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太陽と月

作者: とがわ

【プロローグ】


 月が光り始めた。太陽が眠る頃を見計らって、徐々に月は自分を現すが、本当は月は昼間だっている。夜になるから光を放っているわけではない。昼も夜も、月の明るさは本当は同じなのに、月は太陽のせいで輝けない。まるで、私みたいに。いや、私はそもそもいつだって光っていない。月と一緒だというのは烏滸がましいことだろう。


 私は今夜も、月だけが光っている夜の世界を徘徊する。



【一】


 徘徊という言葉の通り、今夜もあてもなく歩いて、最後は家に戻ってくる。ただ無心で歩いているというわけではない。目的地はなくとも、歩いている目的というものはきちんとあった。一言でいえば〝解放〟だろうか。

 集団の中で自分を殺して偽る。心にもないことが口を衝く。思ってもいないのに簡単に頷く。同調することで自分はどこを目指しているのか、迷路の中で迷子になった。

 今晩も、冷たい風が頬を撫でまわす。都会でない夜中に徘徊する人はいない。自分だけの時間のようで、心が安らいだ。窮屈な集団からおさらばして、身を曝け出せる気持ちのいい時間だ。誰の声も聞こえない。陰口も笑い声も泣き声も何もない。静寂の夜にあるのは、静寂の音だけ。

 街灯も消えてくれたらいよいよ夜は自分のものだと断言できる。その時が来るのを妄想しながら徘徊することもある。けれど、永遠の夜はない。月は太陽の光に遮られて姿を消して、太陽の後ろでひっそりと世界を見つめている。そうして夜を待つ。

 太陽の昇る時間はいつも耳障りの音たちが耳を襲う。世界は無駄な音で溢れている。そのせいで綺麗な部分が埋もれている。本当は両手で両耳を抑えつけていたい。何も聞こえないくらいに強く強く抑えていたい。けれどそれは容易ではない。肩を軽くたたかれて同調圧力をかけられる。「     」って、無駄な音を発しているのは私だって同じだ。


「君、まだ高校生でしょ」

 私の時間に侵入してきたのは一人の大人だった。人なんて皆同じ。特に大人なんて単純だ。私は夜に逆らって猫を被りなおした。

「ごめんなさい。ちょっと、眠れなくて夜の風浴びてました。直ぐ帰るんで補導しないでくださいね?」

「月が、綺麗ですね」

 目の前の彼は、私の言葉を拾わなかった。夜色のスクリーンに浮かぶ月を優しい眼で見つめて言った。今日は満月であった。欠けていない、本当の月の姿だった。

「不審者なら、通報しますよ」

「立場を理解してから行動した方がいいですよ」

「脅迫ですか?」

「いいえ」

 距離が離れることも縮まることもない。不審であるのは確かだが、恐らく向こうからしても自分は不審であり、そしてそれは世間一般的な不審者でない。

 彼は月を見つめながら口を開いた。

「悪く言えば、ストーカーですかねぇ」

「きもちわるいですね」

「その言葉で、一番傷つくのは月でしょうね」

「分かったような口で言う大人は大嫌いなんですけど」

「僕もそう思います。大っ嫌いです。知りもしない人にあーだこーだ決めつけられるのは不快です」

この人の言葉で泣きそうになったのは、きっと、夜に酔っていたから。

「申し遅れました。私はあなたの学校の教師です。真島と申します」

 驚いたことを悟られるのに羞恥心を抱いて無表情を貫いた。

 教師の顔は記憶していない。だから推測だが恐らく、この真島という男は生物学を主としている教師であった。私は顔の代わりに名前は憶えているようだった。

「あなたを知っているから話しかけたというよりは、毎晩あなたが歩いているのを見ていたので気になって話しかけました。ストーカーとか言いましたが、別に故意に見ていたわけではなく、家の窓から見えてしまっただけです。僕の家はここでありましてね」

 彼の目線を辿ってその家を一瞥する。立派な一軒家だ。

 彼は目を瞑って夜風を感じたり、私を見て微笑んだりした。

 饒舌な人は口数の少ない人よりも無駄が多くてまるで太陽のようだと思う。普段なら鬱陶しいと感じるのに、感じなかったのは、やはりあまりにも夜が美しくて酔ってしまったからだ。自分にそう言い聞かせて拳を握りしめる。

「僕も夜を散歩しようかな」

耳を疑った。彼は何と言ったのだ。自分だけの唯一の時間を奪おうとするものは敵のように思った。自分は相当酷い顔をしていたのだろう。彼は私と目が合うと一瞬、慄いて後ずさりした。けれど、すぐに彼の表情は殺された。小さな子供のように笑って見せた。恐怖に脅えながら無理やりの笑顔だった。

「気を付けて帰ってくださいね。おやすみなさい」

私は何も返事をしなかった。いや、できなかった。

 彼が家に吸い込まれると、夜が元通りに直った。

 心が波打った。

 満月の光が、少しだけ痛かった。



【ニ】


 馬鹿の一つ覚えみたいだと思った。簡単に流行に流されて、そこにあなたの意思はあったかと問いたい。しかし問うた所で、しっかり偽りの自分を無意識に主張してくるであろう。それが私である。

「ねえこのカフェ可愛くない? 行こうよ」

 佳菜子が私目掛けて言葉を発す。「そこらへんのスーパーで買えそうじゃない?」とは言わない。

「おいしそう! 行こう!」

決して、美味しそうと思ったことは嘘ではない。けれどもそれに払う金額は割に合わないように感じただけ。

 実際に食べたら頬っぺたが落ちそうになるくらいに美味しかった。

「やっぱ友梨といるのが一番楽だなぁ」

佳菜子は今日もそのセリフを呟く。なぜかと以前聞いたことがある。

「またカフェ行こうね」

 私は別れ際そう言った。

嘘ではないけれど本心かと問われたら素直に頷けそうにない。


 どんな相談も真剣に考えて一緒に悩んでくれる。

 優しい、怒ったりしない。

 頑張り屋。

 佳菜子は肌白い指を丁寧に折って数えながら私をそう評価する。

「井口さん」

 考え事をしながら生きていると、時間の経過に鈍感になる。ルーティン化した夜の徘徊を体が勝手に行っていた。目の前に人がいることも、声を掛けられるまで気づかなかった。

「満月が欠けてきましたね」

思考が止めて、彼に意識が集中した。

「威嚇しないでください」

彼は笑った。誘拐という犯罪に手を染めようとしている直前の人間にも見えたし、本当に心から笑いかけている子供のような人間にも見えた。

 私は、夜になれば、被っていた猫が消える。真っ黒い心は優しい夜に一時的に奪われるようであった。まだ二回目の対面でしかも心の内の見えない得体の知れない人の前なのに、昨日みたいに猫を被りなおす気は起きなかった。

「先生は、何者?」

「何者でもないですよ。どこにでも転がってる人間です」

おどけて笑う。

「私に構うの楽しい?」

「構ってるというか、自己満です」

先生は心の内が見えないというよりかは、無いように思えた。全て外に現れているような。

「先生は、私をどうしたいの?」

「そうですねぇ。強いていうならば、昼間のあなたには星になっていただきたいです」

「どういうこと?」

「僕はこう見えて、案外ロマンチストなんですよ」

 彼の言葉は夜に吸い込まれていった。


 一週間に一度の生物の時間がやってきた。夜のない今は猫が消えない。なんでもないフリをして淡々と授業をやり過ごす。向こうも無駄に干渉してこないのが分かってホッと胸を撫でおろす。

 放課後、佳菜子でないクラスメートが言った。「真島先生って、ここの卒業生らしいよ。五年前くらいまでここの校長の高坂とかいう人の教え子だったんだって」。有り得ないくらいどうでもよかった。人は大して他人に興味がないくせに、他人の小さな行動や情報を敏感に拾い集めようとする。その子も典型的で、すぐに別の話題へと切り替えた。

 家に着くと、母の料理が香って食欲を倍増させた。

 手洗いをしながら考える。自分は歪んでいると。けれど同じくらい歪んでなんかいないと。

 家庭がどうとか、過去にいじめられたとか、苦い思い出があるわけではない。至って普通で、寧ろ他人より幸せな日常を送ってきたと言ってもいい。昔はもっと人間味があった。友達と喧嘩することもあったし、夢を馬鹿にされて泣くこともあった。親に憎悪を抱いたことだってある。けれど今はそんなことはない。佳菜子は、私を優しいといった。違う気がした。人間関係ほど面倒臭いことはない。友達のことで悩んで苦しむことほど無駄なことはない。いざこざを起こさないようにしようと怒りを抑えたり、我慢したりする時期もあったように思う。けれど知らぬ間に、人への関心とか信頼とかそういうのをゴミ箱に捨てる術を身につけていた。相手に期待しなければ、悲しむこともない。何もかもどうでもよくなって、怒りなんて当の昔に捨ててしまった。故に、私の優しさは優しさなんかではなく、感情の屍である。

 家族が眠りについた夜中、また私はこっそり外に出る。

 昨日よりも涼しい風が、疲れ切った脳と体を癒していく。満月ではないにしても、まだ半月になるには数日かかる月が今日も夜空に浮かんでいた。そして、星も見えた。先生は星になれと言った。月ではなく、星。太陽にも月にも埋もれてしまう星々。星は太陽なんかとは比べ物にならないほどに明るくて大きいという。先生の向ける私への期待は大きすぎるのではないだろうか。私はそんな明るくて大きな人間にはなれない。

「こんばんは」

 気付くといつも通りに真島先生の家の前を通っていた。

「先生って結婚してるよね?」

その情報もクラスメートからだ。

「ええ、子供も二人います」

「こんな女子高生に毎晩手を出していていいの?」

「誤解を招くいい方しないでくださいよ。僕は、昔の自分を見ているだけです」

人と話すのに気を遣わないのは久々だった。大人だから敬語を使わなきゃとは思っても、夜が全てを許してくれる気がしてつい甘えた。だがそれでも人への無関心さは根付いていて、警戒心さえも麻痺しているのかもしれなかった。

「僕は今幸せです」

「幸せ?」

「はい。あの、僕の過去の話をしてもいいですか?」

「それって、長い?」

「夜と比べたら一瞬です」

笑った。……笑った。

「僕は今の学校の卒業生でした。当時の僕は凄く生き急いでいました。ずっと長い事やり続けていた特技をたった数ヵ月で天才に抜かれたり、責任の重さに押しつぶされそうになったり、どうしたいのかも分からなくなって目まぐるしかった。でも、僕は僕を大事にしたいと思った。恩師が僕を導いてくれました」

「恩師って、高坂先生?」

「おぉ、知ってましたか。高坂先生は、人生というのを教えてくれました」

「人生」

復唱しても他人事のように思えた。

「明日、校舎の裏にある森の中に入ってみてください」

 聴いていて落ち着く静寂の音には、真島先生の存在も溶けていた。




【三】


 意識が朦朧とした。体を起こそうとすると視界に映る世界がぐるぐると回りだした。脳みそがぐちゃぐちゃにされているような感覚だった。

「薬飲んでゆっくりしていてね」

 母はそういって、遅れて昼過ぎに仕事へ向かった。携帯には、佳菜子からのメッセージが入っていた。『大丈夫? お見舞い行こうか?』佳菜子が本気で心配している姿が目に浮かぶ。

 毎晩の徘徊が、漸く体への負担を形にしてきた。昼間ばかりは未だなんの変哲もない。反逆精神もない。それなのに、今朝睡眠の概念もない体を起こそうとしたら、視界がぐるりと歪んだ。途端体が気力を失って気絶した。目覚めると母が心配そうな表情で私を覗きこんでいたのだ。

「大きな音が聞こえたと思ったらあなた倒れているんだもの、びっくりしたわ。高熱よ。少し休んだら病院行かなきゃ。学校には連絡したからね。何か欲しいものあったら言ってね、買ってくるよ」

母に言われて、漸く自分が熱を出して倒れたのだと理解した。夏だからと侮って薄着で毎晩外に出たことが何よりの原因だろうか。そんなことを弱った頭で考えたら頭が痛くなった。

 薬で体が楽になった時をチャンスに母が作っていったお粥を少し体に吸収させた。柔らかい米よりも堅い米が好みの私は普段ならお粥を拒むが、こういう時は寧ろ欲してしまう。体が衰退している証拠だった。食器を台所に持って行った後、私はまた眠った。風邪は気分が悪くて嫌いだが、薬の作用で睡眠が可能になるのは有難かった。寝るってこういうことだと、思い出す。不眠症、ではない。しっかり調べたことはないが、これを不眠症というには不眠症で悩んでいる人に申し訳ないと思った。今は夜の徘徊が私の睡眠のように思う。


 耳元で鳴る携帯の音で目が覚めた。音を消すのを忘れていたようだ。びっくりした衝撃で体が熱を持ったが、起き上がると大分だるさが軽減されていた。表示されているのは佳菜子からのメッセージだった。

『体調どう?』

そういえば、と思い出す。朝もらった佳菜子からのメッセージに返事をしていなかった。私はすぐさま文字を打ち込んだ。途中“明日”という文字を打ってまた、そういえば、と思い出した。昨晩の先生との約束だ。破ってしまった。やはり来なかったと思われているかと思うと胸が苦しくなった。しかしすぐにおかしいと感じる。行く気など毛頭なかった気がしたからだ。

 結局先生との約束が気になって、佳菜子へ返信することを忘れてしまった。



【四】


 曜日感覚はなかった。今日は学校がない日かと気づいた時に漸く、昨日が金曜日だったことに気付かされる。私にとっては三連休の二日目がやってきたわけだ。

 たくさん寝たことで、朝にはもうすっかり体は元に戻った。昨日のような一日は異例な日だと言い聞かせ、朝には溜めてしまった佳菜子のメッセージに丁寧に返事をした。

 朝と言っても、太陽はまだ昇っていない。東の空がほんのり桃色を帯びつつあった。普段なら無性にやるせなくなる。けれど、今だけはまだ夜に酔っていた。

 私は外に出た。

 足がその場に行くまで、自分の気持ちに気付かなかった。期待していた、真島先生に会えることを。

 立派な家の中には、真島先生と妻と二人の子供がいる。温かい家庭なのが伝わってくる気がした。ぼうっと見ていると、急に家の外灯が光りを放った。誰かが起きている。私はそっとその場から離れて、曲がり角に身を潜めて暫く家を観察していた。すると案の定人が出てきた。真島先生だった。学校でみる教師の格好ではなく一般的な“父”の格好だった。続けて後ろから子供と女がでてきた。子供は小学校高学年程の男の子と小学校低学年程の女の子だった。女は、妻の様だった。安心しきっている子供の無垢な笑顔と、幸せを噛みしめるように笑う両親。胸が締め付けられた。

 真島家は出かけるようだった。遠出するのだろう、こんな朝から行くのだから。

 “僕は今幸せです”一昨日の真夜中で言っていた真島先生の一言が蘇る。

 彼は一体、どれくらいの迷いや葛藤を乗り越えたのだろう。



【五】


 長い三連休だったと思ったのは久々だった。

 放課後、あの夜の先生の言う通り、校舎の裏の山までやってきた。思っていたよりもしっかり山だった。友情の山、とボロボロな看板に書かれていた。立ち入り禁止を示しているのか、入り口には黄色いテープが張られていた。けれどこれは先生の命令であり立ち入り禁止とは書いていない、そう言い聞かせてテープを越えた。

 立ち入り禁止の理由はなんだろう。きちんと道が出来ていた。木で作られている階段が私を導いてくれている。けれどすぐに立ち止まる。急に道がなくなった。どっちに行けばいいのかまるで分からなくなった。昔読んだ書籍で、急に舗装されていない道が現れたらそれは異界への入り口だと書いてあった気がする。それはあくまで日本中世の考えであるのに、本当に異界のような気がした。一先ず、先を進んだ。迷子になるほどではない気がした。もしダメだったら百八十度回転して真っ直ぐ戻ればいい。

 木漏れ日が射しこむ。土や草たちの呼吸音が聞こえるような気がした。

 足を止めたのは、視線に異様な建物が映ったからだ。それは木製で出来たこじんまりとした建物のようだった。

「いらっしゃい」

突然だった。けれども魔法にでもかかったかのように驚かなかった。草たちの運ぶ音色がそれを美しい一つの一小節に変えた。

「約束守れなかった」

私は建物の近くに立っている真島先生に謝った。

「いいえ、体調不良なのは小耳に挟んでいます」

ばっくれたと思われていないことに安堵しホッと溜息をつく。

「その建物は?」

 まるで、夜だった。

「天文台です。ほら、見えますか? ドーム」

体を動かして視点を変えると建物の形が見えた。確かに丸かった。

「どうして? うちの学校は天文部ないはずだけど」

 もうすぐこの空間を照らすのをやめようとしているとはいっても、まだ明るい。

「ずーっと前、僕がここの学生だったよりも前はあったようです。けれど、ここに辿り着けない生徒が多くいて廃部に。それからというもの、この天文台は私の秘密基地です」

 けれどもやはり夜の様であった。

 真島先生は笑った。

 まるで夜の時間のように、心が軽かった。さっきまではいつもの、よくいる女子生徒を演じていたのに、急速で夜になったみたいで別時空にいるように感じる。

 真島先生は私を天文台の中へと招いた。

 足を踏み入れると少し冷えた空気が顔を撫でた。電気をつける前のここは、夜に似た静寂を溜め込んでいるようだった。

「今は夏なのでいいですが、冬のここはとてつもなく寒くて大変なんですよ」

それを聞いて、胸が躍る。冬もここに来たいと思った。

 先生が室内の電気をつける。そこは至って普通の家の一画のようだった。小屋、と言えばしっくりくる。木目のはっきりした小屋は、隅々まで掃除が行き届いていた。

「先生は、ここの管理人とか?」

「ええ、そんな感じです。高坂先生から受け継ぎまして」

懐かしい記憶を巡っているような先生の横顔は綺麗だった。きっと、私は羨望の眼差しを向けていたに違いない。

「……いいな」

 呟いた本音は、私でさえもうまく聞き取れなかった。

 真島先生がこちらを向いた。当然目線が結びついた。びっくりした私は話題を振った。

「そ、そういえば! ここ、立ち入り禁止みたいなテープが張ってあったけど」

先生は頷いた。

「さっきも言いましたけど辿り着けない生徒が多くいて、ここは魔の山なんて言われてしまったのです。実際立ち入り禁止とは書いていなかったでしょう? けれどめんどくさい所に違いはないのでああやってテープを張らしてもらったんです。あれなら井口さんのいうように、立ち入り禁止場所だと思うでしょう」

得意げに彼は言った。

「迷子になった人は大変ね」

 先生は寂しそうに私の言葉を受け止めた。そして私の肩を叩いてまるで「大丈夫」と励ますように微笑んで見せた。

 それから先生は私に背を向けて奥へと歩き出した。振り返って、「来てください」と言った。私は黙って先生を追った。

「さっき外からも見たでしょう。あのドームはプラネタリウムです。この奥に、プラネタリウムがあるんです。とても小さいですが」

 そこは本当に小さい空間だった。中心の投影機を囲むように席が並んでいるが、昔遠足で行ったプラネタリウムとは大きさも豪華さも座席数も大分劣っていた。しかしそれが私には心地よかった。

「観たい!」

しかし先生は首を振った。今日はもう遅いからと。

 共に天文小屋を後にして、学校を出た。先生は仕事が残っていると言って職員室へと消えた。

 遅いと言っても部活に入っている人たちはまだ活動をしていた。真島先生は私が夜徘徊していることを知っているのに、遅いとはなんだと今更ながらツッコみたくなる。

 私は何となく、校舎に入った。見慣れた教室と廊下を一人歩く。昼間は目を開けばあちこちに人がいるのに、今はいない。けれど音で人がいることがわかる。グラウンドで笛を吹いて合図する人やどこかの教室で楽器を鳴らす人がいる。地面が擦れる音、掛け声、楽器の音が聞こえてくる。自席に座ってみるとその音はもっと静かに流れ込んできた。


 興奮気味であった。

 体は休むことを拒んでいた。それはいつものことだが胸が熱かった。

 そしてまた外へ出た。

 思えば初めて外に出たのはいつだったろう。そう遠くの記憶ではない。眠れない夜の寂しさは寧ろ楽しみになっていた。そして今はもっとずっと……。

 真島先生の家へ急ぎ足になる自分がいた。けれど彼はいない。いるはずの人がいないことにショックを受けた自分がいた。胸の奥が痛んだ。

 月の光でハッとした。自分が真島先生に会いたがっているということ。

 否定するつもりはない。猫を被りすぎて見えなくなった自分の素直な気持ちは唯一肯定すべき宝物のようにキラキラしていた。

「井口さん?」

背後で優しいの声が冷えた空気に振動した。振り返って先生を見た。学校で見た格好のままだった。

「今日は恩師に会いに行っていまして遅い帰りになりました」

何故か、先生の瞼は赤く腫れていた。けれどそれに追及することなく言った。

「先生、聞いて」

 見つけた感情を先生に赤裸々に話すことにした。先生に会う事を楽しみにしてる自分がいること。会えなかったらショックを受けたこと。

 先生は満足そうに笑った。

「その調子です」

先生はそう言って家の門をくぐった。

「明日も天文小屋行ってもいい?」

「天文小屋」

先生はオウム返ししてそれから笑った。あの天文台に私が勝手につけた名前だ。正式な名前があるのかもしれない。

「いつでも来てください。きっと、あなたは辿り着きます」



【六】


 翌日学校に行くと、教室がざわついていた。何事かと佳菜子にいつもの調子で聞いた。

「今日音海川の花火大会だから、みんな盛り上がってるんだよ。誘うなら今日が最後のチャンスだから、みんな青春してる」

聞いてハッとする。最後。今日は夏休み前最後の登校日であったことを今思い出した。それがわかると自然と気が軽くなった。答えてくれた佳菜子にハイテンションで適当に返答した。佳菜子はそっと頷くだけだった。

「友莉は彼氏とデートかぁ」佳菜子でない別の子が私に話しかけてきた。

「彼氏とはもっと大きな花火見に行く約束してるんだぁ」当然嘘である。彼氏なんていないのに、猫を被りすぎて嘘に嘘が積み重なってしまった。

「佳菜子は?」クラスメートが訊ねる。

佳菜子へ顔を向ける。佳菜子は羨ましそうにクラスメートの楽しそうな横顔を眺めているだけだった。


 待っていた放課後がやってきた。一刻も早く天文小屋へ向かいたくて帰りの支度をそそくさと終え教室を出ようとした。けれど動きにブレーキがかかった。手首に温かいものを感じた。振り返ると、佳菜子が私の手首を掴んで呼び止めていた。

「どうしたの?」

早く行きたい気持ちが先行してつい強い口調になってしまった。その証拠に佳菜子の表情は強張った。しまった、と思って佳菜子から目を逸らす。

「一緒に帰りたいんだけど、帰れない?」

「……ごめん、今日は用があってさ」

「用?」

「うん、ごめんね。夏休み明けまた会おうね!」

手首から佳菜子の熱が消えていく。離れたぬくもりにホッとしながら私は佳菜子に背を向けて走った。

 心のどこか、痛かった。今日は佳菜子の様子がおかしかった。佳菜子が私に何かを求めているような気がした。けれど、それもどうでもよくなるくらいに天文小屋は心地よかった。先生は既にいて、茶を用意していてくれた。

「今日は午前中で終わったので時間がたくさんあるのですが」

茶を飲んでまったりしていると先生が切り出した。

「プラネタリウム見れる?」

私は食い気味に言った。

「見れますが、今日は家族と花火大会に行く約束なので遅くまでは居れません」

家族と言われあの朝方の夜に遠目で見た先生の家族を脳裏に浮かべる。

「先生も花火大会なんだ」

「井口さんは行かないのですか?」

「行く人いないし行きたいなんて思わない」

「……では、種明かし」

脈絡のない接続語に理解しがたい言葉が耳に響く。

「時間も惜しいのでプラネタリウム、見ながら話すとしましょう」

 昨日入ったプラネタリウムに実際に座る。先生が投影機を操作し始めた。部屋がだんだん暗くなった。したがって天井に星空が映った。

「綺麗だ」

心から出た素直な感想だ。本物の夜のようだった。少なくとも昔見たプラネタリウムで夜は感じなかった。恐らくこの空間がそうさせているに違いなかった。

 先生は私の隣の席に座ると一人語り始めた。

「昨日、ここに辿り着けない生徒がいるといいましたがそれは迷子ではなかったんですよ。何度試しても結局は入り口に戻ってしまうんです。では辿り着ける生徒ですが、その生徒こそ迷子だったんです」

「どういうこと?」

キラキラ光る星たちに返事するように言った。

「迷子だけがここに辿り着くんです」

「う~ん難しいな。……それは、つまり私が迷子ってこと?」

「はい」

 天井に映る満天の星は動いていく。季節ごとに見える星が変わっていく。星は、ここに映る数でさえ数えきれないほどにある。星は迷子になるのだろうか。こんなにある星の中で、星たちは自分を見失うことはないのだろうか。

「私は何が迷子?」

星たちは教えてくれない。

 頬に涙が流れた。一滴流れると、また次の涙がさっきの涙を追うように流れた。目が潤んで乾いた心を濡らしていく。星が一層輝いた。いつか、真島先生は言った。星になってほしいと。私はこんなに輝けるのだろうか。


 プラネタリウムが終わると涙も渇いた。

「どうでした?」

「すごく綺麗だった」

「よかったです」

 最初に茶を飲んだ部屋でまた一服した。

 先生は何も言わなかった。先生は私を迷子だと言った。けれど、考えたら先生も迷子ということになる。

「何か私の顔変ですか?」

きっとじっと睨むようにして先生を凝視してしまっていたのだろう。慌てて誤解を解く。先生は笑ってくれた。

先生の屈託のない笑顔は、夜以上に気持ちが良かった。だから私も素直になる。

「先生も迷子なの?」

先生は躊躇ったあと頷くことなく口を開いた。

「昔は確実に迷子でしたけど、どうなんでしょう。でも迷子だけが辿り着く場所というのが本当なら、僕は今も迷子なんですかね。全部高坂先生が教えてくれましたから真偽は分かりません」

「それなら、高坂先生も迷子だ」

真島先生は一呼吸置いて、宝物を愛でるようにそっと言葉を紡いだ。

「〝迷子とは、迷路のように、いくつも選択肢がある。右を行って辿り着けないのなら、今度は左を行ってみる。そこも違うなら左斜め後ろとか、真っ直ぐ前とか。いくらだって試してみればいい。迷子は無限の可能性〟」

言い終わると表情を緩めて私に微笑みかけた。聞いてる側も照れ臭くなる言葉だった。こんなに痛すぎる程の綺麗ごとを聞いたのは初めてだった。

「これは高坂先生が迷子だった僕に言ってくれた言葉です。先生は、迷子でいいのだと言ってくれたんです。そのままでいいと」

真島先生は高坂先生を心から慕っているのだと、話し方で伝わってきた。高坂先生は迷子の真島くんに迷子の選択肢を増やしたのだろう。

「私もこのままでいいのかな」

ボソッと呟くと先生はすぐさまに否定した。

「え、どうして?」

「迷子は何もしないわけじゃない。何もしないで何にも向き合わないで幸せなんてきませんよ。あなたは日々の嘘づくりが窮屈で、だから夜やここにきて猫を捨てた自分を曝け出してる。そうすれば、心が軽くなるから」

私が内で思っている心の声が漏れ出している気分だった。

「井口さんは人に合わせることに疲れを感じていますね。逆を言えば、ぶつかりたいってことでしょうかねぇ?」

とても腑に落ちる表現だった。同時に、ぶつかっても尊重し合える関係なんてそもそも存在するのだろうか、と思ってすぐ、自分が先生にぶつかっていることに気付く。

「……先生は、夜みたい」

呟いてみる。けれど、先生は人である。

 誰も知らない私。本当は私こんなふわふわ曖昧で色んな事考えてるよって、初めて夜を徘徊した時知った。夜は、〝私〟を引っ張り出して受け止めてくれる。先生は、まるで具現化した夜の本当の姿のように思えた。

「おっと、そろそろ帰らないと」

腕時計を見ながら先生は言った。私たちは立ち上がった。


「そういえば」

 地区が同じなので一緒に歩いて帰る途中、先生が切り出した。

「星の正体て井口さんは何だと思いますか?」

少し考える仕草をしていると先生が答えを言った。

「星は死んだ人の魂なら素敵だと思いませんか?」

自分でいうだけあって先生はやはりロマンチストだった。

「小さい時読んだ本にそう書いてあって、中学に上がるまで信じていました。きっと違うけどそうだったらいいなって思いません? 細かくキラキラ瞬いていて、ここにいるよっみたいな」

先生は身近な人が亡くなったりしているんだろうか。私はまだそういう経験がないから分からない。いつかやってくるその時までは何も考えていたくないけど、そう思う事でいつまでも上を向いて歩いて行けるなら――

「いいと思います」

今度は私も一緒に笑った。


 家に着くと携帯の画面が光っていることに気付いた。佳菜子からだった。『今日花火大会行かない?』

 悩んだ末、真島先生に会える可能性を広げるために行く選択を取った。


 約束時間の五分前に家をでた。着ていく服を決めていたら遅くなってしまった。おしゃれな佳菜子と並ぶには、普段着のだらしない格好ではとても隣を歩けない。佳菜子に合った服を身に纏い、風になびかせながら走った。

「ごめん! 遅れたー」

「いいよ。友莉は用済んだ?」

用があるといって佳菜子から身を引いた数時間前を思い出す。

「もう済んだ!」

「よかったよ~」

佳菜子の服はやはりおしゃれだった。その場しのぎの私の服とは比べてはいけない。それでも隣を埋めるのには許されるラインだったと思う。

 音海川の花火大会には他の地域の人も来るそれなりに大きな花火大会だ。地元の人たちはこの日の為にたくさんの準備をする。最も私たちは見る専門だが。

 少しずつ太陽の残光も消えてゆき、夜が始まる。見慣れた空の色なのに、見えるのは人ばかり。屋台の灯りが強くて星は見えない。月も、今は雲に隠されているのか見当たらない。

「人多いね」

佳菜子は言う。私は頷いた。

 暫く歩いて食べたい物があったら互いに買って、それを持って音海川の階段に座った。花火を見るには絶景だと佳菜子が教えてくれた。あたりにいる人は僅か数人だった。特定の人しかしらない穴場だと言っていた。

「私に教えてよかったの?」

「うん! 教えたかったから」

真島先生はこの場所を知っているのだろうか。知らないのなら教えてあげたいと思った。

「もうすぐ始まるよ」

買ったりんご飴を舐めながら夜空を見上げた。穴場だからか、人の声が少し遠くに聞こえて、屋台の灯りも微かに見えた。星が見えた。どこかで生きていた誰かの星なのだろうかと考える。

 すると爆発音が空で響き渡った。

「始まった」

どこかの誰かが声に出す。

 花火は空を彩った。心臓に響く大げさなほどに激しい音は、花火の叫び声のようにも聞こえた。しかし一つ問題点は、花火が明るすぎて星が見えないことだった。花火がなくったって、星と月が空を鮮やかに照らしてくれるのに。それでもやっぱり花火は大きくて綺麗だった。

「友莉、どうしたの?」

佳菜子が心配そうな顔を向けてきた。そして自分が泣いてることに気付いた。

「ごめん、あんまり綺麗だから」

 花火も人もうるさいのに、綺麗で。気持ちがよくて。夜の具現化は何も先生だけではない。花火の一つ一つは、まるで星のように降っていた。

 その時、あぁそっか、て納得した。

 先生の言ったことの真実が分かった。先生は昼間の私は星になれと言った。先生にとっての星は死人だった。猫を被る偽りの私をなくせと言うことなのだろう。

 夜を前に、本当の自分が裸になるのは気持ちがいい。私はそんな自分でいることが心地いいんだ。解放されたいよりも、そのままの自分でいたかった。先生はそれを知っていたのだ。

「佳菜子」

花火を真正面から捉えながら横で同じように花火を見る佳菜子へ話しかける。

「他の子、誘えばよかったのに、私でよかった?」

狡猾な質問だと自分でも思う。けれど不器用な私は佳菜子の本心を聞き取るにはこんなやり方した浮かばない。

「友莉がいいなぁて思ったから」

いつも通りの佳菜子だった。気づかなかった、佳菜子がいつもこんな私を思ってくれていたこと。

 小さな花火が連発で空に咲く。ラストが近づいてきたのだ。ラストスパートにたくさんの花火を打ち上げて、そして最後の花火が大きく花開く。

 一瞬の沈黙の後人々の歓声と拍手の音が、消えかかる花火に向けられた。完全に消えた花火の後にやってくる寂しさを、人は人で埋める。

「綺麗だったね~。じゃあ、帰ろうか」

佳菜子が立ち上がる。私は佳菜子の手を握った。

「高校最後の夏に佳菜子と思い出つくれてよかった」

それは夜が引き出してくれた本音だった。

佳菜子は幸せそうに笑ってくれた。


 余韻に浸りながら夜を徘徊した。月がやっと半月になった。明日からは新月に向かってもっと欠けていく。

「こんばんは」

真島先生の家に着く前に会った。

「僕もちょっと歩きたい気分になりまして」

「先生、聞いて」

前にも同じセリフを言ったことを思い出しながら、先生の言った言葉の意味と佳菜子のことを話した。

 先生はホッとしたようだった。

「素直でいるって怖いですが、気持ちがいいですよね」

 なんとなく周りに合わせて疲れていた。それでもぶつかっていって関係が崩壊するのは望まなかった。けれど、佳菜子は私の本音を待っていた。

「佳菜子はきっと私が自分を隠してることに気付いてた」

 今日の花火大会の帰りにクラスメートに会った。皆浴衣を着ていた。おしゃれの佳菜子もきっと浴衣を着たかったに違いないと思った。今朝教室で見た佳菜子の横顔の意味も分かった気がする。佳菜子は私のためにいくつも我慢していたのだ。

「もうこんな自分はやめるよ」

夜に誓う。

「星になれとはいいましたが、偽った自分は無駄ではないですきっと。井口さんの土台になるでしょう。例え嘘の自分でも、あなたに変わりないのです。これも自分なんだって受け止めれば強くなれます」

「……先生って、人生何周目?」

「そんな老けてる考えしてますか? もしそうなら高坂先生のせいかなぁ」

「高坂先生が泣くよ」

「笑ってますよきっと」

先生は遥か遠くで瞬く一つの星をじっと見つめていた。

 あぁそうかって、すぐに理解した。

「高坂先生が大好きなんだね」

「……はい」

 ずっと遠くの空から、高坂先生はいつでも真島先生を見守っていた。

 先生は星空を眺めながら高坂先生との思い出に浸っているようだった。真島くんは高坂先生に救われ、私は真島先生に救われた。佳菜子含めクラスメートとの日々にうんざりしていたのは事実だが、佳菜子の優しさに胸が熱くなったのも事実だ。そんなふうに、人は人がいるから生きていけてる部分もあるのだろう。

「そろそろ帰りましょう」

寝ることができない私はいつもこの言葉が言えなかったが、今夜は睡眠の欲求が体を満たしていた。

「おやすみなさい」

 毎日朝が来るように夜も必ずやってくる。眠って見えなくても、雲が隠しても、日が昇っていても夜はある。おやすみの一言が夜空で輝いた。

 今夜は随分久しぶりに眠れた。



【エピローグ】


 月が光り始めた。太陽が眠る頃を見計らって、徐々に月は自分を現すが、本当は月は昼間だっている。夜になるから光を放っているわけではない。昼も夜も、月の明るさは本当は同じなのに、昼間月は輝けない。けれど、それは太陽のせいではなかった。月は太陽がいるから輝けるのだと知った。

 私はいつか自分のことを月の様だと思った。烏滸がましいのは重々承知だが、先生が夜なら、私はその夜を照らせる月になりたい。笑ってる佳菜子らの傍で。


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