五 崎門その後(四)神道系の弟子たち
〇出雲路信直(1650-1703:慶安3-元禄16)
下御霊神社の神主で、闇斎から垂加神道を学ぶ。延宝4年(1676年)に提出した誓紙が伝わる。出雲路という姓はこの信直からで、それ以前の姓は板垣(板垣民部)。甲斐武田家の重臣で武田晴信(信玄)に仕えた武田信方の庶流である。信方の孫の正寅が曲折の末に下御霊神社の社司となって以来、代々神職を務めた。闇斎は死に臨んで著作『風水草』の自筆本を正親町公通に、清書本を信直に託し、出版については信直と相談するようにと門人たちに遺言している。
信直は闇斎の死後に下御霊神社に移された垂加社(闇斎を祀る社)の祭祀を執り行い、それは現代まで引き継がれている。下御霊神社には草稿や書簡など、闇斎の遺品が多く伝わる。
ちなみに正寅の兄はこれまた曲折の末に山内一豊に召し抱えられ、乾の姓を与えられて山内家の土佐入りに従っている。この乾家の幕末の当主が乾(板垣)退助である。
〇正親町公通(1653-1733:承応2-享保18)
山崎闇斎の門人で垂加神道を学ぶ。神道系の門人の代表格は出雲路信直だが、二十八歳で既に従三位参議であった公通もその身分の高さもあり、有力な門人として大きな発言権を持っていた。弟子に梅宮神社の神職玉木正英がおり、橘家神道を大成したとされる。玉木の弟子には「宝暦事件」で追放された竹内式部(朝廷で幕府批判と尊王思想を教授したとされる)、「和訓栞」を書いた国学者、谷川士清がいる。また式部が後に巻き込まれることになる「明和事件」で幕府への謀反の疑い有りとして処刑された山県大弐も崎門に学んでおり(三宅尚斎の孫弟子)、朱子学に基づく大義名分論を唱える『柳子新論』を書いている。
□谷秦山(じんざん:1663-1718:寛文3-享保3)
便宜上ここに入れたが、秦山は神儒兼学である。
闇斎晩年の弟子で土佐の人。神職の家に生まれる。十七歳で上洛し、最初浅見絅斎に、ついで六十二歳の闇斎に入門。帰国後も書を送って教えを仰ぎ、土佐に闇斎直伝の学を伝えた。神儒兼学であったが、そのために後に儒学系の絅斎・尚斎等とは袂を分かつ。また別項で述べたように、崎門の先輩である渋川春海から天文学を学んでいる。
土佐の崎門学は秦山の時代には斥けられたが、息子垣守の代、七代藩主豊常の補佐として、秦山に学んだ山内規重が執政となってから厚遇されるようになる。垣守やその息子真潮は藩主の侍読を務めた。真潮は賀茂真淵に国学を学んで神道には独自の見解を打ち立てたという。藩校教授館で教えた他、大目付に昇進し藩政にも実績を残した。真潮の跡は弟が谷家を継ぎ、その孫が明治維新の際に活躍した谷干城である。ただし幕末の山内容堂公は崎門を嫌ったらしい。
秦山の弟子に宮地静軒がおり、その孫の仲枝は秦山の孫真潮に学んだ。仲枝は真潮から主に国学を学び、彼に学んだ鹿持雅澄は万葉集の研究で名高い。幕末の志士で明治天皇侍補となった佐々木高行、土佐勤王党で活躍する大石円らが彼に学んでいる。
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ほんの一例です、という感じだがざっくりピックアップしてみた。この他にも崎門の学は多くの地に広まっており、「崎門派」ではないにせよ、嘉点本で儒学を学んだ人も多い。朱子以前に帰ろうとする仁斎学や徂徠学の学者たちから批判を浴びたのは勿論、朱子学者たちの間でも崎門の学は異彩を放ち、「我が党」として脈々と受け継がれていった。確かに「学派らしい学派」であった(ある)といえる。




