五 崎門その後(三)崎門の三傑-佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎-(二)
〇三宅尚斎(1662-1741:寛文2-寛保1)
播州明石の人。通称丹治、名を重固、号を尚斎。闇斎の最晩年、亡くなる二年前に十九歳で入門、師からはとても愛されたという。
主な弟子に久米訂斎がいて、師の語録を『尚斎先生雑談録』として残している。この訂斎の門から宇井黙斎が出て、その弟子に『道学淵源録』を書いた大塚観瀾、千手廉斎がいる。廉斎の子が旭山、その弟子が月田蒙斎で、幕末の儒者、楠本端山・硯水に崎門学を伝えた。端山は平戸藩需で、藩校維新館で教授し、藩主松浦詮に尊皇思想を説いた。九州大学の中国哲学者楠本正継は端山の孫である。
幕末の福井で鈴木主税、橋本左内や由利公正といった改革派を育てた吉田東篁も崎門派を学んだとされ、池田幸二郎の作成の学統図ではこれも旭山の弟子とあるが、福井の史跡説明などでは清田丹蔵(鶴皐)、あと鈴木撫泉とあり、撫泉は遺音=恕平の号なので、だとすると浅見絅斎の門流ということになる。もっとも尚斎は絅斎に兄事しているので、広い意味で絅斎の門流であるとも言えるかもしれない。清田丹蔵は福井藩士で儒者の家に養子に入った人物。福井藩士の記録や平安人物誌などに名前が残るが、学統は確認出来なかった。
尚斎は学問的な義理に関わる問題については非常に厳格で、異姓養子を認めず門人には必ず復姓を強いるといった厳しさはあったが、交流という面では兄弟子の直方や絅斎に比べて包容的で、絅斎に破門された三宅兄弟や、陽明学に傾倒し直方から義絶された三輪執斎、神道系の玉木正英らとも親しく交わったという。
ただし「崎門の絶交」とも言われたように、尚斎もまた「道が合わぬ者とは義絶もやむなし」と考える、紛れもない崎門気質の持ち主であった。若林強斎からの質問状に対し絶交を宣言し、強斎が無礼を詫びてきても許さなかった。強斎は闇斎の学を儒学・神道共に受け継いだが、尚斎は儒学のみを継ぎ、神道説を拒否したことが主たる原因だったと思われる。また詩文を以て知られた荻生徂徠より三歳年少である尚斎は、林家流の博学も、蘐園(徂徠)流の文辞も道の本流ではないとして、脇見をせず、道・徳の考究に集中するよう門弟たちを戒めている。




