」
「(感情が少しずつ芽生えていらっしゃるとはいえ、発展途上だから所々ネジが飛んでいるわ…)」
「さあ、お勉強を開始して頂いてもよろしいでしょうか」
ルナはそうシエルに尋ねた。シエルは、あ、は、はい、と赤い頬のままそう返す。ノートを開きながら、良いところで脱走しよう、とルナは考えていた。
シエルの教える内容は、ルナにとっては驚くほどわかりやすく、頭に入ってきた。文字の成り立ちや覚え方を興味深く説明してくれるところと、シドの奇妙な雰囲気と違い、人の良さそうな柔らかい空気感を持つシエルとの対面での勉強は、ルナにとっては心地よかった。
逃げようと考えていたはずが、結局2時間ほどシエルの説明にルナは聞き入ってしまった。シエルはキリのいいところで説明を止めると、この辺にしましょうか、と笑った。
「集中力にも限界がありますし、このあたりで終わりましょうか」
「お、おう…」
初めて、知識を得ることの楽しみを覚えたルナは、少し呆然としながらシエルを見つめた。シエルは、そうだ、と言うと、自分の鞄から箱を取り出した。そして、箱を開いた。中には、さまざまな形をした茶色の粒が並んでいた。ルナは、興味深そうにそれを眺めた。
「なんですか、これ?」
「あっ、初めて見ますか?チョコレートです。頭を使ったあとに食べるとより美味しいですよ」
シエルは、どうぞ、と言ってルナに食べるよう促した。ルナは恐る恐る一粒つまんで、口に入れた。広がる甘さに、ルナは目を見開く。
「なっ、…なんだ、これ……っ!」
「気に入りましたか?もっと召し上がってください」
シエルは微笑んでルナにそう言った。ルナは、シエルの方をきらきらとした瞳で見つめた。
「私たち、きっといい関係になれますね」
ルナの輝く瞳に見つめられて、シエルは固まってまた頬を赤く染めていく。そんな2人のやり取りを見ていたロゼが、えっ、とまた声を漏らす。
「(また口説いていらっしゃる…!)…って、また寝てたのねあなた」
「あいてっ!敵襲か?」
トールがロゼに叩かれた肩を撫でながら辺りを見回す。その時、シエルと話すロゼを見つめて、あれ、と声をもらした。
「なんだ、ルナ逃げてないじゃん」
「ルナ様が逃げそうだと思ってたのに寝てたのねあなたって人は」
「へー、楽しかったんだな」
トールが微笑ましそうにルナを見つめる。ロゼも、トールにつられてルナとシエルの方を見る。出会った頃の感情の起伏の少ない少女に少しずつ心が芽生えてきた様子を見て、ロゼは少しだけ微笑んだ。