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四 闇斎を取り巻く人々(七)その他同時代人たち

〇渋川春海(1639-1715:寛永16-正徳5)


 旧名安井算哲。安井→保井→渋川と改姓した。幼名六蔵。安井家は畠山氏の庶流で河内国久宝寺城城主だったが後に没落、信長・秀吉に仕えた。父算哲が十一歳で碁の才を認められて家康に召出された後は、安井家は囲碁家元の家として存続する。碁の職は秋冬のみの勤めで、春夏は京で過ごした。春海は京で和算家から暦学と天文学を、闇斎からは儒学と神道を学んでいる。延宝5年(1677年)、春海四十歳の時に闇斎に提出した誓文が伝わる。澤井『山崎闇斎』によると、入門は誓文提出の前年で、それ以前、1668年にも既に春海と闇斎は天文・暦学について議論しているという。

 春海はその学識と幅広い人脈を駆使して、1684年(貞享元年)、初の日本人が作成した暦によって改暦を実現させた(貞享暦)。その功績により幕府により初代天文方に任命されている。以後は専ら江戸で過ごした。

 後に闇斎晩年の弟子である谷秦山(後出)が、土佐からはるばる書を送って春海に入門し、書簡のやりとりで天文学と神道を学んでいる。


〇友松氏興(1622-1687:元和8-貞享4)


 父氏盛は土佐の山内家に仕えており、氏興も土佐で生まれた。十三歳で京にあった時に保科正之(当時高遠藩主)に小姓として召出され、累進して家老二千石に至る。正之の死の際には葬儀奉行、正之を祀る土津はにつ神社の総司を務め、神社の建設を取りしきった。神道家の吉川惟足と共に正之の遺志を奉じ、仏式で行うようにという幕府の指示を退け、神式で執り行っている。土津神社の末社として、本社の傍らに氏興を祀る「忠彦まめひこ神社」が立つ。

 儒学と神道に造詣が深く、正之に仕えて広く文教に携わった。闇斎を深く信頼し、会津風土記や家訓の制定などでは全面的に協力を仰いでいる。闇斎も氏興を友として遇し、「本朝の士人で書を読む者、土佐の野中良継(兼山)と会津の友松氏興に及ぶ者はいない」と評価している。「正之以外には御せない荒馬」と評される剛直忠潔な人柄であったという。

 正之の死後、京に身を落ち着けた闇斎とは会うことがなかったが、天和元年、六十歳の時に自分の肖像を描かせて闇斎に送って賛を求め、闇斎はそれに応じて「一別恰も十年、眞に對ひて轉た悵然、蒼顔往時を思ひ、白髪吟肩を聳かす(略)」と記した。翌年闇斎は亡くなるので、闇斎の弟子が「金蘭の交り、親信無弐」と述べたように、終生変わらない交遊だった。その肖像の模写が闇斎の様々な遺品と共に下御霊神社に伝わっており、闇斎を祀る垂加社の例祭では「道之友」として掛けられたという。

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