四 闇斎を取り巻く人々(六)伊藤仁斎(1627-1705:寛永4-宝永2)
千古の謬りを一洗して、永く万世の法を立つ(仁斎が日頃の志として記した言葉)
仁斎の眸子の明らかなること所謂眼光射人なり。学問にてねりつめて徳を成したる人とおぼゆ。定めて圭角ありたる人ならめ。随分やはらかなる人なれども極めて英気ある人なり。(太宰春台『文会雑記』)
一も字を識らざるの人と雖も、之に告ぐるに諄々として反覆し、唯だ其の意を傷つけんことを恐る。(伊藤東涯『古学先生行状』)
闇斎よりも九歳年少。堀川を挟んで闇斎のちょうど向かい辺りに生家があり、一時近所に引きこもった他は生涯そこを離れず、そこで儒学を講じた。朱子学者闇斎と古義学の仁斎が同時代に道を挟んで対峙していたことは「日本近世儒学史における、最大の劇的な出来事」とも言われる。
朱子学を信奉した闇斎に対し、仁斎は朱子による解釈を排し、論語・孟子のテキストを直接読み込むことを宣言し、テキストの本来の意味を明らかにするとして『論語古義』『孟子古義』を著した。ただし生涯にわたって推敲を繰り返し、生前には一切著書の出版をしなかったため、実際に決定稿が出版されたのは息子東涯らの代になってからだった。そのため、仁斎の著書といっても東涯の校訂を経たことで内容にかなりの変更が見られるともいう。他に『童子問』など。その学は古義学と呼ばれ、その塾を古義塾、その学派を塾の場所から堀川学派とも言う。
直方、絅斎ら崎門だけでなく朱子学者からは多くの批判を浴びたが意に介さなかった。「やわらかだが英気あり」(太宰春台)、「古の所謂超然独立する者」(祇園南海)、「何となく一緒に居たいと思わせるが、泰山の如く中々動かし難き人」(湯浅常山)といった評がその風貌を伝える。「獄に下るよう」だった闇斎塾と、参加者が菓子を持ち寄り和気藹々だった仁斎塾の対照は、某ホームページで「川(堀川)を挟んで天国と地獄」と書かれていた(笑)
四十才を過ぎて妻帯、一男一女をもうけ、更にその妻の死後、後妻を迎えて四男一女をもうけた子福者である。末子の蘭嵎は仁斎が六十七歳の時に生まれている。享年七十九才。




