母の慨歴
世代の流れが早くなる中で、忘れていく過去の出来事多くなっていく。戦争という言葉すら実感のわかない世代に日本の一家族が味わなければならなかった戦争の悲劇を綴ってみたい。
明治後期、岡山県玉島でクリスチャンの大地主の娘として生まれた祖母は名もルヒナ(兄の名はシメオン)とクリスチャン名でお嬢様育ち、華道、茶道、琴を学び神戸女学院を卒業。
一方、母方の祖父は青森県弘前の藩主の指南役を務めた父を持つ明治6年生まれ、故に名を本多明六と言い東京の大保険会社に勤める男。
見合いで、年は32歳、月給は36円、年は取り過ぎているが給料がいいと結婚。事実は年が36歳で月給は32円。誤魔化されたと一生悔やんだ祖母。
結婚後六年にして生まれた母は両親の寵愛を受けて我がまま存分、妹も生まれたが父親は母十歳のときに中耳炎悪化で死去。娘二人を抱えた祖母は実家の財力により豊島区椎名町に母屋と二人の娘ように三軒、家を建て家政婦の手を借りながら母を日本女子大の幼稚園に入園、入学試験知らずで大学まで進学できた。
祖母は1976年88歳で天昇するまで富壕の娘として生まれたとはゆえ満州からの餓死の引き上げ、戦後の不況の中でも戦前の家屋を売却した以外には一度として自ら働いて生計を助け得ることもなく一生を送ったようだ。
父方の祖父は福井県で二十五代続く浄土真宗の住職の座を破棄し東京大学に県初の合格者と離郷し、後に学習院大学大学の教授となった。
父は東京商科大学出の銀行員二十三歳。十九歳の母と見合い、母は日本女子大学中退、結婚。
二十歳で私を生み、妹の出産後、新大陸満州国へと銀行派遣社員として母と私を連れて希望に輝き移住。後、祖母と妹を呼び寄せ、二人の弟達は満州で生まれた。
末の弟の誕生百日目、父は徴収され一か月で終戦。捕虜となりシベリア抑留、その年極寒冬至の日に他界してしまう。(捕虜の七、八割は 最初の冬になくなったとか聞く)
新京では留守家族の集団疎開が始まり北朝鮮のチンナンポーに着いた翌日敗戦宣言、二十八歳で四人の幼子を負わされた母の人生との戦いがそこから始まった。
一年以上チンナンポーに抑留され、母は韓国人の経営する豆腐製造会社で働き、貰ってくるオカラで家族の食をつなぎ、雑草を煎じて乳代わりに末っ子に飲ませた。三歳まで歩くことも出来ず言葉も”モンモ“としか言えず育った彼のあだ名は”モンモ“として残った。
帰国後、祖母の実家の玉島で父の死を知らさた。一年後東京の祖母の建てた家が幸いに戦災に合わず帰京できた。
高島屋の地下で飴を売り、祖母の二軒を貸家にし、住まいの二階、応接間等を貸しながら、母は私を私立の御三高と今でも言われる武蔵に入学さす財を得ていたことに驚く。
ある日突如、母方祖父の上役、保険会社の社長であった人が現れ、自分の屋敷を旅館にしたがうまくいかず母の助けを頼んだ。
喜んで受けた母は其処から割烹旅館の女将として、二十年余り。「必ず帰る」と最後の父の言葉を信じ再三の要望された再婚を断り続け、四人子等を育てるのが自分の使命だと皆大学まで送り込み、私と妹とをアメリカに送り込むまでの力を得ろことが出来た。
家主の要請で旅館廃業後は顧客であった人々の推薦で東京家庭裁判所の調停委員となり十五年間。手がけた離婚、遺産相続の物件は五百件以上と語っていた。
調停委員同士の毎月行われた熱海での麻雀会は母の人生の後期の喜びであったようだ。
私は1964年に渡米し1980年アメリカ市民権を取り、財政的に安定した私は母のアメリカ永住権を取り、夏は涼しいシアトルと冬は常夏のハワイ島で母の長年の労をねぎらう幸運を得た。
「必ず帰る」といった最後の言葉を信じ、日々待ちながら信じ貫いて九十四才の生涯をハワイ島で閉じた母。戦争から起きた悲劇を次の世代に知ってもらえたらと綴った短歌集。皆さまにご拝読できれば光栄です。
何万人とあるだろう世界中の悲劇の中でたった一つの私の父と母の物語。短歌集にて皆さまにご拝読できれば光栄です。