4
ルナのシドによる姫としての教育が始まった。食事のマナーから、立ち方座り方歩き方、言葉の話し方など多岐にわたり、これまで触れてこなかった貴族の決まり事にルナがうんざりするのにそう時間はかからなかった。
本日は、テーブルの前に置かれた椅子にただ座らされるという拷問のような勉強をシドに受けさせられていたルナであった。少しでも背中が背もたれに近づけば注意を受け、少しでも両ひざ同士が離れればまた注意を受けた。
身辺警護のためにトールが後ろに控えていたが、十分もすれば立ちながら眠りだした。
ルナは、笑顔を崩さないシドを恨めしげに見上げる。
「…おい、これが何になる」
「姫、淑女たるもの、人を呼びつける時に、おい、などという粗暴なお言葉遣いは致しません」
「…失礼致しますけれど、これが何の役にたつのでしょうか」
「これから姫として正式に迎えられることになれば、式典などに参加される機会は多々ありますでしょう。そうなった時に長時間椅子に座らなければいけません。姿勢を崩さず、美しいまま居続ける必要があります」
ルナは内心、またどうでもよさそうなことを、と舌打ちをする。ルナは、なんとか逃げ出すタイミングはないかと伺うが、このシドという男にそういった隙はない。
このまま長時間の拷問コースかとルナが諦めていたころ、ドアをノックしたロゼが部屋へ入ってきた。シドかロゼを見ると、どうかいたしましたか、と声をかけた。
「失礼いたします。シルヴァ侯爵が、ルナ様にご挨拶がしたいと」
「シルヴァ侯爵ですか?」
シドが少しだけ顔をしかめる。目を覚ましたらしいトールがあくびをしながらシドとロゼの側に来た。寝ていたことが丸わかりのトールを、ロゼがぎろりと睨む。
シドは口元に手を当てて小さくため息をついた。
「…姫のことを、どこから聞きつけたのやら」
「手回しが早いねー。流石っていうかさ」
トールが笑いながらそう言う。ロゼはシドを見上げて、どういたしますか、と尋ねた。
「…構いませんよ、お通しください」
シドはそう言ってロゼににこりと微笑む。ロゼは、はい、と言うと、部屋から一度出た。
トールはさらにシドに近づき、こそこそと、なんの用かな、と尋ねる。シドが、大方…と呟いたとき、扉が勢いよく開いた。中からは小太りの中年男性と、ルナと同い年くらいの少年がやってきた。
中年男性の方は、紺色の短髪に、水色の瞳をしていた。彼は、丸い顔に不自然なほどの笑顔を浮かべてルナの方を見ていた。少年も、紺色の耳にかかるほどの長さの髪に、水色の瞳をしていた。しかし、あからさまに媚を売るような中年男性と対照的に、ここに居づらそうな、気まずそうな顔をしていた。
「ああ姫様、お初にお目にかかります!私、シルヴァ伯爵家の当主にございます。無事お城へ帰ってこられたことを、心からお祝い申し上げますぞ」
「…」
椅子に座るルナの目の前に、嫌そうな少年を無理やり引きずって、シルヴァ侯爵はやってきた。シルヴァ侯爵は、少年をずいっとルナの前に立たせた。
「これは、私の息子でございます。シエル、ご挨拶を」
「……シエル、…シエル・シルヴァです…」
シエルと呼ばれた少年は、渋々そう挨拶をすると、ルナの方を見た。ルナは、シエルの方をまっすぐ見つめた。困り眉の少年で、まんまるのつぶらな瞳と少し丸っこい顔つきは幼さも感じられて、可愛らしい印象を与えた。
シルヴァ侯爵は、笑顔でルナに話しかけ続ける。
「姫様と息子は同い年だと聞いております。仲良くしていただけたらと存じます。息子はいまパブリックスクールに通っておりまして、学校では一番の成績です。きっと、これからの姫様のお仕事にもお役に立てるかと思います。ああそうだ、王国領のすぐ隣がシルヴァ家の領地なのですが、うちの領地には王国領にはない珍しい店がたくさんあります。馬車ですぐに迎える距離ですから、今からシエルが案内いたしますのでぜひ、」
「シルヴァ侯爵。姫はまだここに帰ってきたばかりでして、外部の者とは長い時間お話することができないのです」
シドは笑顔で、ルナからシルヴァ侯爵を離した。シルヴァ侯爵は、むっとした顔でシドを睨む。
「シド、外部の者とは随分だな。シルヴァ家は古くから王家と親しくしてきた家だ」
「そのとおりでございます。しかし、御存知の通り、姫は長い間庶民としての暮らしが長うございました。まだ侯爵と十分に話すことが難しいのです。どうかご理解頂けますように」
「……」
シドの言葉に、まだ何か言いたそうなシルヴァ侯爵だったが、ぐっとこらえて、それでは、そろそろお暇するか、と引き下がった。そんなシルヴァ侯爵に、シエルはほっとしたような表情を浮かべた。2人は、素直に部屋から出ていった。
ルナは、出ていく2人の背中を見送ったあと、シドの方を見た。
「……なんだあいつらは」
「シルヴァ侯爵と、その長男です。昔から王家に仕えてきた有力貴族です。次期王として、姫の存在が出てきましたので、息子を姫の婿にしたいのでしょう」
「アイツが、オレ…私の結婚相手なのか?」
「それはわかりません。姫に相応しい相手は他にもおりますゆえ。それと、アイツではございません、あのお方、です」
「…」
ルナは、自分の結婚相手など心底どうでもよかったので、あっそ、と返すと、背もたれに背中を付けた。すると、笑顔のシドに、無言で背中を立てさせられた。
「…いつまでやるんだ」
「まだまだです」
「いい加減疲れた。オレはもうやめる」
ルナはそう言うと椅子から立ち上がった。それを止めようと近づくシドを、机を蹴り上げて制止した。ロゼは、きゃあっ、と悲鳴を上げる。シドは片手で机を止めると、姫、とルナを呼んだ。
「机は蹴るものではございません」
「それぐらい、存じ上げておりますわ」
ルナがシドを睨みつけると、シドは無言の笑顔でルナを見つめ返す。
そこに、まーまーまっ、とトールが割って入ってきた。
「もう2時間以上やってるし、そろそろやめようぜ?俺も疲れたし。ルナ、息抜きに俺と手合わせしようぜ」
トールの言葉に、ルナは目を輝かせた。トールの言葉にあきれたようにため息をつくロゼが、あんたは寝てただけでしょ、と毒を吐いた。
「…仕方ありませんね。1時間後には座学ですので、それまでには姫を部屋まで送り届けてくださいね」
「(ざがく…ってことは、また座って勉強か…)」
「おーう。帰ってなかったら迎えに来てくれ。鍛錬場にいるから!」
トールはそ言うと、ルナに行くか、と言って笑った。ルナは輝かせた目でトールを見上げながら何度も頷いた。
長髪のカツラを脱ぎ、鍛錬着に着替えたルナは、トールによって髪を隠すためにフードを深く被らされた。
城にある鍛錬場には、複数の騎士がトレーニングをしていた。ルナはトールについてそこを歩く。シドから学ぶ時間とは違い、わくわくする気持ちが抑えられない。
トールとは、時間があれば手合わせをして、体を動かしていた。ルナの存在は城内には知れ渡っているとはいえ、始末屋であったことはもちろん秘密であり、姫が騎士団員と互角にやりあえる存在だということが知られるのはまずいため、ルナは短髪の姿になり、さらに深くフードを被って、素性を隠してトレーニングをしていた。騎士たちは、あのトールとやり合うこの人物を、将来的に騎士団に入りたい純朴な少年だという認識でいた。
今日は外で訓練があるようで、ルナとトール以外に鍛錬場にいる兵士はいなかった。
ルナは、しばしの間トールと組手をした。息が切れるほど動いたあとは、ルナは地面に倒れ込んで空を見上げた。土の匂いと、冷たい土の温度が背中に伝わり、懐かしい気持ちになる。トールは、汗を腕で拭いながら、ほんとに強いな!と笑った。
「敵のことも、ばしっと仕留めてたんだろ?」
「……殺したことはない」
「そうなのか?」
「…いつも親父がやってた。オレにはまだ早いって、教えてすらもらえなかった」
「へーこんなに強いのになー」
トールは、タオルで汗を拭きながら、もしかしたら、と言った。
「ルナを殺し屋にはしたくなかったのかもな」
「え?」
ルナは上半身を起こして、トールを見上げた。トールはルナを見下ろして、俺の想像だけど、と笑った。
「…そんなわけない。親父はオレを、殺し屋にしようとしてた」
「んな怒んなって。俺の想像だってば」
「怒ってない」
「はいはい、悪かったよ。ほら、もっかいするか?」
「……しない」
ルナはむっとした顔のまま立ち上がると、トールから背中を向けて鍛錬場を去ってしまった。トールはルナの背中を見ながら、あらら怒らせちゃった、と笑った。
ルナは、城の静かな中庭にくると、大きな木の舌打ちで寝転がった。両腕を枕にして、青々とした葉の間から、まぶしい太陽を見上げた。
「(…親父はオレを殺し屋にしたくなかった)」
ルナは、心のなかで繰り返した。マックスの、死ぬ前の最後の言葉がルナの中で思い起こされる。
ーーオレぁ…情けない……こんなことしか、お前に…教えてやれない、……本を、読んでやれるような…父親に、なりたかっ、……
息絶えていくマックスの顔がフラッシュバックして、ルナはそれを忘れたくて固く目を瞑った。なぜかまた胸の奥がもやもやとして、締め付けられる。変な汗が背中を伝う。
「(親父は、自分がオレに始末屋としての仕事を教えたことを後悔していた。殺しを教えるかどうか、もしかしたらずっと迷っていたのかもしれない。どうするか迷っている間に、教えずじまいで終わってしまったのだろうか)」
考えれば考えるほど、ルナの腹の奥の不可解な痛みは増した。
ふと、足音が近づくのが聞こえた。その足音はルナが気がつく頃にはルナの直ぐ側にいた。違うことを悶々と考えていたルナは反応に遅れてしまった。目を開ける直前、自分の頭が優しく持ち上げられ、その後、冷たい地面ではなく、温かくて柔らかいものの上に乗せられたことに気がついた。
ルナが訳が分からない間目を開けると、ミナと目が合った。ミナは、ルナと目が合うと、ごめんなさい、と謝った。
「眠っていらっしゃるのかと思って…」
ルナは、自分の頭がミナの膝の上に乗せられたことにようやく気がついた。呆然とするルナの頭から額にかけて、優しくミナが撫でた。瞼の上にミナの温かい手が乗ると、ルナはなんだか安心した。
「…私、田舎の農村からここに働きに来たんです。弟が3人、妹は5人いました。夜眠れないって泣く弟や妹たちに、よくこうやって寝かしつけてあげていました」
「……」
「私の家は、大家族で貧乏でしたから、長女の私が口減らしにって、このお城に働かせていただくことになったんです。最初は家族と離れて寂しかったけれど、私、人のお世話をしたりお掃除をしたりするのが好きでしたから、今、とっても楽しいんです」
「…そうか」
ルナがそう返すと、ミナは優しく微笑んだ。ミナの温かくて柔らかい体温を感じたとき、ルナはまたマックスのことを思い出した。どんどん冷えて硬くなっていく彼の身体。魂の抜けた空っぽの入れ物になってしまったようなマックスの身体。ルナは寒気がして、ばっと起き上がった。心臓の鼓動が速くなるのを抑えたくて、ルナは深呼吸をした。そんなルナに、どうかしましたか、とミナが心配そうに話しかけた。ルナは地面を見たまま、…思い出していた、と言った。ミナはじっとルナの瞳を見ていた。
「…親父が、死んだときのこと…わからないけど、急に、…思い出して……」
ルナはそう言うと、また深呼吸をした。こんなに自分が動揺することが初めてで、ルナはどうしたらいいのかわからずに困惑した。
親父が死んだ。
ルナはそんなことを今更思い出した。だからなんだというのか、ルナにはわからない。涙を流しながら墓を作る子どもたちの気持ちがルナにはわからずに、ただ名前も理由もわからない違和感だけがルナに襲いかかる。
すると、ミナが優しくルナの背中に腕を回して、そして、自身の胸の中に抱きしめた。ルナは呆然とミナにされるがままになった。ミナは、優しくルナの頭をなでる。
「…大丈夫、大丈夫です。大丈夫ですよ」
ミナが、そうルナの耳元に語りかける。ルナは、ミナに抱きしめられながら、初めてマックスにであった日のことを思い出した。死にかけて意識が朦朧としている中、マックスがルナをおんぶして家まで連れ帰ってくれた。マックスがルナをおんぶしたのはあれが最初で最後だった。もちろんルナがマックスから抱きしめられることなんて一度もなかった。だからこそ、あの温かい背中のことをいつまでもルナは忘れられなかった。ぶっきらぼうなあの男の、不器用な優しさを、ルナは知らない間に受け取って、そして慕っていた。愛していた。
「(…そうか、もう親父はいないのか)」
そんなことをぽつりとつぶやいたとき、ルナの瞳に一粒の涙が溢れた。ルナの肩が小さく震えたとき、ミナはさらに深くルナのことを抱きしめた。
「こんなところにいらしたんですね」
時間になっても戻らないルナを探しに来たシドが、ようやく中庭の木の下にいる彼女を見つけた。ルナはミナの膝に頭を乗せてすやすやと眠っていた。
ミナはシドに気が付くと、ルナの頭を撫でる手を止めて、シドに深くお辞儀をした。
「さあ行きますよ、姫」
シドはそう言ってルナを起こそうとした。そんなシドに、あっ、とミナが声を漏らした。シドはミナの方を見て、なにか、と尋ねた。ミナは眉を困ったようにひそめた。それから、とても言いにくそうに、お言葉ですが、と切り出した。
「もう少しだけ、眠らせて差し上げられませんか?」
「それはできません。これから文字の読み書きの練習の時間です」
「でも、お疲れのようですし…」
「ただでさえ時間が押しております。さあ、姫、」
「で、でも、まだ、こんなに幼いんです」
「姫はもう16です」
「まだ16です。受け止めきれないことも、頑張りたくても頑張りきれないことだってたくさんあります。自分の中で、処理できないことだってたくさん。それなのに」
「この方はゆくゆくはこの国の女王となられる方です。王の体調が芳しくない今、一刻の猶予もないのです。彼女には、一人の少女として穏やかに生活することは許されないのです」
「そんな…そんなのあんまりです。ルナ様がお可哀想です」
「彼女は近い将来、何万ものこの国の民のために働かなくてはなりません。彼女が可哀想などというものは、国民の安寧と天秤にかけたら何の意味もなさなくなるのです」
シドの冷たい笑顔に、ミナは言葉を失った。
シドは、ルナの体を無理やり起こした。ルナは、はっと目を覚まし、笑顔のシドに気が付くと、嫌そうに顔をしかめた。
「げっ、お前…」
「さあ姫、お時間ですよ、参りましょう」
シドはそういうとルナを歩くように促した。ルナは名残惜しそうにミナの方を振り返った。ミナは立ち上がると、何も言わずに深々と頭を下げた。ルナはそんなミナを見て、渋々とシドの言うように歩き出した。