2
ルナは、シドに言われた通り、馬車に乗り込み王都へ向かうことにした。自分と互角の力を持つことが予見されるトールと、得体のしれない雰囲気を持つシドを2人同時に相手をすることは無謀だと、ルナが判断したためである。
ルナと向かい合うようにシドが座り、ルナの護衛として彼女の隣にトールが座った。護衛のトールは、馬車が動き出すと大口を開けて眠りだしてしまった。そんなトールを横目に、ルナはシドの方を見た。シドはルナの方を見ながら、にこにこと笑顔を向けている。このシドという男は、見た目だけなら20代前半くらいに見えるが、不思議な雰囲気を持つ男だった。シドの髪は真っ黒で、瞳も黒い。黒い燕尾服、そして、手には黒い手袋を着用している。
「なぜ貴女を城へお呼びするのか、その理由をお話しなければなりませんね」
シドはそう言うと、またにこりと笑った。ルナは、そんなシドをじっと見つめ返すだけであった。
彼女には、城というものがよくわからなかった。途方もなく偉い人がいる、それくらいの認識しかなかった。それほど、ルナの暮らした村は田舎で、そして、そういったことを知る機会に乏しかったのである。
「それは、あなたが国王陛下の唯一の実子だからです」
「…」
ルナは、少しだけ息を呑んだ。シドはそんな彼女に気が付きながら話を続ける。
「国王には、王妃も複数の側室の方も見えましたが、その誰とも子宝に恵まれることはありませんでした。王妃はご逝去され、国王陛下もお年を召され、つい先日には病床に伏されてしまいました。大臣たちがお世継ぎの問題に頭を抱えていたところ、病床におられた国王が告白なされたのです。隠し子がいたのだと。それが貴女です」
「…よくオレだってわかったな。オレは産みの父親どころか母親の顔すら知らないのに」
「貴女の身辺調査はできてます。それよりも、なにより、あなたのその銀色の髪と緑色の瞳が、王の実子であることの証拠です」
シドは、そう言って目を少しだけ見開く。ルナは、自身の髪の生え際を触る。黒く染めた毛先の方の髪と違い、銀色の髪が生えてきている。マックスからそんな色は目立つと怪訝な顔をされた髪だ。
「髪と、瞳?」
「王となった者の子どもにのみ受け継がれるその髪の色と瞳の色の話は、この国の民ならば学校で学ぶほど常識的な話ですよ」
「…オレの親父は知らなかったみたいだが」
「この国にもまだまだ、教育を受けられない者が多数おります。それは、陛下の側にお使えする者からしたら胸を痛めるべき事実です」
シドはそう、笑顔のまま話す。
「そして、貴女もその1人です」
シドの言葉に、ルナは固まる。シドは、手のひらをルナの方へ向けた。
「貴女のその変化の乏しい表情。適正な時期に適正に人と関わることができず、情緒を育めなかったお顔をしていらっしゃいます」
「……じょうちょ?」
「言葉も充分にはご存知ないようですね」
シドの発言に、ルナは馬鹿にされていると感じ、眉を少しだけひそめた。シドは、貼り付けたような笑顔のまま、でも大丈夫です、と続ける。
「この私めが、必ずや姫をご立派な淑女にお育て申し上げ、この国の女王へとお導き致しましょう!」
シドの声のトーンが一段上がる。それに驚いたトールが、いびきをかきながら体を震わせて、起き上がった。
「なんだ?敵襲か?」
「トール。貴方は姫の護衛としての自覚が足らないようですね」
シドが笑顔ながらも少し苛ついた様子でちくりと言う。それを気にもとめず、トールが寝癖のついた赤毛をかきながら、なんだまだつかないんだね、と窓の外の景色を見ながら呑気に言う。ルナは、シドとトールを順番に見ながら、面倒くさそうなことになったことにじわじわ気がついてきた。
朝に村を出て、王都に着いたのは夜中だった。
馬車から降りたルナの目に入ってきたのは、大きくて豪華なお城だった。見たこともないほどしっかりとした建物に、豪華絢爛な家具や絨毯が置かれたこの城を、シドとトールに連れられて呆然としながらルナは歩いた。数多の使用人たちがルナに頭を下げる。ルナは、そんな彼らに内心驚きながら足を進めた。
シドが連れてきたのは、城の最上階の、一番奥の部屋だった。大きくて分厚い扉の前には、兵士が数人立っていた。シドが彼らの前に立つと、彼らは敬礼をして扉の前からどいた。扉を開けると、中にはまた数人の兵士がおり、さらに奥には大きなベッドがあり、その周りをメイドたち数人が囲んでいた。メイドたちはシドの顔を見ると、深々と頭を下げてベッドの周りからどいた。
大きな天蓋付きのベッドには、銀髪の老人が寝ていた。シドは静かに老人の側に近づくと、しゃがみこみ、陛下、と呼びかけた。陛下と呼ばれた男は、ゆっくりと瞳を開けた。その瞳は、ルナと同じ緑色をしていた。
「…シド……」
「お休みのところ大変失礼致します。姫を無事お連れ致しましたので、ご報告に上がりました」
「……ああ……わしの娘が……顔を……顔を………」
しわしわの手を震えながら持ち上げた国王。シドは、姫、とルナを呼んだ。ルナはゆっくりと側に近づき、国王の視線の先に立った。国王は、ルナを見ると、目を丸くした。そして、愛おしそうに目を細めた。
「……わしの娘だ……会いたかった……どれだけ夢に見たか……」
「……」
ルナが黙って国王を見ているだけでいると、シドがルナに、お手を握って差し上げてください、と促した。ルナは渋々手を伸ばし、国王の冷たくて硬い手を握った。すると、国王は弱々しくルナの手を握り返した。国王はじっとルナを見つめながら何度も頷いた。
「…ああ、よく似ている……。わしの愛したマリアに、そっくりだ……マリアを思い出す……」
「陛下、手元の資料によりますと、姫の母親はローズ・オーサーという女性です」
シドの指摘に、トールが一瞬吹き出しそうになり、それを必死で堪えるために体を震わせた。国王は、ああそうそう、ローズ、とけろっとした様子で訂正した。ルナは、黙って国王を見つめる。
「名前は、…なんという……」
「……ルナ」
「ルナ……いい名前だ……お前に……会え、…て……」
「……」
「……」
国王が安心したようにゆっくりと目を閉じた。ルナに握られた手ががくりと力を失う。国王の様子に、メイドたちや兵士たちがざわめく。後ろに控えていた1人のメイドが急いで国王の顔の側に耳を近づける。
「…お休みになられたようです」
メイドの言葉に、メイドと兵士たちが、はあ、と安心したようにため息をつく。トールが、相変わらずお茶目だなあ、と気楽に笑った。
シドとトールの後について、ルナは自分の部屋に向かった。部屋には数名のメイドが控えており、部屋のテーブルには夕飯が並べられていた。
ルナは、扉を開けた途端に、料理のいい匂いがしたことに反応した。匂いの方に視線をやると、ルナがこれまで生きてきて見たことがないほど豪華な食事が並んでいた。ルナは、口の中に唾がたまっていくのを何度も何度も飲み込んだ。
「姫、今日はお疲れでしょうから、お食事をお召し上がりになられたらお休みください」
シドはそういったあと、メイドたちの中の一人を見ると、ああ、そうです、と話し始めた。すぐに椅子について食べたいルナは、内心舌打ちをした。
「彼女は、ロゼ・オットー、オットー伯爵家の者です。姫の身の回りのお世話をさせていただきます。私めに言いにくいことがございましたら、同性の彼女にご相談ください」
シドはそう言うと、茶色の髪をした青い瞳の少女を紹介した。長い髪を高い位置にまとめており、毛先はくせ毛なのか緩いカールがかかっている。ロゼはにこりと微笑むと、よろしくお願いします、とお辞儀をした。
すると、トールが笑いながら、ロゼの隣に来た。
「こいつ、俺の幼なじみ。めっちゃ気が強いけど、悪いやつじゃないから」
トールは、笑いながらルナに言った。そんなトールを、ロゼが睨みつける。シドは、咳払いをする。
「トールはこれから、主に姫の身辺警護にあたりますので、御承知おきを。トール、貴方は今日はもうよろしいですよ」
「はいよ。じゃあね、ルナ」
そう言って気さくに手を振って出ていくトールに、姫、ですよ、と強く訂正するシド。
ルナは、シドの話が終わったと見るやいなや、テーブルの席について、目の前に広がる豪華な食事を眺めたあと、大きなステーキに目をつけて、フォークを握るように持つと、ステーキの中央部分に勢いよく刺した。そして、しなる肉に下からかぶりつき、ステーキのソースを口の周りにつけながら咀嚼した。ルナは、服の袖でソースを拭うと、椅子の上に立て膝をついて、フォークを持つ手と反対の手でパンをつかみ、口いっぱいにかぶりついた。
ルナの様子にメイド達はざわついた。恐らく彼女達はこれまでルナのような人間を見たことがないのだろう。ルナは、しかし彼女たちのざわつきを気にせずに、空腹を満たすために食事を貪り続ける。
すると、ルナが食べていたステーキが、フォークごとルナの視界から消えた。ルナが顔を上げると、笑顔のシドがルナの食べていたステーキを持って彼女を見下ろしているのが見えた。ルナは口に物をたくさん詰めたまま口を開く。
「……返せ」
「失礼ですが、その状態でお食事を継続することはあまりにも…」
シドは、そう笑顔でルナに告げる。ルナは口の中のものを、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「(…こいつがオレに近づいたことに反応できなかった…)」
ルナは、気配を消して自分に近づいた男を威嚇する。食べ物に夢中になりすぎて気が付かなかったのか、それとも、この男が只者ではないのか。
シドは笑顔のまま、姫、とルナに話しかけた。
「つかぬことをお伺いいたしますが…姫のお食事の作法はそういったものが普通だったのでしょうか」
「…そうだ」
「でしたら、大変申し上げにくいのですが、このままお食事を取っていただくことは不可能でございます」
「はあ?」
ルナの声をかき消すように、シドがメイド達に、下げてください、と告げた。メイドたちはてきぱきと食事を片付けていく。ルナは、片付けられていく食事を、名残惜しそうに眺めたあと、笑顔のシドを睨みつけた。
「お前、何をする」
「姫、これも姫のためです。どうかお許しを」
ルナがシドを睨みつけている間に、さっさと食事は片付けられてしまった。綺麗になったテーブルを確認すると、シドは、それではお休みなさいませ、とルナにお辞儀をすると、部屋から出ていってしまった。
ルナは、有無を言わせないロゼたちによって風呂に入れられて、そして寝間着に着替えさせられた。いつも水でしか洗ってこなかったルナが、温かい湯船につかり、いい匂いのする石鹸で頭や体を洗われることは非常に不可解な出来事だった。
いい匂いのする体に寝間着を着せられたルナは、ベッドに寝かされた。ロゼたちは、お休みなさい、と挨拶をすると、部屋の電気を消して出ていってしまった。広い部屋に一人きりにされたルナは、静かになった部屋を見渡した。大きくて柔らかく清潔なベッドに、豪華な家具。部屋はあまりにも広く、住んでいた家の面積よりも広そうだった。大きな窓からは月明かりが差し込む。ルナは枕に顔をうずめると、お腹が大きな音を立てて鳴るのを感じた。ルナは、ぐったりと布団に体を沈める。朝から何も食べていない体は空腹で、しかも、予想外のことばかりが起きたせいで頭は疲れ切っていた。昨日からあまり眠れていなかったため、空腹でもすぐに眠れるような気がルナはした。
「(…なんで眠れなかったんだっけ…)」
ルナはそうぽつりと考えたとき、マックスのことを思い出した。あの日の、自分の腕の中で冷たくなるマックスのことを、動かなくなってしまった自分の父のことを。
「(…なんで、…眠れない…)」
思い出すと、ルナは胸の奥に違和感を感じた。それがなぜなのか、何なのか、彼女にはわからない。
ただ、眠気が引くと、彼女の体の不調の中で、空腹が大きな割合を占めたため、彼女はひもじい思いを打ち消すように枕に顔を擦り付けた。
すると、廊下から足音がした。自分の部屋に近づいてくる足音に、ルナはベッドから起き上がる。足音はルナの部屋の前で止まった。ルナは立ち上がると、扉の前に行った。そして、扉を勢いよく開けた。すると、ルナの部屋の前に何かを置こうとしゃがみ込む女性がいた。女性はルナに気が付くと目を丸くした。ピンク色の髪をハーフアップにしたその女性の、桃色の瞳がルナを映す。女性は目を丸くすると、あっ、あ…と、慌てて立ち上がった。ルナは、彼女が夕食のときに部屋にいたメイドの1人だと気がついた。彼女の手には白い皿があり、その上にはサンドイッチがのっていた。女性は、気まずそうに目を伏せたあと、申し訳ありません、と頭を下げた。
「私、ミナと申します。このお城でメイドとして働かせていただいている者です。…本当は、私はお嬢様にお声がけ出来るような立場ではないので、でも、ろくにお食事を召し上っていらっしゃらなかったのが気になって、だからその、お夜食だけでもお渡しできたらって、その…差し出がましいことを、申し訳ありません…!」
女性はまた深々と頭を下げた。ルナは、目の前のサンドイッチにしか視線がいかず、そのサンドイッチが自分のものだと理解すると、何も言わずにそれら全てを飲むように食べた。女性は、無表情ながらも美味しそうにサンドイッチを頬張るルナを唖然としながら見つめたあと、優しく目を細めた。
ルナは、サンドイッチを完食すると、ふう、と息をついた。おなかが満たされて、心が安堵するのを感じたルナは、ミナを見上げて、ありがとう、と告げた。ミナは、お粗末様です、と優しく微笑んだ。ルナはじっとミナを見つめた。おっとりとした柔らかい雰囲気を纏っている女性だが、年齢は16の自分よりも少し上か同い年くらいだろうと予想した。
ミナはルナを見つめると、少しだけ悲しそうに眉を下げた。
「…お辛かったですね。お父様を亡くされた寂しさが癒えないまま、見知らぬ場所へ連れてこられてしまって、どんなに心細いことかと存じます。どうか、今日はごゆっくりお休みください」
ミナはそう静かに告げた。ルナは、ミナの言葉の意味が分からずに固まる。ミナは、戸惑うルナを優しく見つめると、夜分に失礼致しました、と深々と頭を下げて、ルナの前から去った。