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温泉のライオンが背中に乗った幼馴染を離さない

作者: サリノ

 これはずいぶん前に僕と幼馴染が過ごした一日の話だ。正確に言えば、お盆に泊まることになった旅館での、初日の午後から翌日の朝にかけての出来事だ。


 なぜ今それを思い出しているのかというと、さっき幼馴染からその日が人生を決めた大切な日だったと言われたからだ。

 だけど僕としては、大変ではあったけどそんな重大な日だとは記憶していなかった。理由を聞いてみても彼女は僕に説明するつもりがないようだ。


 幸い僕には日記をつける習慣があって、思うことの多かったその日の出来事はかなり詳しく書き残している。僕はそれを読み返しながら、できる限り細かなところまで思い出してみることにした。




 その前に当時の僕たちの状況を簡単に説明しておこう。


 僕と両親の家族三人は毎年の盆と正月に父さんの実家に帰省していた。父さんの父親、僕にとっての祖父はちょっとした資産家で、屋敷と呼べるほど広い家に長男夫婦と暮らしている。


 帰省の時期になると実家には二十人以上の親戚が集まる。普通だと伯父夫婦の負担が心配なところだけど、家事は雇った人たちにお任せだから雰囲気が悪くなったことはない。みんな祭りみたいに和気あいあいと楽しんでいる。

 酒好きの家系なのか夕食後は機嫌よく酔って長話になることが多い。父さんはいつもその前に逃げ出すけど酒が嫌いだからじゃない。自分の小さい頃の失敗談を酔った年長者から何度も聞かされるのが嫌なだけだ。


 その親戚一同が揃って旅館に泊まることになったのは、実家に大小二つある風呂の大きい方が故障したからだ。直るまでの二晩の間、我慢して小さい風呂を使うより温泉に旅行しようという話になった。

 さすが資産家は発想が違う。祖父は稼いだ金の多くを相続税で払うよりは、生きてる内に自分と身内が楽しむために使うと公言してる。


 観光地としてどの街がいいかという話は簡単に決まり、次にどこに泊まるかを探すために旅館のサイトを見て回った。

 それを大人と一緒に見ていて、ここが絶対いいと激しく主張したのが五歳になる従兄弟のユウタだった。可愛さの盛りがまだ続いているユウタの願いにスポンサーの祖父はあっさり陥落した。


 滑り台が大好きなユウタは、自宅の街にある全ての公園だけでは気が済まず親と遠征してまで滑りに行っている。だけどこの夏にプールに行った時には身長制限でウォータースライダーに乗れなかった。

 その時に大泣きしていたユウタは、旅館のサイトで滑り台を見つけてテンションを爆発させた。常にお湯が流れている滑り台は小さなウォータースライダーでもあった。


 そのお湯はライオン像の開いた口から出ている。ライオンは頭だけの飾りじゃなく、スフィンクスのように腹を地面につけて頭を上げた姿勢の像だ。ただし腰から後ろは壁に描いた茂みの中で、像にはその部分がない。

 ユウタにはカッコいいと好評だったライオンだが、これさえ無ければ、ユウタの年の離れた姉で僕の幼馴染でもあるアサヒは、あんな目に合わずに済んでいた。


 僕より二つ下のアサヒは、祖父の末っ子である柚葉おばさんの娘で、おばさんと再婚した武史さんの連れ子だ。僕と初めて会った時にアサヒはまだ今のユウタと同じくらいの歳だった。幼かったアサヒは僕より髪が短くて言葉使いも乱暴だったから、僕はアサヒを男だと思っていた。

 その頃の僕は女子とはあまり遊ばなくなっていたけど、男だと思っていたアサヒとは気楽に話すことができた。そして女だったと気づいた時にもう兄弟のような関係になっていた。


 新しい母親と素直に話ができない。そんな悩みをアサヒから聞いた僕は、小学生なりに知恵を振り絞って作戦を立て、それが自分でも褒めてやりたいほど上手くいった。

 柚葉おばさんに自分の気持ちを隠すことなく伝えられて、それを受け入れてもらったアサヒは泣くほど僕に感謝してくれた。それ以来アサヒとはずっと良好な関係が続いている。


 お互いの家が遠く離れているアサヒとは実家に帰省した時ぐらいしか会えなかった。それでも僕は思い出さない日の方が少ないくらいアサヒのことを気に入ってた。


 アサヒの父親である武史さんは結構なイケメンで、写真で見た別れた奥さんも相当にキレイな人だった。数年前はぽっちゃりだったアサヒが最近痩せてきたこともあって、僕は会う度に遺伝子の働きというものを実感している。


 アサヒは僕のことをずっとソウ兄ちゃんと呼んでいたけど少し前からソウヤと呼ぶようになった。本当の兄妹じゃなくて僕も名前で呼んでいるから元に戻して欲しいとは言えてない。

 僕と話すよりユウタを構ってる時間の方が長くなってることもあって、僕とは距離を置こうとしてるんじゃないかと密かに気にしていた。




 日記を読んでいると、それをきっかけにあの日の記憶が思っていた以上に鮮明に蘇ってきた。会話の一つひとつまで思い出せるほどだ。

 アサヒと違って未だにその理由を自覚できていないが、あの日は僕にとっても大切な日だったようだ。



 ◇◆◇◆



 祖父の金と人脈により用意された豪華仕様の貸切バスに乗り、四時間かけて僕たちは目的の旅館に到着した。残念ながらアサヒの父親である武史さんを含めた三人の大人は、職場からの呼び出しに備えて不参加だった。

 ユウタは父親の不在にも関わらず絶好調で、アサヒとずっと温泉と滑り台の話をしている。もちろん比率は温泉が一で滑り台が九だ。


「ついた!? ここおんせん?」

「そうよ」

「おんせんにはいったら、ひゃっかいすべる! いいよね!?」

「何回滑ってもいいけど、ユウちゃん一人で温泉に入るのは絶対ダメだからね。必ずお姉ちゃんと一緒に。約束だよ」

「うん!」


 バスを降りた僕たちを旅館の従業員が出迎えた。


「いらっしゃいませ」

「すべりだいのあるおんせん! どこっ!?」


 従業員の挨拶に対して間髪を入れず、ユウタが質問を返した。


「ユウちゃん。お風呂は部屋に荷物を置いてから」

「じゃあ、へや! どこっ!?」


 従業員より先に行こうとするユウタを呼び戻しながら、僕たちは案内されたそれぞれの部屋に移動した。僕が泊まるのは両親と一緒の三人部屋だ。


「お母さんたちは美術館に行く予定だけど、宗也(そうや)朝陽(あさひ)ちゃんと遊びに行かないの?」

「アサヒはユウタと滑り台だよ。それが終わった後にアサヒが来たら考える」


 そうして部屋でのんびりスマホを見ていると、それほど経たずにアサヒがしょんぼりしたユウタを連れてやってきた。


「あれ? どうしたユウタ。さっそく滑りに行ったんじゃなかったのか?」

「うう~~」

「滑り台のあるお風呂、今は使えないんだってさ。七時まで待ってくれって」


 ユウタに対してはお姉ちゃん口調になるアサヒだが、僕と話す時は昔のままだ。ただし三人でいる時は口調が混ざるときがある。

 ユウタの方は話すことが苦手で言葉はたどたどしいが、聞く方は年齢以上に理解できている。


「そうか。だったらまだ五時間以上あるのか。ユウタ。風呂は他にも幾つかあるんだから、それまで他の」

「いやっ! ぜったい、すべりだいのおんせんっ!」


 そう叫けぶとユウタは部屋を飛び出していった。それを追ってアサヒも足早に僕たちの部屋から出て行った。




 それからニ時間ほど経って部屋のドアを強く叩く音がした。両親はすでに美術館に出かけているから部屋に残ってるのは僕だけだ。


「はいはい」


 そう言いながら踏込のスリッパを履いてドアを開けると、叩く音から想像していた通り外にいたのはユウタだった。


「どうした? アサヒは一緒じゃないのか?」

「よんでる。きて」


 ユウタはそう言うと僕の手をつかんで引っ張った。ユウタの真剣な表情を見て僕は大人しくその後をついて行った。


 連れていかれたのは例の滑り台がある家族風呂の前だった。入り口の引き戸は開いたままで脱衣所にも灯りがついている。中に入ると奥には仕切りがあって、その更に奥に浴室に続く戸が見えた。


「アサヒは中か」

「うん」

「服は着てるよな?」

「きてる」


 いつもより更に口数の少ないユウタに戸惑いながら、僕は手を引かれて浴室の中に入った。


 家族風呂にしてはかなり広い浴槽があり、そこに旅館サイトに写真が載ってた滑り台があった。その滑り台の高い方にはこれも写真通りのライオン像があって、何故かその背中には浴衣を着たアサヒが跨っていた。


 何かに跨るなら浴衣はやめた方がいい。アサヒは浴衣を尻に敷かずに座ってたから、裾が大きく広がって余計に残念な見た目になっていた。

 伏せたライオンの背中は低いのでアサヒは両脚の膝を立てて座っている。その脚で像の首を左右から挟んでいて、タテガミのある大きな頭がなければ正面から見るのは危険だった。


「どうした?」

「ユウちゃんから聞いてない?」

「いや」

「だれにも、はなすなっていったから」

「そうじゃないの、ユウちゃん。誰にもっていうのはソウヤ以外の人ってことなの」

「はなしていいの? たすけて、おにいちゃん! おねえちゃんにライオンがくっついた」


 はあ?




 アサヒに手招きされた僕は、浴槽を避けて壁沿いに近づいた。階段を登った僕がすぐ横に立つとアサヒはライオンに跨ったまま左足を動かした。ふくらはぎの内側がタテガミの下の方に張り付いていて、引っ張られたアサヒの肌が伸びていた。


「どうなってんだ?」


 張り付いてる場所をよく見ると、ライオンのその部分には後から何かが塗ってあった。それが接着剤のようにアサヒの皮膚を固定しているようだ。


「引っ張っても取れないんだな?」

「無理っぽい」


 うーむ。どうしたもんだろうか。そもそもアサヒはどうしてライオンの上に座っているんだ? その理由がわかれば、何か対処する方法を思いつくかもしれない。


「どうしてこうなった?」

「最初はユウちゃんと一緒にその滑り台を滑ってたんだ。二十回ぐらいかな。でもユウちゃんが全然休まずに滑り続けるから階段を登るのがキツくなって。途中から一人で滑らせることにした」


 確かにそれはキツそうだ。幼児ってどうしてこんなに元気なんだろうな。


「だけどこの滑り台、すごくツルツルしててよく滑るんだ」

「裸で滑るんだから、そうじゃないと危ないんだろ」

「階段から滑り台に乗る時はそこの手すりに掴まらないと怖いんだ。でも小さなユウちゃんには手が届かないからアタシはここに座ってユウちゃんの体を支えてた」

「それからも結構滑ったのか?」

「約束したから。百回って」


 二十回滑ってからだと八十回。一分あたり二回か三回滑ったとして……終わるまで三十分ぐらいはかかるな。いや、さすがに後半は滑るペースが落ちてもっと時間がかかっただろう。接着剤みたいなのはその間に固まってしまったわけだ。


「旅館の人には言ってないんだな」

「そしたら騒ぎになる。それがうちの誰かに知られて、酔っ払いから毎年言われるのは嫌だ」


 父さんの場合もそうだけど、身内の失敗談は酒飲みにとっていいネタだからな。


「ちょっと待ってろ。()がすのに使えそうなものを探してみる」


 と言って浴室を出たものの、探すまでもなく出てすぐの場所に工具箱があった。外から見て仕切りの裏側に置いてあったから浴室に入った時には気付かなかった。

 工具箱の横には『浴室補修用パテ』と書かれたチューブも置いてあった。接着剤だと思った物の正体はこれだろう。二つのチューブの中身を混ぜると四時間で完全に固まるそうだ。作業は三十分以内でと書いてあるから、その時間が過ぎると固まり始めるんだろう。

 工具箱の横には看板のような物が立て掛けてあった。裏返しだったその表側を確認した僕は、浴室に戻るとそこに書かれた文字を二人に見せた。


 手書きの文字で『浴室修理中 立ち入りはご遠慮ください』と書かれていた。


「これって、浴室の戸に立て掛けてあったんじゃないか?」

「えっ?」


 アサヒは驚いた顔でユウタを見た。アサヒを見返したユウタの顔も驚いている。


「えっと。それ、はいるのにじゃまだったから。……でも、ジュンビチュウじゃないよね。キンシもかいてない」


 そうか。ユウタは"準備中"や"禁止"の漢字は読めるのか。入ったらいけない場所にはそれが書いてあると思ってたんだな。だけどこのボードの漢字は知らなかった。


「あ、うん、そうだね。ユウちゃんは見て大丈夫だと思ったんだよね」


 泣きそうに顔を歪ませたユウタに、アサヒが慌てて声をかけた。


「そとで、このおんせんをみてたら、おとこのひとがでてきて。……それでなかにはいったら、すべりだいがあって、おゆもながれてたから」

「それでもう入れると思ったんだな。すぐにアサヒを呼びに行ったのか?」

「うん」


 大体事情がわかってきた。その出てきたのがライオンを修理してた人だろう。


「そのライオン。タテガミの下の方や背中の色が他と違うだろ? たぶんその辺りにヒビとか欠けとかがあって、それを修理するために塗装を剥がしてパテで埋めたんだと思う」

「ぱて? たべるやつ?」

「粘土みたいなやつだよ。でもこねて四時間経つと石みたいにカチカチになるんだ」

「時間までわかるの? 詳しいんだ」

「脱衣所にパテのチューブがあってそれに書かれてた。工具箱や速乾性の塗料スプレーも一緒に置いてあったから固まったら塗装するつもりなんだよ」

「つまり、その前にアタシが座っちゃった?」

「三十分で固まり始めるらしい」

「つまり、自業自得ってこと?」

「まあ、そうだな」


 悲鳴をあげかけたアサヒは、すぐに自分の口を手で押さえた。自業自得というよりユウタの失敗に巻き込まれた形だけど、五歳の弟に責任を負わせるようなアサヒじゃない。


「ユウタ。部屋に行ってアタシの……えっと、サイフを持ってきてくれる? それでお水を買ってきて」

「うん!」


 そう言って駆け出したユウタの背中に「走らないで」と声をかけると、足音が聞こえなくなるのを待ってから僕の方を見た。


「どうしよう。このパテって取れる?」

「それってエポキシ樹脂のパテなんだよ。検索してみたけど剥がすのに使える薬剤とかはないみたいだ」

「修理してた人が戻ってくるんだよね」

「その内」

「そしたらどうなるかな」

「旅館としたら客の安全が最優先だから、このライオンを少し壊してでも助けてくれると思う」

「そうなったら、しばらくこのお風呂は使えないよね」

「このことが事故扱いになったら、調査して役所に報告するまでは営業に使えないんじゃないか」

「えっ! アタシが悪いのに? 修理中のお風呂に勝手に入って、普通は人が触らないライオンにずっと座ってたからなのに?」

「だけど内密に済ませようとしたら漏れて炎上することもあるんだよ。大変だよな、客商売って」


 そう言いながら僕は、手に持ったカッターナイフをアサヒに見せた。


「だからこれでパテを少しずつ削って剥がすしかないと思う。ちょっと危険かもしれないけど、アサヒがそれでもと言うなら僕がやる」

「ホント!? ありがとうソウヤ!」

「試しにこの辺のパテを……うん、削れるな」

「よかったあ。さっきまでユウちゃん、すごく喜んでたんだ。こんなことで辛い思い出になったらそれが一番嫌だ。ちょっとぐらい切れてもアタシ我慢するから」

「そうしないよう慎重にやるよ」

「でも、勝手に削って大丈夫かな」

「パテは粗く塗ってあるから後でヤスリとかで磨くんだと思う。表面を少し削るぐらいは問題ないよ」


 僕は膝をついてアサヒの左脚を脇にかかえると、皮膚とパテの境目がよく見えるように左の親指で少し強めにアサヒの肌を引っ張った。そしてパテを肌に残すように刃の先で削っていった。

 張り付いている広さは縦横数センチだった。面倒なのはパテの表面にデコボコがあることで、張り付いた皮膚も同じくデコボコになっている。ギリギリ過ぎたり一気に削ったりすると肌の膨らんだ部分を傷つけてしまう。慎重に一ミリの数分の一づつ削っていった。


「ごめん、ソウヤ。もっとガリガリやっちゃっていいよ」

「いいから僕に任せとけって」

「まさか、こんなタイミングで修理だなんて」

「こんなタイミングだからだよ」

「どうゆうこと?」

「伯父さんはサイトじゃなく電話で予約してたけど、たぶんライオンの滑り台がある旅館ですねって確認したんだよ。間違ってたり滑り台が使えない状態だったら困るから」

「うん。それで?」

「旅館の方はこれを目当てに団体客が来ると聞いたから、がっかりさせたくなくて特急で修理することにしたんだと思う」

「でも、その客が来る日なのに?」


 もっともな疑問だ。実際にユウタを悲しませることになった。


「営業開始を待って電話したのが朝の九時だろ。その時には名前と住所を伝えてるから、ここからどれだけ遠いかもわかってる。二十人以上で出発して昼過ぎに着くような、貸切バスの強行スケジュールとは思わないよ」

「あの貸切バスはアタシも驚いた。バスの中で食べたお昼も結構豪華だったし」

「僕らは昨日の内にサイトで空きを確認してたけど、余裕のないスケジュールで当日の電話予約だと断られたら大惨事だ」


 僕の言葉にうなづいたアサヒに更に説明を続ける。


「夕食は六時で頼んでたから、旅館側はそれを聞いて風呂はその後でも大丈夫だと考えたんだよ。僕たちだって余裕のない予約をしてるんだから、お客様のために直しましたって聞いたら少しも待てないとは言えないよ」

「それに早く着いたのが一時間くらいだったら、もう夕食まで時間がないし部屋でゆっくりしようって言ってたよ」

「七時と言われたけど本当の予定はもう少し早いのかもな。今でも十分に固くなってる」

「そういうことなんだ。ソウヤはやっぱり頭がいいな」

「あくまで推測だけどね。それに説明したからって何かの役に立つわけでもない」

「そんなことないよ。アタシ、自業自得と言いながら間の悪さを恨んでる気持ちもあったんだ。でも今は旅館からの誠意だったってわかってスッキリしてる」


 相変わらずだなと思った。嫌な目に遭ったとしても、それが相手の善意から起こったことなら怒るどころか喜んでくれる。

 会って間もない頃にアサヒのおもちゃを直そうとして壊した時もそうだった。僕がアサヒを気に入ってる理由の一つだ。


「あっ、だったら、もうすぐ修理の人が戻ってくるかも?」

「さすがにそれは早過ぎる。だったら急かされてるのに七時とは言わないよ」

「それはそうか。あ、ほら。ソウヤの説明を聞いたおかげで安心できた」




 そんな話をしている内に、水のペットボトルを待ってユウタが戻ってきた。何とかなりそうだと言うと安心したように笑顔を見せた。アサヒはまずユウタに水を飲ませると、半分以上残った分を自分で飲み干した。


 そうして始めてから十数分が経って、僕はアサヒの脚を剥がし終えた。


「よし。これで全部離れた」


 そう言って僕が振り返ると、後ろから覗き込んでいたアサヒの顔がすぐ側にあった。その笑顔は風呂場の高い湿度と室温のせいか火照っているようにも見えて、僕は何故か気まずさを感じて目を逸らした。


「皮膚にまだパテがついてるけど無理にすぐ落とさなくていいだろ。風呂に何度か浸かったら自然に取れるよ」

「うん。そうする」


 そう応えるとアサヒは自由になった脚を折り曲げた。そして立ち上がろうと力を入れて……そのまま固まってしまった。


「どうした? 足が痺れたのか?」


 ギギギッと軋むような動きで僕に顔を向けたアサヒは、愕然とした表情で言った。


「お尻もくっついてた」

「なっ!? マジ?」

「ごめん。確認しとけばよかった」


 それについてはしょうがない。脚が膝を立てた状態で固定されてたのに、その姿勢から尻を持ち上げて確認するのは無理がある。

 浴衣を尻に敷いて座れば被害は浴衣だけで済んだけど、アサヒは普段スカートとか履かないから気にせず直座りしたんだろうな。


「それよりどうなんだ? 引っ張ったくらいじゃ取れそうにないのか?」

「さっきの感じじゃダメだと思う。どうなってる?」


 すでに言った通り僕とアサヒは兄弟みたいな関係で、これまで何度か相手の下着を見たり見られたりしたけど互いに恥ずかしがるようなことはなかった。ただし周りの目もあるから礼儀として見せないようにはしていた。


 アサヒは女子なら恥ずかしがるような時にそんな姿を人に見せない。気にしてないんじゃなくて平気なふりをする。

 たぶんそれには、アサヒの実母が浮気して離婚したことが影響してるんだと思う。男だ女だという話に自分が関わるのが嫌なんだ。


 だから態度では気にしてないように見えてもそれが本心とは限らない。僕は下手な地雷を踏まないように、アサヒに対して自分の考えたルールを守るようにしている。

 気をつけるのはアサヒに対して変に照れたり回りくどく言ったりしないことだ。伝えたいことはストレートにはっきりと言う。

 

「アサヒ。浴衣の前と後ろをしっかり手で押さえてくれ。パンツが見えないように」

「あ、パンツは……」

「ちゃんと隠してからでないと確認しない」

「う、うん」


 浴衣の裾を必要最小限にめくって見ると、ライオンの背中にもパテで修復した跡があった。アサヒの脚なのか尻なのか微妙な部分がそこに張り付いているようだ。ちらっと白い物が見えて焦ったけど、それはタンクトップの裾だった。


「アサヒ、どうする?」

「どうするって、……さっきみたいにできない?」

「いや。できなくはないんだけど」


 気にする僕の方が変なのか? さすがにアサヒだって男の僕に尻の辺りを見られたり触られたりしたら嫌だと思ったんだが。

 だけど、だったらどうすればいい? 僕がやらなくても誰かがアサヒを助けることになる。おばさんに話してもプロに任せようって言うだろう。レスキューとかに頼むことになったら折角の旅行が台無しだ。何よりアサヒが嫌だろう。


「武史さんが来てたら頼めたのにな」

「えっ、やだ! 絶対に怒られる。お酒飲んだら口が軽いし」


 ま、まあ。確かにそうかも。でもその理由で僕に任せた方がいいと思うのなら、本当にそれほど恥ずかしく思ってないんだろう。


 考えてみればパテがついてるのはあくまで脚だ。尻はパンツに隠れている部分で、パンツの外なら脚と考えるべきだろう。

 そうだ。確か学校で『プライベートゾーン』について教えられたことがある。水着で隠れている部分は他人に見せたり触らせたりしてはいけないという話だった。

 パンツだって水着と同じくらいに下半身を隠している。隠れてない肌は見えたり触ったりしても大丈夫。よし、理屈として問題はない。


「わかった。じゃあ僕がやろう。僕もユウタに嫌な思い出を残したくないからな。剥がす場所以外は浴衣で隠してくれ」

「わかった」


 僕がアサヒの横で膝をつくと、アサヒは張り付いた皮膚を引っ張るために反対側に体を傾けた。引き伸ばされた肌だけが浴衣の裾からはみ出して見える。


 ふくらはぎの時は接着してる面をほぼ横から見れたので、刃先と皮膚との距離がわかりやすかった。今は斜め上から見ているので接着面が皮膚で隠れてしまってる。


「始めるぞ」


 そう言ってから、ふくらはぎの時と同じように親指で肌を引っ張った。


「強すぎないか」

「うん。もっと強くても大丈夫」

「このくらいは?」

「余裕」

「じゃあ、これは?」

「まだ我慢できる」


 我慢はしてるのか。それなら力加減はこれより少し弱いくらいにしておこう。


 アサヒの声はいつもと同じ調子で、僕が触っても恥ずかしがってはいないようだ。少し緊張を感じるけど、それはこれから刃物を使うわけだから当然だろう。


 視点を変えて使うカッターナイフに慣れることも兼ねて、まずはパテの皮膚がついてない部分を広く薄く削っておく。

 それから横にある皮膚の下を同じ深さで少しずつ削っていく。刃先を誤ればアサヒを傷つけるという緊張感が、僕の頭から余計な悩みを追い出していた。


 親指で皮膚を引っ張るのは見やすいというだけじゃない。パテ表面の細い溝や段差になった部分は肌との密着が弱いので、強く引っ張ればそれだけで剥がれてくれる。溝の中に出っ張った肌を切る心配が減るわけだ。


 剥がした面積が増えていくと、剥がし終わった部分は浴衣の中で持ち上がるから、それを引っ張るアサヒの体はより傾いていく。

 不安定な姿勢を保つのが苦しくなったのか、いまは右手でライオンのタテガミを掴んでいる。


 慣れてくるとパテをより薄く削れるようになってきた。細かくひび割れたパテのついた肌を押してる僕の指には、最初の頃より柔らかい感触がしている。


「…………ん」


 いつの間にか僕が指で引っ張るとアサヒが声を出すようになった。くすぐったさを我慢しているような声だけど、指にはかなり力を入れてるから痛みも少しはあるはずだ。


「アサヒ。どんな感じだ」

「な、何が?」

「強く引っ張り過ぎてないか?」

「あー、それは平気」


 僕の呼びかけに応えたアサヒの声に少し乱れを感じた。疲れてきてるのかもしれない。


「一度体を起こして休むか?」

「まだ大じょっ」


 突然アサヒの体がぐらっと動いて、バランスを取るようにその左脚が上がった。


「い゛っ!」


 アサヒの小さな悲鳴と同時に、僕はナイフを落として両手でその脚を抑えた。


「……ごめんソウヤ。手が滑った」

「ずっとその姿勢だと苦しいよな。やっぱり休憩するか」

「ソウヤは疲れてない?」

「いや。まだ集中できてる」

「だったら早く済ませたい」

「そうか。ユウタ。そっちに立ってアサヒを支えてやってくれ」

「いいよ。そんなことしなくても」

「やる!」

「ずっとじゃなくてアサヒが時々休めたらでいい。できるな?」

「うん! まかせて!」

「アサヒはもう浴衣の裾を押さえなくていい。それは僕がやるから両手でつかまってろ」


 作業を続けるため元の姿勢に戻ると、親指以外の四本で浴衣の裾を握った。左手はいいねの形だ。これで親指で押す場所以外は浴衣で隠すことができる。

 裾を持ち上げるだけでは余った部分が垂れ下がるので、それも左手の甲に乗せて持ち上げる。


 パテから剥がれている境目を確認すると、そこに指の幅一本分ほどのパテのついてない肌が見えていた。

 さっき悲鳴が出た時に一気に剥がれたようだ。強引に剥がれたから、出血はないものの明らかに赤くなっている。


 また親指で肌を引っ張ろうとして手を止めた。この赤くなった部分は触ったら痛そうだ。それを確認するために僕はアサヒに声をかけた。


「今から触るぞ」

「え? うん」

「まず軽く触るから痛かったから言えよ」

「う、うん。……ひゃっ」

「どうした? 痛かったか?」

「う、ううん。その、触ったのが指だったから」

「ずっと指だぞ?」

「さっきまではパテの欠片(かけら)で押されてる感じだったから」

「あー、そういうことか」

「……ソウヤ」

「何だ?」

「……その、なかなか取れないね」

「思ったより範囲が広いな」

「そうだね。……ホントにそう」

「残りがどのくらいって自分でわからないのか?」

「わからない。指で押されたりするのと違って皮膚が張り付いていてるだけじゃ特に感じないんだ。動くと引っ張られる辺りだけわかる」


 話しながら少しづつ指の力を強くしてみたがアサヒの声に痛がる様子はない。どうやら大丈夫そうだ。


「最初は……すぐ終わると思ってたのに」

「時間が気になるのか? さっきも言ったけど、旅館の人が修理に戻ってくるのはまだ先だと思うぞ」

「……」

「もしかして僕のことを気にしてるのか? それは必要ない。だいぶ慣れてきたからな」

「……」


 アサヒが黙ってしまったことが気になって、僕は屈んだ姿勢のまま横目でアサヒの様子を伺った。顔はユウタの方を向いていて見えないけど耳や首筋がかなり赤くなってるように見えた。


「おねえちゃん。ないてる?」


 え?


「ううん、泣いてないよ」


 答える声に力がない。まずいな。アサヒに我慢させてたのか?


「おい。やっぱり痛かったんだろ」

「違うって」

「え~、でも」

「ユウちゃん。これは汗だから」

「めからでてるのに?」

「汗が目に入ったの」


 そう言われて気がついた。僕は浴衣で額の汗を何度も拭っていた。袖には大きな汗じみができている。アサヒも間違いなく汗をかいているのに両手は使えない状態だ。


「悪い、気づかなかった。ユウタ。タオルでアサヒの顔を拭いてやってくれ。それと汗が落ちないようにタオルを頭に巻いた方がいい」


 ユウタが脱衣所から持ってきたのは普通より長いスポーツタオルだった。アサヒは受け取って自分で顔を拭き、それから目の隙間だけを残して覆面のように巻きつけた。


 再開してみると残りは思ったより少なかった。それほど時間をかけずに最後の部分がプツンと剥がれた。


「よしっ! 完了!」


 そう言って立ち上がった僕は背中に手を当てて腰を伸ばした。でもアサヒはまだ座ったままで、困った顔で僕を見上げるだけだ。


「どうした? 立てないのか?」

「……あの、右の方も」


 あー、そうか。そうだよな。




「少し休んでからにしようか」


 休む前に、滑り台を踏み越えて反対側に移動しておく。足の裏に川で苔を踏んだ時のような感触があった。


「確かにこれは、手すりがないと転倒しそうだな」

「うん」

「剥がした場所は痛まないか?」

「……うん」


 僕と話をしていてもアサヒの視線は微妙に僕からそれていた。こんなことは初めてだ。目にいつもの力を感じられなくて、タオルの隙間や胸元に見える肌がかなり赤くなっている。


「大丈夫か? 熱はないよな?」

「うん。大丈夫。 ……もう限界は越えたから」

「限界って、おいっ」

「平気だよ。だってソウヤなんだから」


 唐突に僕への信頼を口にしたアサヒだけど、その目はやっばりこっちを見ていない。まるで自分に言い聞かせているようだ。その姉を見て何かを感じたようでユウタの顔も不安そうだ。


「とにかくだ。しばらく休憩しよう! 次は限界だなんて思う前に遠慮せず言ってくれよ」

「次は大丈夫。二回目だから覚悟はできてる」

「無理はダメだからな。本当にだぞ。ユウタだってほら。心配してるだろ」

「えっ? あっ、ごめんユウちゃん。ホントにもう平気だから」


 ユウタへの姉弟愛のおかげだろう。少しぼやっとしていたアサヒの調子が元に戻ったようだ。いつもの口調で話しかけている。

 休憩してる今のうちにと、僕は脱衣所の中のトイレに行った。戻ってくるとアサヒとユウタはまだ話をしていた。


「……たかったの?」

「え? ううん、別に」

「じゃあどうして、あかいへんなかおしてたの?」

「赤い変な顔……そんなに変だった?」

「うん」


 困ったような表現になったアサヒは、しばらくして何かを思い出したようにポンと手を叩いて言った。


「うん、そうだった。ホントはそうだったの。でも今は大丈夫だから」

「じゃあ、ボクもいかない」

「ダメよ。行ってきなさい」

「だって」

「我慢し過ぎたら病気になっちゃうのよ。あ、ソウヤ」


 僕に気づいたアサヒは、ユウタの背中を僕の方へ押した。


「ユウちゃんをトイレに連れて行って」

「やだっ」

「どうしてトイレに行きたくないんだ? アサヒが心配だからか?」

「……」

「でも、ユウタがトイレに行かなかったら、アサヒも今のユウタみたいに心配な気持ちになるぞ。いいのか?」

「……」

「それにユウタには、またさっきみたいに手伝いをして欲しいんだ。その時にユウタがトイレを我慢しててちゃんと手伝えなかったり、我慢できなくなってトイレに行ったりしたら困るんだ」

「……いく」

「そうか」

「ありがとう、ユウちゃん」


 ユウタと一緒にまたトイレに行った僕は、さっきのアサヒとのやり取りについてユウタに尋ねた。


「ユウタ。トイレに行く間アサヒから離れるだけでも心配なのか? さっきは水を買いに行ったりしてただろ」

「おねえちゃんだけがまんするの、いやだ」

「我慢?」

「おねえちゃん、さっきへんだった。だからきいたの。おトイレいきたいのって。そしたら、そうだって」


 ああ! アサヒの様子がおかしかったのはそういうことか。トイレぐらい恥ずかしがらずに言ってくれればよかったのに。

 ……と思ったが、考えてみればアサヒが話してくれても、パテを剥がし終わらないとどうしようもなかった。僕を困らせるだけだから言えないよな。


 いや。半分外れた今なら何とかオムツを履くことだって……できるわけない。僕だってこんな状況でそんなものを履くぐらいなら、死ぬ気で便意を我慢する。


 問題は二度目の波がいつ来るかだな。来ても耐えられる低い波ならいいんだが、もし前回を上回る大波だったら……


「アサヒ。必要な状況になったらいつでも言ってくれ。ダッシュでここを出て代わりに柚葉さんに来てもらうから」

「必要な状況?」

「理由は何でもいいんだ。僕より柚葉さんが必要になったらだ」

「よくわからないけど、わかった」




 幸いなことに二度目の波も堤防を越えることはなかった。警報も出ず注意報で済んだようだ。


「よおっし! 今度こそ終わった! ……終わったよな?」


 僕の言葉を聞いてから、アサヒはゆっくりと腰を浮かした。


「うん。もう何処もくっついてない。ありがとう。凄く集中してくれてるソウヤを見てたら、なんかこう感激した」

「ケガはさせられないからな。ユウタもアサヒを支えてて疲れただろ。ご苦労様。……あ、そうだ。パンツはどうする? 脱いでから剥がすなら僕がいなくてもできるよな」

「あー、パンツね。それは大丈夫。パテはついてないから」

「そうか。このパテ、布にはつかないんだな」


 その言葉通り問題なくライオンの背中から降りたアサヒは、滑り台の階段を降りると洗い場の椅子に腰を下ろした。浴衣はもうびしょびしょで柄物じゃなければ透けていたところだ。

 脱衣所のトイレに向かう様子はない。まだ切羽詰まってはいないらしい。


「すごい汗だな、アサヒ」

「そっちだって。結構汗かいてるよ」

「お前ほどじゃないだろ。その格好じゃ汗が垂れるから風呂の外を歩けないな。部屋から替えの浴衣を持ってくる。脱衣カゴに置いておくから、そっちは汗を流すとか、色々済ませとけよ」

「あ、じゃあ、その時にソウヤも着替えも持ってきて入りなよ。ソウヤだってそんなに汗をかいてるんだから」

「いやいや! ここでそんなゆっくりしてられないって。修理の人が戻ってくるんだぞ」

「そ、そっか」


 つい焦って大きい声が出てしまったけど、冷静に考えたらアサヒが僕と一緒に入るって話じゃなく、入れ替わるから体を洗えってことだよな。

 アサヒが僕と風呂に入ってたのはアサヒが小学校に上がる前までだ。アサヒが女だと気づいたのもその時だった。さすがにこの歳になったら冗談でも一緒に入ろうとは言わないだろう。


「あれ? ユウちゃん? ……寝ちゃってる」


 床に座ってアサヒにもたれていたユウタの頭が、アサヒの膝まで落ちていた。


「よく頑張ったよ。いつもなら疲れたら電池が切れたみたいに寝てるだろ。今日なんて朝から興奮して眠ってないのに滑り台を百回も滑ったんだ。今までなんとか起きていたのは、それだけアサヒが心配だったからだよ」

「……うん」

「僕の部屋で寝かせとくから、後で迎えにきてやってくれ。色々手伝わせたんだから褒めてやれよ」




 翌日。朝食が終わって一時間ほど経った頃にアサヒは一人で僕の泊まっている部屋にやってきた。両親は叔父さん達とまた観光に出掛けている。


「ユウタは?」

「ご飯を食べたらまた寝ちゃった。お母さんが見てる」

「ずいぶん早い昼寝だな」

「昨日の分も寝てるのかも。目が覚めたらまた滑り台に行くって」

「そうか。そりゃ良かった」

「うん。それでソウヤにお礼をしたいんだ。何がいいか考えておいて」

「そのアサヒの気持ちが嬉しいからお礼は何だっていい。物でも物でなくても」

「そんなこと言ったら色々あり過ぎて選べない。アタシにできることなら何でもするつもりなんだから」


 ん? 今何でもするって言ったよね?

 思わずそう心の中でツッコんだ。それは美少女キャラが簡単には口にしてはいけない言葉だぞ。


「じゃあお願いしようかな。僕の」

「待って。アタシがすごく感謝してるって言ったよね」

「あ、ああ」

「その気持ちに相応しいお礼だよ。伝わってなくてがっかりするようなお礼じゃないよね?」

「……次の僕の誕生日まで待ってくれ」


 その後はいつものように、アニメやマンガやゲーム、最近あった出来事とかを思いつくままに話題にした。特に盛り上がったのは最近アサヒから薦められたマンガの話だ。


「ソウヤはどっちが本命だと思う?」

「人気があるのは一途なリアナの方だよな」

「ソウヤもそう?」

「僕も可愛いと思うけど、彼女はジークよりアレンと結ばれた方が幸せなんじゃないか」

「ええっ! 違うよ。わかってないなあ」

「でも、ジークは彼女を裏切っただろ。僕としてはあれは許せない」

「え? そんなエピソードあった?」

「ほら。復讐のために約束を破って」

「その話? 浮気したんじゃないんだ」

「いや、あれは浮気なんかより」

()()()()()?」


 しまった。実母の件があるから今の言葉はアサヒには禁句だった。


「いいよ別に。ソウヤがどう思ってても。アタシなら浮気なんて死んでもしないけど」

「いや、でも、あの二人は結婚してるわけじゃないだろ」

「結婚する前なら裏切ってもいいんだ」

「お互いに告白もしてないだろ」

「あんな際どいシーンがあったのに? あんなことまで許しちゃったらもう告白したのと同じだよ」


 複数のヒロインがいてまだ選べない状況でも、恋愛が重要な物語ならその手の描写をなしにはできない。そういった読者をドキドキさせるけど関係に大きな進展はないエピソード。連載中に挟むのはお約束なんだよな。


「まあ、現実だとあの出来事を無かったことにする女の子はいないよな。僕だってそんな子には引いちゃうかな」

「そうだよね! アタシは絶対違うから!」


 そう力強く言った後に、アサヒは何故か急に顔を赤くして黙ってしまった。僕の方もそんなアサヒに何を言えばいいのかわからなかった。

 しばらくしてアサヒは目を瞑ると何度も深呼吸をした。そしてその顔の赤味が消えてから目を開いて僕を見た。


「ソウヤは好きな子っている?」


 アサヒが真面目な顔でそう聞いてきた。


「え? いや、今は特にいないけど」

「そっか、いないんだ。……告白とかはされた?」

「ないない。一度もない」

「えー、ソウヤが? こんなに頭が良くって優しくて頼りになるのに?」


 この褒め言葉をアサヒは本気で言ってくれている。慕ってくれる相手に何かしてやりたくなるのは当然だ。アサヒのユウタに対する気持ちだって同じような理由だろう。


「そもそも女子に頼られたことがない」

「ふーん。まだ誰も気づいてないんだ」


 特に親しくない相手には当たり前のことしかしない。何も特別なことをしてないんだから気づきようもない。

 アサヒは自分が僕にとっての特別だとは気づいてなくて、僕が博愛主義だとでも思ってるんだろうか。


「自分はどうなんだ。学校とかで」

「いないよ」

「何だ、そっちもか」


 思わず苦笑いしたものの、アサヒの恋愛話を聞かなくて済んだことに僕は少し安心していた。


「こんな話、今までしたことなかっただろ。何かあったのかと思った」

「そうだね。何かはあった」

「え?」

「ふふっ」



 ◇◆◇◆



 次の誕生日までに考えると言ったアサヒからのお礼を、僕はその当日である四月ニ日までに決められなかった。


「それがアタシの感謝に相応しいお礼? ソウヤはそんな軽い気持ちだと思ってたんだ」


 考えていた内容はそう言われたら取り下げるしかなく、期限を次の誕生日まで延長してもらうことになった。

 その後もアサヒには受験やその他で色々と協力することがあった。その度にアサヒはお礼の重みを積み上げていき、お礼の期限は毎年延長されることになった。




 あの出来事があったのと同じ年、アサヒが初めて柚葉おばさんと家に遊びに来て泊まった。それからイベントへの参加のため母さんに許可を貰って泊まったり、大学受験では三週間ほど僕の家から夏期講習に通ったりもした。


 合格した大学が僕の家からそれほど離れていなかったこともあり、アサヒは週に一度は僕に会いに来るようになった。たまには僕がアサヒのマンションに遊びに行くこともあった。ただしお互いが男女の関係になることはなかった。


 お礼のことは柚葉おばさんを通じて母さんも知っている。そしてそのアドバイスも受けていた。


「僕と付き合ってくれ、でいいんじゃないの? ソウヤだってその気持ちはあるのよね」


 それでも告白をしなかったのは、そうすればアサヒが受け入れてくれるとわかっていたからだ。


 アサヒが僕を男として意識していなかったとしても、僕が望んだならアサヒはそれに応じることを僕に対する『お礼』だと考えるだろう。そして死んでも浮気はしないと言ったアサヒは、一度受け入れた僕と別れて他の誰かと結ばれようとはしない。

 僕からの告白はアサヒに対して事実上の強制を意味している。




 アサヒが希望通りの就職先を決め、大学を卒業してから最初の僕の誕生日。アサヒのマンションで祝ってもらった僕はアサヒに一通の封筒を渡した。


「僕の希望するお礼はアサヒにそれを受け取ってもらうことだ。今はただ持っていてくれるだけでいい。アサヒに迷う気持ちが全くないと言い切れるようになったら、僕がそれに込めた気持ちを受け入れて欲しい」

「あ、……これってついに?」


 アサヒは緊張した顔でその封筒を受け取った。


「もう一度言うよ。アサヒに少しでも迷う気持ちがあるならまだ受け入れないでくれ」


 アサヒは少し震えている指で中から一枚の折り畳んだ紙を取り出した。大きく深呼吸をしてからその紙を開いて一目見た時、アサヒのその顔から表情が消えた。そして僕が困惑するほど長い時間その全身を固まらせていた。


 封筒の中にあったのは僕が署名した婚姻届だ。アサヒが大学に合格したすぐ後で、母さんから「いざとなったら、ちゃんと責任は取りなさいよ」と証人としての署名入りで渡されたものだ。

 何年もアサヒに告白さえしなかったのに、いきなり婚姻届というのが非常識だということはわかっている。だけど僕にはこのタイミングしかなかった。


 僕はアサヒがアルバイトやインターンを経て、どれほど努力をして今の職場に認められたのかを知っている。その入社式までもう数日しかない。

 僕と結婚することで就職ができなくなるわけではないが、あの職場での入社一年目として支障があるのは確かだろう。いきなり婚姻届を渡す非常識さも重なって『迷う気持ちが全くない』とはならないはずだ。

 まずはアサヒに僕の気持ちとその本気度を知ってもらい、そこから徐々に二人の関係を深めていく。最終的な目標はすでにアサヒに伝えている通りだ。


 自分の考えに浸っていた僕が改めてアサヒの様子とうかがうと、その顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。ただしその目は焦点がどこにも合っていない。まるで怪しいクスリを決めた人のようだった。


「アサヒ? おい、アサヒ! ……アサヒ!!」

「……え?」


 僕が大きな声で呼ぶとアサヒの目に光が戻った。急に目が覚めたようにしばらく周りを見回したアサヒは、僕を見つけると苦笑いと照れの混じった表情を見せた。


「ごめん。ぼーっとしちゃってた」


 そう言って頭を掻こうとしたアサヒは、手に持っていた紙に気がついて改めて広げて見た。何度も繰り返して目を通した後に、今度はその顔に僕が見たこともない満面の笑みを浮かべた。

 婚姻届を畳んで封筒に入れたアサヒは、立ち上がるとテーブルの向かいに座る僕の手を掴んだ。引かれるままに立ち上がった僕と腕を組むと、その眩しいばかりの笑顔のまま玄関から外へ出た。当然僕と一緒に。




「あら、おめでとう」

「ありがとうございます!」


 僕と腕を組んだままのアサヒは、市役所の玄関ホールに入る前から出ていくまで、同じような会話を職員だけでなく通りすがりの人とも何度も繰り返した。

 僕でも同じ様子の女性をみかけとしたら、それが知らない人でも同じ言葉をかけていただろう。




「ライオンの背中で思ったの。こうなったらアタシが結婚するのはソウヤしかいないって。どうしてか? それは……ひみつ」

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