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雨が降りしきる暗い夜の中を、2つの影が人目を偲ぶように道を進む。昼間とは様相の違う夜の村は、皆寝静まっており、しんと静まり返っている。
深くフードをかぶった2人は、言葉の一つも交わさずに、ただ黙々と歩き続ける。2つの影のうち、長い袖から少しだけ見えた男性の右手には、返り血が見える。一仕事を終えた彼らは、これから家に向かう。
「何事もなく終わったな」
長い帰り路を歩き、ようやく家にたどり着いた2人は、雨に濡れたフードを降ろした。2人のうちの1人である中年男性は、フードのついた上着を脱ぐと、椅子にかかるように乱雑に投げ捨てた。
家に帰ってきたもう1人も深くかぶったフードを脱ぐ。その人物はまだ少女の面影を残す、深い黒髪を雑に短く切った、緑色の瞳をした人物だった。
「ルナ、着替えろ、風邪引く」
中年男性が、タオルで頭を拭きながらルナという少女に声を掛ける。ルナは、ああ、と言うと自室に着替えをしに行った。ルナは部屋に入りさっと着替えると、男性のいるところへ戻った。
「親父、飯は」
ルナは、椅子に座ってカレンダーを眺める男性、マックスに話し掛ける。マックスは、いらねえ、と答える。ルナは、表情の変化が乏しい様子で、自分の分のパンだけをかごから取り出した。
「次は水曜だ。夜」
ルナは、マックスの言葉を聞いてカレンダーに視線を移す。次の水曜日の日付に黒い丸がふってあるのをルナは確認すると、ああ、とだけ答えた。
「明日も早い。寝ろ」
マックスはルナに言うと、自室へ戻っていった。ルナは、マックスの右手に血が付着しているのを見ると、親父、血、と彼に声を掛ける。マックスは立ち止まり、手を確認すると、ああ、とだけ答えて、部屋に戻っていった。
ルナは、物心のついたときから孤児だった。気がつけば1人で道端にいつも座り込んでいた。時折通りかかる優しい人が恵んでくれる食べ物でなんとか生きながらえていた。
しかしある日、とうとう体に力が入らなくなり、ルナは硬い地面の上で倒れ込んだ。何も考えられない空洞の瞳で、地面を這う蟻を彼女は眺めていた。虫の死体を運ぶ蟻を見てきたルナは、自分も彼らに運ばれていくのだろうか、とぼんやり考えていた。
すると、空から男の声がした。
「死ぬのか」
腹の底が響くような、低い声だった。ルナは声の方を見る元気もなく、そもそも何を言われているのかがわからず、ただ黙っていた。何も答えないルナに、それなら、と男は続けた。
「死ぬくらいなら、オレんとこ来るか」
ルナがマックスにおんぶで連れてこられた家は、パン屋だった。店の中に入ると、古いけれどきれいに整えられた店内からは小麦のいい匂いがした。マックスはルナを背中から下ろした。ルナはわけがわからないまま辺りを見渡した。
こっちだ、とマックスに呼ばれて、ルナは店内から調理場を抜けて、さらに店の奥に進んだ。すると、そこには必要最低限の家具しかない、生活感の薄いリビングが広がっていた。カレンダーが壁にかかっており、特定の日付に黒い丸が付いていた。
マックスは、着ていた上着を乱雑に椅子に投げつけると、適当に座れとルナに言った。ルナは彼の言う意味が分からずに黙って立っていた。マックスは飲みかけのぶどう酒の瓶のコルクを開けて一口飲みながら、立ち尽くすルナを見た。
「お前、名前は」
「…」
「名前ねぇのか」
「……ルナ」
ルナは、なぜ知っているのかすら覚えていない自分の名前を告げた。
「ルナか。…お前、変な色の髪だな。そんな奴見たことねぇぞ」
マックスは、ルナの伸びっぱなしの銀髪を左手でグシャグシャとかき分けた。ルナは、何も言わずにマックスを見あげているだけだった。その時にルナは初めて、マックスという男が、短い茶髪で、無精髭を生やしており、ごつごつとした四角い顔をしたとてつもなく体格の良い中年男性だと気が付く。鋭い眼光に、つねにしかめている眉は、気難しそうな彼の性格を表しているようだった。
マックスはルナの顔を覗き込むと、緑の目なんた見た事ねえぞ、と彼女の瞳を見ながら呟いた。
「短く切って黒に染めとけ。目立つのは駄目だ」
「…」
「ここは殺し屋の家だ。ここで飯を食う以上、お前にも仕事をしてもらう」
「…」
「女でも、鍛えれば役に立つ。これを食え」
マックスは、かごに入っているパンを、テーブルの上に投げて置いた。ルナは、それを見ると一瞬でそれに食らいついた。パンのカスがテーブルにボロボロとこぼれ落ちて、それすらもったいなくて、ルナはそれを手でとって舐めた。マックスはそんなルナを見て、よし、と言った。
「よく食え。そして働け。ここで生きていくためにどんなことでもしろ」
「…」
「オレはマックス。今日からお前の親父だ」
「…」
ルナは、パンを咀嚼しながらマックスを見あげた。マックスはそんなルナを見ながらまたぶどう酒を口に含んだ。
こうして、ルナとマックスの生活が始まった。
マックスは、普段はパン屋として働いていた。特に美味くもない無難なパン屋として、流行りもせず細々と経営していた。
そして、依頼がある日は、夜になると2人してターゲットの元へ向かった。ルナの知らないうちにマックスは依頼人から仕事を請け負ってきていた。一体いつマックスがその仕事を請けてきているのか、ルナは知らなかった。マックスは依頼人の素性はおろか名前すら知らず、その依頼人に適当にあだ名を付けることでどんな依頼かを頭の中で整理していた。マックスは字の読み書きが満足に出来なかったため、始末屋の仕事がある日はカレンダーの日付に黒い丸を振るだけで把握していた。
ルナは、引き取られたその日から、始末屋として働くためのトレーニングを始めた。基礎体力作りから、筋力トレーニング、そして、実際に戦闘する方法などを、文字通り血の滲む努力でどんどん獲得していった。
大人の男すら倒せる技術を得るころには、ルナはマックスと一緒に仕事の現場へ向かうようになった。しかしルナがするのはマックスの補助だけであり、実際に相手を仕留めるのはいつもマックスの仕事であった。
「今日はすこし手間取ったな」
仕事を終えて返ってきた部屋で、マックスはタバコに火をつけながらそうぼやいた。ルナは、返り血を浴びた服を脱ぎながら、そうだな、と返した。今日の仕事は、依頼人を騙して不当に借金を負わせたという詐欺師を始末することであった。護衛の男たちが現れて、想定より少し時間を要したが、仕事は無事完遂させた。
「…なあ親父、そろそろオレにも殺しを教えてくれ。オレはもっと仕事がしたい」
「馬鹿言うな。お前はまだそのレベルに達してない」
「今日だって、オレが殺せれば早く済んだ場面があった」
「…人を殺すってのは簡単なことじゃあねえ。自分が弱ければ返り討ちにあう。お前くらいの雑魚には、教えたって犬死にするだけだ」
「…」
ルナは表情には出さないが、マックスにそう言われたことを不服に感じて、黙って自室に帰ってしまった。マックスは、黙ってタバコを吹かしていた。
翌日、マックスはパン屋を開店させるために、焼きたてのパンを並べていた。ルナは、鍵を閉めていた扉を開ける。すると、扉の前には薄汚れた格好をした、やせ細った子どもたちが4人立っていた。ルナは、いつもの顔に、ああ、とだけ声を漏らした。
マックスは、子どもたちに気が付くと、おお来たか、と言い、並べていたパンを人数分トレーに乗せて、子どもたちに1つずつ渡した。子どもたちは、パンを見て目を輝かせると、逃げるように去っていった。
これはいつもの光景であった。この辺りに住む村人はほとんどが生活に余裕がなく、貧乏だった。今日食べるものがない家の子供や、そもそも家のない子どもが数多くいた。その子どもたちが腹をすかせてマックスのパン屋に毎日訪れていた。
ルナは子どもたちが去ったあと、開店の手伝いをしようと店内に入ろうとした。すると、誰かが店の前に来たのに気がついた。はっとルナが振り向くと、そこには簡素な生地の服だけれど、この辺りの村人にしては綺麗な格好をした若い男が立っていた。耳が隠れるほどの長さの綺麗な金髪に、緑色の瞳をしたとても整った顔をした男性だった。男性はルナの方を見ると、柔和な笑みを浮かべた。
「…いらっしゃい」
ルナは愛想のない声を出す。男性は店内を覗きながら、もうやってますか、と尋ねた。ルナは、ああ、と答えながら、男性に背中を向けて、店内の準備を再開した。
「それでは、このパンを一つください。お代はこのパンの分と、それと先ほどのこどもたちの分もお支払いします」
男性はそう言うと、パンの代金以上の金貨を払った。するとマックスが出てきて、いらねえよ、とそっけなく返した。
「ガキどもにはどうせ余る分をやっただけだ」
「でも、ボランティアではお店は続けられませんから。…素晴らしいお店ですね、飢えるこどもたちのために、無償で食べ物を分け与えるなんて」
「素晴らしいもんか。ルナ、パン1個を買う客だ。釣り渡してとっとと帰ってもらえ」
マックスはぶっきらぼうにそう言うと、パンの調理場に引っ込んだ。ルナは、マックスに言われた通り、お釣りを渡そうとした。しかし、彼の出した金貨からパン1個分のお代を引いたお釣り分のお金がなかった。ルナは男性の方を見上げた。
「…おい、もっと小さいのはないのか。釣りがない」
ルナが男性の顔を見たとき、男性がルナの瞳を見つめて固まった。ルナは、無表情のまま男性を見つめ返す。男性は、じっと見つめ返すルナに気が付くと、笑顔を作ってみせた。
「ああ、ええと、持っていないんです。そのまま受け取ってください」
「でも、」
「失礼」
男性はそう言うと、足早にパンを持って店から出ていった。ルナはその男性の背中を見つめたあと、調理場に引っ込んだマックスのところへ向かった。マックスはルナを見ると、どうした、と言った。
「釣りがないから、そのまま受け取った」
「そうか。…変な客だったな」
「金が無いんだから、最初から素直に受け取っておけばいいだろ。そもそも、知らねえガキに食わせる余裕なんかねえじゃねえか」
「バカ言え。目の前に困ってる人がいたら助けるってもんだ。…オレにできるのはこれくらいなんだ。好きにさせろ」
マックスはそれだけ言うと、またパンを焼き始めた。ルナは、そんなマックスを見たあと、店に戻った。
ある日の朝、パンの生地作りのためにリビングから店内へと向かおうとしていたとき、ルナはカレンダーの今日の日付に覚えのない黒い丸があることに気がついた。ルナは、店に行こうとしたマックスを、おい、と呼び止めた。
「これなんだ、木曜日って。依頼人は?」
「ああ、桃髭」
ルナは依頼人を聞いても思い出せず、やはり自分の知らない依頼であったことを確認した。
「なんだ桃髭って」
「頭が禿げで、立派な髭が桃色だったからだ。娘が攫われて外国に売られたらしい」
「そうじゃない。オレが知らない依頼だっつってんだ」
「お前を置いていくからだ」
「なんでだよ」
「厄介な依頼だ。お前は足手まといになる」
「…」
ルナは、マックスの言葉に、腹の底が少し疼くのを感じた。ルナは俯き、両手を握りしめた。まだ殺しの術も教えてもらえない上に、今日の依頼に至っては連れて行ってすらもらえない。ルナは下唇をかみしめて震えた。普段感情の波が極端に少ない彼女には珍しい荒れた気持ちだった。
「おい仕事だ、行くぞ」
「…」
「……すぐ来い」
マックスはそう言うと、ルナを置いて店に向かった。ルナはぐっと歯を噛みしめる。ぎりぎりと音が鳴るほどに。自分の力不足が憎らしいような疎ましいような、しかし、これまでの努力だって不足はなかったと思う気持ちも溢れる。感情を抑えようと深呼吸をしたとき、ドン、という鈍い音が店の方から聞こえた。
ルナは、はっとして、リビングから扉1枚隔てた調理場に向かった。すると、ナイフで胸を一突きされたマックスが倒れていた。ルナは、マックスの側に座り込むと、倒れたマックスの上半身を起こした。心臓に柄まで差し込まれたナイフからは、鮮血が流れ落ちている。マックスは、ゆっくりと目線だけをルナに向けた。
「…ああ、…お前…」
「……」
「…ろくな死に方しないって、覚悟してたのに、…お前に、看取ってもらえるなんて……」
マックスは息絶えだえになりながら、言葉を紡ぐ。ルナはじっとマックスを見つめる。
「…オレぁ…情けない……こんなことしか、お前に…教えてやれない、……本を、読んでやれるような…父親に、なりたかっ、……」
「……」
ルナの腕に、さっきまでよりも重いマックスの体がのしかかった。マックスの顔と両腕がだらり垂れ落ちてしまう。
「…親父」
ルナはぽつりと彼を呼ぶ。しかし、マックスが返事をすることはなかった。ルナは、マックスの体がどんどん冷えて固まっていく間、彼を抱いたまま動けずに座り込んでいた。
夜中まで呆然としていたルナだったけれど、ふと思い立つと、マックスの遺体をうろ覚えの知識しかないまま家の近くに埋めた。スコップを使い深く穴を掘り、マックスの遺体を置いて、また土を掛けて埋め終わる頃にはすっかり朝になっていた。ルナは寝不足でぼんやりする頭で、家の前に向かった。すると、いつもパンをもらいに来る子どもたちが不思議そうにルナを見ていた。
「ねえどうしたの?」
「何をしていたの?」
子どもたちがルナを見上げて不安そうに尋ねる。ルナは、マックスを埋めた所を見て、死んだから埋めた、と答えた。ルナの言葉に、子どもたちは目を丸くした。
「死んだ?死んだって誰が?」
「親父が。昨日」
ルナは平然と子どもたちにそう告げた。子どもたちは目を丸くしたあと、お互い顔を見合わせた。すると、ルナの前から逃げるように去っていった。
ルナがいつもより遅い時間にパンの生地を準備して、そして焼き始めていたとき、店の外にいつもの子どもたちが集まっているのが見えた。パンはまだできないことを伝えようと、ルナは店の外に出た。すると、子どもたちは、マックスを埋めた所に何も書いていない古い木の板をさし、その周りには摘んできた野花がたくさん並べられていた。
「…何をしてる」
ルナは子どもたちに問うた。子どもたちはルナの方を振り向いた。ルナの目には、瞳に涙を浮かべる子どもたちが見えた。
「お墓を作っていたの」
「お花も飾るの」
「…なんでそんなことをするんだ」
ルナは子どもたちの行動の意図が分からずに尋ねた。子どもたちは顔を見合わせたあと、大好きだったから、と答えた。ルナは、その言葉に首を傾げる。
「…すき?」
「おじさんのこと、大好きだったから」
「だから、天国でおじさんが喜んでくれるように、お花を飾るの。ありがとうって気持ちを込めて」
ルナと子どもたちがそんなことを話している横で、また別の子どもたちが摘んできた花をマックスの墓に供えていた。ルナは、その様子を呆然と眺める。
「さみしい、さみしいよおじさん…」
子どもが、立ち尽くすルナの隣で大粒の涙をこぼす。ルナは、その子どもの気持ちが全くわからずに、ただ無表情でそこにいるだけだった。
ルナは、その日の夜普通にベッドに入った。体は疲れているはずだけれど、なぜか寝付けなかった。ベッドの上で何度も寝返りを打つ間に朝になった。パンの準備をしないとと起き上がり、リビングに向かった。自分の分の朝ご飯を食べながら、そろそろ親父起こさないと、と頭の中で考える。しかしすぐに、マックスはもういないのだと気が付く。
「(…そうか、もうオレ1人なのか)」
ルナはそんなことを心の中でつぶやく。しん、と静かな部屋を見渡したあと、ルナはまた朝食のパンを口に運んだ。
ルナは、リビングから調理場に向かい、パン生地の準備を始めた。いつも通り仕事を続けて、パンをかまどにならべ、焼き上がるまでの間ふと手が空いたとき、またマックスがもういないという事実を思い出す。胸の底が少しおかしいような、そんな感覚が不快で、ルナは顔をほんの少しだけしかめる。
よくわからない自分自身に首を傾げたとき、店の扉がノックされるのに気がついた。ルナは調理場から店の方へ向かった。すると、外には屈強な体をした騎士の格好をした男たちが3人立っていた。ルナは少しの間彼らと対峙したあと、ゆっくり扉を開けた。そして、彼らを見上げた。
「…まだ準備中だ」
「パンを買いに来たわけではありません」
「ならなんだ」
「貴女を迎えに参りました」
そう言うと、一人の騎士が、ルナの手を引いた。ルナは、自分を掴む男の手を掴まれていない方の手で握ると、男をぐるりと一回転させて地面に叩きつけた。そして、地面に倒れた男の腹を足で踏みつけた。ルナの素早い仕事に、控えていた騎士たちが後ずさる。しかし、直ぐにルナの元へ向かい、ルナを連れて行こうとする。しかし、ルナは自分に掴みかかる騎士たちを華麗に交わすと蹴り飛ばしてしまった。男たちは壁に体を打ちつけられると、呻きながら地面に伏せた。
「いやあ、強いな君!」
快活な声が聞こえたので、ルナは声の方を睨みつけた。そこには、さわやかな笑顔を向けるもう1人の騎士が現れた。18、9歳くらいの年齢だろうか、その男はとても恰幅のいい体格で、真っ赤な短髪に赤い瞳をしていた。
ルナは、男の体の隙間から外の様子を見た。馬が3頭と、馬車が1台用意されている。どうやらまだ敵はいるようである。
ルナは、男と向かい合うと、体勢を構えた。男はそんなルナを見ると、おっ、と楽しそうに声を漏らすと、自分も構えた。
ルナは男に真正面から殴りかかった。すると、男は軽々とそれを片腕で受けた。
「はーっ、重い拳だね!こんなに細いのにね」
男はそう楽しそうに言う。そんな男の顔面を、ルナは思い切り蹴り上げる。しかし、足に感覚はなく、男が、背後に反ってルナの蹴りを避けたことに気が付く。男は避けてバク宙をしたまま、ルナの顎を蹴り上げようとする。しかしそれをルナは軽々と避ける。男は、地面に着地するとしゃがみ込み、そしてゆっくり立ち上がった。
「いやあ、ほんとに強いね!」
「……」
ルナは、確実に先ほどの騎士たちとは比べ物にならない実力の男を前にして、少しの危機感を抱く。ルナはまた戦闘態勢になる。しかしそんなルナに、待って待って!と男が笑いながら手を振る。
「俺は君と喧嘩しにきたわけじゃないんだ」
「……」
「俺はトール。王直属の騎士団の団員だよ。今日は、君を城へ連れて行くためにここへ来たんだ」
「……」
「さあ、馬車に乗って。結構な長旅になるけど」
「……行かない」
いつでも殴れるように構えたまま、ルナは無表情でそう返す。トールはそんな彼女を見て、えー、こまったなあ、と苦笑いを漏らしながら髪をかいた。
「君を連れて行かないと、俺が怒られちゃうよ」
「ええそうです。貴女には一緒に来ていただきます」
そんな声がして、ルナは馬車の方を見た。すると、馬車から1人の男性が降りてきた。すらりと細い長身の男性で、肩までありそうな長さの黒髪を、赤い紐で結んでいる。涼しげな目元をしており、右目の下には泣きぼくろがある、白い肌をしたその男性は、浮世離れした美しさと妖艶さを持っていた。男性はルナの顔を見ると、にこりと微笑んだ。
「お初にお目にかかります、姫。私が今日から貴女様のお世話係兼教育係となりました、執事のシドと申します」