四 闇斎を取り巻く人々(四)土佐編 -闇斎、土佐で儒学に開眼する-
闇斎は十五歳で妙心寺に入って僧侶となり、高僧湘南宗化に従って土佐(高知県)へ渡った。だが土佐に伝わっていた「南学」と呼ばれる儒学に惹かれ、二十五歳で還俗し、その事で藩主の怒りを買い、土佐を逐われて京へ戻ることになる。
闇斎を土佐へ伴った湘南宗化は、山内一豊の養い子で妙心寺塔頭と土佐の名刹吸江寺住職。在野の学者、谷時中を中心とする土佐南学の勉強会に闇斎を迎えたのは野中兼山、小倉三省といった土佐国の重臣たちだった。
〇土佐南学について
儒学史の項でも少し触れたが、応仁の乱で京の治安が悪化し、文化や学問の担い手が地方の有力者の元へ逃れていった際に土佐に伝わった儒学の一派を南学という。始祖とされる南村梅軒は生没年不詳、非実在説まであるが、一応実在したものとして一般に言われている南学の歴史を簡単に説明する。
天文年間(1532-1555)、大内義隆のお伽衆であった南村梅軒が土佐に移り、そこで講じた朱子学が、吸江庵(吸江寺の前身。庵から「寺」としたのは高知市のHPによると山内氏であるらしい)、宗安寺、雪蹊寺といった臨済宗の禅寺で受け継がれた。中でも雪蹊寺は「南学発祥の道場」ともいわれた。雪蹊寺の天室僧正から教えを受けた谷時中からは南学は禅学から一応の独立を果たし、更に兼山や闇斎等へと受け継がれることになる。
〇湘南宗化(1586?-1637)
幼名拾。京都の妙心寺大通院と土佐の吸江寺の住職を務めた高僧。関ヶ原の戦いの後に土佐を治めることになる山内一豊夫妻が近江長浜の城主だった時に拾われ、実子同然に育まれたと伝わる。僧時代の闇斎の才を見込んで妙心寺から吸江寺へ伴うが、その一年後に死亡。死の床で、闇斎は傲岸不遜で人に従わない男だが、どうか引き立ててやって欲しいと寺の皆に頼んだという。闇斎については教育するというよりも放し飼いにしたという印象がある(笑)
〇野中兼山(1615-1664)
名は止、字を良継、通称伝右衛門、号を兼山。
土佐藩の奉行として藩政を担った重臣。谷時中を招いての南学の勉強会では、後に加わった四歳年少の闇斎と親しく交流し、還俗時には藩主に対して闇斎を庇い、その後も門弟を送りこみ生活費を援助するなどした。土木工事や殖産興業に辣腕を揮うが、その分周囲の反発も大きく、後に弾劾されて失脚、一族もろとも幽閉されたまま生涯を終える。享年四十九歳。
〇小倉三省(1604-1654)
名は克、通称弥右衛門。字を政実、政義、号を三省。
土佐藩仕置役として藩政に携わる。野中兼山を果敢峻厳とすれば三省は温柔寛大、十一歳年少で奉行の地位にある兼山をよく補佐した。南学の勉強会では闇斎ともっとも親しく交わった一人。父の死から程なく亡くなっているが、父の死を嘆くあまりに絶食したとも、朱子家礼にある服喪を厳格に実行しようとして衰弱して亡くなったともいう。闇斎はその死を深く嘆いたことが伝わる。著書に『周易大伝研幾』がある。




