一 中国儒学史(四)宋~元:朱子学の登場
【7】宋~元:朱子学の登場
唐王朝は安史の乱(755-763)以降衰退に向かい、907年に滅亡する。その後五代十国時代(907-960)といわれる混乱期を経て、宋王朝(北宋)が成立する(960-1115)。その後北方の女真族の王朝金に攻められた宋は南へ移り(南宋:1127-1279)、モンゴル族によって滅ぼされるまで続く。後に「宋学」ともいわれる新儒学「朱子学」はこの時代に生まれた。それ以前の儒学が訓詁(言葉の解釈)を主とし「訓詁学」と呼ばれるのに対し、この新しい儒学を「性理学」ともいう。
訓詁学から性理学へ、という思想の展開は既に唐代の韓愈・李翺らにその萌芽が見られるが、本格的な展開は北宋時代から語られることが多い。北宋時代の程顥・程頤兄弟の思想を発展的に継承し、大成したのが南宋時代に生まれた朱熹(1130-1200)である。よって「朱子学」という。「朱子」は「朱先生」というほどの意味である。
朱子学の特徴は、「性即理」という言葉で表現される。漢唐以前の儒学主流において、天は基本的には「主宰する天」だった。天は意志を持ち、その命を受けて為政者は世を治める。為政者が天意に背けば天は災異を起こして警告を与え、あるいは罰を下す。「天人相関説」ともいわれる。天意は不可知なものとして一種の神秘性を帯びており、そこに司馬遷の「天道、是か非か」という悲痛な叫びが生じる余地があった。
朱子学は天を「理」という絶対善であると考える。そして人の本質(性)は、天から与えられたこの絶対善=理である(性即理)が、人はそれぞれ理と同時に異なる「気質」を持ち(理気二元論)、それが善なる性を曇らせているのだとする。あらゆる人間は、この気質の偏りを取り除けば、本質である「善なる性」に復することができる。そしてこの世界の本質は「一つの理」であり、理は人のみならず、全ての事物、つまり物・現象・行為について共通である。一つ一つ学んでその理を明らかにし、本来の本質=性に復し天理と一体となる事が出来れば、人は聖人となれる。「聖人学んで至るべし」である。その方法論として、格物致知(窮理)、居敬などを唱えた。
朱熹は「性即理」として定式化される世界観を提示すると同時に、その学び方も体系化している。漢代に定められた儒学の正式なテキストは「五経」(詩・書・礼・易・春秋)だが、それを学ぶ前段階として、元々学ばれていた『論語』『孟子』に加え、『大学』『中庸』をテキストとして整理し、それらを読んで学問のアウトラインを知ることが重要だとした。この後「朱子学」が儒学の正統とされるようになり、それに伴って「四書・五経」と並び称され、「四書」は「五経」と共に儒学の必須テキストとなった。
朱熹の死から34年後、北部中国を治めていた金がモンゴルによって滅ぼされ、更に1279年、南宋も滅亡しモンゴル(国号は元)によって中国は統一される。元は中国統治の一環として停止されていた科挙を再開するが、その際、儒学の標準解釈として朱子学を採用した。朱熹の頃には思想弾圧の対象となっていた朱子学だが、100年余りを経て官学となったのである。この後、朱子学は東アジアに大きな影響を及ぼすようになる。