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二 日本の儒学(三)僧は大陸を目指す-禅と朱子学-:鎌倉時代から応仁の乱まで

 大学寮の衰退後、博士家によって朝廷の周囲で儒学は脈々と、あるいは細々と伝えられていくが、一方で僧たちによって宋学、いわゆる「朱子学」が日本に流入してくる。既存宗教の世俗化と腐敗や平安末期の世情の混乱を背景に、鎌倉時代には次々に新しい仏教の宗派が登場してくる。臨済宗の栄西(えいさい)(1141-1215)や曹洞宗の道元(どうげん)(1200-1253)らはいずれも南宋に留学しており、その後も多くの僧たちが大陸へ渡り、仏教の経典と共に宋学の書籍も持ち帰った。「太平記」には天台僧の玄恵が朝廷で後醍醐天皇(1288-1339)らに宋学を講義する場面が描かれる。

 元々宋代の「新儒学」は禅宗に対抗する形で登場したという経緯がある。唐代末期の韓退之(かんたいし)(768-824)は儒学の「道統」を論じて激しく排仏を唱えたが、こうした思想に対して仏教の側からも様々な「護法論」が書かれた。儒仏道の三教を比較し、儒学や道教を融和的に取り入れつつ仏教の優越を論じる三教一致論も説かれ、仏教を広める補助として儒学を取り入れる考え方は宋代の寺院で広く行われていた。そこへ留学した日本の僧たちも、仏教者の立場から宋学の思想に触れ、ある者は批判し、ある者は仏教の補助として取り入れることになった。

 行って学ぶ留学僧がいれば、日本に来る中国僧もいる。留学僧月翁智鏡(がっとうちきょう)との交流が縁で来日した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(1213-1278)は、後に鎌倉に招かれて建長寺の開山となるが、当時建長寺の住持は多くが中国僧で、寺内は中国語が飛び交い、まるで異国のようであったという。蘭渓道隆はまた張即之(ちょうそくし)の書風を伝えたことでも知られ、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に影響を与えたといわれる。

 元が日本に朝貢を督促する為に派遣した臨済宗の僧、一山一寧(いっさんいちねい)(1247-1317)は朱子の新注を伝え、一山派とよばれるその法統からは雪村友梅(せっそんゆうばい)ら五山文学の担い手が育ったほか、後世には仁如(じんじょ)が出て三教一致を唱え、江戸儒学の祖と言われる藤原惺窩(せいか)に影響を与えた。惺窩は彼の孫弟子にあたる。なお、中国における三教一致は儒仏道、日本におけるそれは儒仏神である。

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