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四 闇斎を取り巻く人々(三)浅見絅斎(1652-1711、承応1-正徳1)

山崎先生の困窮なされたらば、拙者が布子なりと売りて助けまするが本意ぞ(常話雑記)


予は学問において菑畬耕穫の功なんかありはしない。ただ垂加先生の遺穂を拾い集めるだけである。凡百いうに足るものはないが、ただ出処の一事だけは生涯毫末も人に愧じるところがない。(先達遺事)


 初名順良、後に安正。通称重次郎。絅斎の号は五十四歳からで、これは死の五年前に『中庸』の「衣錦尚絅」からとった。「きらびやかな錦の衣裳の上に、(うすもの)を尚(重)ねる」の意で、才能や徳を誇示せず謙虚であれ、という戒めを込める。

 闇斎に「甲は直方、乙は安正」と言われた。近江高島の人。二十代半()で闇斎に入門して研鑽を積んだ。闇斎からは非常に期待され、絅斎もその期待に応えるべく努力を重ねたが、ある時期から疎遠になった。兄弟子直方が闇斎の門を離れる際に行動を共にしたとも言われる。それ以後も、講義へは参加しなかったとしても、朔望の挨拶や病気見舞いに赴いてはいたようだが、闇斎周辺の他の弟子たちと合わなかったようで、あまり対面することもないまま闇斎が亡くなってしまい、深く後悔したという。絅斎の著書、『靖献遺言』は中国の忠臣の列伝で、吉田松陰など幕末の志士によく読まれたが、そこで伝えようとした「君臣の大義」について、「嘉右衛門殿(闇斎)の心、この書にあり」と語っている。

 享年五十九歳。「出処の一事は誰にも恥じぬ」と誇ったとおり、録仕を嫌い、生涯仕えず清貧に徹した。自分にも他人にも厳しく、門下の三宅観瀾が大日本史編集のために水戸に仕えたのを「道のための出仕にあらず」として書を送って義絶し、親の喪中(三年)の慎むべき時に江戸へ上ったとして兄弟子の直方に苦言を呈している。既に入門時、北宋末の儒者楊亀山の出仕を批判的に論じて闇斎に窘められているが、その性格は生涯変わらず、後に仁斎の学を逐条激しく論難し、その執拗さは度を超していると同門の者も眉をひそめている。

 闇斎も厳しかったが、絅斎は「師弟の間、厳峻なることまた闇斎よりも甚だし」(先達遺事)と言われた。病気の親を抱え、大津から洛中まで、三里の道を一日おきに講義に通い通した高弟の若林強斎から「もう少し思いやってくれてもいいのにと思った」と恨み言を書き残されている。

 ただ厳しいことは厳しいが何となく可愛げのある人で、


〇大の甘い物好きで、強斎が饅頭を差し上げると喜んで食べた

〇雨漏りを修繕しようと屋根に登り、肥満体のせいで板を踏み抜き余計ひどくなった

〇武事を好み「赤心報国」と記した長大な剣を帯びて馬を乗り回していた

〇甘い物好きだが酒豪でもあり、闇斎から「お前は平素順良だが、酒を飲むたびに順良でなくなる」と言われた(「順良」は絅斎の初名)


といった逸話が伝わる。

 自宅で庭造りを楽しんだ絅斎は、「東山会」として年二、三回、門弟たちと共に東山に遊んで風物を愛でつつ講義をしたりもした。一日に二講義開催してくれませんか、と弟子に頼まれた際、「オレの講義は古今の文献を博く扱うから、予習と復習をきちんとやろうとすれば一日一講義聞くのが限度のはずだ」と断っている。闇斎同様、厳格だが門人を愛し、高い矜恃を包まず熱心に教育に取り組んだ絅斎は、全人格的な影響を彼らに及ぼした。




※絅斎の入門時期について。延宝五年(闇斎60歳、絅斎26歳)に絅斎が『張書抄略』を清書したことが伝わるのでそれ以前であるとされる。「闇斎の父の葬儀に伴をした」という絅斎の発言が『常話雑記』にあるので、延宝二年には既に交渉があったようだ。


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