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一 中国儒学史(五)明代:朱子学と陽明学

【8】朱子学と陽明学:明代


 朱子学の「外界の理を一つずつ窮めることで善なる性に復する」という発想に対しては、既に朱熹の同時代人、陸象山(1139-1192)などの批判もあったが、元の滅亡後、明代(1368-1644)になって王陽明(1472-1528)が出て、その視点から本格的に朱子学を批判する。「王学」「明学」また、王陽明が陸象山の思想を参考にした事から「陸王学」などといわれる。「陽明学」という名称は日本で明治以降に使用されたものであるらしい。

 朱子学と陸王学は共に人間の本質を理=善に見る点で共通の土台に立つが、朱子学が人間の心を「性=理」と「情=気」の二本立てで考え、情の克服によって理に復する事を目指すのに対し(性即理)、陸王学は心をそのまま理であると考える。性=心=理(心即理)である。朱子学は理と気の混合体である心を統御するために、外界の理の追究を重視するが(格物窮理)、陽明学は心をそのまま理とみなすため、心をきちんと発動させ、行動することが正しいあり方として求められることになる(知行合一)。


【9】明末以後


 朱子学も陽明学も、「性理学」と呼ばれる非常に哲学的・思弁的な学問であり、広い意味での「心学」であったといえる。それらに対する反動・あるいは反省から、明末から清朝にかけて「清朝考証学」といわれる文献学的な学問が盛んになってくる。

 1644年、農民反乱を指揮した李自成により北京が陥落し、崇禎帝の自殺によって明が滅亡する。同年、明の遺臣の要請に応じた形で女真族の国「清」が北京に侵攻して李自成を破り、首都を北京に移して中国支配を開始する。

 明人の一部は明朝皇帝の血筋の王を立て抵抗運動を展開するが(かれらの立てた亡命政権を南明と総称する)、1683年、台湾に亡命した鄭成功が立てた鄭氏政権の降伏と共に明朝は完全に滅亡する。後に水戸の徳川光圀によって江戸に招かれる朱舜水(1600-1682)もこの明の遺臣で、王陽明と同郷人である。朱舜水の来日の目的は南明への援軍を求めることであったが、やがて復明を断念、日本に亡命することになる。

 山崎闇斎が1619年~1682年を生きた人なので、本稿の記述もこの辺りまでとさせていただこうと思う。

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